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    現パロネファの同棲している話。夏編。

    春→https://poipiku.com/889508/7671713.html

    ##現パロネファ
    ##ネファ小説

     ローテーブルの上には、つまみとグラス。普段は部屋の端の方で小じんまりと置かれているのを窓際に移動し、本日の主役と言わんばかりに、つまみを所狭しと置く。本当に狭い。少し気合が入り過ぎてしまったと、運んできた追加のつまみが乗ったトレイを床に置きながらネロは反省する。

     ファウストと同棲を始めてはや数ヶ月。春特有のゆったりとした空気は消え、夏の熱気に焼かれる日々になっていた。結構上手く行くもんだな、と感慨深くなりつつ、テーブルの傍に座るファウストを見る。律儀にも、ネロが座るまではグラスに手をつけない。そういうところが好ましい。「お待たせ」と声をかけつつ、対面へ座る。

     今夜の月はとても大きい。おまけに雲もほとんどなく、その光は衰えることなく窓辺に降り注ぐ。ファウストの白い肌がやけに病的に見えた。見えた、だけで今のファウストは至って健康だった。体の線こそ細いものの、三食しっかり食べ、体を動かせるタイプの引き篭もりだからだ。

     ファウストと出会った直後は酷いものだった。常に顔色が悪く、腰は細い。それとなく話を聞けば、一日三食はおろか、その少ない食事も、作業的かつ迅速に済ませていたらしい。人の生活に口を出すものではない、と思いつつも自分の言葉を抑えきれなかった。

    「好きな食べ物リクエストしてくれたら作るから…」

     そこまで親しくない相手に、手料理を振る舞われるのはいかがなものかと、言い出した途中から自信が無くなっていた。まともにファウストの顔も見られなかったと記憶している。いつも人との距離には気をつけていたのに、間違えてしまった。いくら此方が目を逸らしても、横顔にファウストの視線が刺さる。冗談にするタイミングも逃し、互いに言葉を発しない時間が異様に長い。

    「料理、得意なのか?」

     この時から、彼の言動にいつも心を揺さぶられていた気がする。
     
     同棲後、気軽に開催される晩酌のおかげでつまみのレパートリーはかなりの数になった。

    「ありがとう。今日はやけに気合いが入ってるね」

     微笑みと一緒に、丁寧に言葉を返される。ファウストは、真面目な性格の為か、毎回飽きもせずつまみの感想を述べる。晩酌した回数を考えれば、一度くらい何も言われなくても気にはしない、と思う。だが、この男は、たった一品の在り合わせのつまみでさえ、大切に扱ってくれた。嬉しくないはずがない。

     元より、誰かの好みに合わせて料理を作る事が好きだった。ネロが作った料理を口に含んだ時の、幸福に綻んだ顔が見られればそれだけで嬉しくなる。それだけで、相手が喜んでいることはわかる。料理人としての責務、個人の拘りが達成される。

     相手が好きなメニュー。相手のための味付け。それらに合わせたドリンクも付ければ完璧になる。また食べたいと、強請られれば文句なしの仕事だったということだ。何度も同じように、凝った料理を提供する。少しずつ味を変えながら、同じ大好物の料理でも飽きないように努める。旬の食材を使うことで、更に美味しさが際立つ。その拘りに全て気づいてもらえるわけではない。気づいて欲しいわけではないが、自分の拘りに称賛がもらえるのは嬉しいものだ。それを何度も繰り返してくれるファウストという存在は、最初こそむず痒さがあったが、今では手放しなくないほどになっていた。目が覚めたら無かったことになってしまうような、そんな夢心地を味わっている。

     ネロの朝は早い。まずは出勤するファウストの為、弁当を用意するところから始まる。皿に盛り付ける料理とは勝手が少し違う。電子レンジで温められるとは言っても、出来立てを出せないとなると工夫が必要になる。サンドイッチなど、そのまま食べられる物でももちろん良いのだが、そればかりを作るわけには行かない。昼食というものは、仕事の間の癒しであるべきだ。その癒しとなるべき食事に不味いものは出せない。料理人のプライドにかけても美味しい弁当を出したい。

