RJ7任務完了セレクション☆2024【そうめん流し】
「弓倉、今日が何の日か分かるか」
「駅前スーパーのポイント7倍デー」
「7のつく日だもんな……じゃなくて!七月七日だよ!」
「……ああ!」
そうだったと弓倉はポンと手を叩いたが、少し考えて、確認するように火野の顔を見た。
「……で?」
「七夕と言えばもちろん、ナガシソーメンだろ」
「……そうなの?」
思い返せばクリスマスにこの合宿所のコタツで鍋とケーキを囲んでからだった、と弓倉は振り返る。「おじいちゃんから伝え聞いた日本のシーズン・カルチャーを色々と体験してみたい」と火野が言い出したのが発端で、今思えば海外のほうが本場だろうに、真夏のそれしか知らない火野は随分楽しそうにツリーに模した雪の飾りを眺めていたものだ。
正月にはしめ縄を作って飾り、皆で餅をついた。バレンタインには吉川の主導で男だらけのむさ苦しいチョコフォンデュ大会を決行したし、ひな祭りには坂木と岡野が腕によりをかけたちらし寿司を振る舞ってくれた。端午の節句に、山田の隠れた特技、和菓子作りの腕前が披露されたことも記憶に新しい。(そして、巻き込まれただけとはいえ片桐家の恐ろしく高級な鯉のぼりを合宿所の空にためかせることに成功した賀茂の采配、あれは本当に見事だったとRJメンバーは口を揃えて語る)
食ってばかりだな、と弓倉は苦笑する。火野自身も口にすれば具現化すると学んだらしく、季節が変わると、スイカ割りにかき氷と度々主張していたのだが、何かとタイミングが合わずお預けになっていたのだ。
(ああ、そうか。きっとこれ、最後の……)
一瞬、視線を落とした弓倉だったが、すぐにニヤリと笑っていつもの涼しい顔を火野に向けた。
「けっこうな値段するんだぞ、あの装置。さすがに経費で落とす自信はねえな。最初からオッサンのポケットマネーをあてにする作戦でいくか」
「というわけです、監督」
「何が、というわけだ!」
呼び出された賀茂が目にしたものは、合宿所の庭に鎮座するウォータースライダー型の流しそうめんマシン。メンバー一同うきうきと、それを取り囲んで宴が始まっていた。
「こういうのもこれっきりですから、どうか、ここはひとつ穏便に」
浦辺がうやうやしく差し出した領収書を、賀茂は渋々受け取った。但し書きは"送別会用品"となっていた。
「楽しいか?」
「おう」
流れるそうめんと格闘しながら火野が答える。そうか、よかった、と弓倉は微笑み、満足げに自分より背の高い火野を見上げた。
――リョーマ、おれは知っている。おまえはこのあと、そのポケットに入っているフルーツ缶の中身も流すつもりなんだろう。おれには分かる。おまえはきっとシロップごと全部それを流す。きっと大惨事だ。でもおれは敢えて止めない。なぜだか分かるか?楽しいからだ。楽しい記憶はきっと多い方がいい。今日みたいな日のことは、特にな。
「監督もどうぞ。ビールまでは用意できてませんが」
坂木が小鉢に取り分けたそうめんを賀茂に手渡した。
「さくらんぼか」
「彩りですよ」
全日本ユース監督に就任してからそちらの合宿所に詰めることが増え、立ち上げから指導してきた影のチームのことはなかなか個別には省みてやれなくなっていた。それでもこうして集まれば、我の強いメンバーも可愛い教え子たちには違いない。
たまには付き合うかと口をつけた瞬間、賀茂の顔色が変わった。
「……甘っ!!」
【ネガポジティブ】
「もう勝負ついてんだろ。さっさと笛吹きゃいいじゃねえかよヒゲオヤジ」
そんな岡野の悪態をなだめながら、坂木は遠目にスコアボードを確認する。そこには戦意を喪失させるには十分な数字が並んでいた。
(この点差をひっくり返した記憶は、さすがにないな……)
全日本ユース離脱組とRJ7との再戦は、ユースチームの一方的な展開で試合が進んでいた。
坂木は百戦錬磨のDFではない。元のクラブに戻れば、ベンチに定着できないままプロ二年目を迎えた無名のルーキーのひとりだ。しかし、今この戦場で彼にしかできない役回りもある。絶望感を振り払うように気丈に声を張り、チームメイトを励ましていく。
「切り替えて次だぞ、山田。雷獣シュートは……あれは仕方ない」
「ボールに触れてすらいないんでな。怪我を免れていると思うことにするよ」
「前向きで助かる。吉川、まだまだ動けるな」
「ホイな。しっかし、ここまで点差つけられるんは小学生以来やな~。貴重な経験、積ませてもらうとしますか」
「岡野は――
「この程度でくじけてられねえだろ!サポーターの罵声を浴びない分、気が楽ってもんだぜ!」
