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    夢路(夢の通い路)

    @horoscope1223

    ゴに夢中。鯉月の字書き。リバを書くこともあるかもしれません。

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    強くしなやかに美しく――男だけの歌劇団に所属する舞台俳優の鯉月(現パロ記憶なし)

    ※劇場、劇団、土地など現実に似ているものがあるかもしれませんがすべてに関係のないパロディ、パラレルです
    ※「オペラ座の怪人」「十二夜」「グランドホテル」「蒲田行進曲」といった舞台作品の内容に触れます
    ※2024年12月DRまたは2025年1月インテにて発行できたらいいな…

    #鯉月
    Koito/Tsukishima
    #現パロ記憶なし

    とけない魔法にかけられて(仮題)プロローグ「オペラ座の怪人」第一幕 「十二夜」プロローグ「オペラ座の怪人」 オーケストラの奏でる音楽が抑えられたものに変わるのにあわせて、舞台全体を隈なく照らしていた照明が落とされて中心の一点を強く照らしだすスポットライトに切り替わった。
     豪華な電飾で飾られた階段に大羽根を背負って立つ美しい男が光の輪の中に浮かびあがると、満席の客席のみならず舞台上にずらりと並んだ演者たちからの視線が注がれた。劇場中が彼だけを見つめていた。
     芝居の幕がおりるまでパリ・オペラ座の地下に住むかなしい男を演じ、白く冷ややかな仮面をつけていた男の顔の上半分は、ビジューがちりばめられた豪奢な仮面で覆われている。仮面のせいで顔の半分ほどははっきり見えないのにそれがかえって男の整った顔立ちを一層美しく見せていた。
    「此処こそ 誰もがひざまずく 音楽の王国 私のために歌ってほしい どうか」
     ビジューとスパンコールが縫いつけられた豪奢な燕尾服に孔雀が羽根を広げたかのように大きな羽根を背負って、朗々と歌う男が階段を一段ずつゆっくりと下りながら客席の端から端まで、上から下にまで視線をすべらせるとあちこちから声にならないため息が漏れた。劇場を支配しているのは間違いなくこの男だった。
     男は威風堂々と舞台前方に歩み出てセンターで立ち止まると、伸びやかな歌声を響かせてサビを歌いあげ、腰を深く折って深々とお辞儀をしてみせた。背負った大きな羽根をばさりと翻して男が顔をあげるタイミングに合わせて照明はふたたび光の洪水となって舞台全体を照らすと、割れるような万雷の拍手が湧きおこった。拍手はハ列二〇番――前から三列目のど真ん中に座っている鯉登の背後から波濤のように押し寄せ、二階席から雨霰と降り注いできた。けれど鯉登は膝の上においたまま、ただひたすらまっすぐに、舞台の真ん中で輝く美しい男を見つめて身じろぎ一つできなかった。
     たしかに目が合ったと鯉登は信じることができた。バチッと弾けるような音が聞こえたような気さえした。雷に打たれたような衝撃が全身を貫いて、勘違いなどではないと、客席に座る七〇〇人の中の他でもないただ一人の自分をこそ見たのだと確信することができた。
     男を先頭に演者たちがエプロンステージにずらりと並んで右から左へと通り過ぎていく。舞台上にいるのは美しい男ばかりだったが鯉登の目には真ん中に立つ大羽根の彼だけが浮かび上がっているように見えた。スポットライトをはね返すかのように強烈なオーラを放っている彼から目が離せなかった。
     にこやかに客席に手をふる演者たちと客席の間を分かつ緞帳が下りて音楽が止み、客席の電気がついても、拍手をやめた観客たちが思い思いに出口へと向かっていって最後の一人になっても、鯉登は赤い天鵞絨張りの客席に座りこんだまま動くことができないでいた。
     高まった鼓動が収まらない。耳の奥で何度もリフレインされた歌声が、メロディーが鳴り響いている。目を閉じなくても大羽根を鮮やかに翻して舞台の中央に立つ美しい男の姿が浮かんでくる。仮面の奥の力強い瞳に射抜かれた衝撃がまだ全身に残っていて、指先にまでぎゅっと力を込めていないと体が震えてしまいそうだ。 
     世界が根幹からつくり変えられてすっかり様変わりしてしまった。
    鯉登音之進のなかにあの美しい男と同じ舞台に立ちたい、そしてこの豪華絢爛でスペクタクルな舞台で男と同じ場所に――真ん中に立ちたいという夢が芽生えた瞬間だった。
    舞台の中央で仮面越しに笑みと目線を配る男がどんな景色を見ているのか、確かめてみたくなった。

    第一幕 「十二夜」《あらすじ》
    時  1600年ころ
    場所 イリリア(シェイクスピアが作った架空の街)

     嵐の夜、イリリア沖で一艘の船が難破した。双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラは遭難し、互いの行方を見失ってしまう。
     ヴァイオラは唯一の身寄りである兄と離れ離れになったことに絶望し、我が身を守るために男装してシザーリオと名乗り、イリリアの領主オーシーノ公爵に仕えることにする。
     初々しく美しいシザーリオは双子の兄セバスチャンに瓜二つで歌も楽器もお手の物。すぐにオーシーノ公爵の大のお気に入りとなった。
     オーシーノ公爵は美しい伯爵令嬢オリヴィアを想って結婚を求めているが、オリヴィアは亡き父と兄の喪に服して誰にも会おうとせず心を固く閉ざしている。一計を案じたオーシーノ公爵はシザーリオ(ヴァイオラ)をオリヴィアの元に遣わせて、この想いを伝えるように命じる。
     オーシーノ公爵に仕えるうちに彼に密かな恋心を抱くようになったシザーリオ(ヴァイオラ)は複雑な思いでオリヴィアの元を訪れるが、オリヴィアは公爵に心を開くどころか美しいシザーリオ(ヴァイオラ)に一目惚れ、恋をしてしまう。
    さらに嵐で命を落としたと思われていたヴァイオラ(シザーリオ)の双子の兄セバスチャンがイリリアの街にたどり着き、偶然オリヴィアと出会う。嵐から始まった恋と騒動の結末は……
    ウィリアム・シェイクスピアの傑作喜劇。

    人物
     オーシーノ公爵…イリリアの若く美しい領主/花沢優作 
     ヴァイオラ(シザーリオ)とセバスチャン…嵐で遭難した双子の兄妹/鯉登音之進
     オリヴィア…父と兄を亡くした伯爵令嬢/月島基

     サー・トビー・ベルチ…オリヴィアの叔父/二階堂浩平
     マルヴォーリオ…伯爵家の執事。実はオリヴィアに懸想している/宇佐美時重
     フェステ…伯爵家の道化/鶴見篤四郎
     マライア…伯爵家の侍女。サー・トビーを想っている/二階堂洋平
     サー・アンドルー・エイギュチーク…オリヴィアの求婚者/三島剣之助
     フェイビアン…伯爵家の召使/谷垣源一郎
     
