雨音とキス。 外は大きな雨粒の音がする。先程までは軽い雨だったというのに、 窓を叩きつける重い雨音は窓もカーテンも通り越しばちばちと部屋に響き渡り、灯りのついていない部屋は少しずつ暗闇に包まれていき視界を奪われ、文字は読みずらいものとなっていた。
「だいぶ降ってきたな。」
リビングのソファで雑誌を眺めるルビー。その隣で本を読んでいたアクアは雨空を見上げぽつりとつぶやいた。その言葉を聞いて同じようにルビーも視線を空へ送ると眉尻をしゅんと下げる。
「えー、せっかくこの後おでかけしようと思っていたのにー。」
「出かけるって、どこに行こうと思っていたんだよ。」
「この雑誌に載っている新作ワンピ!かわいくない?!これが欲しかったのと、珍しくわたしもお兄ちゃんもオフの日だよ?こんな貴重な時間滅多にないんだからデートくらいしたかったな〜。」
きらきらと綺羅星が輝く紅玉の瞳と指をさされた雑誌のページを交互に見たアクアはちいさくため息をついた。
「一応俺たちは芸能人だ。あまり目立った行動は出来ない。」
「別にわたしとアクアは〝双子の兄妹〟なんだから一緒におでかけしててもおかしくないじゃん。」
「そうかもしれないがルビーは人気アイドルだろ。どちらにせよ外でファンに見つかれば追っかけが集まってきて買い物どころじゃなくなるぞ。」
「ちぇ、いじわる。」
小さな子供が拗ねたかのように意地らしくルビーはぷぅと頬を膨らませた。こっちを向いていないことをいい事にアクアはその横顔をじっと見つめながらパタンと本を閉じると目の前の机にそれを置く。
「…外に行かなくとも、部屋でゆっくり過ごせば良いだろ。」
いまも部屋にいるのは俺とルビーのふたりだけなのだから。とは口には出さないけれど。
「…〝お兄ちゃん〟とは何回もおでかけしたことあるけど〝せんせ〟とはまだ無かったから、行きたかったんだもん…。」
そう言ってルビーはそのままぼぅっと視線を窓の外へ再度移して目線を落とすと、ひとつの傘のなかで肩を寄せ笑い合うふたりの男女が視界に映った。こんな雨の日なのに楽しそうだなぁ…なんて思っているとその直後、傘の中のふたりは見つめ合い男が女の頭を引き寄せふたつの陰が重なり
「あ。」
と思わず声を漏らした。それにアクアは首を傾げる。
「どうした?」
「今ちゅーしてた。」
「は?」
「あそこにいるカップルがちゅーしてた!」
きゃーっと小さな声を出しほんのり頬を赤く染めたルビーが振り向くとふたりの視線が絡んだ。すると染まる頬につられたのか少し照れくさそうにアクアがふいと反射的に目を逸らす。
「…そんなの、いちいち反応することじゃないだろ。」
そう言って気を紛らわすかのようにして机の上に置いた本を取ろうと手を伸ばし始める。その反応を見たルビーは、どうやら少しは意識してくれているのかと嬉しくなり、そんなアクアをからかいたくて、
「わたしたちもしてみる?せんせ。」
と、言ってぐいっと顔を近づけた。
「は?何を。」
「なにをって、きす……いだっ!」
冗談交じりに笑いながら言うとすぐパチンと軽く叩きつける音と共に額にほんの僅かな痛みと衝撃が走った。アクアがデコピンをしてきたのだ。それを理解するとルビーは「いったーい!」と両手で額を抑えた。
「大人をからかうな。まったく。」
「もぅ!ひどいよお兄ちゃん!それにお兄ちゃんだってわたしと同じ年齢なんだからまだ大人じゃないでしょ!」
「それでも中身は三十路のおっさんだ
。」
ポーカーフェイスを保つアクアにムッと口を尖らせていたのだがよく見ると目の前の耳はいつもよりほんのりと赤くなっていることに気づいた。
…あれあれ?
