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    ue_no_yuka

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    奥原氏物語 前編

    ようみつシリーズ番外編。花雫家の先祖の話。平安末期過去編。皆さんの理解の程度と需要によっては書きますと言いましたが、現時点で唯一の読者まつおさんが是非読みたいと言ってくださったので書きました。いらない人は読まなくていいです。

    月と鶺鴒 いつか罰が当たるだろう。そう思いながら少女は生きていた。

    四人兄弟の三番目に生まれ、兄のように家を守る必要も無く、姉のように十で厄介払いのように嫁に出されることもなく、末の子のように食い扶持を減らすために川に捨てられることもなかった。ただ農民の子らしく農業に勤しみ、家族の団欒で適当に笑って過ごしていればそれでよかった。あとは、薪を拾いに山に行ったついでに、水を汲みに井戸に行ったついでに、洗濯を干したついでに、その辺の地面にその辺に落ちていた木の棒で絵が描ければそれで満足だった。自分だけこんなに楽に生きていて、いつか罰が当たるだろう。そう思いながら少女は生きていた。

    少女が十二の頃、大飢饉が起こり家族は皆死に絶えたが、少女一人だけが生き長らえた。しかし、やがて僅かな食べ物もつき、追い打ちをかけるように大寒波がやってきた。ここまで生き残り、飢えに苦しんだ時間が単楽的なこの人生への罰だったのだ。だがそれももういいだろう。少女はそう思い、冬の冷たい川に身を投げた。

    しかし、そこへ通りかかった領主の妻に見つかり、川から引き上げられて、領主の住まう屋敷に連れて行かれた。屋敷で少女は湯浴みをさせられ、重湯を飲まされ、暖かい火桶の傍で、触れたこともないほど柔らかい布団に寝かされた。領主の妻・鶯姫おうひめは、困惑する少女の頭を優しく撫で、慈愛に満ちた眼差しで微笑んだ。そんな鶯姫の優しさに、少女の目から熱い雫が溢れ出た。飢えに苦しみ死に絶えることが己に対する罰なのだと受け入れつつも、少女は心のどこかで、まだ生きたいと思っていたのだった。暖かい布団をぎゅっと握りしめながら少女は思った。いつか罰が当たるだろう。


    「奥方様、こちらでいかがでございましょう。」
    少女が差し出した絵を見て、鶯姫は目を見開いて嬉しそうに微笑んだ。
    「まぁ素敵!色鮮やかで美しい…あなたは本当に絵が上手ね!」
    少女は両手を床につけて深深と頭を下げながら言った。
    「奥方様がご用意された画材が非常に上等なものでした故、私ごときの技術でもここまでに仕上がったのでございます。」
    「いいえ、私は絵が好きで集めているけれど、ここまでのものはなかなかありません。あなたの絵は素晴らしいわ!」
    鶯姫に褒めちぎられて、少女は心做しか嬉しそうに頬を染めた。

    少女は鶯姫に拾われてから、領主の屋敷で侍女として働くようになった。
    ある日、屋敷の部屋が多すぎて洗濯物を届けるのに分からなくなって大変だと、同じ侍女達が洗い場で不満をこぼしていた。それを聞いた少女は、木簡に様々な花を描いて、それぞれの部屋の入口の隅に吊るし、洗濯物に同じ絵柄の木片を置くことで、分かりやすくしてみせた。すると少女の描いた絵は、侍女達だけでなく、領主の妻達や屋敷を出入りする位の高い人々に大層気に入られた。特に絵を好んで集めていた鶯姫はとても喜んで、度々少女を自室に招いては、絵を描かせるようになった。

