OverTheRainbow with you①春の夕刻は甘みが強すぎて落ち着かない。
林檎飴みたいに真っ赤で透明な太陽が地面に落っこちる時、本日も最後のひと仕事とばかりに甘ったるいシロップの雫を盛大に撒き散らす。
世界を巻き添えにして。
空も、空気も、建物も、人も。
廊下に並ぶ窓越しに眺めた桜の木も、例に漏れず食紅を混ぜすぎたワタアメみたいに派手なピンクに染まっている。
俺も染まってしまえば楽になれるのかもしれないけど、この悪趣味な甘さは好みじゃない。心の端からじわじわと溶かされるような、そんな居心地の悪さが不安をあおる。
さざ波みたいに忍び寄る春の甘い気配を感じ、換気のために開かれた窓側を避けて教室のドアが並ぶ側の端を選んで歩く。ふわふわと優しい見せかけの世界によしよしと慰められて、甘いシロップの海にどっぷりと浸っている場合じゃないのだ、これからの俺は。
目をぎゅっとつむり、軽く頭を振って開く。
その日、俺は猛烈に悩んでた。色んな問題が揃いも揃ってテーブルの向こう側に並んで俺を問い詰めてくる。「どう、きみの意見は?」まさに面談みたいにな状況。相手は複数、こっちは一人。
正直お手上げ『あーあ』って気分だ。
カリスマの塊みたいな幼馴染がずっと側にいて、そいつだけを信じて、そいつの進む道を一緒に生きてきた。そいつに認められて必要とされるのが正しい生き方だと思ってた。周囲に流されるまま、自分で考える事をせずになんとなくここまで来たツケが今になって回ってきたのだ。
生徒指導室を背に誰もいない長い廊下を足早に歩く。
(どうすっかな。)
幼馴染の事、家族の事、チームの事、金の事、勉強の事。
全部どうにかしなきゃいけない。自分で考えて選択しなくちゃいけない。
『どう、君の意見は?』
「あーあ。」
ため息が声に出た。
あーあ、あーあ!
ため息ばかりの僕
さあ、さあ!
君が僕の手を引く
君が待つ 僕が待つ
over the rainbow with you
片方ずつ履いた銀の靴のかかと
三度打ち鳴らして
二人でなら行けるかな
此処じゃないどこかへ
芸能校出身の二人組ユニットの新曲、なんて曲名だっけ。耳に残った歌詞を口ずさみながらひとつ飛ばしに階段を降りる。
そんな二人になれると思ってた時もあった。二人でいれば無敵だと思った。だけど違った。
アイツが悪い訳じゃない、多分俺が悪い訳でも。
天井から吊るされた星の形のオブジェが風に揺られて、ミラーボールみたいにチカチカと鋭く光が踊る。ピンク色の世界に小さく無数の金色の穴があく。
「あーあ。」
最終下校時刻はとっくに過ぎていて、校内に生徒は残っていないはずだった。だから彼と出会ったのは奇跡的な偶然だ。
しかも、とびきりドラマチックなシーンの傍観者として。
物語は唐突に始まる。
放課後、人気のない廊下に保健室のドアからまろび出てきた生徒。
「待ってよ!」と言う声を振り切るように後ろ手でピシャンと引き戸を閉め、乱れた呼吸を整えるようにぎゅっと手で白いブレザーの胸元を押さえつける。
声の主は制止の声を掛けたわりに追いかけてくる気配はない。登場した彼はそれを知っているのか、ドアの前から動くこと無くしばらくじっと立ちつくしていた。
彼の呼吸音だけが静かな廊下に響く。
横顔にまとうグリーンアンバーの髪の毛が呼吸にあわせてふわふわと揺れ、その度に病的な程に白い頬が見え隠れする。
廊下に並んだ窓から強烈に差し込む西日が、うつむいた彼の影を黒く長く伸ばして、俺の足元まで届けた。
俺は立ち去る事も出来ずに、ピンク色の廊下に突っ立って、ただその様子を眺めている。何故なら俺の靴の置いてある生徒用玄関が保健室の先にあるからだ。
面倒だな、と思った。
なんだこのエロ漫画みたいなワンシーンは、とも。
だけど、なんとなく惹き付けられて目が離せなかった。
彼の事を知っている。本人に会うのは初めてだけど、SNSでも相当拡散されてたし、学校合併前は進学校の元生徒会長をやってた有名人だ。
(そんな優等生がねぇ?)
ネクタイは緩み、いつもはきっちり1番上まで留められているシャツのボタンが二つばかり外れて細い首と喉元が晒されていた。
保健医は、進学校から来た自称優しいお医者さんで胡散臭い笑顔が特徴の…なんだっけ?
