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    現パロネロファウ同棲の導入の話です。春

    続き→https://poipiku.com/889508/7671805.html

    ##現パロネファ
    ##ネファ小説

    朝焼けとコーヒー。 慣れない匂いで目が覚めた。体には、今回の睡眠でうまく取れなかった疲労が少しだけ残っているように感じる。真新しい布団と、自分のものじゃないけれど、優しく爽やかな誰かの匂い。少しだけ空気が動いて微かに沈丁花の香りがする。
     春先、冬とは呼べなくなった頃。寒さの厳しい時期は過ぎたとはいえ、まだ日が昇るか昇らないかの時間は冷えてしようがない。掛け布団の隙間から入り込んだ冷気に震え、半ば無意識に温もりを求め隣にある体温へ手を伸ばす。しかしそこに欲した熱は無く、彷徨う手がシーツを叩き、皺を作りながら弧を描くだけだった。そこでようやくゆっくりと瞼を持ち上げた。

    「……ねろ?」

    触れるはずだった相手の名前をはっきりとしない声で呼んでみる。返事は返ってこない。もちろん姿も見えない。のそのそと上体を起こし布団の温もりから離れ、冷気で無理やりに覚醒を試みる。本来ならネロが隣にいる。それがファウストの勘違いでないことは寝ぼけた頭でも分かっている。昨日寝るまでに何度も確かめて、信じ難いと思う自分にも言い聞かせながら眠りについた。
     徐々に思考出来るようになった頭で昨日の夜の事を思い出しつつ辺りを見渡す。部屋と用途に合わせて購入した新しいロータイプのベッドは、大人二人で寝ても十分に体を伸ばせるだけの大きさのものだ。それ以外は、ベッドが接している面と反対側の壁際に小さめの段ボールが二箱あるだけで何も無い部屋だった。改めて確信する。
     ここはファウストが最近まで住んでいた家ではなくネロと二人で住むために引っ越してきた場所で間違いなかった。先程伸ばした手は恋人恋しさに夢の続きを求めた悲しい男の手ではない。ただ、少し不思議な感覚に酔っていたような気はする。
     冷静に状況を確認出来たところでまた、空気が少し動いて同じ香りがする。風が流れてくる部屋のドアの方に顔を向け、誘われるように花の香を辿ってベッドから離れた。

     部屋を出てすぐに廊下の先の洗濯物を干すベランダへと続くドアが開いていることに気付いた。きっとこの冷気と香りもあそこから来ているのだろう。何を探しているのか迷うことなくベランダへ向かう。ドアに近づくにつれて外の様子が見えてきた。まだ陽が昇りきっていないのかほんのりと薄暗く、しかし時々どこかに反射した光が眩しく目に刺さる。
     その景色の中に立つ人物は肌を朝日によって紫色に染められ、普段澄んだ青空のような髪色は朝焼けの複雑な色合いと綺麗に溶け合っていた。そして、金色の瞳と視線が絡む。

    「おはよう、ファウスト」

     ファウストが来ることを予想していたのか、ネロは眩しいものでも見るかのように目を細め落ち着いた声で朝の挨拶をする。

    「おはよう……」
    「ごめんな、起こしちまったか?」

     ベランダの柵に凭れかかっていたネロは少しだけ申し訳なさそうに、眉尻を下げてファウストの顔色を伺う。
     わかっていてやっているのか未だにわからないが、この困ったような顔は少し可愛い。この顔でおねだりされた時は高確率で押し切られてしまう。押し切ると言っても彼の性格上、相手が本当に嫌がることをしない。そのこともおねだりを聞いてしまう原因の一つだった。
     彼への愛おしさからか自然とこちらの口角は上がる。「問題無いよ」と返しつつ、その横へと並んで柵に手を置いた。どのくらい前からベランダにいたのかネロの鼻先は寒そうに少し赤らんでいた。

    「眠れなかったの?」

     繊細な彼の事だから、引っ越したばかりで眠れない事があっても不思議ではない。今度はファウストがネロの顔を覗き込む。朝焼けがまだネロの肌を染め上げていた。普段の肌の色と違うせいで体調が悪いようにも良いようにも見える。ただその中で朝日を浴びて、きらりと光る金色の瞳と透き通るような空色の髪が酷く美しかった。