     アントーニオ…セバスチャンを熱烈に支援する友人/尾形百之助


     集合時間にはまだ三〇分以上余裕があるせいか後輩たちの多くはすでに集まっているからか、エレベーターが三台並んだホールは無人だった。月島は八階でおりると一度足を止めて、小さく息をついた。いつもより呼吸が浅いのは軽く緊張しているからかもしれない。月島は肋骨の間のすみずみまで行き渡らせるように大きく息を吸いこんで、それからゆっくりと細く細く息を吐きだした。
     廊下には誰もいなかったが集合日独特の団員たちの希望と高揚が満ち満ちてはちきれそうになっている空気が肌に迫ってきて、渦巻くものから距離をとりたくて月島は呼吸をゆっくりと繰り返すことに集中した。呼吸は体を、世界をつくる土台だ。
     月島は集合日にはいつもよりも早めに「入る」ことにしている。なにかとやることが多いし、それに今日はいつもの集合日と同じというわけにはいかないだろうという予感もあった。
     職場ではなく「劇団」、出勤ではなく「入り」、退勤ではなく「出」、そうした言葉の選び方一つで夢を紡ぐこともできれば醒めさせてしまうこともあるのだから気をつけるようにと、月島に教え込んだのは先輩の鶴見だった。最初のうちは慣れなかったし自分なんかが業界の人間ぶって使うのが気恥ずかしかったのがいつのまにか染みついて骨の髄までこの集団に染まり、いまでは後輩に教える立場になった。 
     月島にすべてを教えてくれた鶴見は尊敬する先輩という肩書きには納まらなくて、いっそのこと光、翼という抽象的な言葉の方がふさわしい気さえする。
     八階の奥のもっとも広い稽古場の扉の前で立ち尽くしている人のシルエットを視界にとらえた瞬間、月島には誰なのかがすぐにわかった。
     鯉登音之進――劇団の新進スターだ。立っているだけで特別な美を備えているのがわかって、翼のある者がたまたま舞いおりて肩甲骨の内側に翼を畳んで仕舞いこんで人間の姿に擬態しているのだと言われても信じることができると月島は思った。
     天上から見えない糸で吊られているかのように背筋は伸びやかで、強靭な体幹が支えている高い重心は体の中心から足の裏を通じてそのまま地球の中心までまっすぐに貫いているかのような安定感だ。形のよい後頭部と小さな顔、長い手足、等身の高さはずばぬけていて、彼が天に選ばれて特別に造形された人間であることは明らかだ。
     服の上からでもトレーニングとレッスン、メンテナンスで引き締まった肢体が念入り造りあげられていることが見てとれる。なにかを極めようとしている美しくしなやかな肉体と、なにかを為そうと強い意志を秘めた若く伸びやかなエネルギーは圧倒的だ。 
     彼がどんなモーションで振り向いてみせるのか、そして振り向いたらどんな顔をするのか見てみたくて、月島はゆっくりと吸いこんでから吐く息に声を乗せた。
    「入りにくいですか」
     低く響いた月島の声によほど驚いたのか、鯉登は肩をびくんと跳ねさせて振り返った。隙のない、風を切るような俊敏さがかなりの緊張を感じさせた。
    月島は自分よりも頭ひとつ大きい鯉登をゆっくりと見上げて、深い黒色の瞳に自分が映っていることを確かめてからやわらかく声を響かせた。
    「入りにくかったら、俺が先に入ります」
     月島が目で一番教場と書かれたプレートが掲げられた稽古場の扉を示すと、はっとしたらしい鯉登は腰からきっちりと九〇度に折ってお辞儀をしてみせた。
    「今日付で組替えになりました鯉登音之進です。よろしくお願いします」
    「月島基です。よろしく」
     お辞儀から直立不動の姿勢に戻りはしたものの、鯉登が一歩も動こうとしないので月島はさらに声をかけた。
    「鯉登くん、かなり緊張していますか」
    「……そうかもしれません」
    「かもしれない?」
    「いえ、はい、緊張しています」
     二度目の問いかけで鯉登は明確に答えた。
    「じゃあ俺と同じことをしてくれますか」
     鯉登音之進がいくらスターとはいえスターシステムより年功序列は優先される。下級生の鯉登に許される答えはこの場合は「はい」だけのはずなのに、鯉登は黙って棒立ちになったままだった。
    「鯉登くん」
    「あ、はい」
    「できそうですか?」
     鯉登は今度は素直に「はい」と答えた。月島はすっと小さく息を吸ってから、肋骨を絞るように長く長く息を吐きだしてみせた。息を吐ききると、今度は肋骨の間の筋肉をみちみちと開き、指の先の毛細血管まで酸素がめぐらせるイメージで目一杯息を吸いこんだ。月島がもう一度息を吐きだしても鯉登は立ったままだった。
    「やっぱりできなさそう?」
    「あ…いえ、すみません。はい、できます」
     特徴的な形の眉根をかすかに寄せていた鯉登は月島に倣って深々とした呼吸を三回繰り返した。きちんとトレーニングをして体を開くことを知っていなければ息が続かないようなストロークだが、鯉登の粘性と靭性の高い体の反応と戸惑いを隠しきらない素直さを月島は鯉登の呼吸から感じとることができた。
    「もう入れますよね」
    「え?」
    「呼吸の仕方も忘れていそうなくらい緊張していたみたいだったから」
     鯉登の眉の間はやわらかく開かれて、噛みしめられていた顎からも力が抜けて自然に噛み合わせているのがわかる。纏う空気もふわりと緊張感が抜けている。
    「呼吸がゆるんだら緊張し続けることの方が難しい。からだ、動かせるようになったでしょう」
    「はい」
    鯉登は自分のてのひらにじっと視線を落として握ったり開いたりを繰り返した。長い指先と骨がしっかりとした手の甲が優美で美しい。
    「自分の体に戻ったみたいな感じがします」
    「それならよかったです」
    「あ――月島さん」
    丸い覗き硝子が嵌めこまれた一番教場の扉に手をかけた鯉登が月島を振り返った。
    「ありがとうございます」
     思いのほか無垢な黒い瞳にまっすぐに見つめられて、月島は一拍間をとってから「いや」とだけ答えた。
    「どうぞ」
    「ありがとう」
     扉を押さえて先に先輩を通してくれる鯉登に今度は月島がお礼を言って、大きく一歩を踏みだして稽古場に入った。鯉登が続いてそれから音を立てないように慎重に扉を閉めた。
    一番教場に集まっていた後輩たちのざわざわとしたおしゃべりがぴたりと止んだ。一瞬で無音よりも静かになった稽古場を見渡して月島が「おはようございます」と声を張ると、後輩たちが「おはようございますっ!」と一音ずつがパキパキと粒立った声を揃えた。「すっ」の音が吸いこまれて消えるとふたたび無音よりも静かに硬直しようとする空気を春風のようにやわらかく揺らしたのは、颯爽と近づいてきた花沢勇作だった。
    「月島さん、おはようございます。音之進も」
    「おはよう」
    「おはようございます」
    「月島さんも音之進と顔見知りなんですか」
    「いや、いまそこで一緒になっただけです」
     音之進と気安く呼んでいるくらいだから二人はすでに知った仲なのだろう。鯉登の声ははずんでいたし、ちらりと見上げればぐっと力の入っていた頬のあたりがあからさまにゆるんでいる。
    「優作さん、お久しぶりです。今日からまたよろしくお願いします」
    「よろしく。ようこそ桜組へ」
     優作が「受験前に同じ教室に通っていたんです」とさらりと言い添えるのに月島は「ああ、そうなんだ」とだけうなずいて鯉登を見上げた。
    「鯉登くん、同期生は?」
    「こっちの組にはもう誰もいなくて」
    「え? まだ若いのに」
    「月島さんもそんなふうに思いますか」
    「ちょっと意外かもしれないです。俺みたいな古参ならともかくまだ七年…八年目くらい?」
    「この春から七年目です」
     月島は「十期も下なのか」と目を丸くしてみせて、やや考えこむように稽古場全体をゆっくりと眺めまわして後輩たちの顔を見てから
    「宇佐美」
    と呼ぶと、尾形と軽口を叩いていたのをやめて宇佐美がぱっと飛んできた。
    「はい。月島さん」
    「宇佐美、八年目だったよな」
    「そうですけど」
    そろそろ中堅の域に入ってきた宇佐美は初舞台を桜組で踏んでからずっとこの組の所属だし、役づきもいいからいろいろなことを経験的に理解できている。鶴見にうんと私淑しているのもちょうどいい。
    「一期下だから鯉登くんと学校時代から一緒だったろう。いろいろ教えてあげて」
     月島が隣の鯉登をちらと見上げて促すと鯉登は「宇佐美さん、お久しぶりです。よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
    「月島さん、なんで僕がボンボンの面倒なんか」
     瞬発的にいきり立った反応を見せた宇佐美を月島は「宇佐美」と呼ぶことで諌めた。勇作はなにも言いはしないが、おだやかな表情を能面のようにぴくりとも動かさないところに静かな圧を感じさせた。いつもおだやかで誰にだってやさしい優作だが、怒らせたら一番怖いのは優作だというのが団員の一致した見解だったし月島も否定はしきれない。
    「だってボンボンはボンボンでしょ。そうじゃなかったら組替えなんて栄転」
    「宇佐美」
    「それに勇作さんの知り合いならそっちのほうがいいんじゃないかなって」
    「誰よりも忙しい勇作くんにこれ以上新しいことを頼むのが筋だと宇佐美は思うのか。それに宇佐美は鶴見さんがつくりあげたこの組のことを誰よりもよくわかっているだろう」
    「それはそうですけど」
    「そんな宇佐美以外の誰かに、滅多にない異動者の教育を任せた方がいいと思うか」
     宇佐美はぐぐぐと唇を噛んで、目にキッと力を込めて「鯉登」と呼んだ。
    「僕たちの席、こっちだから」
     不満も怒りも隠しもしないまま湯気をたてている宇佐美は鯉登を伴って、教場の後方の壁際にずらりと並べられた長椅子の真ん中あたりへと案内した。深々と座りこんでいた尾形百之助がなにかを逆なでするようなことでも言ったのか、鯉登がわっと反応している。
    宇佐美が発奮してわめいている間も穏やかに黙していた優作は、団員としては後輩にあたる兄の尾形のことをじっと見つめていた。
    「音之進が来て想像以上に変わりそうな気がします」
    「それはとても、いいことのように俺は思います。組も変わるときですし」
    「そうですね。いい方向に進んでいかないと」
     勇作は視線を動かさないまま答えて自分の席へ戻っていった。
    月島はもっとも入口から遠い、長椅子の上座に腰をおろした。右横を向けば壁一面の鏡との間に遮るものはなく、落ち着き払った古参の仮面をかぶった自分の顔が映った。教場の座る位置は出番の多寡やスターとしての地位は一切関係なく徹底的な年功序列で、前回の公演までは月島の右隣には鶴見が君臨していた。
     月島の職場である桜ト星ノ歌劇団にはこの狭い世界でだけ通じる専門用語あるいは業界用語がある。人事異動を「組替え」と呼ぶのは「組」と呼ばれる二つのチームがあることに由来している。滅多にない人事異動を「組替え」「栄転」と何の疑問もなく言ってのける宇佐美は教育がしっかり行き届いていて、やはり鯉登の教育係にぴったりだと月島は思った。
     桜ト星ノ歌劇団の端緒は旧軍の余暇にさかのぼることができる。部隊ごとに歌や踊りで厳しい訓練や戦場の無聊と荒涼を慰めていたものがいつの間にか発展し、やがて見目麗しい者、歌舞音曲に優れた者たちが選抜されて組織され、慰問として内外の基地や戦地、そして開拓地を回るようになった。
     大人も子どもも楽しめる芝居、目にも止まらぬスピードと迫力のある軍仕込みの殺陣、一糸乱れぬ群舞、響き渡り奮いたたせる歌声は物資も娯楽も限られているなかで兵士のみならず市井の人々を大いに慰め、人気を集めた。陸に咲く桜の花、海原の目当てとなる星――陸海の武運を祈る櫻曐(おうせい)歌劇隊という名前は隊員たちがみずから名乗ったものか、大いに慰められた市井の人々が呼ぶようになったのか定かではない。
     戦後、旧軍は解体されたが櫻曐歌劇隊が潰えることはなかった。旧軍から切り離され組織の独立性を確保することで平和の象徴と位置づけられ、桜ト星ノ歌劇団と名をあらためて再出発を果たす。
     これを境に勧善懲悪がすぎるもの、軍国的な演目や色合いは一掃されて座付きの演出家が書き下ろす新作を次々と上演するようになった。また海外で上演されているミュージカルの日本初演にも積極的に取り組んで大きな評判を呼び、芝居と二本立てで上演されるスペクタクルで豪華絢爛なレビュウやショーは新しい洋楽をふんだんに取り入れて多くの観客の夢と憧れを駆り立てた。
     新しい風を常に取り入れながらも歌劇隊のころから続く圧巻の群舞、殺陣、声のそろったコーラスといった伝統的な芸の真髄は受け継がれ、親子三代に渡るファンも少なくない。
