ファーストフラッシュ「捨てるのか!?」
その日アジラフェルは地上に残って古書店を守っている書記官としばらくぶりに話をしていた。
二人の間には湯気のたつティーカップが置かれ、アジラフェルはこれまた久しぶりのダージリンティーの香りを舌に乗せてしみじみとため息をついた。ムリエルは相変わらず「私は紅茶は見る専門なので」と手をつけようとしなかったが、どうやら本当に彼女は紅茶をただ見るのが気に入ったようだった。それ自体は問題ない。話を終えて「ご馳走さま」とソファを立つとムリエルが手付かずの紅茶の入ったカップをシンクに持っていき、そのままひっくり返そうとしたのだ。思わず止めると、彼女はびっくりしたようすで「ええ、だって、これはもう見終わったから……」などと言う。
「勿体ない。いただくよ」
冷めてぬるくなった紅茶をすすりながら、こちらをじっと見ている書記官が一体「紅茶をただ見る」という行為の何がそんなに気に入ったのか不思議に思った。まだ上へ戻るには時間に余裕がある。
「君は……見るのが楽しいんだね、お茶を」
「はい! 熱くて煙が出てる時が特に楽しいです、手に持ってるだけでなんだかいい気分で……あと、不思議な……周りの空気がそこだけ……変わる?」
「香りのことかな? 香りはわかるの?」
ムリエルはこくりと頷き、「そう、匂い? 空気? 天国でも地獄でもない、外にもないものがあるのを感じるんです」と楽しげに笑う。
ふむ、と少し考えてからアジラフェルは「こっちにおいで」と彼女をキッチン奥の戸棚の前に招いた。
「たしかここに……ああ、あった」
アジラフェルが取り出したのは店のキッチンにそのままにしていたマスカットのフレーバーティーだった。小さな金色の缶の細工に惹かれて春に買ったのを置いていってしまったのだ。
「これはもっといい香りがするよ。淹れてあげよう」
お湯を沸かして手ずから温めたポットに茶葉を計り入れる。(ポットのお湯を捨てる時にムリエルが、そのお湯は捨てていいの? と言いたげな顔をした)とくとくとポットから茶葉の上にお湯を注ぐのをムリエルはじっと見ている。飲むために淹れるお茶を作る所を見るのがきっと初めてなのだ。
「さあ、どうぞ」
カップにマスカットティーを注いであげるとムリエルは人間の女の子みたいに「とってもきれい!」とはしゃいだ。
「なんだか私の作ったのと全然違うみたいです。色も、あと……ああ! 空気、匂いも!」
全然違う茶葉なのだからなにもかも違うのは当然なのだが、地球に来てまだ日が浅い彼女が感動するのもよくわかった。微笑ましく思いながらカップに口をつける。本物の果実よりも濃く甘い香りが喉を滑り落ちてじわりと胃の腑に染み渡る。ふと顔をあげるとムリエルが、紅茶ではなくアジラフェルの方をじっと見つめていた。
「…………飲んでみる?」
「えっ?」
考えもしなかった、という反応ではなかった。実際、目の前でお茶を口に含んで飲み下す天使を見て、どんなだろうと想像しただろう。期待と困惑が大きな瞳の中にちらついている。
「あ、でも……」
「こう考えたらどうだろう? お茶を飲むんじゃなくて、この香りを……体の中に入れてみたくない? 」
手の中のカップを先程までとはまるで違うまなざしでとらえながら「香りを……」とムリエルが呟く。微かに釈明の響きがあった。
「見るよりもずっといいよ。香りほど甘くもないし、温度もちょうどいい」
熱いものを口に入れると痛みがあるということも彼女は知らないだろう。けれど小さく頷いて、ぎこちなくカップに唇をつける。
奇妙なデジャブが胸の内に湧き上がる。正体にはすぐ気がついたが、考えないようにした。
ああ……と声にならない吐息を抑え込むように口を覆って震える彼女に昔の自分が重なった。
知っている。自分がたったさっきまで嫌悪し、遠ざけてきたものに甘く押し入られる痺れるような悦び。どうしてと目の前の男に問いただしたい気持ちが一瞬湧き上がって消える。欲望に火がつく。それどころではなくなってしまう。
……私も彼の前でこんな顔をしていたのだろうか。
ばら色の唇が小さく神の名を呼んだが、なんの意味もなかった。
「乾杯」と古い記憶の中で悪魔が囁いた。