     最初の頃は弁当作りに苦戦した。不味くはないのだが、出来立てに比べ酷く劣っているという印象を抱く。自分用に作った弁当を昼に食べながら、職場で食べているであろう、ファウストのことを考えてすごく落ち込んだ。そうだろうな、とは思っていたが帰宅したファウストは、当然のように空の弁当箱を出した。完食の嬉しさと、不出来な料理への悔しさで、また酷く落ち込んだ。その様子を「かわいい」と揶揄われたことまでもしっかり覚えている。

     2回目以降はかなり研究した。わざわざ少し大きめの駅にある書店まで行き、料理本コーナで弁当のおかずレシピ本を買い漁った。忙しい人のための時短本からキャラ弁まで。これが受験生の参考書なら完璧すぎるラインナップだっただろう。しかし、残念ながらただの凝り性な料理人の買い物でしかなかった。

     スカスカだった棚には、春先に買ったサボテンとさまざまな種類の料理本が仲良く並んでいる。 

    「よし、今日のも美味そう」

     最後にプチトマトを。これを添えるだけでかなり彩が良くなる。二人分の、ほんの少しだけ異なる弁当箱を眺め満足気に頷いた。本当はネロの分の弁当を作る必要はない。しかし、一人分を作るのは意外と難しい事もあり、味見ついでに自分の分も作ることにしていた。

     以前のネロの弁当箱は、使い捨てのプラスチックの物だ。どうせ自分用だからと、弁当箱に拘りが持てず買う機会が無かった。せっかくならと、ちゃんとした物を購入したのが同棲直後。お揃いである。エコロジーに貢献したな、など適当な事を言ってファウストに笑われたが、その恥ずかしさを差し引いても嬉しい気持ちでいっぱいだった。浮かれているのかもしれない。

     昼食を一緒に食べることは出来ないが、一緒にいない時でもネロの作ったご飯を食べてもらえる。食べてる様子を見る事が出来ないのは残念ではあるが、帰宅時に聞かせてくれる感想を待つ楽しさに気づけた。彼の言葉で、作った料理が大切に扱われるたびに、ネロ自身も大切に扱われている気持ちになる。習慣づいてはいるが、早起きがそこまで得意ではないネロが、弁当にまで手間を惜しまないのは、なによりもネロの為であった。

    「おはよう、ネロ」

     起きたての割に、しっかりとした声に名前を呼ばれる。

    「おはよう、ファウスト。よく眠れたか?」

     おかげさまで、と何気ない挨拶を交わす。流れるようにフライパンを火にかけ、朝食の目玉焼きの準備を始めた。少しずつ暑くなるキッチンで油が跳ねる音を聞く。ファウストの分はサニーサイドアップ。併せてウインナーを隣で焼く。

    「冷蔵庫にサラダあるから」
    「盛り付けておく。ドレッシングは和風でいい?」
    「うん、ありがと」

     特に何も言わずに、自然と朝食の準備を手伝ってくれる。同棲を始めて数ヶ月、ファウストが気遣い上手なのもあるがだいぶ慣れたものだ。ネロが調理している間に、ファウストが簡単なものを用意する。全部ネロが用意しても構わないのだが、ファウストは何もせずに座って待っているようなタイプではなかった。最初は遠慮したのだが、何もしないで待っている方が嫌なタイプなのは知っていたし、それに。二人でキッチンに並んで準備するというのも、なんだか特別な事のように心が踊ってしまうのだった。

     朝も、昼も。ファウストの胃袋にいるのはネロの作った料理だ。もちろん、外食をすることもある。しかし、同棲前よりも格段と手料理を振る舞う機会が増えた。料理屋を営んでいるからには、人に料理を食べてもらう機会は多いのだが、同じ人にずっと食べてもらえるのは少し特別な気がした。常連とはまた違う、ファウストだけの特別な料理がたくさん出来ていく。

     丁度いい好みの焼き加減に焼けた目玉焼きを口に含むファウストを、今日も眺める。  

    「ファウスト、明日仕事は休みだよな?」
    「うん、そうだよ」
    「俺も明日店休みだし、どっか行こうよ」

     引っ越したては、二人の休みがあっても片付けやら買い物やらで忙しかった。流石に夏にもなるとだいぶ落ち着いて、家の周囲に興味が出てくる。もう少し早い涼しい季節ならよかったかもしれないが、梅雨があければすぐに暑い夏がやってきてしまっていた。