もしかしてせんせ、思ってたよりも意識してる?
ルビーは思わず口元をゆるませると少し誘いかけてみようかと紅玉の瞳が弧を描く。
「…からかってないって言ったら、してくれるの?せんせ。」
目の前の瞳孔がきゅうっと縮まる。ルビーの言葉に驚いているのだろう。
どうせここで上手にはぐらかしてわたしのこと子供扱いするんでしょ。そしたら、せんせ、耳が赤いよ。って言って笑ってやるんだ。
口元と目元の笑みをキープしたままに表情を保っているとアクアの反応はルビーが予想していたものとは違っていた。まず、アクアの手によってもう一度机から浮いていた本が置かれる。大きな雨音は、じぶんたちの声すらも飲み込んで近くにいるお互いの声を聞こえずらくしているというのに、トン…と本を置く音がやけに大きく感じて思わず息を飲んだルビーの笑みがすぅっと静かに消えた。呆然とした表情になるといつにも増して真剣な顔をしたアクアが真っ直ぐにこちらを見つめている。
「本当に、良いのか?」
穏やかだけど何処か甘く、囁きかけるようなテノールが鼓膜を震わせ滲んで溶ける。見つめ返すと蒼色の瞳に射止められて目を逸らすことも息をすることもままならなかった。
その精魂、初めて恋に焦がれた男たれど器は自分と同じ髪の色、肌の色、瓜二つの顔。双子だから当然のこと。
長年見慣れてきた顔だというのに恋慕の感情が交わるだけで目の前の男の顔が艶めいて映りルビーの頬がみるみる赤く染め上げられた。それでもアクアは前のめりに距離を少しずつ縮めてくる。
「えっと、その、」
上手く言葉が出てこない。部屋はしん…と静まり返ってる。聞こえてくるのは、ザアザアと室内に響く規則的な雨音だけ。
先程は逸らされた視線も今度はルビーが逸らそうとすると大きな手がルビーの頬を包んでそっとアクアへ向かされた。
「こっち向けよ。俺の目を見ろ。」
「ひょぇ…っ、」
目が合った。部屋はどんよりと薄暗いはずなのに目の前の綺羅星がいつにも増してぎらぎらと輝いている。まるで、目の前の獲物を欲する獣のような瞳で。
するとこちらを向かせた手のひらが頬から離れて今度はアクアの両手がルビーの両手首を掴んだ。逃がさないつもりだろうか。
「…で?返事は?」
「え?」
「本当にしていいのか聞いてるんだけど。」
手首を握る力が少しつよくなる。
「なにを…」
「キス。」
その言葉に心臓が大きく跳ねた。息が乱れてはくはく言っている、胸もドキドキ言っている。どうしてこんな時に限って言葉が出てこないのだろう。どうして大好きな人に見つめられているのに今すぐ逃げ出したくなるのだろう。それはきっと、心臓がいつにも増しておおきく脈を打つものだから、あまりの激しさにこのまま停止してしまうのではないかという不安に駆られたから。けれど手首は強い男の力に掴まれ自由は奪われている。逃げ出すことはきっと出来ない。いっそのこと雨がやんでくれたのならば「雨、やんだね〜…」なんて言って話を逸らすことが出来たのに。どんなに心の中で望んでも無慈悲な雨は更なる強さで降り続いていた。それならば。と、観念したかのように
「冗談にきまってるでしょ、せん…」
といつもの調子で言い返そうとすると、ルビーの唇に柔らかな感触と仄かな温もりが触れた。一瞬なのにそれがやけに長く感じて、サアアアア…という雨音をほんの少し遠くに聞く間、頭のなかの考えが全て雨水に流されたかのように思考が停止し、ルビーのなかで時が止まった。その感触が離れると、たった一言。
「したからな。」
とだけ言った。
「な…な…え?おに…ちゃ…?せん、せ…?」