見た目や外面は兎も角、いくつかきな臭い噂を耳にした事がある。
とにかく、そんな保健医絡みで揉めてそうな彼に関わるのはどう考えても得策じゃない。
あいつにとって不本意な展開になりかけたのかもしれないけど、現時点で危険な状況ではなさそうだし、助けは…多分不要。見なかった事にするのがお互いにとっての最適解だろう。
バイトの時間まで間に合うかギリギリだけど、奥の階段から回り込んで靴取りに行くしかねえな、とそろっと後退しようとしたところ、僅かに上履きのゴムがキュッと音を立てた。しまった、と思ったところで彼と目があった。
夕陽が沈みきる瞬間、最後の仕上げとばかりにライトの色が切り替わる。
ファウスト・ラウィーニア
背後から金色のスポットライトを浴びて、逆光にも関わらず彼のアメジストみたいな瞳が強烈な光を放った。
俺はその光に射抜かれたように決定的に動けなくなる。
「なに?」
低く唸るような凄味のある声は天使みたいな見た目に反してなかなか獰猛だ。お行儀が良いとは言えない界隈で育った俺でも怯む程に。
綺麗で畏ろしくて美しくて目が離せない。
「いえ、なんでも。」
声が震えた。でっかいストリートチームのNo.2とかいって持ち上げられてた癖にだせぇの。
「…そう。」
俺がそんな風に釘付けなのに、彼の視線はあっさりと俺から外れる。まるで初めから俺の存在なんて無かったみたいにに。歯牙にもかけられない。
ファウストはすっと背筋を伸ばすと、片手に持っていた鞄を肩にかけ直して俺に背を向けた。
凛として真っ直ぐで純白の制服の似合う清廉な背中。
このまま見送れば、何も始まらない代わりに何も起こらない。何も変わらない。
望むところなのに、なんか嫌だなって思う。
深入りはしたくない、でも放っておけない。
違うな、放っておいて欲しくなかったのは俺の方。やっぱり『誰か』が必要なのか。
ならば、その『誰か』はせめて自分で選びたい。
一歩踏み出す。ピカピカに磨きあげられた床が再びキュッと音を立てる。
今まで接点なんてまったく無かった、月とスッポン。高嶺の花。おまけに今見た光景はどう考えても面倒事でしかない、そんな相手なのに。
俺自身、今の今だって問題を抱えまくって圧死しそうな状態。だけど何故か勝手に俺の口は言葉を紡いでいた。
「あのさ!」
彼は立ち止まる。ここで無視を決め込んで醜聞を撒き散らかされる事を恐れたのかもしれない。んなガキくせぇ事しないけどさ。
「何?」
再びその視線が向けられると、緊張で掌にじんわり汗が浮かぶ。彼の顔を直視出来ずに、いつの間にかタイもボタンもきっちりとしめられて隙のない彼の胸元に視線をうろつかせる。自分から呼び止めておきながら何を話せばいいかわからなくて、真っ白な頭の中をかき回して話題を探す。そう、あれだ。ついさっきまで教師と生徒指導室で話し込んでた『あれ』があった。
「えっと…勉強。そう、勉強教えてくんない…ませんか?」
頑張れ俺の言語能力。
「は?」
思いっきり眉間に皺を寄せて睨みつけられる。ですよね。
「…ていうか君、誰?」
「ネロ。ネロ・ターナー。元不良校の二年。どうしても成績あげなきゃなんなくってさ。あんた頭良さそうだし頼むよ。」
パンと顔の前で両手をあわせて頭を下げる。
そりゃ頭いいだろうよ、進学校の成績トップの元生徒会長様だよ!
あわせた手の横からちらりとファウストの方をうかがい見る。ヤバい、不機嫌そうだ。
「なんで僕が。」
まあそうなるよな、いきなり赤の他人に勉強教えてくれって言われて「うん」とは言わないよな。
「…まぁ、いいけど。」
だよな、どう見てもまともに勉強しそうな奴には見えないよな。着崩した不良校の制服や、かかとを潰して履いた上履きを見て思う。っていうか俺はなんでこんな事初めて会った相手に頼んでるんだよ。こんな見た目だけど一応わりと人見知りなんだよ。
…ん?
「え、いいの?」
こいつ大丈夫か?意外とチョロいぞ。
「いいよ、その代わり僕とここで会った事は口外しないで。」
ファウストは愛想のかけらもなくそう言い放って踵を返した。今度こそ振り向かずにスタスタと歩き出す。
走ってファウストを追い抜くのも気まずいので、俺は立ち止まったまま背中を見送る。のろのろとケツポケからスマホを取り出し、バイト先の連絡先を眺めてため息をつく。バイトは遅刻確定、おまけに厄介な人間関係をまたひとつ抱え込んでしまった。
「あーあ。」
今日の俺はため息ばかりついている。『さあ!』って俺の手を引いてくれる奴はいないけど。
だけど、颯爽と去っていく華奢な背中がなんとも頼もしく格好よく見えたから不思議だ。彼なら魔法の銀の靴だって似合うだろう。
もしかしたら?って思っちまう。そんな都合の良い展開なんて無いだろうけど。
(そういや、連絡先聞かなかったな~。場所も時間も決めてねぇし。)
もし本当に縁があるのなら、なるようになるか。と頭の後ろをかきながらバイト先の番号を表示させ、通話ボタンを押す。
奇跡は一度ならず二度起きる。
それはもはや奇跡ではなく運命なのでは?
数週間後、中途半端な時期にやって来た転校生のおかげでファウストに再会する事になる。
学校きっての陽キャ達や不良校の生徒会長に引きずられるようにやって来た彼はあまりに場違いで驚いたけど。(約束通り、あの時の出会いは無かったことにして初対面のふりをした。)
流れでSNSのIDを交換する事になり、連絡を取れるようになった。
そんな風にして俺はファウストに勉強を教わるようになった。思いもよらぬ方向で勉強方面に関する悩みの突破口が見えたのは幸運だったかもしれない。ファウストにとっては弱味を握られたようなもので不運な出会いだっただろう。彼が表に出なくなった理由も理由だし、その点に関しては(そんな意図はなかったとしても)ちょっと申し訳ないと思ってる。