    「ちゃんと寝たよ。さっき起きたとこ」

     半ば見惚れてじっと見つめていると先の問い掛けへ返事が返ってくる。若干の心配はあるが、ネロがそうだと言うのならここは深追いすべきではないのだろう。まだ引っ越し初日ということもあるし多少の睡眠不足は仕方ない。もう少し落ち着いたころに眠れていないようなら対策を考えることにした。

     ネロの様子を伺うのをやめ、視線を陽が昇らんとする東の空へ目を向ける。外した視線とは逆に体をネロの方へと寄せ肩と肩を触れ合わせた。ほんの少しだけ普段より冷えている体から「さっき起きた」はあながち嘘ではないのかもしれない。身勝手にも、ネロが一人きりでこの寒さの中にいる時間を減らせたことに安堵している自分がいた。

     するり、と自然に絡められた指先が楽しそうにファウストの肌を撫でる。寒い日に外で出会った猫のように、ファウストで暖を取ろうと擦り寄ってくる。この期待に応えるのに寂しさや哀れみなんて暗い感情は必要なく、ただ愛おしく撫で返してあげるだけで自分までも癒されてしまう。起床からここまでの短時間に目まぐるしく変わる自身の感情に笑みが溢れた。
     大きな猫を愛でている間に夜の気配は消え、すっかり朝になっている。くぅ。何処からか鳴き声のような音が響く。目もすっかり覚めて程よく温まった身体が美味しい朝食を求めた鳴き声だった。

    「期待に応えて、朝ごはんでも作りますかね」

     ファウストの方を見てヘラりと笑うネロは心底楽しそうな顔をしていた。気恥ずかしさから思わず眉間にしわが寄ってしまう。ネロもお腹が空いているのは同じはずなのに、ファウストだけがお腹を空かせているかのうような扱いだ。納得がいかない。しかし、

    「 最高に美味しい朝食を頼むよ、シェフ」

     ネロがまた困ったように眉を下げる。これは少し恥ずかしさが混ざっている顔だ。
     ほんの最近まではネロの会話術に戸惑ってばかりで一方的に振り回されていたが、徐々に上手く返せるようになった。これも言葉数は少なくとも、積み重ねてきた時間で彼の心の機微を多少は感じ取れるようになったおかげだ。
     笑っているファウストの手を引きながら、つられてしまったのかネロも笑っていた。そのまま笑いながらネロに無言で手を引かれて二人で室内へと移動する。二人で身を寄せ合っても、この時間に薄着でずっと外にいると体が冷えてしまう。
     キレイな朝焼けを眺めるのもそこそこに、自分のために作られる朝食に期待を膨らませた。パンかごはんか、もしかするとファウストが好きなガレットを作ってくれるかもしれない。今手を握ってくれているこの腕利きのシェフは気遣いが上手い。彼の作ってくれる朝食を予想しながら階段を降り、コーヒーを淹れるか紅茶を淹れるか、豆や茶葉を仕舞った場所を思い出そうとした。

     ホームセンターで掃除道具やらの買い出しを終え、さっそく掃除と荷解きの続きに取り掛かる。ゆっくりと必要なものから取り出していく手もあったが、こういうのは最初で一気に片づけてしまった方がいい。幸いにもネロは自営業で、ファウストは割と休暇取得に融通の利く職場で働けていた。
     二人でまとまった休みを取って一気に片づけた方がいいだろうと引っ越し前に話し合っていた。きっとその方が早く自分の、自分たちの家として馴染むだろうという考えだ。早く、ここが彼の家になればいい。願うのは自由だ。

     居間の清掃担当になったファウストは手に持った雑巾をきつめに絞った。台所周りは料理人の聖域になる予定なのでそこはネロに任せ、まずは共同スペースから取り掛かる事にした。
     知人の紹介で安くで賃貸タイプの一軒家を借りられ、一応、個人の部屋も用意することが出来た。昨日で荷物は全て運び終えてはいるものの、本が多いファウストの部屋が部屋として機能するのはもう少し先になるだろう。その為、昨晩は荷物が少ないネロの部屋を先に片付け、一緒に寝ることにした。
     そもそも同棲という体で一緒に暮らすことにしたのだから、毎晩個人の部屋で寝るつもりは無い。ただ、お互い一人でいることに慣れていた事もあり適度に距離を離すことも出来るようにしている。居間の一番大きな壁を拭きながら、自身の部屋の片付けはゆっくりでも問題無いだろうと、他の場所の掃除計画を練り始めた。