突然の出来事に口をぱくぱくさせているとアクアはソファから立ち上がり掴んだままの手首をぐいと引いてルビーを同じく立たせた。そして、
「言っとくけど。」
「ぴぇ?!」
こつんと額同士をつけられる。
「先に煽ったのはルビーの方だからな。」
先程よりも熱を帯びた蒼色の瞳が覗き込んだ。
「う…うあああああっ!」
至近距離で見つめられ先程のキスを思い出したルビーが腕を振って離れようとするも掴まれた手首は振り解けないしビクともしない。胸の鼓動が物凄く速い。速すぎて苦しい。すると両手首の拘束は解け、開放された右手がすぐアクアの左手に絡み取られてぎゅっと強く握られた。
「暴れんな。これ以上は何もしない。」
「こ、こここれ以上?!せんせ、これ以上ってなに?!」
「教えない。」
そう言うとアクアはルビーの左手首をもう一度掴んでじぶんの胸へその掌を押し当てた。丁度心臓の辺りに触れているルビーの掌にどくん、どくんと心臓が大きく動いているのを感じると外の雨音が次第にちいさくなっていく感覚と共にアクアの心音がおおきくなっていくのを感じた。この鼓動を確認しろとでも言うかように、手首は掴まれ固定されたまま動かない。
「…せんせ、めちゃくちゃどきどきいってる。」
「……そんなの、当たり前だろ。」
当たり前?その言葉に大きな期待を膨らませる。
「…どうして…当たり前なの?せんせは…わたしのこと、すき?」
潤んだ紅玉が見上げる。
穢れを知ることの無い澄み切った瞳が。
その美しさに引き寄せられるようにアクアがもう一度体を屈して顔を近づけると「…せんせ?」とぽつりと呟いた声にはっと我に返って慌てて体を離した。
「…そろそろ、出かけるか。」
視線を少し逸らして口元に手を当てながらアクアが言う。ルビーはきょとんと丸い目で見つめたまま首を傾げた。
「でかけるって、どこに?」
「ワンピース、買いに行くんだろ?付き合う。」
「外、まだ降ってるよ。」
「せっかくの休日なのに家でじっとしているのも退屈だろ。」
…それに、このままふたりきりでいたら歯止めが聞かなくなりそうだから…とは、言えないけれど。
窓の外を見ると先程よりは雨足は落ち着いたが雨は未だにしとしとと降り続いていた。アクアが一旦自室へ消えて、ダークブラウンのオーバーサイズシャツとホワイトカラーの細身のパンツに着替え戻ってくると、言葉の通り出かけるのだと理解したルビーはぱぁっと顔色が明るくなってパタパタと踵を返して自室へ向かう。しばらくすると髪は緩く左右で三つ編みにし、ワインカラーの薄手のハイネックニットに黒のジャンパースカート姿で出てきた。
「時間かかると思っていたけど、思ったより準備が早いな。」
「今日はお出かけする満々だったからメイクは少ししていたの。」
「どうりでいつもより可愛いはずだ。」
「…ちょ!せんせ、不意打ちのかわいいはだめ!」
頬紅がついた頬が更に赤くなるとアクアはふっと笑ってルビーの手をぐいっと引いた。
おおきな歩幅に合わせるようにルビーは少し早い歩調でアクアに手を引かれるままついていく。
玄関で口元緩めて嬉しそうな顔をしたルビーがブーツを履いて、扉を開いたときだった。
「ああ、そうだ…なぁ、さりな。」
「…へ?」
突然、聞きなれた声にじぶんの懐かしい名を初めて呼び捨てで呼ばれ、思わず腑抜けた声をあげたルビーが見上げると、少し眉尻を顰めたアクアがこちらを見つめていた。
「さっきの言葉、俺以外の男に言ったら駄目からな。」
そう言われてルビーは首を傾げた。
「さっきのって?」