あくまで強気な岡野に、去年ぶっちぎりのリーグ最下位という不名誉を記録した彼の所属クラブの低迷ぶりを思い出し、坂木はふっと笑みをこぼした。心身ともタフな仲間たちには随分助けられてきた。磨くために選別された原石の集団とは異なり、かけられたふるいに運良く引っかかっただけの集まりだったかもしれない。それでも、ここまで生き残った七人だ。
経験不足の四文字は、ユース世代までの戦歴しか持たない火野と弓倉には一層重くのしかかっていた。彼らには折られるには十分なプライドと理由がある。気持ちで負けるなと念じることはできても、一度崩れたリズムを取り戻すには何もかもが足りないでいた。
「弓倉、パス、ひとつずつ丁寧にいこうな」
「分かってる!」
「火野もだ。焦るなよ。おまえのシュートが通用してないわけじゃない」
「……言われるまでもねェ」
立て直して次は必ず、と言ってやれないもどかしさに、坂木は唇を噛んだ。同じチームでプレーするのはこれが最後なのだ。締めくくりとするにはあまりにも苦い現実は、持ち帰ってそれぞれが明日の糧にするしかない。
肩を落とすな、切り替えろ、前を向け。流れる額の汗をぬぐい、点差が開くたびに重くなっていく足を奮い立たせる。あきらめようと、心が折れようと、このゲームから降りることは許されないのだ。試合終了のホイッスルは、まだ鳴っていないのだから。
「せっかくの引退試合、華々しく飾ってやれそうにもない。すまなかったな」
最後のひとりに声をかける。浦辺は首を横に振りスンと鼻を鳴らしたが、すぐに瞳に強い炎を灯した。
「あいつらの怖さはおれが一番よく知ってるからな……今から、一点でも二点でも、返せるだけ返していこうぜ!」
「もちろんだ!」
残された時間はわずかだ。年下ながら、浦辺の頼もしさは黄金と呼ばれた世代のひとりに相応しいものだったと、心からの敬意を払い、坂木は強くうなずいた。
【進路/浦辺】
任務完了、解散。半年とちょっとを共に過ごした合宿所を離れ、それぞれの場所へと帰る。おれたちは晴れやかな表情でその日を迎えていた。
坂木、岡野、吉川、山田は所属クラブに戻り、レギュラー確保を目標にプロとしてのキャリアを再開させる。新聞やテレビのスポーツニュースで見かける機会が増えればいいと思う。
ウルグアイに戻ってワールドユース出場を目指す火野は、その後のことはまったく未定らしい。けれど「日本に来て良かったことのひとつ、それは豆腐を知ったことだ」と真顔で言っていたので、出来るだけ応援してやるとするか。
弓倉は最後までクールに振る舞ってはいたが、やっとプロデビュー出来ると安堵したのか、今日はひどく饒舌に火野に絡んではうるさがられていた。随分遅れちまったな、ひとまずおめでとうって言っておくぜ。
じゃあな、またな。声を掛け合いながらバラバラに玄関を出ていく。靴箱から取り出したのは、普段履きと兼用しているトレーニングシューズ。高校を卒業するとき捨てるつもりだったのに、思いがけず長く履いてしまった。
おれは、実家の豆腐屋を継ぐ。これは賀茂のオッサンに誘われる前から決まっていたことだ。おれのサッカー人生の最後に、あいつらに、黄金世代の役に立てて良かった。
――本当に、それで……
靴紐を強く結んだとき、目の前にサッカーボールが転がってきた。
「悪ィ!」
手をあげて走ってきたのは火野。
「何やってんだよ」
「バスが来るまでの暇潰し」
そう言いながらボールを蹴った先には弓倉がいた。弓倉はポンポンと足先と膝を使って器用にボールを捌いてから、火野の足元にそれを返した。火野も同じように軽いタッチでリフティングして、また弓倉に戻す。無言でボールを往復させるだけの作業なのに、二人とも柔らかく笑っていた。
ああ、いつかこんな光景を見たなあ。あれは翼と岬だったかな。楽しそうに……
急に胸のあたりがチクチクと鳴った。考える前に声をかけていた。
「おれも混ぜてくれよ」
リアルジャパンに参加して気付いたことがひとつある。なかなかやるじゃねえか、おれ。同世代の日本代表選手を相手に、プロの選手を味方に、足を引っ張ることもなく、任務をやり遂げた。感謝されなくていい、憎まれてもいい、かつての仲間たちのためになるなら。そういう気持ちで引き受けたが、おれはきっとフィールドの上でそれなりにいい仕事をしたはずだ。
「あっ、おい浦辺!」
うっかりトラップし損ねたボールが明後日の方向に跳ねた。草むら目指して転がっていくボールを、おれは慌てて追いかける。
今更、どうしようっていうんだ。
解っていながら抑えられずに湧き上がる気持ちがそこにあった。