    「特に予定もないしいいよ。丁度色々見てみたかったんだ」

     ファウストも考えていた事は同じようで、休日は特に予定は立てず散策兼散歩という事で決まった。特別な目的がない外出はなかなか無いかもしれない。当たり前に何もない時間を共有できる。何も無くても一緒にいていい相手がいるのは、貴重かもしれない。少なくとも、ネロの今までの人生において、何人ともそんな関係を築けはしなかった。

    「そういえばさ、朝起きて何してんの?起きて降りてくるまで時間あるよな」

     ああ、と。相槌のような返事がある。喋り始める為の準備の咀嚼と咽下。ついでに麦茶が喉を流れる。

     ネロの朝は早い。そう言ったが、ファウストもほぼネロと同じタイミングで起きている。合わせて起きなくてもいいと伝えてはいるが、一緒に寝ている以上寝起きのタイミングは合わせた方が無難だった。その方が相手の睡眠の邪魔をしなくていい。幸いにも、ファウストは朝早い料理人よりも早起きができるタイプの引きこもりだ。

     弁当を作る作業は、さすがにネロに任せてくれるのでその間はやることがない。早起く起きて、朝の時間を静かにのんびり過ごしたいタイプなのは知っているため、早起きが負担になっていないのはなんとなく分かる。ただ素朴な疑問として、何をしているのだろうと常々思っていた。有力候補は読書だろうと心の中で賭けている。

    「ラジオ体操をしているんだ」
    「おぉ、そっかぁ……」

     だいぶ予想外の答えが来た。賭けは負け。今晩はファウストの好物を用意しなければ。

    「君も一緒にやる?」
    「……考えておくよ」

     すっかり健康体になってしまったな、としみじみとした気持ちを麦茶と一緒に飲み干した。

     その休日は、猛暑日と言って差し支えない一日だった。
     仕事がある日とは違って、少しのんびりと起きた朝。外出の為の準備をしていた。起床から付けたままのテレビから流れる天気予報は、猛暑になる事を繰り返し警告している。外を歩くことは確定していた為、水筒と日傘、日焼け止めは欠かせない。塩分補給用のタブレットも必須だろう。タオルや財布、マイバッグなど使いそうな物も詰め込む。のを、横で眺める。ファウストは荷物が多い。

    「これくらいあれば十分か」
    「まあ足りない分は現地調達で大丈夫だって」

     財布と家の鍵さえ持っていれば後はなんとかなると思っているネロとは反対に、ファウストはかなり準備がよかった。たぶん、絆創膏とか直ぐに出せるタイプの人間だ。ファウストと出掛けた時の安心感は凄まじい。

    「水筒はこっちに入れて。俺が持つから」
    「ありがとう。助かるよ」

     流石にファウストだけに、全ての荷物を持たせる訳にはいかない。小さめの手提げに水筒を入れ替え、自分で持つ。偶には頼れる所も見せておこう。丁度いい時間だ。

    「それじゃ、行きますか」

     電気を消し、少し薄暗い室内を歩き出す。靴を履き、玄関のドアを開けると痛いほどの光が飛び込んできた。少しだけゲンナリする。

    「もう暑いな」

     そう言いながらファウストは日傘を差し、躊躇いなく太陽の下に出ていく。逆光になったファウストの姿は、果敢という言葉がよく似合っていた。

    「熱中症には気をつけないとな……」

     水筒のちゃぷちゃぷ、という音だけが、涼しさを伝えようとしていた。

     太陽が真上に来るより少し早い時間。家周辺のあまり行かない方面を中心に、適当に足をすすめている。小さい商店街、銭湯、八百屋、図書館、川、公園。ファウストの知人に紹介してもらった事もあって、家周辺の事前調査はあまりしていなかった。しかし、治安面や立地どれも申し分ない。寧ろ良すぎるくらいで、その知人からファウストがかなり気に入られている事が窺える。汗が首筋を流れた。

    「ファウスト、そろそろ水分補給」
    「うん。塩分も取って」

     水筒と交換で塩分補給のタブレットを渡される。ただゆっくりと歩いているだけでも滝のように汗をかく。日傘を差しているとはいえ、こまめに水分補給をしないとまずい気温だった。ファウストも普段より汗をかいている。心なしか顔も熱っている様にも見えた。傾く水筒と、上下する喉を確認して自分もタブレットを舐め、水筒に口をつける。保温機能で冷えた麦茶が喉を通る感覚が気持ち良い。身体の怠さもほんの少し緩和されたように感じる。それとなく小腹も空いてきた。