     また歌劇団は付属組織として桜星音楽舞踊学校を設立させた。軍が解体された以上、余暇、慰問として技芸が達者な者を選ぶわけにはいかないから団員になるための特別な教育機関が必要だった。入学資格は「義務教育を終えた、十八歳までの健康な男子」とされている。つまり桜ト星ノ歌劇団は付属組織である音楽舞踊学校で演劇、声楽、ポピュラーミュージック、バレエ、ジャズダンス、ダップダンス、日本舞踊といった二年間の芸事のカリキュラムを修了した男性のみが団員として所属し、女性の役も子どもの役もすべて男性である団員が演じるのだ。
     厳しい選抜と課程を経て桜星音楽舞踊学校を卒業した誇りから入団後も年次を学年として数え、先輩は上級生、後輩は下級生と呼ばれる。稽古場は教場、演出家や振付家などのスタッフを先生と呼ぶのもその延長だ。この独特の呼称が桜ト星ノ歌劇団の独自性、あるいはファンを惹きつける神秘性を醸す一助となっていることは間違いない。
     神秘性を証明するかのように、あるいは無条件に信じていることを誓うかのように、熱心なファンは団員たちを「天使」と呼んだ。 
     俗人離れした美しさや技芸を極める団員への憧れと敬意をこめた美称の由来には、団員たちが舞台で本当に羽根を背負うことが挙げられる。レビュウやショーの締めくくりに舞台中央に据えられた二〇段ほどの大階段を団員たちが下りてきて観客に挨拶をするパレードの際に、スターになると羽根を背負って大階段をおりることが許されるのだ。羽根の大きさ、豪華さはスターの格に比例する。最後に階段をおりてくる主演を務める団員はひときわ大きくて装飾的な羽根を背負う。羽根を背負っていない団員は陰で「翼のない天使」と呼ばれることもあった。
     音楽舞踊学校と歌劇団が俗世間とは隔てられた感がぬぐえないところも「天使」という呼び方に関係しているようだった。戦後に再出発をした歌劇団はGHQに接収されていたパレス・ハイツの跡地で公演と稽古、付属の音楽舞踊学校の授業を行っていたが、それはあくまでも仮住まいであった。専用の劇場と充分な稽古場、ゆとりのある学校を持つという劇団の悲願はバブル経済のころに臨海地区の天王洲への移転によって結実した。
     運河に囲まれたわずか500メートル四方のちいさな島の高層ビルに劇団のすべての機能が凝縮されているのは閉じられた楽園を思わせた。モノレールの駅に直結する劇場で独自の舞台を上演し、ビルの上層階で音楽舞踊学校の生徒が、団員が日々レッスンに稽古に明け暮れ、専用の食堂では栄養バランスに配慮されたメニューが安価で提供される。遠方から進学してきた者や若い団員は近くのワンルームマンション型の寮で生活し、ほとんどがこの小さな洲で完結する。
     しかし楽園の完成と共に歌劇団は人気の高まりに応える形で楽園――天王洲から外へと飛びでていく。専用劇場での常設公演だけでなく全国各地を回るツアー公演に力を入れ、増加する公演数をこなすために団員を二つのチームにわけて活動するようになる。
     こうして桜組と昴組が生まれた。桜組が天王洲の専用劇場で公演をしている間に昴組は全国各地で公演し、昴組が専用劇場で幕を上げれば桜組は各地の劇場、県民ホールや市民会館を回るのだ。各地での公演を観て団員を志す者も多く、月島もまたそうだった。
     二つの組があるとはいえ団員の多くが入団時に配属された組で退団までを過ごす。桜組と昴組ではカラーが異なるし組そのものを贔屓にするファンも多い。月島自身も入団したときから桜組一筋だ。滅多にない「組替え」はつまり栄転で、対象となるのは大きな羽根を背負うスターか、未来の羽根を約束された特別な「天使」ということだ。
     今日の集合日付で鯉登音之進が昴組から桜組に組替えになることが発表になったとき、歌劇団のファンはもちろん、団員たちの間にも激震が走ったといっていいほど大きな話題になった。月島は鶴見から聞かされて、激しく動揺するのを力業で押し隠して「思い切った人事ですね」とだけ答えた。まさか鯉登と同じ組で、同じ舞台に立つことになるとは思ってもいなかった。
     そもそも鯉登音之進の入団は鳴り物入りだった。兄の平之丞は昴組のスターだったし、父親は昴組の公演を景気よく貸し切り協賛者の筆頭にクレジットされる大企業のトップだ。年の離れた兄弟だからかあるいは平之丞が父親の跡を継ぐためか、兄がもっとも大きくてもっとも豪華な羽根を背負う直前で退団したのと入れ替わるように弟が入団した。兄の果たせなかった大羽根への夢を弟が叶えるのだと、昴組のファンたちは願い、熱狂的に信じほとんど決定事項のように思いこんでいた。それが七年目の桜組への組替えだ。
     一方の桜組も揺れに揺れていた。長く主演を務めもっともゴージャスで大きな羽根を背負ってきた鶴見がその大羽根を下ろすことになったのだ。次の主演をスターの花沢勇作が引き継ぐのは順当な人事だったが、鶴見が退団せずに演出家を兼ねながら脇役として舞台に立ち続けるという異例の発表にファンと団員たちは衝撃を受けた。勇作の父が劇団の理事長を務めていることがつまらない噂を呼びもした。
     最後の主演公演は鶴見の当たり役「オペラ座の怪人」だった。歌劇団の人気の演目で過去に何度も上演されてきたが、鶴見が最初の主演公演でファントムを演じて以来誰も演じていない役だ。(事故を思わす表現)
    「香盤表、発表します」
     集合時間の一〇分前になるとこの春に入団したばかりの最下級生がホワイトボードに全団員の役、出番を時系列的に整理して書き出した香盤表を張りだした。月島はすぐに立ち上がってホワイドボードの真正面に立った。上級生の筆頭になった自分がこうしないと、なににおいても年功序列だから後輩たちがいつまで立っても見ることができないからだ。
     ホワイトボードにでかでかと張り出された香盤表を行儀よく学年順に並んで食い入るように見つめている後輩たちが破裂する寸前までぱつぱつに膨らませていた期待と高揚を一気に弾けさせ、あるいは萎ませたのが手にとるようにわかった。そして弾けたものがヴァイオラ/セバスチャンの二役に抜擢された鯉登めがけて矢のように集中していることも。
     シェイクスピアの喜劇「十二夜」は恋の三角関係を描いた傑作だ。双子の兄妹セバスチャンとヴァイオラが海で遭難して生き別れ、ヴァイオラは我が身を守るために男装してシザーリオと名乗り領主オーシーノ公爵に仕えることにする。やがてヴァイオラは公爵に恋心を抱くようになる。しかしオーシーノ公爵は伯爵令嬢オリヴィアに求婚し続けおり届かぬ想いに苦悩している。公爵は若く美しいシザーリオをオリヴィアの元へ使者として送り出すが、オリヴィアはシザーリオに恋をしてしまう。そこへ遭難していたセバスチャンが現れて…という話だ。主役のオーシーノ公爵を花沢勇作が演じるのは当然としてヴァイオラとセバスチャンを分けずに鯉登を配したことはそれだけ期待が大きいということだろう。
     黒い瞳がこぼれそうなほど目を見開いて香盤表を直視して硬直している鯉登に月島は声をかけた。
    「鯉登くん、おめでとうございます。二役は大変だと思うけどがんばってください」
    「あ……はい、ありがとうございます」
    「まさか俺がオリヴィアとは思っていなかったけれど、鯉登くんが想い人です。一緒の場面もあるからよろしく」
    「おれの方こそです。よろしくお願いします」  
     鯉登は礼儀正しく深々とお辞儀をしてみせた。体側にまっすぐに添えた指の先までぴしりと揃っている。
     月島は自分の出番を確認し、道化フェステのところに鶴見の名前があるのを確かめてから香盤表の前を空けて後輩たちに譲った。
    「どうして鯉登がヴァイオラとセバスチャンの二役なんだ。双子なんだから当然俺たちがキャスティングされるはずなのに」
    「俺がヴァイオラで浩平がセバスチャンだ」
    「違う、逆だ。ヴァイオラは俺だ、洋平。ヴァイオラの方が台詞が多いし男装してシザーリオもできるからおいしい」
    「だから俺がヴァイオラだって」
     同じ顔をつきあわせて騒いでいる二階堂兄弟に誰もなにも触れなかったのは、どちらがヴァイオラでどちらがセバスチャンか区別がつかないのではないか――とはまさか口にはできなかったからだ。実際入れ替わったとしても気づけるのは本人たちと、熱心な贔屓筋だけではないか。浩平がオリヴィアの叔父で酔っ払いのサー・トビー・ベルチに、そして洋平がサー・トビーをひそかに慕っている侍女のマライアにキャスティングされたのは、あまりに似すぎている双子を男女の役に配することで観客の混乱を遠ざけながら演劇的なおもしろみに迫る意味合いもあるように月島には思えた。
     マライアは自分の役ではなかったのが月島には意外で、配役に一番驚いているのは鯉登でも後輩たちでもなくきっと自分だと思った。ヒロイン、あるいはヒロインに準ずる役を下級生にゆずる学年はとうに迎えている自覚はある。同じ女性の役ならば伯爵家の侍女マライアあたりだろうと、演目が「十二夜」と発表されたときから思っていた。
     しかもヴァイオラ/セバスチャンの二役に抜擢された鯉登とは学年で十年、実年齢は一回り以上も離れている。オリヴィアに求婚してくるオーシーノ公爵の優作だって十年目、かなり下だ。セバスチャンと並んだときに幸せそうな恋人同士に見えなくてはならないし、オリヴィアを演じるには相当に工夫しなければならないだろうが衣装部の江渡貝がうまいことやってくれるだろう。
     月島はもう長いこと歌劇団を退職――「卒業」するタイミングを考えていた。
    体力的な負担の大きさから、ほとんどの「天使」たちは四〇歳を迎えるあたりで退団し楽園を去り「人間」に戻っていく。専用劇場での一カ月半の公演期間中、一時間半の芝居と幕間休憩をはさんで一時間のショーで構成される公演を土日は昼と夜の二回、平日も水曜日は二回こなす。休みは休演日の月曜日だけだが体のメンテナンスや贔屓筋との交流などで終わることがほとんどだ。専用劇場での公演が終われば数日の休みをはさんで今度は全国ツアーの稽古に集合し、長距離を移動しながら各地のホールで公演するツアーが始まる。ツアーがようやく終わったと思えば数日休んでまた次の専用劇場公演の稽古が始まる。稽古と公演、ツアーを繰り返す日々はハードだ。月島もそういう年齢が近づいていた。
    「おはようございます」
     集合時間ぴったりに先生方が教場にずらりと入ってきて、鏡を背にして並んだパイプ椅子に腰かけ、長椅子の団員たちと向きあう形になった。真ん中に組の演目や役付を決定する淀川プロデューサー、そして隣には鶴見がいた。この間の公演まで右隣に座っていた鶴見がスタッフ側にいてこうして向かいあうのはものすごくふしぎな気がした。
     淀川プロデューサーから公演の説明よりも前にまず鯉登が紹介された。鯉登は立ち上がると声をはった。
    「今日付で桜組に配属になりました鯉登音之進です。七年目です。どうぞよろしくお願いします」
    特に音響がいいわけでもない教場に凛とした声が響いて、鯉登がとてもいい声をしているのが月島の耳に残った。月島が歓迎の意をこめて拍手をきると下級生たちが続いてぱらぱらとまばらな拍手が起きた。
    「今公演は芝居はシェイクスピアの喜劇「十二夜」、レビュウは「春の夢」だ。すでに発表になっている通り「十二夜」は鶴見篤四郎くんが出演しながら演出家デビューを果たすことになった。長く桜組を率いてきた鶴見くんの記念すべき演出第一作になる」
     淀川プロデューサーが隣の鶴見をちらりと見て「鶴見先生と呼んだ方がいいかな」と片頬をあげると、鶴見はにっこりと笑顔を浮かべてみせた。事故の際に傷を負った額から目元にかけてを覆う白い仮面のせいで表情がやや見えにくいものの、鶴見の目の奥が笑っていないことを月島は知っている。
    「かねてより夢であった演出をこの桜組でかなえることができた。スタッフに徹するつもりだったが淀川プロデューサーや劇団とも相談して道化のフェステも演じることになったのでいわばプレイングマネージャーのようなものか。いい作品、公演にしたい。それには勇作くんと桜組の皆の力が必要だ」
     鶴見の声は舞台で魅力的に響くだけでなく、舞台をおりてもふしぎな力を帯びていた。ひるむ背中を押し、沈む心を駆りたてるような力強さがあり、ささやかれればすべてを捧げたくような魔力があった。団員たちの間から自然と拍手がわきおこって、月島もそれに倣った。
    「すでに発表になっている通りこの公演から桜組の主演は花沢勇作くんが務める」
     淀川プロデューサーにうながされて宇佐美や鯉登たちよりも上座に座っていた優作がすっと立ち上がった。
    「主演として精一杯精進します。お客様に楽しんでいただけるよい舞台をみなでつくっていきましょう」
     爽やかな挨拶にやはり自然と拍手がわきおこった。
    「新生桜組のスタートだ。みんながんばってくれ。レビュウの稽古は来週からになる。譜面を渡すからそれまでに自主稽古をしておくように。今日はまず「十二夜」の読み合わせだ」
     淀川プロデューサーが「おい」と一声命じると、入り口側に座っていたこの春入団したばかりの最下級生たちが機敏に立ち上がって譜面と台本を配ってまわった。まぶしいほど若い後輩から受け取った台本の表紙を月島はそっと撫でた。
     あと何回こうした機会があるかはわからないが、与えられた役目はまっとうするのが「天使」の務めだ。つまらない役などひとつもないと、下級生時代に鶴見に教わったことは月島の支えにもなっていた。
     初見の読み合わせで得た第一印象が役作りの重要なフックになることを経験的に知っているからこそ、月島は伯爵令嬢オリヴィアのセリフに集中した。