    楽しげに絵を眺めている鶯姫を見ていたその時、ふと少女は襖の間からこちらを覗く視線に気が付いた。襖から覗いていた人物は、少女と目が合うと大きな鶸色の瞳を瞬かせた。それは、領主と鶯姫の息子である月の君だった。月の君は次期領主として蝶よ花よと育てられている幼い若君だった。鶯姫は月の君に気付くと、嬉しそうに微笑んで手をこまねいた。
    「そんなところで見ていないで、こちらへいらっしゃい。」
    すると、月の君も嬉しそうににこりと笑って、勢いよく襖を開けて、母親に駆け寄った。
    「母上!また絵を見ておられたのですか?」
    「ええ。ほら、ごらんなさい。これはそこにいる子が描いたのですよ。」
    鶯姫は少女の描いた絵を月の君に見せた。月の君は驚いたように目を丸くして、その絵をまじまじと見つめた。
    「お前がこれを描いたのか?…すごい…!」
    月の君は絵と少女を交互に見て、感心した様子で言った。少女は再び手を床につき、頭を低くして深々と礼をした。 月の君は少女に駆け寄って顔を覗き込むと、にこりと笑った。少女は初めて人から至近距離で向けられた笑顔に驚いて目を見開いた。
    「お前、名はなんと申す?」
    月の君は大きな瞳で少女を見つめて尋ねた。そんな若君に、鶯姫は諭すように言った。
    「これこれ、女性に名を聞くものではありませんよ。でもそうね…こうして絵を描いてもらっているのだし、何か呼び名が欲しいわね…」
    その言葉に少女は慌てて再び頭を低くして言った。
    「滅相でございます。私は下賎な生まれ故、名など贅沢が過ぎます。」
    通常、平民で名を持つのは家督を継ぐ男子のみ。女は名を持たなかった。女は一家の財の一部でしかなく、個人を区別する必要は無かったのだ。
    しかし月の君は、顎に手を当てて少女を頭のてっぺんから指の先まで見たあと、嬉しそうに言った。
    鶺鴒せきれいはどうだろう?母上」
    そんな月の君に、鶯姫も笑みを浮かべて言った。
    「鶺鴒…素敵ね!でもどうして鶺鴒が良いと思ったのです?」
    月の君はふふんと鼻を鳴らして、得意げな表情で、少女を指さして言った。
    「だってこやつ、こまいでしょう!」
    少女は目を瞬かせた。月の君は少女より二つ歳下で、まだ背も低かった。そんな若君にそう言われて、少女は少しばかり角が出る思いがした。
    「うふふ、確かにそうね!小さくて可愛いあなたにピッタリかしらね!」
    鶯姫にもそう言われ、少女は嬉しいような嬉しくないような、ぶどう半分いちじく半分の顔をした。そんな少女を見ながら得意げにカカと笑う月の君を、ほんの少し睨みつけつつ少女は、家族と暮らしていた頃のことを思い出した。草木にも獣にも虫にすら名があるというのに、少女には名が無かった。それはまるで生ける命に価値を与えず、ほとんど芽生えぬ間にその自我こころを圧し殺すものだった。少女は日々を過ごす中でふとした時に、その現実にしずかに憤り、その度虚しさに包まれていた。
    「鶺鴒」初めて得た自分の名を胸の内で反芻して、少女は小さく笑みをこぼした。



    少女、改め鶺鴒に名をつけてからというもの、月の君は鶺鴒が洗濯をしていれば、その周りをぐるぐると歩き回りながらしきりに話しかけ、乾いた物を各々の褥に運ぶ時も、手伝うわけでもなくにこにことしながら後ろを着い歩き、鶺鴒が鶯姫に呼ばれて絵を描きに行くと、決まって必ずそこに居た。月の君は、異母兄とは九つ、異母弟とは六つ歳が離れていて、歳の近い遊び相手がおらず、鶺鴒がやってくるまではいつも一人で居たため、鶯姫も共に働く侍女達も、二人が共にいる光景を微笑ましく思っていた。しかし当の鶺鴒だけは、月の君が自分に対してそのように接することを、あまり快く思っていなかった。