    「ネロ」
    「え、なに?」

     麦茶の余韻を感じつつぼんやりと周囲を眺めていた。ファウストの声で我にかえり、視線を合わせる。

    「あの喫茶店良さそうじゃないか?」

     ファウストの細い指が指す方へ、視線を動かす。そこには、軒先に並べられた植木鉢とおしゃれな看板。アンティークっぽい木製の扉とメニューが書かれた黒板があった。大きめの窓からは明るすぎない室内が窺える。ほんのりとしたコーヒーの香りがネロの前を通り過ぎた。

    「喫茶店か、いいな」
    「昼食にもいい時間だし、流石にそろそろ涼みたい」

     ネロも異論はない。メニューの確認もそこそこに、吸い込まれるように喫茶店のドアを開けた。

     結論から言うと、この喫茶店は大当たりだった。店内の雰囲気は落ち着いていて、客層も静かな人ばかりだ。かと言って私語が許されないような厳格な雰囲気ではなく、各々が静かな時間を過ごすために訪れる。そんな空気が漂っている。料理もコーヒーも、別の客のテーブルに並んでいるのを見る限り、期待はしていい。

    「僕はアイスティーとサンドイッチにする、君は?」

     判断が早い。ファウストはテーブルに置いてあったメニューに軽く目を通して即決してしまう。ネロは先ほどから漂うコーヒーに心を惹かれていた。が、この猛暑でコーヒーは何と無く違う気がする。

    「じゃ、俺も同じやつで」

     丁度、水を運んできた店員さんに注文を伝え一息ついた。水筒の麦茶とは違う、冷蔵庫から出したての水が熱い体に染み渡っていく。まだ少し外の暑さの余韻が残っていた。ファウストも、水を飲みつつ店内を観察している。ネロはメニュー表を眺め、気になる物をピックアップしていた。今日はサンドイッチを選んだが、他の物も食べてみたい。

    「また来たいな」

     ネロに視線を合わせたファウストが、薄く笑う。

    「まだ水しか飲んでないよ」

     顔がほんのり熱くなる。本当にその通りである。あー、という音で誤魔化してみた。正面から視線を逸らして、空虚を見る視界の端でくすくすと笑うファウストが映っていた。

     本当にこの喫茶店は大当たりだった。アイスティーの濃さ、サンドイッチに挟まってる具材の選び方。暗い焦茶のテーブルに並ぶ白い皿と、コースターの上に冷えたグラス。期待通りの喫茶店に求める料理が並んでいる。猛暑のせいで夏バテ気味でなければ、カレーライス等も頼みたかった。

     食事のために、姿勢を正す。一瞬、ファウストと視線を合わせた。 

    「いただきます」

     思い切り良く、サンドイッチに齧り付く。美味い、と言う感想の後に「これファウスト好きそう」という考えが頭を過った。チラリと正面の人を盗み見て確信に変わる。また来ることが確定してしまった。さっきは茶化されたが、ファウストもこの店を気に入っている。二口目。先ほどより控えめに口に含み味を堪能する。冷えた具材が、猛暑で熱っぽい体に有難かった。
     数ヶ月後「あの店」で通じる程度には、二人のお気に入りになっている。

     夏の夜は寝苦しい。やたら体が熱いし、汗で纏わりつく衣服も不快だ。今日は日中に出掛けていたせいか、余計に寝苦しい。この家にも慣れ最近はよく眠れていたが、久しぶりに浅い睡眠と覚醒を繰り返す時間を過ごす事になった。

     眠っているのか、起きているのか。中途半端な意識の外で電子音がする。聞き慣れた音に耳を傾けるが、体は上手く動かない。霧がかった思考で音のことを考えても、答えに辿り着く事は無かった。もう音が聞こえてるのかもよくわからない。
     ふと、ひんやりとした何かが腕に触れた。

    「ネロ?」

     名前を呼ばれ、今まで全く動かなかった体を無理にでも動かさねば、という気持ちになる。開け方も分からなかった瞼をゆっくり持ち上げた。ファウストが、こちらを不安そうな顔で覗き込んでいる。

    「……ファ、ウスト?」
    「ネロ、君大丈夫か?」

     あ、寝坊した。反射的にそう思った。ネロはごく稀に寝坊する事はあるし、昨日は体力も削られ眠りも浅かった。そう言う日もあるよな、焦っても仕方がない。のろのろと上体を起こすが何かがおかしい。そうして漸く、自分の体の現状を理解した。