     稽古の最初の一週間がようやく終わる日、鶴見は鯉登と月島を最後まで残して教場の消灯時間まで根気よくさらった。
     男装してシザーリオと名乗りオーシーノ侯爵に仕えるヴァイオラにすっかり恋をしてしまったオリヴィアが抑えきれない思いを伝えて縋り、ヴァイオラが実は女でありオーシーノ公爵を愛するがゆえに答えられないとすれ違う場面は、父に続いて兄を失い喪服を着ていたオリヴィアが恋に目覚めて色のあるドレスを着るシーンだと鶴見は説明した。 
    「月島」
    「はい」
    「オリヴィアは貞淑な令嬢でありながら恋をすればすぐに喪服を脱ぎ捨てるようなところがある。ヴァイオラ扮するシザーリオが二度目の訪問をしてくる場面だが、オリヴィアはもう喪服を着ていないしヴェールで顔を隠してもいない。そういう軽やかさがもう少しあった方がいい」
    「わかりました」
    「それから鯉登」
    「はいっ」
     鯉登は組の空気に馴染もうすることにも役をつかむことにもかなり苦戦しているようで、鶴見からのダメ出しも多かった。
    「鯉登はセリフは頭に入っているみたいだがまだそれだけだ。シザーリオが男にしか見えない。シザーリオは男ではなくヴァイオラの男装なのに双子の兄セバスチャンとの区別がつかない。男である鯉登くんが女のヴァイオラを演じ、ヴァイオラが男装している色気がほしい」
     鶴見の注文に鯉登は「いろけ」と口の中で一音ずつを噛むようにおうむがえしにした。
    「月島」
    「はい」
    「来週からはレビュウの稽古も始まって時間も限られてくる。鯉登と二人でよく自主稽古していろいろ教えてあげなさい。私は演出だけでなくフェステの出番もあるし鯉登くんだけにかかずらってはいられない。できるね? 月島」
    「はい、わかりました」
     鶴見が「ではまた来週」と第一教場を去っていくと、団員たちは前公休日の夜だからか消灯時間間際だからかもう誰も残っていなくて、鯉登と月島の二人きりだった。疲労がずっしりと重たくのしかかってくるようだった。
    「帰りましょう、鯉登くん」
     月島が声をかけると鯉登は体側でぐっと握っていたこぶしを開いてのそのそと荷物をまとめた。
     ロッカーで着替えをすませてエレベーターでおりる間、肩を落とした鯉登は一言も喋ろうとしなかった。
     月島が第一教場の鍵を事務室に返しに行くと生徒監の門倉がもったりとねむたげな目元をほんの少し見開いて鍵を受けとった。団員たちが気持ちよく稽古に集中できるよう庶務的なことを請け負っている門倉は月島が入団したときからずっと劇団の入り口にいて、入りの際には「おはようさん」、出の際には「お疲れさん、気をつけて」と声をかけてくれる。
    「月島さんが鍵閉めなんてめずらしいね。遅くまでお疲れさん」
    「すみません、退館時間ぎりぎりまで」
    「それは全然いいけど表のゲートは閉まっているから裏から出てね。気をつけて、もう遅いから」
     月島と鯉登は劇場の裏側の運河側へ出る通用口から外へ出た。東京湾から潮をふくんで湿っぽい海風が強く吹きつけてきた。夜になって気温がさがった分風はひんやりと冷たくて、月島はジャケットのポケットに手を入れた。
    「すみません、鍵」
    「鍵?」
    「おれが返さないといけないのに」
     後輩の顔をする鯉登に月島は
    「ああ、そんなこと。全然気にしなくていいです」
    さらりと言ってちいさく首を横に振った。
    「鯉登くん、家はどっち? もう寮は出てますよね」
    「すぐそこなんです」
     鯉登は運河の向こうの新しいタワーマンションを目で示した。縦に走る枠の白とコントラストのくっきりした横向きの黒色と水辺を映したような淡い色のガラスがスタイリッシュで、運河の水面からそのままシームレスにそそり立っているように見えた。近隣に住んでいる団員は多いがこれほどラグジュアリーな住居に住んでいるのはきっと鯉登くらいだろうと思うと、月島はどうコメントすればいいのかわからなくて
    「じゃあ歩き?」
    「はい。それか自転車に乗ったりするときもあります」
    運河を渡る強い風に吹かれながらどちらともなく並んで歩きだした。ストールを首元に巻いた鯉登は寒いのが得意ではないのか、形のいい鼻梁を埋めるようにしていた。
    「俺は桜組しか知らないけど組が変わるとやっぱり違ったりするもの?」
    「ぜんぜん違います。違いすぎて別の劇団に来たのかなって思います」
    「そんなに?」
    「稽古着だってみんなすごい綺麗めだし、勇作なんてロングブーツとか履いてるし、尾形もブーツだった。昴組はみんなTシャツにジャージで足元はダンスシューズかスニーカーだし。芝居もみんな最初からできているしうまくてびっくりしました。教場でつくるんじゃなくてもうできているものを教場で見せているみたいで」
     鯉登は喋りだすと止まらなくて敬語さえも忘れていた。早口で一気に言い切ってふっと息をついて「それに」と漏らした声は頼り投げに揺れていた。
    「女の役も、誰かに恋する役もやったことなくて、こんなにセリフがある役も入団して初めてで、覚えた台詞を言っているだけなのは自分でもわかっています」
    「鯉登くん、スターなのに」
    「おれは踊ってばかりだったから」
     たしかにダンスを誇る昴組で鯉登はいつも目立つ場所で踊りソロも任されていた。高い身体能力と技術がなせる連続九回のピルエットや翼が生えているかのような長い長い滞空時間の跳躍に客席は大きな拍手を惜しみなく贈っていた。しかし言われてみれば芝居よりもショーで活躍している印象がある。 
    「みんな台本を離すのも早くてびっくりしました」
    「鯉登くんだってヴァイオラとセバスチャンの台詞しっかり入っているでしょう。覚えるだけで大変だったんじゃないか。下手したらオーシーノよりも台詞が多い」
    「自分だけできないのはいやだから」
     鯉登は色素の濃い唇をぎゅっと噛んでストールにうもれさせるようにうつむいた。
    「月島さんにも迷惑をかけることになって申し訳ないです」
     くぐもって尻すぼみになっていく鯉登に月島は「申し訳なくなんかない」と大真面目に答え、そして淡々とした声を保ったまま問いかけた。
    「鯉登くん、明日の公休日は予定ありますか?」
    「雑誌のインタビューと歌の個人レッスンがあって、でも夕方には終わります」
    「せっかくの公休日に悪いとは思うし、でも鶴見さんにも言われているからなにかをした方がいいと思って――「十二夜」の映画のDVDを持っているから一緒に観てみませんか。参考になるかもしれません」
    「映画って二〇年くらい前のやつですよね。気になってはいました。でも、もう廃盤で手に入らなくてプレミアがついているし」
    「おそらく鶴見さんは映画を演出の参考にはしていると思います。それに俺は最近は女役が多いし、なにかしら役に立てることもあるかもしれないです。鶴見さんが言うからには意味があるのはたしかだから」
    「ありがとうございます」
     家に誘うべきなのか、どこかレンタルルームでも借りるべきなのか月島が迷っていると鯉登が「月島さんがよければうちに来てください。たぶん見やすいと思うから」と言い添えた。
    「突然なのにいいんですか」
    「それは大丈夫です。あまり片づいていないかもしれないけれど」
     メッセージアプリの連絡先を交換して、マンションのエントラスで別れた。
    「おやすみなさい、しっかり寝てゆっくりやすんで」
    「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
     シャンデリアでも吊られていそうな光のあふれるエントラスの奥へと向かっていく鯉登を見送りながら、月島ははじめて鯉登と約束をしたのだと思った。
     月島はこの空気をまだ纏っていたくて歩いて帰ることにした。運河を品川方向へ渡ってにぎやかすぎる駅前を通りすぎて旧東海道の狭い通りに入ると、もう風は気にならなくなっていた。
    一週間の終わりで疲れているはずなのに眠りは遠く、月島は明日のことばかりを考えているうちに浅い眠りに落ちた。