    ある日鶺鴒は、侍女長に薪を拾いに行くよう言われ、屋敷の北にある山へやってきていた。鶺鴒は歳の割に小柄なため、屋敷で使っている背負子しょいこはどれも鶺鴒の背丈の半分ほどはあった。しかし、元々農民として過ごしていた鶺鴒は見かけによらず力があったので、たまにこうして薪を拾ったり割ったりなどの力仕事も任せられていた。
    鶺鴒は山の中を慣れた足取りで進んでいきながら、よく乾いていて形のいい薪を選び取っていた。しかし、屋敷からずっと後ろを着いてくるその人物に、ついに痺れを切らした鶺鴒は、表情を歪めその重い口を開いた。
    「……月の君。」
    「なんだ?」
    拾った小枝を振り回しながら鼻歌を歌っていた月の君はは、鶺鴒に呼びかけられて嬉しそうに返事をした。鶺鴒はげんなりとした表情で月の君に振り返って言った。
    「…無礼を承知で、申し上げても宜しいでしょうか。」
    「?良いぞ。」
    月の君は大きな目をぱちぱちしながら首を傾げていた。鶺鴒は俯いて小さく息を吐くと、もう一度月の君を見て言った。
    「…月の君がこうも常に近くにいらっしゃると、私のような下賎の者は気がすり減ってしまって仕事が手に付きませぬ。」
    鶺鴒の言葉に月の君は、なんだそんなことかと言ってにこりと笑った。
    「そう気を張らずとも良い。私たちは歳も近いのだ。二人きりの時は友のように、楽に接してくれ。」
    「それはできませぬ。」
    間髪入れずに真顔でそう返した鶺鴒に、月の君は不満げに頬を膨らませた。
    「何故?私が良いと言っているのに。」
    鶺鴒は目を逸らして僅かに溜息をつきながら言った。
    「貴方様と私は全く違うからです。」
    「?それはそうだろう。私とお前は別の人間だから違うのは当たり前だ。」
    なおも首を傾げている月の君に、鶺鴒は些か眉をひそめた。このやんごとなきお方は、卑しい自分をからかって戯れられているだけなのか。それとも本気でそう思っていらっしゃるのか。前者ならまだしも、後者ならよほどタチが悪い。もうすぐ十になるのだから、幼子でもあられまいに、世間知らずも大概にして頂きたい。
    鶺鴒は僅かに眉間のしわを濃くして言った。
    「貴方様と私とでは生まれながらにその命の価値が違うのです。お戯れは程々になさって下さい。」
    月の君は鶺鴒の言葉に、しばらく目を見開いたまま固まっていたが、やがて再び首を傾げて言った。
    「鶺鴒、何を言っている?よく分からないぞ。」
    鶺鴒はぐっと喉の奥に出かかったものを堪えた。月の君はいつもと変わらない鶸色の大きな瞳で鶺鴒を見つめていた。鶺鴒は思わず表情を引き攣らせた。
    ああ、この方は本当に分かっておられないのだ。自らと目の前の薄汚い小娘を同じ生き物だと本気で思っておられる。地に伏して見上げる天の雲はこんなにも遠いというのに、天上から見下ろす汚れた大地が同じはずがない。このお方が自分の見様を理解できぬように、自分がこのお方を理解できることもないのだ。
    鶺鴒は勢いよく月の君に背を向けると、背負子の両肩紐をぐっと握って言った。
    「…っとにかく、私のような者にこれ以上関わらぬ方がよろしいかと…!」
    何か言おうとした月の君をよそに、鶺鴒は俯いたまま、林の奥に向かって走り出した。

    主に背を向けて走り去るなど、無礼極まりないことは鶺鴒自身も重々分かっていた。しかし鶺鴒にはもう我慢ならなかった。これ以上月の君と共にいて、あのように親しげされては、この身に一体どんな罰が下ってしまうのだろう。いち農民の一家の次女として平凡に育ち、集落で唯一飢え死にを逃れ、自害しようとするも権力者に拾われ、侍女として何不自由ない生活を手に入れ、ついには領主の若君に友になろうと言われ…。鶺鴒にはもう耐えられなかった。もう消えて無くなってしまいたかった。身に余る幸福が、幼い少女は心底恐ろしかったのだ。

