『開いた蓋を落としたら2つ一緒に割れて混ざる』「あ、」
パチンコ屋から聴こえてきた音楽に、月島がその主題歌となる作品をボソリと呟いた。
「……懐かしい。──と、あ〜……。すません。昔の記憶だけです」
今は行ってませんよ。
そう言う月島の笑顔はどこかここではない過去に意識が奪われて、少し、苦い顔をする。
苦さを誤魔化すように進行方向へ無理やり顔を向けて、貼り付けたような、俺に、気を使うような下手くそな笑顔を声色に乗せる月島に、体中を巡る血液が一気に沸騰して、そして急速に冷えた。
握った拳はきっと色を失ってるだろう。
「今日観る映画、たしか貴方がずっと公開するの待ってたシリーズ物ですよね。俺、観た事がなくて一応予習しとかなきゃって思っ、て!? ちょ、え、菊田さん!?」
そっちは反対方向ですよと叫ぶ月島の腕を引っ掴み、俺は自慢の長い脚を使ってズンズン歩く。
(とにかくここから離れねぇと)
どんなに名前を呼ばれようと、今は口を開けない。
(嗚呼。俺ァきっと今、人に見せられねぇような顔してンだな)
向かってくる人達から避けられ、幾分か歩きやすくなった繁華街を進み、菊田は大人の休憩所へと向かった。
◇
菊田の恋人である月島はダメ男ホイホイだ。
自他共に厳しいやつだが、一度懐に入れてしまえば情が生まれ、情が生まれたら相手が抜け出せないような絶妙な飴と鞭で甘やかし、大抵の事は自分が我慢すればいいと、面倒くさがりの悪いところを存分に発揮して、ダメ男達を更に腐敗させてしまう。
『俺、じょうずにヒトと付き合えないんですかね……』
デスマーチ明けの早朝に連れて行った大衆酒場で、ほろ酔い俯く月島のその表情にグッときた。
俺ならそんな想いさせねぇよと手を取ったことから始まった関係も、今を思えば随分とスマートではなかった。
伊達に色男だと囃されてはいない。
年上の先輩から受付の可愛い子ちゃんに、バーで合った未亡人。ぜんぶ、ぜんぶ、スマートに。でも、後腐れなくお互いキモチイイ関係を持てていた。
──なのに。
「……いい加減訳を話して下さい」
力を入れすぎて跡になった太い手首を擦り、怒った顔でこちらを睨む月島に、俺の心は乱れに乱されて振り回されている。
「……わるい」
「謝って欲しい訳じゃないです。な、ん、で、いきなりこんなとこ連れて来たのか聞いているんですが?」
こんなとこ、と言われても。
月島の顔を見ていられなくて、菊田はぐるりと狭い部屋内を見回す。
普段なら絶対使わないチープで狭いラブホテル。部屋の真ん中にはデカイだけのベッドに小さな冷蔵庫。おそらく隣へ続くドアはトイレと七色に光ったりする広めの風呂があるだろう。
そしてなにより、部屋の角にあるがその存在感をギラギラと示している──パチンコ台がデンッと備え付けられていた。
「まったく……。貴方とそういうことをするのはやぶさかではありませんが、もっと後でもよかったんじゃないですか? 映画……。楽しみにしてたじゃないですか」
「……」
何も言わない菊田の姿に、月島の怒りに上がった眉が心配から下がっていく。相向かいに座ったベッドの上で菊田の固く握りしめた手へ月島のカサついた手が重なる。
「飯もまだですから……。なにかルームサービス頼んで、最後の回、観に行きましょう?」
伺うように月島の手が蕾を解すように一本一本指を開かせて、菊田の手入れの行き届いた四角い爪を促すように優しく辿る。
『そうだな』
そう喉から出そうとした言葉は急に流れ始めたパチンコ台のメロディーに握り潰さた。
代わりに腹底から湧いた黒い澱に押し流されるように、菊田は無言のまま月島を組み敷いた。
「きくた、さん……?」
見下ろした視線の先、困ったように目をぱちくりする月島は可愛い。
坊主で豆タンクで鬼軍曹と名高い漢で低い鼻も小さな口も本気を出せば抵抗ぐらいは出来るのにしない絆されやすさも他の奴にはしない冷たい態度が本当は甘えてる証拠なのも狡い人だと笑う目が愛おしいと教えてくれる緑色も、全部、ぜんぶ、ゼンブ、可愛い。
──でも今は。
その可愛さを、自分以外も知っていて。自分以外のオトコが月島の中にあるという覆しようのない事実が、どうしようもなく耐えられない。
「……文句もビンタも後で全部受けるから。──今は俺だけを見てくンねえか」
「えっ、ン──!」
菊田は月島の口に噛み付いた。
これ以上自分の中の知らないナニカが口をついてしまわないように。
◇
「──で? 」
ショートタイムを超え、ステイになったのは言うまでもなく。
今から出ても映画の最終回には間に合わない。菊田は湯上りバスローブ一枚姿で床へ正座している。
普段上げている髪を下ろし項垂れる菊田の姿へ、月島はうつ伏せのまま掠れた声で問う。
加減などお構い無しに菊田自慢のビックマグナムで彼しか到達しえない最奥を責められ続けた代償は、嬌声を上げ続けて枯れた喉と今だ何か腹奥にいる感覚に力の入らない足腰である。
月島は伏せたままの体勢でじっと菊田が口を開くのを待つ。
「……お前さんが、」