     壁を拭き終わり続いて棚の拭き掃除に移る。一度バケツで雑巾を洗いしっかりと絞る。まだ何も置かれていない備え付けの棚を綺麗にするのに時間はかからない。
     入居前に清掃業者にも頼んだようなので軽く積もった埃を取り除くだけで済みそうだった。テキパキと埃を払い、壁、棚、と上から順に綺麗にしていく。最後に更にきつく絞った雑巾で畳をささっと拭いて居間の掃除を完了した。
     このペースなら今日中にあらかたの部屋の拭き掃除は終えられるだろう。一仕事終えた雑巾を先ほどより丁寧に洗いながら、次の部屋をどこにするか考えていた。雑巾を洗い終え顔を上げる。先ほどまで掃除していた居間を見渡してみるとまだ何も荷物が置かれていないせいか引っ越してきた――というよりはこれから出て行ってしまうかのような印象を受けた。

     思い返せば二人で出かけたときにお土産を買ったりしたことが無い気がする。そもそも二人で会うときに外出、いわばお出かけデートをした回数自体が少ない気がする。二人ともアウトドアが好きなタイプでもないし、ファウストは特に人混みは苦手だ。
     基本的にはどちらかの家でゆったりと晩酌をしたり、外に行くときは大体静かなカフェやネロが気になったレストランが定石だった。
     それに不満を覚えたことは一度も無い。本人に確認したわけではないがネロも特に不満を感じている様子は見せていなかったと記憶している。世間一般の感覚と自分たちを比べる必要は無い。ネロとの会話は心地良いし、晩酌の際に出してくれる手製のつまみはいつでもファウストに舌鼓を打たせる。誰かといると多少なりとも感じてしまうような緊張感を覚えることなく、一人でいるときと変わらない静寂と一人では味わえない贅沢を与えてくれるのはネロ以外に知らなかった。それはきっと無理に普通の型に嵌めようとすると一瞬で壊れてしまうものだと知っている。しかしこれは……

    「何も無いな」

     改めて形に残るものを並べてみると驚くほど何も無かった。殆どがこの度の同棲をきっかけに購入した生活必需品だった。
     知人の厚意なのか、二人が住むことになった家はそこそこ広い。家族で暮らしても差し支え無い広さがあり、そこに二人分の生活必需品だけを置いている状態は閉店直前のスーパーの商品棚に近い虚しさがあった。
     ファウストは画策する。しばしの思考の後、よし、と決意を静かに口にして綺麗になった居間を出て次の部屋へと向かった。



    「ファウストー。そろそろ休憩ー」

    何個目かの部屋がちょうど終わったタイミングでネロから呼びかけがあった。ファウストがいる場所がはっきりわかっていないのだろう、どこか別の場所から普段より大きめの声が聞こえた。
     確かにそろそろ小腹が空いてきた気がする。すぐ行く、と気持ち大きめの声で返事をして洗った雑巾とバケツを持ってネロが待っているだろう台所付近へと向かう。
     食器が軽くぶつかる音が聞こえてきて、予想通り台所に立つネロを見つけた。ファウストが近づいたことに気付くと、お疲れさんと柔らかい笑みを向けられる。その笑顔があまりにも幸せそうに見えて、ドッと心臓が強く脈を打つ。
     しかしネロの視線はすでにファウストから外されていた。「紅茶でいい?」と聞きながら手元は手際よく紅茶を淹れる準備をしている。一瞬のことすぎて自分に都合の良い幻覚でも見た気分だ。幻覚か現実か。急に血が全身を駆け抜けたせいで思考の方までふわふわする。どちらなのかを確かめたくてファウストはちらりとネロの横顔を盗み見た。今も楽しそうに台所に立って、若干鼻歌まじりにテキパキと手を動かしている。しかし先ほどファウストと視線を交わした時の顔ほど幸せ溢れた表情かと言われるとあまり自信は無い。
     一人で勝手に盛り上がって恥ずかしい気がしてきて、静かに深く息を吸い込んで心を落ち着ける。バケツは適当な場所に置きネロが立っているすぐ隣の流しで手を洗うことにした。ハンドソープがちゃんと用意されていた事と、その位置がやけに使い勝手がいい事にネロの気遣いを感じる。もちろんネロ自身も使っただろうからファウストの為だけではない。ただ、これがネロと暮らすということかと急に現実味を帯びてきて、その事実に浮かれている自分が可笑しくて。気づいたら漏れていた笑いはネロをびっくりさせるには十分だった。