サッカーを続けたい。もう一度、自分自身のために、ボールを蹴ってみたい。
夏草に足を取られて派手に転んだ。
ついてねえ。セミ、うるせえ。
何故か擦り剥いた膝よりも目が痛い。空の青が目にしみる。
遠くで火野の大きな声。バスが到着したらしい。おれは逆方向だ。ボールは弓倉が拾った。
「じゃあな。いい豆腐作れよ」
不意にセミの合唱がやんだ。座り込んだまま動けないおれの背後で、バスの扉が閉まる音がした。
【孤高の空/火野】
束の間の休憩を許され、火野はピッチ脇の芝の上に倒れ込んだ。走り回って火照った体が重い。大きく呼吸して、上下する肺に冷えた空気を取り込む。モンテビデオの八月は穏やかな冬だ。
戻るべきところに戻ってこられたと安堵する間もなく、ウルグアイユースチームに合流した。リョーマ・ヒノは国に勝利をもたらし得る救世主で、監督やチームメイトから向けられる期待の眼差しは、彼のやる気を存分に奮い立たせた。火野が何者であるかを気にする視線はそこにはない。
同じ季節でも、トーキョーの冬はやたらと寒かった、シズオカのほうは幾分かマシだったが……
ふと半年前の出来事が脳裏に浮かんだものの、共有する宛がないことに気付いて、両手で額の汗をぬぐいながらそっと消し去る。
ワールドユース大会への切符を掴むための、厳しくも充実した毎日に違いなかった。それなのに、日本を離れて以来どうしてか、一握りの感傷が胸の奥に居座り続けている。
進むべき道を模索するために訪れた、国籍という縁があるだけの国、日本。火野があてがわれたのは非公式のチームではあったが、見下していたサッカー後進国のイメージは早々に覆される。
学ぶものの多さに躍起になるうちに、仮の居場所にもおぼろげな絆が生まれた。いち選手として評価され、必要とされ、信頼される喜び。取り戻した自信。しかし相反して、結局ここも自分の終の居場所にはならないのだという悲しい実感が、また火野を苦しめる。
うずくまる背中に差し伸べられる手は、いつもすぐ側にあった。
「好きなんだろう?ウルグアイのサッカーが。メリットだの確率だのに縛られないで感情に従って生きるのは、リョーマらしくていいじゃないか」
トンと押された感触を、今もはっきりと覚えている。
体を起こし、ペットボトルの水を喉に流し込む。ふたたび仰向けに倒れると、目が痛いほど晴れた青が視界を占領した。先月まで袖を通していたユニフォームに似た、鮮やかな青。
あのチームはもう存在しない。
二度と、ないのだ。
寂しい、などと認めてしまったら立ち直れなくなる気がして、火野は得意の強がりを発揮する。過ごした日々は確かな糧となり、今の己の強さの礎となっている。十分だろう、それで。
心に蓋をして。少しずつでも忘れていく選択をして。空の色など何処で見上げても同じだと、火野は上空を睨み付け、ぐっと奥歯をかみしめた。
【群青】
揃いのユニフォームを受け取ったときの率直な感想は、随分派手な色だな、だった。
「ある意味すげえな、これ」
多分わざと真剣な表情で、浦辺は左胸のナショナルエンブレムを指差した。
「公式のニセモノ」
どこがツボに入ったのか岡野は大袈裟に吹き出し、ええやん、かっこええやん、マジモンのパチモンやで~と吉川も嬉々として手を叩いた。
そういうおれも、着慣れたクラブのチームカラーとは違う、鮮やかなブルーに袖を通してみて、少し――ほんの少しだけれど――影のチームとはいえ選ばれた七人のうちの一人なんだってことが、なかなか誇らしいような、妙にソワソワした気持ちにはなった。
山田がバックパックから取り出したのは自撮り棒。
「せっかくだから記念撮影させてくれないか」
「おれはいいよ、撮ってやるよ」
「弓倉も入るんだよ」
坂木に押されて渋々並ぶ。こういうの苦手なんだよなとしかめ面をしていると、隣のリョーマに脇腹を小突かれた。
「さっき、ユニフォーム広げてニヤけてただろ。あの顔で映ればいいんじゃねえの」
「ああん?!」
「はい、チーズ」
プロになったおれの経歴に、このチームの名前は載っていない。それでも、あのとき持てる力とプライドすべて全力でぶっ込んだって事実は揺るがないし、何も背負わなくていい場所で一人一人が好き勝手に何かを背負って闘っていた、そういうチームだった。
皆がそう思ってるかどうかは知らないけれど、未だにリョーマが、あの頃の弓倉はやたら尖っててなんて笑い話にする度に、短い時間の中で確かに共有していたことを思い出す。誰かがそうやって覚えている限り、公式記録に残ることもなく役目を終えたあのユニフォームも、少しは報われるんじゃないかって身勝手に思うよ。