「はい」
そう待たずして菊田は口を開いた。
普段の飄々とした態度からは想像もつかない歯切れの悪さだが、項垂れたまま話しだした言葉を、月島は一言も聞き逃さないよう名残り熱を含む息を鎮めて耳を傾ける。
「今まで、どんなヤツらと付き合っていようが俺には関係ない。今、俺と付き合ってる。その、事実が重要だ。ちゃんと、そうやって向き合ってたんだが、な……。なんでだろうなァ……。お前さんの中に他のヤツらの欠片が見えちまうとよ、年上の余裕とか、恋人としての優越感とか、そんなのぜ〜んぶ………。どっか行っちまう。こいつは“俺の”なんだ、お前らとの記憶なんざ“俺”が全部上書きしてやるよ、ってな……。──自分だって色んなヤツと付き合って遊んできて、てめぇだけが何を言う資格があるってンだか………」
菊田は長い溜息を吐き出し、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
そんな普段では考えられない姿の菊田から語られた内容に、月島はこのラブホテルに連れて来られた理由を察する。
(嗚呼、なんという──)
察して──鎮まりかけていた体の熱がぶわりと全身を駆け巡る。
つまり、こうだ。
老若男女関係なくモテてきて、頼れる兄であり上司であり、常に年上の男として余裕たっぷりリードしてきた大きくて広い器を持つ菊田が、この菊田が、月島によってそれら全てが崩れてしまうというのだ。
よくよく思い返してみる。
菊田と付き合ってから、今それをするのか? と何度となく疑問に感じていた。しかし今回のように抱き潰されるほどに実行されることはなかったが、とうとう枷が外れてしまったということか。
(そんなの……)
月島は湧き上がる歓びと興奮に口角があがる。浅く早くなる呼吸をなんとかなだめようと試みるも失敗して唇を舐める。
「杢太郎さん」
自己嫌悪なのか恥じらいなのか。低く唸り声をあげながら感情のままに髪を手でグシャグシャに乱す菊田へ月島が声をかける。
「俺、嬉しいです」
「……あんだって?」
月島の言葉にピタリと菊田の手が止まる。
項垂れた頭が持ち上がり、月島をさんざっぱら鳴かせた太い節を持つ指と指の隙間から、蒼色が月島を窺う。
嬉しい、とは。
言葉の意味が理解出来ず揺れる蒼。そんな蒼を、本当に嬉しいのだと喜色を瞬かせた緑が熱く見つめる。
「俺、貴方に甘えっぱなしで……。きっと無神経に貴方を傷つけてしまっていたんですよね。そこは本当に悪いと思います。でも……」
「でも……?」
言葉を区切る月島に、続きはなんだと手を退け、髪を乱したまま菊田が顔を上げる。
乱れた髪が少し情けなくて、でも可愛くて。
怠さと熱を孕んだ体を持ち上げ、月島はようやく顔を上げてくれた菊田へ手を伸ばした。
「俺のせいで貴方も知らない貴方を知る事が出来て嬉しいです」
跳ねた髪の一房を撫で付けて、月島は嬉しくて死んでしまいそうだなと微笑んだ。
「っ、あ~~~~~………」
そんな顔を見せられてしまったら。
菊田は天を仰ぐ。
そんな事をしても、自分より高い位置にいる月島からは情けなく呻く口元は見えているだろう。しかし彫りの深さには自信がある。恐らく見えていないだろう目で、行き場のない葛藤を左右に振ってどうにか体裁を整えようと足掻いてみる。が、しかし。
「……ダメだな」
しかしそう簡単に落ち着くわけがなく。
「悪い。俺もどうしていいか分かンねぇのよ。……とりあえず、そっち行っていいか?」
「もちろん」
自分の感情なのにどうにもならないとは初めての感覚だと、菊田は微笑みながら横にずれた月島の隣へ体を滑りこむ。
同じ目線になったことが嬉しいのか、月島が菊田の乱れた髪を何度も撫で付けて笑う。
「ふふ。かっこよくて余裕たっぷりな貴方の可愛い一面を知れました」
「……そうかよ」
とうとう拗ねだしてしまったか。
眉間に僅かに刻まれた皺を伸ばすように、人差し指でグイグイと押す。
拗ねているくせに好きにさせてくれる菊田に、結局自分は甘やかされているなと月島はこの人と付き合ってから自分の辞書の中にある自己抑制という文字が霞んできてるのではないかと思う。
今までは相手が離れていかないように、相手が求めているように、自分が我慢すればいいのだと、相手が気持ちいいように振舞ってきた。
その結果は──過去のヒモやクズを思い返して、うまくいかないものだなと月島は菊田の特徴的な顔の皺を指でなぞりながら苦笑する。
「おい」
「あ、」
痛い程握られた手首と不機嫌丸出しな蒼。
今さっき話したのに早速そっぽを向くのかと、責められる言われが有りすぎて申し訳がたたない。
「いい。分かった。俺がどんなにお前さんに惚れていて、今迄のヤツらなんざ微塵も思い出す気が無くなるようにしてやればいいんだよな」
「~~ッ」
地雷を踏み抜いた事には申し訳ないと思うがしかし、どうしてどうして、月島の体は歓喜に震えてしまうのか。
「覚悟しろよ?」
「貴方こそ」
噛み付くような口付けへ、月島は菊田の背へ爪を立てる事で応えた。