ある日、庚子は父に呼ばれた。
丙江が駆け落ちしたことで時貞は危機感を持ったようで、二度とこのようなことが起こらないようにと姉妹全員がきつく言いつけられた。
おそらくそれだけでは不安なので、監視役として許嫁を決められるのであろうと庚子は踏んでいた。
前世では何人かの候補が決められており、その中から選ぶように言われた。
…表面上は。
時貞は裏鬼道との関係をより強固にしたがっており、その長である長田と婚約することは半ば決定しているのと同じようなものだった。
そうして前世の庚子は長田と婚約した。彼が姉と想い合っていることを知りながら。
庚子が記憶を駆使して立場を作ろうとしてきたのも全てこの時のためだ。
たとえ仲良くなった孝三や丙江を見捨てることになってでも、庚子は長田とだけは結婚したくなかった。
前世で夫はほとんど家にはいなかった。会話さえ数えるほどしかしたことがなかった。記憶の中の彼はずっと恨めしそうに庚子のことを睨んでいた。
『だからって私にどうしろって言うのよ!』
あの頃を思い出して庚子は震える。庚子だって嫌だったのだ、ただでさえ立場が強く幼い頃から顔を合わせれば弁えろとばかり言ってきた姉。そんな姉の想い人と婚約などすればさらに当たりが強くなるであろうことなど容易に考えついた。それでもどうしようもなかった。ここは龍賀、時貞の言うことは絶対で、その上落ちこぼれの庚子などが歯向かうことなどどうして許されようか。
『大丈夫、大丈夫よ、今度はそんなことになったりしないわ、候補があったのだもの、違う人を選んだって許されるはずよ。』
そう言い聞かせるようにして心を落ち着かせる。
今世で幼い頃苛められていた長田を助けて以来、彼にはやたらと好かれているように思うが、その好意を信じてしまえるほどには庚子の心の傷は癒えていなかった。