    「あ、風邪だコレ」

     隣でオロオロと落ち着かない様子のファウストを他所に、ネロは馬鹿みたいに声を零した。

    「病人は寝ていなさい」

     ファウストに絶対安静を言い渡される。風邪だと判明した途端、汗だくの衣服を剥がされ、濡れタオルで体を拭かれたと思えば、新しいパジャマを着せられた。更にはいつの間に用意したのか頭には冷却シート、掛け布団はしっかり肩までかけられ、ベッドの側にはスポーツドリンクが置かれている。誰が見ても病人です、という大袈裟な風貌になんだか笑いそうになった。

    「ファウスト、仕事は……?」

     ひと段落して、声をかける。ここまで世話を焼いてもらえるのは嬉しいが、いい大人だし、仕事がある人間に全て頼らなくても何とかなる。ネロのせいで迷惑をかけるのは気が引けた。俺のことは気にしないで、

    「気にしなくていい、まだ早い時間だし一応連絡は入れてある」

     とネロの遠慮は遮られてしまった。抜かり無い。同時にファウストの仕事の早さに安堵する。落ち着いていて、自分のやるべき事がしっかり見えている。情が無いわけではないが切り分けが上手い。何かに飲まれて自分を失うことのない、芯の強さが魅力だった。

    「そういうところ、すきだな……」
    「何言ってるんだ、君は。また熱が上がったのか?」

     冷えた手のひらが、額に触れる。おそらく、ファウストの手が冷たく感じるのは、ネロの額が熱すぎるからだろう。熱が奪われる心地よさに目を閉じた。

    「……僕は仕事に行くけど何かあったらすぐ呼んで。一応、薬も飲んだし大丈夫だとは思うけど」
    「わかった。ありがとう」

     少し出し辛い、掠れた声で応える。あまり病人の側に長居させるのも申し訳ない。名残惜しいがファウストを仕事に送り出さなければならない。いつもは手作りの弁当を持たせ玄関で見送るが、今日はそうも行かない。いつもとは違う日。

    「早めに帰ってくるから。おやすみ、ネロ」
    「うん、いってらっしゃい」 

     離れていくファウストを、熱でぼんやりとしながら見送る。薬が効いてきたのかすごく眠たい。重すぎる体は布団に包まれている。少しだけ、誰もいない部屋の静かさが耳に痛かった。

     眩しさが閉じた目に刺さり、起床の引き金となる。カーテンの隙間から入ってくる太陽光が、丁度顔にぶつかっていた。しばらくぼんやり天井を眺めていたが、薄らとお腹が空いている事に気づいてしまった。気づくと食べたい気持ちになるのはどうしてだろう。薬を飲んでぐっすり寝ていたからか、熱は治まっている感覚がある。

    「冷蔵庫何か食べられそうなものあったかな……」

     のそのそと、まだ重い体を腕で無理やり起こした。
     冷蔵庫の中から適当な食材を選んで出す。自分の体と相談しながら、食べられそうな料理を作る事にした。昨日、炒飯用に冷凍していた米を仕方なく使う事にする。流石に今から米を炊く元気はない。鍋を取り出し、いざお粥作りに取り掛かる。病人が何をしているんだ、という気にならなくも無いがお粥に塩だけは料理人には許せなかった。
     そこで背後から物音がする。

    「え」
    「……君は何をしているんだ」

     振り返ればそこに、買い物袋を提げたファウストが呆れた顔で立っていた。何故か怒られる前の子供のような気持ちにさせられる。ゆっくりとファウストはネロの隣に並んだ。

    「ファウスト、仕事じゃないの」
    「終わらせてきた。午後はお休みにしてもらった」
    「そっか……」
    「僕が作るから、君はそこで座ってて」

     はい、の返事しか許されないような圧に負けて、いつも食事をしている椅子に大人しく座る。そこからファウストが調理する姿を、見守る事しかできない。同棲してからはネロばかりが台所に立っていた。料理人だし、料理を振る舞うのが趣味なのもあって必然とそうなった。そうなっただけで、ファウストが特段料理が出来ないわけではない。ネロと出会うまでは、食事を疎かにする事はあったらしいが、出来ないわけではない。と、本人も言っていた。今、テキパキとネロのためにお粥を作っている様子を見るに、嘘ではないらしい。