     目が覚めたと思って枕元のスマートフォンを見るとまだ五時前だった。カーテンの向こうの日がまだ薄い水色になじんでいると思いながらまた眠りにおちて、次に起きたのは九時近かった。
     スマートフォンを確認すると鯉登からのメッセージを数分前に受信していた。
    「おはようございます。今日はよろしくお願いします。
     食べるものはテイクアウトしていきます。
     飲み物はミネラルウォーターとカフェインレスのお茶しかなくて、カフェインかアルコールが飲みたかったら月島さんの好きなものを買ってきていただけますか。
     準備が足りていなくて申し訳ないです」
     月島は指先をさまよわせながら「鯉登くんは飲まないんですか?」と打ち込んで送信ボタンを押すとすぐに返信が届いた。
    「カフェインはすこし苦手で、アルコールは一人のときは飲まないことにしています」
     「了解」とだけ打ち込んで送信すると、今度はなかなか既読のしるしはつかなかった。公休日だけれど取材とレッスンがあると言っていたしスターらしく忙しくしているのだろう。
     月島は窓を全開にして空気を入れ替え、シーツや毛布を洗って干し、それからていねいに掃除をした。窓から吹きこんでくる爽やかに乾いた風が気持ちよかった。かんたんな料理にもいつもより時間をかけて、朝食なのか昼食なのかはっきりしない食事をすませた。炊きたての白米と春キャベツと揚げの味噌汁、だしをきかせた卵焼きとソーセージ。ミニトマトも洗って添えた。
     台本をもう一度読み直して、来週から本格的に始まるレビュウの稽古にそなえて譜面をさらって、音楽の和田先生のピアノ演奏を録音したものを再生しながらストレッチをして体のすみずみまで筋肉を念入りに点検した。寝すぎたせいか体の芯がもったりと重たく滞っている気がして、こういうときは軽く動いた方が疲労が抜けると思ってジョギングに出た。
     目黒川沿いをさかのぼって、公園をぐるぐる回って帰ってくる五kmほどのコースを疲労を抜いて力をたくわえるようなイメージでゆっくりと走っていると、汗がじわりとにじんできた。息がはずんで心拍が適度にテンポアップするとだんだん体が軽くなっていく。行きは追い風、帰りは向かい風になって、青い風を太陽の下であびていると自分は気持ちのいい季節のほとんどを閉鎖的な空間でばかり過ごしているのだと思う。
    ゆっくり風呂にはいって、ちょうどいい時間だと思って月島は出かけた。
     悩みぬいた末に誰かから貰っためずらしいジンと、近くのスーパーマーケットでエビスのロング缶のパックを買って持っていくことにした。「一人のときは」とあえて書いてくるあたり、鯉登が飲んでもいいと思っているように読み取ることもできたし、それに月島自身が素面でいることを避けたい気がした。カフェインレスのハーブティーの箱も買ったのは手土産のつもりだ。
     鯉登の部屋は南東向きの上層階の角部屋だった。天井が高くて窓がものすごく広い。窓の外には暮れていくベイエリアが広がっていた。広々としたリビングには電気店でしか見ないような大きなディスプレイが壁に掛けられていて、鯉登が「たぶん見やすい」と言った理由がわかった。
     鯉登に勧められてL字型のソファに腰かけてディスプレイと向きあうとテレビを見るより美術館で芸術鑑賞でもしているみたいな気がしてきた。
    「あまり片づけられていなくてすみません」
    「いや、全然。むしろ突然なのにありがとうございます」
     鯉登は謙遜してみせるが白と淡い灰色、アクセントに深い青色でまとめられたインテリアの部屋はモデルルームのように整然と片づいていた。
     生活感が感じられないほど整った部屋だったが、壁に沿って据えられた腰の高さほどの棚の上に劇団が公式に販売しているブロマイドや舞台写真が並んでいる一角が鯉登のパーソナリティーを感じさせた。
     写真のほとんどが鶴見の舞台姿で、鯉登の兄のものも一枚だけあった。大小様々な写真立てはビーズやリボンでデコレーションされている。
     鯉登が劇団の機関誌のインタビューで団員を志したきっかけに鶴見の満を持しての初主演公演「オペラ座の怪人」を兄に連れられて観劇したことを挙げ、毎年度発売される団員名鑑の定番の質問「演じてみたい役は?」に「「オペラ座の怪人」のファントム」と書き続けていることも知ってはいるが、月島が思っていたよりもずっと鶴見への思い入れは強く、純粋なようだ。
     鯉登はテイクアウトしてきたらしいデリを一人分ずつガラスの大きめの皿に盛りつけてローテーブルに置いた。
    「手前からトリュフ風味の生ハム、フルーツトマトとモッツァレラチーズ、春にんじんとクルミのマリネ、筍のグリル、ホタルイカ。真ん中はからすみと菜の花のパスタです」
    「たくさんありがとうございます」
     少しずつ盛られた料理は絵のように彩りがよくて鯉登のセンスのよさを感じさせた。とりわける手間を省いてくれたのか、十期も上の上級生に気をつかったのか、あるいはもしかしたらすこし潔癖なところがあるのかもしれないと月島は思った。
    「春ですね、食材が」
    「稽古と公演の繰り返しでときどき季節がわからなくなりそうで、食べるものくらい旬を意識するようにしたくて」
    「ああ、すごくわかります。今日ちょっと表に出たら、いつの間にか気持ちのいい春になっていました」
     稽古と公演、全国各地を回るツアーを繰り返すと日々は飛ぶように過ぎていく。劇場も稽古場も窓がないせいで時間の感覚は余計に遠かった。月島自身が音楽舞踊学校に入学し、団員になってからいつの間にか、思いも寄らない長い長い時間が過ぎていた。
    「なに飲みますか?」
    「俺はビールにします」
    「月島さん、お酒飲むんですね」
    「公休日の前だけにするようにはしてます。あまり褒められたことではないけど、ときどき公休日も」
    「じゃあ、今日はおれも一緒に褒められないことさせてください。ビールいただきますね」
     鯉登は礼儀正しく断ってアイランドキッチンの大きな冷蔵庫で冷やしていたらしいグラスとエビスのロング缶二本を手に月島の隣に座った。「いただきますね」は一缶をシェアすることではなかったのが意外なような、やはりきちんとわけたいということなのかもしれない。それぞれ缶ビールをグラスにそそいで、グラスを持ち上げるだけの乾杯をした。
     鯉登はくっきりとした喉仏を上下させながらビールをごくごくと飲んだ。うっとりと見惚れたくなるような気持ちのいい飲みっぷりだった。月島は自分が酒に強い自覚はあるが、鯉登もかなり強そうだ。
    「鯉登くんもお酒けっこう飲めそうですね」
    「うちは家族全員強くて、それに好きですね。ビール、ひさしぶりに飲んだらすごくおいしいです」
     屈託なく言ってのけて空になったグラスに缶ビールを注ぎたし、泡がきれいに乗ったところで再びあおる鯉登につられて、月島もグラスのほとんどを開けた。
     渇きがひとまず静まったところで月島が持ってきた「十二夜」のDVDを再生すると、揺れる船でデュエットを披露する双子のシーンから始まった。乗客たちの笑いを誘っている余興はしかし、すぐに嵐にのみこまれて運命が大きく変わることになる。
    「映画はヴァイオラとセバスチャンを別々の俳優が演じているんですね」
    「映画だから。それが自然ですし、舞台だと早変わりのおもしろさもあるし、そもそもウチがやるとなると」
    「そうですね」
     鶴見が演出する「十二夜」の後半では鯉登がヴァイオラの男装シザーリオと双子の兄セバスチャンを短い時間で切り替えながら演じることになっている。この二役のおもしろさ、早変わりの妙は舞台「十二夜」の醍醐味であり、男性の団員だけで演じるからこその趣き、色気、味わいがある。そもそもシェイクスピアが書いた当時だって男だけで演じられていたという意味では王道とも言える。
     映画が終わると鯉登は長い指先でリモコンを操作してもう一度最初から再生した。
    「すごくよかった、いい話ですね。「十二夜」って」 
     独り言のようにつぶやいた鯉登の深い黒色の瞳は膜を張ったようにうるんでいた。映画の出来も洗練されていて味わいがあり、どたばたした喜劇を経て恋人たちが迎えるハッピーエンド、キャラクターたちが踏みだしていく新たな一歩は後味がよくて清々しい感動を自然とわきおこした。
    「舞台を観にきてくれた人にもファンの人たちにもそう思ってもらいたいです」
    「はい、そうですね」
     お互いにすでに缶ビールを二本ずつ開けていて、鯉登が月島の持ってきたジンを手にした。
    「開けてもいいですか」
    「もちろんです。飲みましょう」
     鯉登は美しいカットが施されたロックグラスをふたつ用意して、氷にとろりとジンを注ぐとゆっくりと口にふくんだ。舌先で舐めるようにするとピリリとした辛さと複雑なハーブのような味わいが広がった。
    「これ、とてもおいしい。薄めてしまうのはもったいない気がする」
    「うん、うまい」
     すぐ酔いそうな気がする、と鯉登はビー玉みたいなコップとミネラルウォーターのボトルを持ってきてくれた。
    「月島さん、質問してもいいですか」
    「はい、もちろんです。俺に答えられることならばなんでも」
    「役がつかめないときってどうしているんですか?」
     yes/noで答えられない質問を初めて鯉登にされて、月島は答えを探しながらジンをもう一口舐めてゆっくりと飲み下した。燃えるような辛さとアルコールに舌がじんわりと痺れて、酔いがまわっていく。
    「役を自分に近づけるんじゃなくて自分が役に近づくのが役づくりなので、そういうときはよくある手だと思うけど朝起きたときから寝るまでその役になりきって生活してみたりすることもあります。あとは日記とか、相手役がいればその相手に手紙を書いてみたりもします」
    「ヴァイオラだったらオーシーノ公爵に手紙を書くってことですよね」
    「まあそういうことです」
    「でもその手紙、ぜったいに渡せないですね」
     グラスにジンを注ぎたしながら鯉登がさらりと言った。
    「手紙に力があるのはファンの多い鯉登くんの方がよくわかるんじゃないですか」
    「たしかにそういう力みたいなのあるかもしれないです」
     劇団に毎日届くファンレターを仕分けてスターに手渡すのは下級生の仕事の一つだが、鯉登は毎日のようにものすごい数のファンレターを受けとっているのを月島は目にしていた。
    「それから呼吸と歩き方から考えることが多いかもしれないです。この体で演じるわけだから、馴染ませていく。ヴァイオラとセバスチャンの双子だったら、俺だったらですが、ヴァイオラのほうが軽ろかに呼吸をして、セバスチャンだったらもう少し深くするとか考えたりするかもしれない。稽古着から変えたり、香水を役のイメージに合わせて変える人もいますね。そうやって役に自分を近づけていくんです」
     自分ばかり話しすぎた気がして月島はさっと口をつぐんだ。思っているよりも酔っているのかもしれない。鯉登は黙りこんだままひどく真剣な顔をしていた。酒を飲んでもまったく顔に出ないタイプなのか、鯉登にとっては飲んだうちに入らないのか、空になったグラスにジンをとろとろと注いでいる。
    「月島さんはこの仕事――芝居って好きですか?」
    「自分以外の誰かになれることで救われるということはあるんじゃないかとは思います」