     用意されていたのは軽食のサンドイッチ。昼食は掃除前に済ませていたが数時間黙々と掃除をしていると流石に小腹が減る。ネロと出会う前は平気で食事を抜くくらい少食と言って差し支え無かったが、何かがきっかけでネロの手料理を食べた時から変わっていった。
     特別な関係になったあとも事あるごとに餌付けされた体はかなり飢えやすくなってしまった。もしネロが悪い魔法使いだったならファウストはその罠にまんまと掛り、丸々と太ったところを見計らって、パクリ、と食べられてしまうのだろうとおとぎ話のような言い換えをしてみる。
     幸いにも彼は魔法使いでも何でも無く、それでも料理を介した不思議な力でファウストを内側から作り替えてしまった。今まさにネロの作ったサンドイッチを口に頬張り、咀嚼して飲み込むまでの間にもこの美味しいサンドイッチのことで頭がいっぱいになる。レタスやらハムやらを美味しく纏めているこのソースが特に美味しい。初めて食べる味だな……と夢中になっていると目の前に座っていた人と目が合う。

    「美味しい?」

     分かりきっているだろうに、当たり前のことを聞いてくる。自分では気づいていなかったが恐らく顔に出ていたのだろう。それでも分かりきった感想を素直に伝える。

    「美味しいよ、とっても」

     そう返すと、ネロはただ黙ってファウストを見ていた時よりも一層嬉しそうに顔をくしゃりと崩して笑った。ネロが大皿から自分の分のサンドイッチを取り口へ運ぶのを見届けてから、二個目のサンドイッチへと手を伸ばした。

     上に乗っていた美味しいサンドイッチをペロリと平らげ、白い大皿をテーブル中心から少し端に寄せる。代わりにティーポットを置き、胃を休ませるためにもしばし紅茶を味わう。一人暮らしをしていた頃から紅茶を飲む時に使っているマグカップに淹れ、カップに顔を近づけるたびに優しく香る匂いに包まれる。
     温かい液体が喉を通る感覚は酷く心地良く、許されることならこのまま微睡み、今朝失ってしまった睡眠の続きを……。午後の誘惑を振り払う。マグカップで指先を温めつつ残りの部屋はどこだったかと思考を巡らせた。

    「あとどの部屋残ってる?こっちはほとんど終わったし手伝うよ」

     ファウストの思考よりネロの助け船の方が早かった。

    「ありがとう、助かる」
    「いえいえ、とんでもないです」

     ネロはへらへらと、しかし得意げに笑うと自身のカップを一気に呷る。ああ、休憩も終わりかとその動作に習いファウストも残り少ない紅茶を一気に飲み干した。
     瞬間、砂のような感触があった。何事かと指で唇に触れてみるも怪我をしている様子も何かを飲み込んでしまった感覚も無い。確かめるようにマグカップの縁に指を這わせる。片付けの際か、はたまた郵送中の衝撃か。お気に入りのマグカップの縁は小さく欠けてしまっていた。



     また、冷たい空気の動きで目が覚めた。ファウストはネロほど繊細な人間ではないが、さすがに変わったばかりの環境で快眠という訳にはいかないようだった。昨日よりやや意識がはっきりとした状態で隣に人がいないことをすぐに認識する。
     カーテンの向こう側はまだ陽が昇っていない時間なのか明るくはない。寝過ごしたわけではないようだ。枕元に伏せて置いてあったスマフォを持ち上げ、画面をオンにする。そこには午前五時より前の時間が表示されていた。すぐにスマフォの画面を伏せて天井を見る形で仰向けになる。
     手でまさぐるように空になった人が寝ていた場所へ手を伸ばす。ほんのりと温もりが残っている気がする。布団から出るまでは気づかれないように出来るのに、詰めが甘いのかわざとなのか。どちらにせよ、ファウストがネロの許へと行かない選択肢は無かった。彼はきっと昨日と同じように朝焼けを待っている。
     ベッドから起き上がり、片付けの際に出しておいたブランケットを羽織った。陽が昇るまではまだ時間があるし、朝が始まる一瞬が一番冷える。待ち時間で体を冷やしすぎてしまわないよう防寒は大事だ。寒さに鈍感なおしゃべりの相手が風邪を引かないようにしてあげよう。風に導かれる足取りはしっかりとしている。