    それなりに走ったかと鶺鴒が背後に視線を向けると、なんと月の君は鶺鴒の後を追いかけてきていた。鶺鴒は驚き、走る速度を速めた。月の君は鶺鴒を追いかけながら、困惑した表情で尋ねた。
    「おい!何故逃げる!?」
    「月の君が追って来られるからでしょう!」
    そう言った鶺鴒の声色からは、確かな苛立ちが感じられた。
    「それはお前が逃げるからだろう!」
    更に足を速める鶺鴒に、だんだんに月の君もムキになって、二人は互いに負けじと走り続けた。




    だいぶ走った頃、突然鶺鴒が立ち止まった。鶺鴒が走るのをやめたので、月の君も速度を落として、呼吸を整えながらゆっくりと鶺鴒に近付いた。鶺鴒は、はぁはぁと息を切らしながら辺りを見回した。気付けば二人は山の奥深くまで入り込んでしまっていた。真っ赤な日はたちどころに西の山の端へと沈んでいき、周囲は闇に包まれてほとんど見えなくなってしまった。鶺鴒はさあっと血の気が引く思いがした。早打つ心臓が耳の横にあるかのようにドクドクと大きく鳴り響いた。深い森の中の暗闇も恐ろしかったが、それよりも何より、月の君をこんな所まで連れてきてしまったことに酷く焦りを感じていた。こう暗くては帰り道も分からない。自分一人ならまだ何とかなったかもしれないし、もしくたばったとしても何も問題はなかったが、月の君も一緒となれば話は別だ。鶺鴒は目を見開いたまま頭を抱えた。すると、月の君は鶺鴒の横に並び立って優しく手を握った。
    「大丈夫だ鶺鴒。私がそばにおるから、怖がらなくともよい。」
    あなたがいることが一番問題なのだ。鶺鴒は暗闇の中であるのをいいことに、あからさまに顔を顰めた。しかし、手を振り払うなどという無礼な行動もできず、鶺鴒は黙って月の君に手を握られていた。

    二人は仄かな月明かりを頼りに元来た方向へ歩みを進めた。夜の森の中は想像に反して静けさとは対極だった。頭上や四方の草木の中から何かが蠢く音がしたり、何とも分からぬ獣や鳥の鳴き声がすると、鶺鴒の右手に触れる月の君の小さな左手がびくっと震えた。
    「はは…!夜の森というのも風情があって良いものだな!そうだ、夜狩なんかしたら楽しいかもしれぬぞ!」
    月の君は笑って気丈に振舞おうとしているが、その手は小さく震えていた。鶺鴒はそんな月の君の横顔を赤銅色の瞳で見つめた。
    いと高きこのお方も、自分と同じように夜の闇の中は恐ろしいのだ。自分と、同じように。
    鶺鴒がくすりと笑ったのを聞いて、月の君は驚いて鶺鴒を見た。鶺鴒は視線を落として小さく笑みを浮かべて言った。
    「月の君、泥水を飲んだことはございますか?」
    「?無いが…」
    鶺鴒の突然の問いかけに、月の君は闇に怯えながら答えた。
    「私達農民は、大飢饉の干ばつの際よく飲みました。さりさりとしていて口当たりはよくありませんが、砂より粒が小さくて飲みやすいのですよ。」
    月の君は立ち止まって、驚いた表情で鶺鴒を見た。言葉を失って立ち尽くす月の君の手を引いて、鶺鴒は歩みを止めず続けた。
    「口を開けて羽虫が入ってくるのを待ったことは?枯れ草の裏に着いた虫卵の味を知っておりますか?成虫は酸っぱいですが、卵は甘くて美味しいのです。朝から晩まで鍬を振って、軋む体を硬い床に横たえて死んだように眠り、また起きて同じことを繰り返すだけの日々をお過ごしになったことはありますか?」
    鶺鴒の問いかけに、月の君は何も言えず、呆然とした表情でただ唾を飲んだ。
    「私が先ほど申し上げたのはそういうことでございます。貴方様と私は本来交わることのない、交わることを許されない存在なのでございます。」
    その言葉を聞いた瞬間、月の君の表情が強ばった。月の君は繋がれた手を強く握りしめて鶺鴒を引き止めた。鶺鴒が少し驚いたように振り向くと、月の君は声を荒らげて言った。
    「…でも!今私とお前はこうして言葉を交わし、並び立って歩いているではないか!」
    月が分厚い雲の背から顔を出して、深い山奥で見つめ合った二人を照らした。月の君の、乱れた青鹿毛の前髪から覗く鮮やかな鶸色の瞳のなんとも言えぬ力強さに、鶺鴒は目を細めた。そしておもむろに口を開いた。
    「…私はいつかバチが当たるでしょう。私は身の丈に合わぬ幸運に恵まれすぎているのです。」
    鶺鴒の言葉を聞いた月の君は、呆気に取られたように目をぱちぱちと瞬いた。
    「…恵まれすぎている?」
    「はい。」
    「では……お前は私のことを嫌っているわけではないのか?」
    驚いた表情のままそう言う月の君に、鶺鴒は首を傾げて言った。
    「?下人が主に対して好きも嫌いもございませぬ。ただ忠義を尽くすだけにございます。…ですが、そうですね。私は貴方様のことを、月の君というお方を、好ましく思っております。」
    「!」
    それは鶺鴒が月の君に見せる初めての表情だった。いや、月の君どころか、今までただの一人も見た事のない表情だった。その言葉を口にした瞬間、鶺鴒はその小さな体があたたかいものに包まれ宙に浮かぶような、心地よい感覚がした。顔の筋が緩んで、頬から耳がじわりと熱くなった。月の君が目を見開いてじっとこちらを見ていることに気付いて、鶺鴒は咄嗟に口元を手の甲で隠して顔を背けた。
    「鶺鴒」
    名を呼ばれて月の君の方を見ると、月の君は先程よりもずっと近くにいた。鶺鴒は驚いて些か後退りした。月の君は鶺鴒の手を胸の前で握って、何かを心に決めた表情で鶺鴒を見つめると、おもむろに口を開いた。
    「もし、お前にバチが当たることがあったなら、私も共に受けよう。だから…」
    月の君がそう言いかけた瞬間、突然鶺鴒が月の君を引き寄せた。
    「危ない…!!」