     人に料理を振る舞われるのは、不思議な感覚だった。お粥だけど。

    「はい、食べれる分でいいから食べて」

     ファウストは出来上がったお粥を、直ぐには渡さずに冷まして渡してきた。ぐるぐるとしばらくかき混ぜた後、温度や味を確かめる為か、一口食べ、差し出される。ファウストの甲斐甲斐しい看病に感動しながら、ありがたくそれを受け取った。当然の如く、鼻が詰まっていて味が分からない。

    「とても美味しいです」
    「わかんないでしょ、味なんて」

     おっしゃる通りです。でも美味しいというのも嘘では無かった。胸がいっぱいになる、というやつかもしれない。無味の、温かく柔らかい感動を、適当に咀嚼しながら平らげた。

     食後は「皿洗いくらいする」の申し出を呆気なく断られ、寝室まで連行される。今朝と同じように、布団を被せられぽんぽん、と優しくあやされる。まるで子供のような扱いだが、本人は甘やかしているつもりかもしれない。そう思うと、若干の歯痒さはあるが嬉しさも感じてしまった。

     ふとファウストの顔を見ると、苦い顔をしている。

    「ファウスト?」
    「……君は、僕のせいで無理をしていたのか?」
    「……え?」

     名前を呼び、様子を伺えば予想外の問いが返ってくる。酷く思い詰めた表情で、まるで別れ話でもする様なトーンで。ネロは狼狽えた。言ってしまえばネロの人生は頑張らない、がモットーである。そんな男の不真面目さなんて、近くにいるファウストが一番知っているはずだった。何故「無理をしている」なんて結論に至ってしまったのか。いくらその苦く整った顔を見つめても、ファウストの思考が全く理解できない。

     動かし方を忘れていたみたいにゆっくりと、ファウストの唇が動く。 

    「同棲してから、僕は君に頼る事が多かった。そのせいで繊細な君に無理をさせてしまったんじゃないのか?」
    「いや、そんなこと無いって」
    「でも君は夏なのに風邪を引いてしまった。日頃疲れていた証拠だ」
    「そんなの俺が――」

     否定の言葉を繋げようと思っていたのに、ファウストの膝の上で痛いほどに握られた拳を見たら声が出なかった。もっと上手い言葉がある筈なのに、どうしてか、どれも軽く聴こえてしまいそうだ。

    「ファウスト、違うんだ大丈夫だから……」
    「君は大丈夫じゃなくてもそう言うだろ」

     どうして伝わらないんだろうか。今まで「大丈夫」の言葉で他者との壁を作ってきた自分が憎い。言葉を尽くして、ファウストの所為では無い事を伝えるべきなのに、ネロの中にある言葉はどれも適さなかった。無理なんてしていない。その事実さえも、ファウストの正しい言葉の前では嘘のように思えてくる。
     どんどん自信が無くなるし、頭でぐるぐる考えるうちに熱がぶり返してきた。

    「すまない……僕は皿でも洗ってくるから君は寝てて」
    「えっ」

     呼び止める間も無く、ファウストは寝室から出て行ってしまう。自分の情けなさに悲しくなって、頭まで布団を被り呻いた。風邪のせいで高い体温が、布団の中をサウナ並みにしている。どうしてこうなってしまったのか。全部、全部風邪の所為にしてしまいたい。

    「別れるとか言われたらどうしよ……」

     最悪の結末が過ぎってしまい、思考を振り切るためにギュッと目を閉じる。目元に水分を感じた。風邪の所為だと、自分に言い聞かせて、悶々と頭を使ってるうちに意識を手放していた。

     夢を見た。音はよく聞こえない。隣に誰かが座っていて、目の前のテーブルにはつまみと酒が並べられていた。夢特有の断片的な情報しかないが、多幸感に溢れていた。隣に座る誰かの手がつまみに伸びる。その手に合わせて、視線を彼の唇に運ぶ。つまみは小さい口に吸い込まれた。彼はすごく嬉しそうな顔をしていて、ネロに「とても美味しい」と声をかける。その言葉が嬉しくて、浮かれたネロは照れを誤魔化す為に手元のグラスを呷る。彼が静かに喋る声が心地良い。会話のテンポも、話題が切れた時の沈黙も、そんなものが愉しいなんて知らなかった。