    「おはよう」

     昨日と同じ場所で、まだ暗い空を眺めていたネロに声をかける。驚く様子もなくゆるりとした調子で返される。

    「おはよう、ファウスト」

     ファウストが横に並ぶと嬉しそうに体を寄せてくる。丁度良いとネロの肩に腕を回すようにして羽織っていたブランケットを半分掛けてやる。腕を回した瞬間に少し驚いた顔をしていたのは納得がいかない。自分だけブランケットでぬくぬくとしているような薄情な人間だと思っていたのか。
     ずっと腕を回し続けている訳にもいかないので、自分でブランケットの端を押さえさせた。そこまで身長差は無いにしても、自分より背の高くそこそこ肩幅のある男に自分から肩を組むのは少々厳しい。大人しくファウストの指示に従ってブランケットを抑え、ファウストに高さを合わせるためか寒いだけか、縮こまっている様子は小動物のようで可愛かった。

    「また眠れなかった?」

     問いかける。直球すぎるがネロにはこれくらいでないとはぐらかされてしまう。今日は昨日のように、そういう事、にしてやるつもりはない。もしファウストといる事でネロをじわじわと苦しめるのなら……。
     じっと顔を見つめ、逃がさないぞという無言の圧を送る。顔こそ逸らされているがファウストが凝視していることは気づいているはずだ。いつの間にか繋がれていた手は酷く落ち着かず力を込めたり抜いたりを繰り返している。やがて、ごにょごにょと歯切れの悪い返答があった。

    「なんか、まだ実感が沸かない……緊張してる感じ」
    「……うん」
    「ファウストと一緒に居たいのは本当……」
    「そう」

     一生懸命考えて出してくれた言葉にほっとしている自分がいる。二人で一緒に住むことを選んだのだから普通に考えればそんな事は当然なのかもしれない。しかし、ネロの性格を考えれば誰かといるのはどうしようもないストレスになる。
     もう少し自分の為だけに行動出来たらよかったのに。ネロは性分だ、という。他者を気遣って、間に料理という壁を挟んだ距離感が自分には丁度いいのだと、寂しがり屋の彼は言っていた。

     ファウストに「同棲しないか」と聞き逃してしまいそうな声で誘ってきたのはネロからだった。一拍置いて「いいよ」と答えた後、ネロが見たこともないくらい顔を赤くさせていたのが印象に残っている。
     その後の会話の内容はほとんど覚えていないが、この人の手を握っていられる人間でありたいと願った。
     今、その願いが一方通行でないと言葉にされたことが嬉しかった。思いの外自分が不安に思っていたことに驚く。ネロに無理はさせたくない気持ちがありながら、ファウストはどうかこの人と一緒に居られるようにと願っていた。ファウストの願いがネロを苦しめることになるのなら叶わない方がいい。身を引く覚悟があったゆえに他人のどうしようもない心に不安を覚えていた。
     ネロの口から「一緒に居たい」と改めて聴けたのは良かった。今も同じ気持ちなのであればファウストがするべきことは決まっている。彼が自分の優しさに苦しまないように。ファウストにその助けが出来ればそれはきっと誇らしく、何より幸せだろう。あくまでもこれはファウストの我儘の一つだった。何か特別なことをするつもりはない。ただ繋いだ手が離れないように誠意を見せる、それだけだ。不安そうに揺れているネロの瞳を真っ直ぐ見つめ返す。

    「ネロ、さっきの言葉を嘘にさせないよ」
    「さっきの……」
    「そう。僕と一緒に居たいってやつ」

     繋いだ手を顔の高さまで持ち上げ、ネロの手の甲に自分の頬を摺り寄せた。ネロの顔がみるみるうちに赤くなり「何それかっこよすぎ……」と蚊の鳴くような声で呟いていた。


    「正直、一緒に住んでくれるとは思ってなかった」
    「……は?」

     何を今更。先ほど会話をして最後に口を開いた後から何をするでもなくそのままベランダにいた。ようやく空が白んで来たようなところでネロが声を発した。晩酌の時のように、ぽつりとした声だった。