     月島はグラスに残っていたジンを飲み干して、ミネラルウォーターを呷った。
    「なんだか話しすぎてしまったけれどあくまで俺の場合はという話なので同じことをしなくていいです。正解はない仕事だから」
    「はい、でもおれの正解を探す参考にしてみます。それから、もう一つ月島さんに教えてほしいことがあります」
    「なんですか?」
    「女ってどうやってつくればいいんですか。鶴見さんが、シザーリオとヴァイオラの区別がつかないって」
     鯉登はひどく切実な表情で月島をまっすぐに見た。たしかに鶴見の指摘はもっともだし鯉登にとっては大きな課題だろう。月島はこういうときは見せるのが早いと判断し、やおら立ち上がって
    「じゃあ、いまからオリヴィアになってみせますね」
    ゆったりとしたスペースを確保できるラグの上に移動するのを鯉登はふしぎそうに見上げていた。
     鯉登の探るような目線の前で月島は自分のからだのスイッチを入れた。つくりものの、理想よりも理想に近い型へ自分の肉体を嵌めこみ、そしてこの肉体を息づかせる。
    「シザーリオ。すべてのものに賭けて、あなたを愛しているわ」 
    鯉登を見つめ返してオリヴィアの台詞をせつなげに唇にのせると、鯉登の目の色が変わった。
    「いまの俺は鯉登さんにどう見えていますか」
    「……すごく色っぽくて、綺麗で、どきっとしました」
    「さっきまでの男の俺とは全然違って見えましたよね」
    「はい」
     鯉登が神妙な顔でうなずくのを確かめてから月島は女役の型に嵌めていたからだを解放してオリヴィアから月島基に戻った。
    「鯉登くん、ちょっと俺の前に立ってみてください」
     言われた通り真正面に立った鯉登を月島は見上げた。
    「まず確認をします。教えるのにあたって鯉登くんの体に触りますがだいじょうぶですか」
    「あ、はい」
    「いやだったらすぐに言ってください。その場でやめます」
     意外にも鯉登が少しの躊躇もなくうなずいてみせたので、月島は一歩を踏み出して若くみっしりとした男のからだに手を伸ばした。
    「女役というのは基本的に体を閉じます。腕は体側から離さず、腋の空気をつぶすつもりで緊張感を保ってください。肩甲骨をきっちり寄せるとデコルテが綺麗に見えます。ドレスの着こなしは首元から背中が命です。でも肩はさげてリラックスさせて、肩に無駄な力が入っていると大柄に見えてしまいますから。 
     腰は片方にアクセントを持たせ腹斜筋を縮めて――もっとです。こうすると曲線が生まれて艶かしく見えます。脚は閉じて膝を絶対に離さないように、つま先はやや内側に向けます。それから手の指はそろえて親指は隠し気味に、手の甲を張るのではなくまろやかに、美しく見せる意識を忘れないでください」
     鯉登の腕、肩、腰、膝に触れて矯正する度に鯉登は「キェッ」「キェエッ」と素っ頓狂な悲鳴をあげた。
    「これが女役の立ち方です。どうですか」
    「こ……呼吸の仕方がわからなくなりそうなくらいきついです」
     月島は一歩下がって鯉登の頭の天辺から足の先までをさっと眺めた。
    「形はとりあえずできていますからあとは慣れていけば大丈夫ですよ。息をつめないで自然と胸をひらいて呼吸してください」
    「あと一か月で慣れてこれで舞台に立つなんて信じられない」
    「大丈夫です、鯉登くんのよくメンテナンスされている体ならすぐに慣れます。そもそもその状態で呼吸して喋ったら、兄のセバスチャンと同じにはできないと自然と思えませんか」
    「たしかに――私も純潔と若さに賭けて誓います。私には一つの心、一つの胸、一つの真実があり、それはどんな女性にも差し上げられない、それを支配する主人は私以外にいないのです」
     鯉登がシザーリオの台詞を言ってみせると、あきらかに昨日までの発声とは違って高くまろやかに響いた。なにかしらを得たらしく鯉登の黒い瞳に光が宿ったのが月島にはわかった。
    「いま初めてシザーリオ――ヴァイオラができるかもしれないって思えた気がします」
     鯉登は女役の姿勢をほどいて大きく息を吐きだした。
    「女役は現実の女性ではありません。桜星の男の隣に立ち寄り添う、理想のなかの女よりも女らしい存在です。つくりものだから演じられる、現実にいはいない存在が女役です。だからこそ胸を打つような可憐さや得も言われぬたおやかさが醸されるんです。鯉登さんはヴァイオラという女を演じるのではなくヴァイオラという女役(・・)を演じるんです」
    「そのヴァイオラが男装してシザーリオを演じていて、兄のセバスチャンもつくらないといけない……混乱してきました」
    「難しいからこそ役者冥利に尽きる二役ですし、それだけ鯉登さんが期待されているということでしょう」
    「正直荷が重いというか、これだけ期待されている自分に責任が果たせるのかときどき不安になります。光があたれば陰はできるし光が強い分だけ陰は濃くなる、光をこの身に受けるからには果たすべき責任がある……それを自分が担えるのか、ずっと問い続けています」
     かすかに揺らぐ声に月島ははっとした。スターとしてスポットライトを浴びる者だけが知り得る深い苦悩を抱えながら、いつかもっとも大きな羽根を背負い真ん中に立って組を率いる者としての自覚を 鯉登は自らに厳しく問いかけているのだ。自分よりもずっと下級生だがスターとしては格上の鯉登だけが知っている陰がある。
    「鯉登さんならできると信じているからこその組替えと抜擢だと思うし、新しい鯉登さんが見られるのを楽しみに待っているんじゃないですか」
    「信じて、待っている――それって誰だと月島さんは思いますか?」
     醒めて問いかける切れ長の黒い双眸は凪いでいた。月島は「みんなでしょう。劇団の上層部も、鶴見さんも優作さんも、ファンたちも」と当然のように即座に答えて鯉登をまっすぐに見上げた。
    「俺もその一人です」
    「お世辞でもうれしいです。ありがとうございます」
    「それだけの覚悟も見合った努力もできる鯉登さんはまっすぐ進んでいけば大丈夫だと、俺は思います」
    「先輩の月島さんにそう言ってもらえると明日からまたがんばれそうな気がします」
    「鯉登くん、俺はお世辞を言ったりしない人間です」
     唇にだけ笑みを浮かべていた鯉登は目をまじまじと見開いてからはじけるような笑顔になった。