    ザシュッと鈍い音がした。月の君は勢いよく鶺鴒の後方の地べたに倒れ込んだ。
    「ど、どうしたのだ、いきなり……」
    月の君は鶺鴒の方を見て、思わず音を立てて息を飲んだ。そこには信じられない光景が広がっていた。
    鶺鴒は月の君からは少し離れた場所で倒れ込んで、小さく呻き声をあげていた。おさえたその左目からはとめどなく赤が溢れ出していた。そして、先程まで二人が立っていた場所には、見たこともないほどの大きさの異形のものが二本足で立っていた。
    赤黒い肌に、逆立った長い頭髪、上下に伸びた鋭い牙、額に生えた一本の太い角、四本の腕のうち一本の、鋭く伸びた長い爪には赤が滴っていた。荒く息をしながら、口からは唾液が垂れている。そして、四つの黄ばんだまなこをぎょろぎょろと動かして二人を見た。その瞬間、月の君の全身を恐怖が抑えつけた。見開いた目を横へ向けて鶺鴒の方を見ると、鶺鴒は左目をおさえたまま動けずにいた。月の君は身体が石のように固まって、指一本も動かすことができなかった。助けを呼ぼうにも声が出ず、ただ口をはくはくと動かすことしかできない。そのうちにも異形のものは荒く息を吐きながらこちらに近付いてきていた。そして月の君の目の前まで来ると、鋭い牙を剥き出して唸り声をあげながら、四本の腕を大きく振り上げた。
    その瞬間、月の君の背後から、ギュルリと音を立てて一本の矢が飛んできて、異形のものの足を貫いた。異形のものは山中に響き渡るほど大きな叫び声を上げた。続いてもう二三本矢が飛んできて、二本は近くの地面に、一本は異形のものの太い腕に突き刺さった。
    「気を付けろ!若様に当たらぬようにな!」
    「若様!!ご無事ですか!?」
    矢の飛んできた方角から人の声が聞こえてきた。暗い森の中に松明の灯りが続々と現れた。異形のものはその灯りに四つのまなこを鈍く瞬かせて狼狽えた。低く唸り声をあげながら足に刺さった矢を抜くと、異形のものはよろめきながら闇の中へ消えていった。月の君は音を立てて勢いよく息を吐いた。月の君は今の今まで自分が息をしていなかったことに気付いて大きくむせ返った。そして四つん這いで鶺鴒に近寄った。
    「み、皆…!こっちだ…!」
    月の君はやっと出た声を振り絞って叫んだ。
    「若様!?若様のお声だ!!」
    屋敷に仕える武士や下男達が次々にやってきて、月の君達の周りに集まった。一人の下男が月の君に駆け寄って怪我がないか確認し始めた。月の君はそんな下男の手を遮って、取り乱した様子で言った。
    「私はよい…!それより鶺鴒が、やつに…血が……!」
    「あれは他のものに任せましょう。そんなことより若様にお怪我があっては大変です。お屋敷に戻りましょう。」
    下男は鶺鴒に一瞥することもなく言った。
    「でも、鶺鴒が…」
    「若様、あれはよいのです。さあお早く、私の背にお掴まり下さい。」
    「……」
    多くの武士や下男達に囲まれる月の君の傍らで、鶺鴒は一人、己の着物の袖を破いて左目を止血していた。下男は言葉を失っている月の君をおぶって素早くその場を後にした。下男の背に掴まった月の君は、血が滲むほど下唇を噛み締めて、下男の肩の着物を強く握りしめた。