問いかけると、持ち手が本革仕様の質のいい傘が開かれ、それと同時にもう一度端正な顔が近づいてくる。思わずルビーの肩が竦む、傘に遮断されて外からはふたりの様子は見えはしない。けれどあと数センチでもう一度唇同士が触れそうになったときにアクアはぴたりと動きをとめた。
「キス、しても良いなんて軽々しく他のやつに絶対に言うな。」
その言葉にルビーは先程のキスを思い出して思わずアクアの肩をぽかぽかと二度叩いた。
「い、言うわけないでしょ!言うのは、せんせだけだし、それに、せんせ以外の男とキスなんかしたくないし…」
「それなら、いい。」
そう言ってまた至近距離。しばらくそのまま見つめあって、何も言えずにルビーがこくりと頷くと、ふ…とアクアが笑った。
「俺はいつでもお前にそういうことがしたいと思ってるから、覚えておけ。」
ルビーの顔がまた赤くなる。ぴちゃんと水溜まりが跳ねて、それと同時にもう一度恋におちる音がした。
◆
「さっきからずっと外を見ているが、そんなに雨が好きなのか?」
背後から声がする。
優しい口調の、心地良いテノールが。
振り返らず、ベッドの上でシーツにくるまったまま横目で見ると蜂蜜色の前髪がやわらかく揺れて蒼色の瞳がこちらを見つめていた。
「おはよう、ルビー。起きてたんだな。」
「…おはよ。アクア。」
と、返してまた窓を見る。空は無数の雨粒が降り注ぎ、薄暗い世界が広がっていた。
「なんだよ、拗ねているのか?」
からかい口調で笑う声。それに続き布擦れの音がするとベッドがぎしりと僅かに軋み、アクアがルビーに近付いてきた。
「…雨はきらい。おでかけできないんだもん。」
ずっと見つめる窓の外では、止む事のない雨が降り続いている。ルビーがシーツをぎゅうっと握りしめるとそのちいさな背中をシーツごとアクアがそっと抱きしめた。
「俺は雨、嫌いじゃないぞ。」
「どうして?」
「雨は時に、良い思い出を刻んでくれることもある。」
アクアがそう言うと、抱きしめる力が強くなった。それに続いて生まれるのは温もり。そしてルビーのココロに映されたのは、はじめて口付けを交わしたあの日の光景。
「わたしの初めてをうばった日のこと?」
「おい、誤解を招く様な言い方をするな。」
「だって、アクアが急に…」
と、首だけ振り返ると、ちゅ、と音を立てて唇にキスを落とされる。
「俺が、なに?」
瞳を覗き込まれて、アクアに囁くように問いかけられるとルビーの顔がみるみる赤くなる。
「な、な…アクアのばか!急にちゅーしないでよ!」
「良いだろ別に減るもんじゃないし。」
「わたしの心臓が持たないの!」
「もう何回もしているのに未だに慣れないのかよ。」
「慣れない!はなして!」
「いやだね。」
真っ赤になったルビーがアクアの腕の中でもがいて抜け出そうとするにも抜け出せない。観念して大人しくすると、アクアが耳朶に唇を寄せた。
「離したくない。」
…ああ、ずるい。
昔はわたしがせんせに好き好き言って困らせていたのに、今では形勢逆転しているじゃないか。
赤い顔を見られたくなくて、今度は意地でも振り向かないでいると。
「愛してる。」
愛しげに囁かれて、耳から入ったその言葉に心を揺すられる。
「…それはずるいよ、せんせ。」
振り向くと、甘く濡れた蒼色の瞳が緩く弧を描いて、そのままゆっくりとからだを離してルビーを包んでいたシーツを剥いだ。大きな両手が肩を掴み、自然とからだをアクアの方へ向くようにと誘導される。
「だから、言っただろう。俺はいつでもお前にそういうことがしたいって。」
告げられた直後に唇が塞がれるとサアアアア…と雨の音を遠くに聞きながらルビーはそっと瞼をとじた。
雨はまだ、上がらない。
雨音とキス。END