     公休日が明けると鯉登にダメが出されて進行が止まることは確実に減っていった。お手並み拝見とばかりに鯉登をどこか冷ややかに眺めていた団員たちの目の色が明らかに変わってきていることが月島にも手に取るようにわかった。
     なにより芝居の稽古とうってかわって併演のレビュウの稽古が始まると鯉登はまるで水を得た魚で、圧倒的な身体能力の高さ、ずばぬけた柔軟性はウォーミングアップ、ちょっとした振付の段階から際立っていた。
     パレードの直前の、歌劇団の名物の一つである燕尾服で大階段に勢揃いする群舞の振付が最後まで付いて自主稽古になったタイミングで月島は鯉登に声をかけた。
    「鯉登くん、ちょっと」
     目で促して第一教場をそっと抜けだした。教場では近い位置で踊る者たちが三々五々集まって振付を確認しながら細かいところまで合わせ、振付家のフミエ先生は谷垣を残して「源次郎、手の振りに集中しすぎて足元が疎かになっているよ!」と叱咤激励していた。できるようになるまで今日の谷垣はおそらく許してもらえないだろう。
     できれば小ぢんまりとした教場か歌の練習に使用するピアノ室が空いていればと思ったが、あいにくどこも使用中の札がかかっている。仕方ないので月島は鯉登を人気のない階段へと誘った。節電のためか電気は半分ほど落とされていて薄暗いがかえって人目につかないのはちょうどいいだろう。
    「こんなところで申し訳ないけれどあまり人がいないところの方で確認したいのと、むしろ階段なのはちょうどいいかもしれないと思って許してください」
    「いえ、大丈夫です」
    「鯉登くん、燕尾服の上着に手を添えたところを見せてくれますか。一番最初の大階段をおりてきて配置につくところです」
    「はい」
     月島の突拍子のないオーダーに鯉登は即座に応えて、すっと背筋をのばして肘を余裕を持たせて折ると胸の下あたりで両手をぐっと握ってみせた。稽古着のジャケットには実際に触れてはいないが、衣装の黒燕尾を着ていれば上着を握っているように見えるだろう。
    「手の甲がしっかり綺麗に見えているからいいと思いますし姿勢は申し分ないです。昴組はそうやって手をしっかりめに握るのが伝統なんですね」
    「はい。桜組は違うんですか?」
    「うちの組は手は握らないんです。指先を伸ばしてそろえて、燕尾服に添わせるイメージです」
     月島は自分も燕尾服を着ているつもりで見本を示した。すべての指先まで緊張感を持たせて人差し指をやや浮かせて伸ばすと美しく見える。はじめて燕尾服の群舞のメンバーに選ばれたとき、鶴見が教えてくれたことだ。
    「そうなんですね。気づきませんでした」
    「振付でフミエ先生が指導することじゃないので無理ないです。不文律に近い。細かいことだけれど客席から観るとたぶん目立ってしまうと思うので、昴組はダンスがいいしショーも激しいけれどうちは全員で徹底的に揃えることを大切にしているから、指先もそろえた方がいいと思います」
    「ありがとうございます。月島さんって優しいですよね」
    「どこかに優しい要素ありました?」
    「みんなの前じゃなくてこうやって二人だけのときに教えてくれるのって、本当に優しくないとできないことだとおれは思います」
     教場で伝えることもできるしこれが宇佐美や尾形あたりだったら月島は教場でそのままさらりと指摘しただろう。けれどみなの好奇の視線を集めている鯉登を直すことを月島は誰にも見せたくなかった。きちんとできるところを見せたいと鯉登は強く思っているはずだし、結果を出すのは当然としてスターにはスターとして通るべき過程がある。
    「十期も学年差があるのに口伝えの伝言ゲームにしないでこうやって直接伝えてくれるのも、敬語なのも、呼び捨てにしないのも」
    「そうかな。尾形とか宇佐美は呼び捨てだし」
    「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか」
    「鯉登くんはいつか真ん中に立つ人だから。それにキャリアに関係なく尊敬できる舞台人だと思うから」
    「ありがとうございます。他に気をつけたことがいいことがあれば教えてください。たぶんおれが知らないこと、たくさんありますよね」
     指摘されたことをすぐに直せることも、努力を惜しまないことも、鯉登の美徳だからこそ、尊敬できるのだと月島は思っていた。それに自分から素直に訊いてくるのはかわいくもあった。
    「昨日振り移しがあった場面で脚を上げて揃えるところで、宇佐美さんと尾形さんに「上げすぎだ」って言われて」
     その場面は月島がソロ曲を歌い、鯉登や宇佐美、尾形たちが踊る場面で月島自身も稽古場で見学していた。アクセントになる音に合わせて右脚をY字に上げる振付で鯉登の脚はほとんど顔の横まで上がってピタリと静止していた。驚異的な体幹とバランス、股関節の柔軟性がなせる技だった。
     しかも他の団員たちがすぐに脚をおろして次の振りへと移行するなかで鯉登は平然とした顔でたっぷり三秒は静止していたのだ。振付が終わるなり宇佐美が「鯉登! 上げすぎ」とややキレ気味に非難し、尾形は「スポーツじゃなくてレビュウなのがわかっとらんみたいですな」とにやにやと口元を歪めていた。
     桜組と昴組ではカラーが大いに異なり、ファンは「芝居の桜、ダンスの昴」と呼ぶ。たとえば同じ初恋の悲恋ものでもストーリーと心情を歌い上げる歌に重点を置く「ロミオとジュリエット」は桜組で、ダンサブルなナンバーの多い「ウェスト・サイド・ストーリー」は昴組で上演する。
    「うちの組は徹底的に揃えます。振付はもちろん顔の角度、指先の伸ばし方まで揃っていることに美しさとプライドを見出すのが桜組です。昴組はダンスが得意だし激しいショーも多いから全然違って戸惑うかもしれませんが、大人数口の場面では揃えることの美に気をつけてみてください。I字バランスよりも九回転よりも鯉登くんにとっては難しいことかもしれませんが」
    「もしかしたらそうなのかもしれません」
    「でも物足りなくはないはずだとも思います。技術的に余裕がある分、揃え方も工夫できるはずです。I字バランスができる上でY字に留めて揃えるのとY字しかできないのは違うとお客さんは自然と見抜きます」
    「わかりました。月島さん、ちょっと見てもらえますか」
     鯉登は踊り場まで駆け上がると、カウントを取りながら大階段を降りてくる場面の頭から踊ってみせた。上着に添えられる指先はもうきちんと直されていて細部まで美しく、流れるようなダンスに音楽が聞こえるようだった。蛍光灯が薄暗く照らす階段なのに伸びやかに、しなやかに踊っている鯉登が強烈なまぶしい光のなかに浮かび上がるようで、月島は目を細めて見上げた。
     鯉登自身が内側から放つスターとしてのオーラ、空気さえ色づくような見せ方から目が離せなかった。

     稽古の三週目を終える日が「十二夜」の荒通しだった。レビュウも全場面の振りがついたので来週には通しがある。来週からは舞台にセットを組んでの小道具や衣装を身に着けながらの稽古が始まる。
     通しが終わったところで演出の鶴見から細かいダメ出しが一通りあったところで解散になったが、鶴見は主演の優作と鯉登を稽古場に残した。後輩たちは早々に教場を後にしたが月島は見学していくことにした。どんな稽古になるのか気になったし鶴見からなにか指示があるかもしれない。
    「優作と鯉登は七場をもう一度やって見せてくれ。オーシーノ公爵に再びオリヴィアの元へ使いに行くように命じられたヴァイオラが公爵に恋をしていながら叶わない切なさを訴える場面だ。シェイクスピアの台詞の美しさが際立つ前半の山場だ」 

     公爵 シザーリオ、もう一度オリヴィアのところへ行って、こう伝えるのだ。俺の愛 
        の気高さは世間並みの愛とは比較にならず、土くれにすぎない領地の広さなど
        問題ではない、運命があの方に預けた財産も気まぐれな運命同様宛にしてはい
        ない、俺の魂が惹かれるのは自然の手で飾られた奇跡のようなあの方の美しさ
        なのだかと。
     ヴァイオラ でも、もし、オリヴィア様に愛することはできないと言われたら?
     公爵 そんな返事はきくものか。
     ヴァイオラ でも、聞かないわけにはゆきません。仮にある女が、どこかにいて、公
           爵様に恋していて、あなたがオリヴィア様への愛ゆえに味わっておいで
           の苦しみと同じ苦しみを抱いているとします。でも、愛することはでき    
           ないとおっしゃれば、その女はそういう返事を聞かざるをえないでしょ  
           う?
     公爵 女の胸は、いま俺の心に脈打つ激しい恋の情熱に耐えられはしない。女の心は
        これほどの想いを抱くには小さすぎるのだ。
     ヴァイオラ でも私は知っています――女の愛がどんなものかを、痛いほど。事実、
           女の真心は私たちには劣りはしません。私の父に娘が一人おり、ある男
           を愛していました。仮に私が女で、相手が公爵様だとしたら、きっと同
           じ想いだったでしょう。
     公爵 その妹の恋はどうなった?
     ヴァイオラ 白紙のままです。自分の恋を誰にも告げず、胸に秘め、蕾にひそむ虫の
           ような片想いに薔薇色の頬を蝕ませたのです。やがて悩みにやつれ、病
           み蒼ざめた憂いに沈み、石に刻んだ「忍耐」像のように悲しみに微笑み
           かけていました。これこそ本当の恋ではありませんか?