    「よく吾子を守った!褒めて遣わす!」
    後日、鶺鴒は吟衡に呼ばれ、月の君を守った褒美として奥原邸での女房の位を授かった。女房とは下女の中でも特に直接主人達の身の回りの世話をする下女のことで、本来ならば鶺鴒のような農民上がりの人間は到底得ることのできない位だった。
    「滅相でございます。若様に仕える者として当然のことをしたまでです。」
    鶺鴒は深深と頭を下げた。左目に怪我を負った鶺鴒だったが、幸い眼球に傷は付かなかったため視力に問題は出なかった。しかし、その小さな顔の左側には一生消えることのないおぞましい爪痕が残った。女房の位を授かった鶺鴒の心中は、嬉しさというよりも、また過ぎた幸運に恵まれて、いつか下る罰がまた更に重くなった、という得も言えぬ思いで満ちていた。機嫌が良さそうに笑みを浮かべる吟衡の傍らで、月の君は暗い面持ちで沈黙したままだった。


    吟衡のいる間を後にして鶺鴒が廊下を歩いていると、背後から月の君が重々しい声色で声をかけた。
    「…鶺鴒…」
    呼びかけられて鶺鴒が振り返ると、月の君は俯いて立ち尽くしていた。
    「…すまない……」
    月の君の言葉に鶺鴒は呆れたように微笑むと、向き直って宥めるように言った。
    「何故そのように仰るのです?貴方様に大事無くて私は安心いたしました。」
    しかし月の君は寄せた眉間の皺を更に深くして、悔しそうに表情を歪めた。そして絞り出すように再び言った。
    「………すまない……」


    それから月の君は以前のように一日中鶺鴒と共にいることはなくなって、武芸と勉学に励むようになった。鶺鴒は些か寂しい思いがしたが、そう思ってしまった自分の頬を打った。これが本来あるべき関係なのだと、鶺鴒は強く己に言い聞かせた。
    そうして、四年の月日が流れていった。

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    月と鶺鴒 いつか罰が当たるだろう。そう思いながら少女は生きていた。

    四人兄弟の三番目に生まれ、兄のように家を守る必要も無く、姉のように十で厄介払いのように嫁に出されることもなく、末の子のように食い扶持を減らすために川に捨てられることもなかった。ただ農民の子らしく農業に勤しみ、家族の団欒で適当に笑って過ごしていればそれでよかった。あとは、薪を拾いに山に行ったついでに、水を汲みに井戸に行ったついでに、洗濯を干したついでに、その辺の地面にその辺に落ちていた木の棒で絵が描ければそれで満足だった。自分だけこんなに楽に生きていて、いつか罰が当たるだろう。そう思いながら少女は生きていた。

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