     こんな時間を夢心地と呼ぶのだろう。夢を見ているのだか馬鹿な事を言っている。でもこの時間のことを、現実でも何度も味わっていた。ずっと楽しくて、ファウストと飲む酒は特別気合いが入って。最近では、一緒に居ない時間でもなんだか浮かれてしまう。弁当がファウスト好みの味付けに出来た時とか、家に帰るまで落ち着かない。それが毎日繰り返される。

    「浮かれてたのか、俺……」

     自分の感情と答え合わせてをした。やけに落ち着いた呼吸が急に耳につく。そうやって夢から醒めた。

     綺麗に、何の不快感も無く、瞼が持ち上がる。倦怠感は感じられない。近くで布が擦れる音がして、体をその方向へ向けた。電気が消えた室内は、もうすっかり暗くなっている。何処から引っ張って来たのか、ネロ達がいつも使っている寝具とは別の布団で寝ている。確かめたくなって、その腕に触れた。

    「……ん。ネロ……?」

     ファウストが、目を開けるのを待って言葉を続ける。

    「ファウスト、好きだよ。ずっと一緒にいたい」
    「は?え、何急に?」
    「俺、はしゃいでたんだと思う」

     寝起きの頭に矢継ぎ早に喋りかけられて、ファウストはネロの目を見て硬直していた。同棲してから毎日が楽しくて、引っ越す前に感じてた不安なんて微塵も感じられなくて。ずっとファウストが側にいて……。自分が思いつい事を考えも無しに口にしていると、徐々に恥ずかしくなってきた。浮かれて、はしゃいで、その所為で疲れて体調を崩してしまうなんて、まるで――

    「子供みたいだな」

     ファウストが痛い所をつく。自分でも思っていたからこそ余計に恥ずかしい。でも、まだ言葉を続けないといけない。

    「ずっと終わらないで欲しかったんだ。だから変に気合いが入ってた」
    「……」
    「馬鹿みたいだよなぁ」

     風邪の時とは別の、顔に熱が集まる感覚がする。無意識に手を当てた首まで熱いのだから、顔は真っ赤に違いない。普段なら羞恥に耐えられなくて目を逸らしている所だが、今日はどうしても外せない。ふと、ファウストの腕を掴んでいた指が解かれた。そのまま流れる様に手が握られる。

    「大丈夫だよ、直ぐに終わったりしない」

     魔法みたいな言葉だった。嘘がなく、透き通っていて力強い。ファウストの言葉が、ネロを大切な物の様に扱ってくれる。

    「ネロ。僕は……僕も、長く君と居たいと思っているよ」

     薄暗い室内に、街灯か月明かりか、よく判らない光がカーテンの隙間から差していた。その光を受けてファウストの目がキラキラと煌めいている。こんなに綺麗な瞬間は忘れられそうに無かった。

    「……うん」

     折角の演出に見合わない、震えた声でしか返事が出来なかったのが、ちょっとだけ残念だった。

    「まだ夜中だけど、何か食べる?」
    「……アヒージョ」

     ファウストはキョトンとしたあと、くすりと笑う。

    「病人の胃にはキツいだろ。また今度、風邪が治ったらね」
    「じゃあ、キスしたい」
    「それは……風邪が治ったら好きなだけしていいから」

     ここは折れてくれないのがファウストらしい。ネロ自身も流石に風邪を移したく無いので、するつもりは無かったがしたいのは本当だった。まあ仕方ないよな、とわざとらしく落ち込んだフリだけしておく。

     クイっと腕が引かれて体が前に動いた。予想もしてなかった力になす術もなくファウストの方へ傾く。近づいてしまったネロの顔から、ファウストは髪をかき上げ額に唇をソッと当てる。

    「今日はこれだけ……」

     ファウストの声が乱れた前髪にかかるくらい、距離が近い。徐々に状況を理解してきた。とんでも無い男だなと、改めて実感する。こんなのずっと側に居たら、浮かれるに決まっている。この幸せが永く続いて、日常になるのだろうか。まだ全然想像が出来なくて、とりあえず今の幸福を噛み締める事でやっと飲み込んだ。

     同棲後、初めて別々になった布団は、夏なのにやけにひんやりしている。少し遠い控え目な呼吸音を探しながら、ネロは眠りについた。
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