どろり星の無い真っ黒な夜空に、切り取ったような三日月が張り付いている。
ガス灯ひとつ無い道に、ざく、ざく、と砂利を踏む軍靴の足音だけが響いていた。いつもの帰宅する時に通らないが、この歩きにくくて暗い田舎道は私邸に続く一番の近道だ。鯉登はこの道が好きではなかった。しかしながら今日は務めが長引き、どっぷりと日が暮れてしまった故、早く帰って湯が浴びたい気持ちが勝り渋々歩いている。
ざく、ざく。
夜道に反響する足音だけが嫌に耳につく。
暫くして言い様のない違和感を覚えた。
鯉登は思い切って立ち止まり、周りを見渡す。
―……舐めるような、人の視線を感じる。
手元の燈籠を掲げてみた。しかしながら、田んぼと雑草が生えた空き地が薄ぼんやりと黒い切り絵のように広がっているだけだった。
ほっと胸を撫で下ろした、その時。
ぬるり
夏の終わりの温い風が一瞬、頬を撫でた。
それはまるで人の手で、指の腹で擽るような感触で。
鯉登は弾かれたように走り出した。
――最近、ひとりでいる時に限って視線を感じるのだ。幽霊の類は全く信じていないが、今まで生きてきた中でこうも気持ちが悪く感じるのは初めてである。勿論こんな子供じみた事を誰かに相談する事は出来なかった。
上官たるものが、幽霊に怯えるなど言えるはずがない。
早く、早く家に着きたい。
縺れそうになる足を必死に動かし、永遠にも思えた道をようやく抜けて私邸の門を潜ると、震える手で懐から取り出した鍵を穴に差し込み引き戸をこじ開けた。
「!、はぁ、はぁ…は……」
へなへなと土間にへたりこむ。
「………、疲れた…」
早く湯を浴びて酒を少し嗜んで寝よう。立ち上がろうと地面が視界に入り、目を剥いた。
ど
ろ
り
真っ黒な人影 だ
「っひ………!!」
勢い良く振り返り尻餅をついた。後ずさり上框に背中をぶつけ、鋭い痛みに唸るとゆっくり影が動く。
「…鯉登少尉殿?」
「……つ、月島…?」
はい、と影が頷く。よろけながら立ち上がった鯉登が恐る恐る引き戸を開けると、そこには怪訝な顔をした月島が立っていた。
「!、貴様!!紛らわしいぞ!」
「…何がです?それより鈍い音がしましたけど大丈夫ですか」
夜分遅くに申し訳ございません、どうしても確認したい事項がありまして。鯉登の心情も知らず淡々と続ける月島に、深い溜息をついた。
「…少尉殿?」
鯉登はもたれ掛かるように外套を羽織った月島の胸元をぎゅっと掴み、肩に額をつけた。
「話は朝聞く、今日はもうよか…外泊許可は明日おいが取っ。……だから」
今夜は泊まっていけ。囁くくらいの小さい声で情けない願いをしてしまうほどに鯉登は憔悴していた。
上官に話をしに来ただけなのに泊まっていけと言われて、眉間に皺が寄っていそうだな。訝しげな表情の月島が目に浮かんでより深い溜息が出る。
鯉登は月島の胸元から手を離して縋るよう二の腕に手を添えた。もう嫌な視線は感じない。もし何かあっても、立派な成人なのに恥ずかしいが、月島がいるから安心だ。
「…はぁ、分かりました」
「一緒の寝室でよか?………訳は聞くな」
しかし月島は、怪訝な顔などしていなかった。
むしろ常時下がっている口角が、今夜の三日月のように上がっている事にも。
同じ道から来たのに何故か月島の気配すらしなかった事にも。
安堵から目を瞑っている鯉登は気づかない。
気づかなくていい。
「はい、少尉殿。」