     オーシーノ公爵の優作とヴァイオラの鯉登のやりとりを鶴見はもう一度繰り返させた。
    「優作の公爵は聞く耳持たない感じが「その妹の恋はどうなった?」ではっと醒める感じがいい」
    「ありがとうございます」
     鶴見は優作に「もう遅いから帰りなさい。また来週」と声をかけてから鯉登に対峙した。明日の公休日も仕事があるのか誰かと約束があるのか、優作は大荷物を手際よくさっとまとめて「お先に失礼します」と帰っていった。
    「鯉登はヴァイオラの台詞の恋をどう思う? 片想いが本当の恋というやつだ」
    「その…すごく、悲しくてかわいそうで、でもヴァイオラの台詞は激しいのかなって思います」
     鶴見は片手を頬にあてたまま鯉登には直接答えなかった。
    「この場面では観客にヴァイオラがかわいそう、なんて切ない恋なのだと思わせる切実さがほしい。所作も慣れようとしているのはわかるがまだ不自然だから初日までにもっとヴァイオラを体に馴染ませるように。来週はきっといいものを見せてくれるね」
     鶴見の口調は穏やかだが要求は高く、つまりは鯉登のことを一つも褒めていなかった。
    「……はい」
    「約束だ、鯉登」
     鶴見がニイっと歯を見せるように笑ったのが稽古終了の合図になった。鶴見は荷物をまとめたショルダーバックを手にして、さも突然思いついたかのように振り返った。
    「月島」
    「はい」
    「よく面倒を見てくれているみたいだね。集合日からすると鯉登は別人だ」
    「それは彼の努力あってこそじゃないでしょうか」
     仮面の下から鶴見の強い目線が探るようにじっと見つめてきたが、月島はそれ以上は答えなかった。
    「月島がそう言うのならば来週の鯉登に期待しよう」
     鶴見は首だけで「お疲れ様」と振り返って教場を後にした。
     
     通用口から運河沿いに出ると風が心地よかった。大きく呼吸すると頭がふっと軽くなって、窓のない教場で一日中かなり根をつめていたせいで疲弊していたがよくわかった。
     ライトアップされた水門を通りすぎてふれあい橋のたもとに来たところでゆっくりと歩いていた鯉登が足を止めた。
    「月島さん、時間があったら飲んでいきませんか。少しだけ」
    「いいですね。明日は公休日ですし」
     洒落たビストロはいつも混んでいるが、ラストオーダーが近いからかテラス席に座ることができた。公演が無い期間だからか平日の夜遅くだからか店内をさっと見渡した限りファンらしい人もいなそうだ。  
     メニューをさっと見た鯉登がクラフトビールの生ビールをオーダーするのに月島も「同じものを」と倣って乾杯した。オレンジのような果実味の強い風味は月島の好みではなかったが、一週間の稽古を終えて飲むビールがおいしくないわけがない。二人してグラスを置いて大きく息を吐きだしたタイミングがまるで一緒で、二人してちいさく笑った。
    「タイミングよすぎですね」
    「でも、芝居でもレビュウでも稽古していて月島さんとはやりやすいかもしれないです。タイミングとか自然と合う気がします」
    「それならばよかったです」
     月島はビールをゆっくりと飲みこんだ。
    「鯉登さんがどんなヴァイオラを演じても、どんなふうに歌っても踊っても、鯉登さんが舞台で何をしても俺が全部受けとめます。だから安心して思い切り鯉登さんのヴァイオラとセバスチャンを演じてください」
     鯉登は「はやくおれもそんなふうに言えるようになってみたい」とつぶやいて、グラスを空けるとジントニックをオーダーした。月島はギネスビースを頼んだ。 
    「鶴見さんにダメ出されたこと、おっしゃりたいことはわかるつもりだけど、脚本を読んでもヴィオラがどうしてオーシーノ公爵のことを好きになったのかよくわからないし、自分のヴァイオラがまだ公爵に恋できていないのはわかってはいます。月島さんはオリヴィアの恋をどうつくっているんですか? ヴァイオラに惚れるの、けっこう唐突ですよね」
     月島はギネスビールのシルクのようにとろりとなめらかな泡に口をつけた。
    「好きになるのに理由なんかなくて、一目で夢中になってしまったり、少し言葉を交わしただけで惹かれるのはよくあることじゃないですか」
    「そういうもの……なんですか」
    「誰かを好きになったときのことを思い出してみてください」
     ジントニックを噛むように飲んだ鯉登はしばらく考え込んでいたが
    「鶴見さんの舞台を初めて観たときでもいいだろうか」
    ようやく導いた答えはひどく真剣な顔とは裏腹に恋愛とは距離のあるものだった。
    「ファン心理もいいですが誰かとの恋愛か、恋愛みたいなことの方がいいでしょう。経験していなければ演じられないわけではないけれど、経験があるに越したことはないでしょう」
    「月島さん、おれに教えてくれませんか。恋愛というわけにはいかないから、その恋愛みたいなこと」
     よほど切羽詰まっているのか鯉登の突拍子もない懇願に月島はギネスビールを吹きそうになって盛大に咽た。
    「意味がわかりません」
    「だってもうあと一週間で初日なんですよ」
    「だからって――優作さんに頼んだ方がいいんじゃないですか。鯉登くんが――ヴァイオラが恋するのは優作さんなんですから」
    「無理です、昔から知り合いだし、だいたい稽古と取材でものすごく忙しいじゃないですか。それに優作の近くは百――尾形さんがうるさい」
     たしかに主演の優作は誰よりも多忙だし尾形がめんどうくさいのも確実だった。
    「月島さん、お願いします。いまから誰か相手を見つけて経験をするのは難しいし、ファンの人たちに見つかっても困るしこんなことを頼めるのは月島さんしかいないです。おれに恋愛みたいなことを教えてください」
     鯉登があまりにも真剣で切実で、酒に酔っての勢いとも思えなくて、そうなると葛藤の末に月島に残された答えは一つしかなかった。
    「鯉登さんが本当に好きな相手を見つけるまでならば」
    「ありがとうございます」
     根負けして大きなため息をついて見せた月島に鯉登が花の咲きほころぶような笑顔を弾けさせた。
    「ところで恋愛みたいなことってなにをすればいいですか?」
    「俺たちは互いを好ましく思っていて、劇団には秘密でつきあっていているという前提から始めましょう。毎日一緒に劇団に入るし出も一緒、公休日も一緒に過ごして頻繁にメッセージをやりとりしたりお互いの家を行き来したりする…こんな感じでどうですか」
    「じゃあ明日、またうちに来ますか」
    「鯉登くんがよければ」
    「よろしくお願いします」
     鯉登が右手をさしだしてきて、どうやら握手を求められているらしい。月島が手を重ねると鯉登の手がぐっと強い力で握ってきた。嵐に攫われるような接触だった。手がほどかれても鯉登の体温の高さが指先に移ってじんといつまでも痺れた。新たな熱が灯された瞬間、月島の中で新しい芝居の幕が上がった瞬間だった。
     偽りならばいくらでもできる。なんせ職業は劇団員、どんな役だって演じてみせられると月島は己を信じていた。

     ”花ト星ノ歌劇団の桜組が新たな時代を迎えた。新たな主演スター花沢勇作は入団十年目、甘く気品のある顔立ち、確かな芝居と劇団随一の豊かな歌唱力で新生桜組のセンターに立った。
     お披露目公演「十二夜」では叶わぬ恋に苦悩するオーシーノ公爵を丁寧に演じ、この公演から昴組から異動となった鯉登音之進演じるヴァイオラと結ばれる際に見せる包容力、爽やかな幸福に満ちたハッピーエンドが胸を打つ。ベテランの月島基がオリヴィア姫の恋の迸りをうったえ、作品の要所要所を引き締める道化フェステは前作まで主演として組を率いた鶴見篤四郎。鶴見はこの作品で演出家デビューを果たし、シェイクスピアの長い原作を整理して九〇分に収める取捨選択の迷いのなさは見事。江渡貝弥作の豪奢かつ奇抜さを感じさせる衣装との相性もよく次回作が楽しみ。
     併演のレビュウ「春の夢」はこれぞ花ト星ノ歌劇団という正統派。花沢の歌唱力が随所で光る。またダンスの名手鯉登が加わったことで新生桜組は新鮮な印象をいっそう鮮やかにし、舞台の厚みを増したのではないか。天王洲劇場で◯月◯日まで上演し、その後は全国ツアーを上演する。”

     初日が開けて演劇の専門誌に載った公演評と写真を月島はていねいにスクラップして、本棚のちょうど目の高さのあたりにずらりと並んだファイルに収めた。
     七年前に鯉登音之進が初舞台を踏んでから月島の世界は根底からつくり変えられ、まったく別のものになった。勉強のために昴組の公演は観劇するようにしているが、初舞台生がそろってずらりと並んだお披露目のラインダンスで真ん中に立ち、脚をあげている彼から目が離せなくなった。終演後すぐにプログラムを買って名前を覚えた――鯉登音之進。翌日の公演のチケットがまだあったので追加で購入した。
     二度目の観劇が終わってからも、月島は寝ても覚めても気がつけば彼のことを考えていて、眼裏に焼きつけた輝くような舞台姿を繰り返し再生していた。SNSで彼の名前をひたすら検索し、音楽舞踊学校の合格発表や卒業式で首席としてインタビューに答えている記事を片っ端からブックマークした。
     以来月島は彼の名前が出る記事、写真の載った記事はすべてスクラップし、劇団が販売するブロマイドや舞台写真はすべて買ってコレクションしている。劇場に併設されているショップは社割として安く買えるが、鯉登音之進の筋金入りのファンであることを秘匿すべくすべてオンラインショップで密かに購入している。
     月島は鯉登音之進と出逢ったことでファンという生き物になったのだ。だからまさか憧れてやまない鯉登と組替えによって同じ舞台に立つことになり、しかも恋愛のようなものの指南までするようになるなんて夢にも思っていなかった。


    続く
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    夢路(夢の通い路)

    PROGRESS強くしなやかに美しく――男だけの歌劇団に所属する舞台俳優の鯉月(現パロ記憶なし)

    ※劇場、劇団、土地など現実に似ているものがあるかもしれませんがすべてに関係のないパロディ、パラレルです
    ※「オペラ座の怪人」「十二夜」「グランドホテル」「蒲田行進曲」といった舞台作品の内容に触れます
    ※2024年12月DRまたは2025年1月インテにて発行できたらいいな…
    とけない魔法にかけられて(仮題)プロローグ「オペラ座の怪人」 オーケストラの奏でる音楽が抑えられたものに変わるのにあわせて、舞台全体を隈なく照らしていた照明が落とされて中心の一点を強く照らしだすスポットライトに切り替わった。
     豪華な電飾で飾られた階段に大羽根を背負って立つ美しい男が光の輪の中に浮かびあがると、満席の客席のみならず舞台上にずらりと並んだ演者たちからの視線が注がれた。劇場中が彼だけを見つめていた。
     芝居の幕がおりるまでパリ・オペラ座の地下に住むかなしい男を演じ、白く冷ややかな仮面をつけていた男の顔の上半分は、ビジューがちりばめられた豪奢な仮面で覆われている。仮面のせいで顔の半分ほどははっきり見えないのにそれがかえって男の整った顔立ちを一層美しく見せていた。
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