    「何?君、断られると思って誘ったの」
    「そうじゃないけど……」

     ネロがまた歯切れの悪い返事をする。少し意地悪しすぎてしまったようで眉根を中心にぎゅっと寄せて唸っていた。冗談だよ、と笑いながら謝る。どうやら今はそういう気分のようで、軽く文句を言いながらもずっと甘えるようにファウストの右腕を離そうとしない。今なら答えてくれるかもとずっと気になっていたことを聞くことにした。

    「どうして一緒に住みたいと思ったんだ?」

     ずっと不思議に思っていた事を問い掛ける。お互いにあの距離感で満足していたと思っていた。たまたま一人が好きな二人が出会えて、親しくなって、恋人になった。その静かな距離の心地よさと脆さを知っていたからこそ満足するしかないと言うのが暗黙の了解であるような気がした。人間、満たされれば欲が出る。ファウストは欲がなかった、と言うよりかは、考えないようにしていたが正しい表現だろう。そんな修行のような状態でネロが一歩踏み込んだきっかけが気になる。

    「楽しそうだなって思ったんだよ」
    「楽しそう?」

     ネロが返した言葉の意図がはかりきれず復唱することになった。問い掛けの眼差しをネロに送る。少しぼんやりと、遠くの明るくなり出した空を眺めていた顔がファウストの方を向く。瞬間、恥ずかしげに目を逸らされ、直ぐに戻される。金色の瞳と視線が交わったまま、ごにょごにょとそれでもちゃんと聴こえるように一つずつ告げられる。

    「俺の作った料理食べてる幸せそうな顔とか、晩酌してる時の落ち着いた声とか……ふとした瞬間に楽しいなって」

     時折視線を彷徨わせるが何度でも合わせようとしてくる。ネロなりに言葉を尽くして気持ちを伝えるのが恥ずかしいのだろう。耳や首まで林檎のように赤くなっている。繋いでいる手は熱く二人の間はほんのりと湿っていた。ネロの言葉が何故だかふわふわと聴こえるのに、映画のラストシーンのようにネロの表情、瞳の動き、睫毛の震えすべてが劇的に映る。ファウストが何か言うよりか早くネロが言葉を続けた。

    「それに気づいたらもっと一緒に居たくなって」
    「……」

     ネロが言葉を切ったのにも気づかず、呼吸が止まっていたことによる息苦しさで我に返る。ゆっくり進んでいた時間が元の速さで進みだしたような感覚。ようやくネロの言葉を受け止める。

    「君、僕の事かなり好きだな……」
    「……今更気づいたの?」

     噛みしめるように呟いた言葉はほとんど独り言のようなものだった。それをしっかりと拾ったネロは困ったように呆れた時のポーズをしてみせた。

    「ファウストは?」
    「……好きだよ」
    「ごめんそっちじゃなくてっ!」

     ああ。同棲した理由の方を聴きたいのだと遅れて理解する。話の流れ的にネロの事を好きかどうかかと勘違いをしてしまった。頻度は高くないが甘えてきたネロが同様の質問をすることがあった。故に大した違和感を持つことなく答えてしまったが、どうやら外れだったようだ。隣で唸りながら、俺が悪かったけど、でも、とか何やら独りごちるネロを見ていると、まあいいかとも思う。
     抑えることなくこぼれた笑みはファウストを楽しい気分にさせてくれた。楽しい気分のままあの日のことを思い出す。

    「僕は――」

     ネロに同棲を提案された時。いろいろな事がファウストの頭の中を駆け巡った。
     一番最初に思い浮かんだのが晩酌の事だった。別々で暮らしていた頃は、二人の予定が空いている日を事前に押さえて――押さえなくても予定は埋まらないが――晩酌をすることにしていた。その予定に合わせて各自酒やつまみを用意する。
     いつもネロが作ってくれる美味しいつまみにつられてグラスが空くペースが早い。そのため出来る限り翌日に何も無い日を選んで支障が出ないようにしていた。高頻度で開催出来ないため、酒もつまみも気合いを入れて、一度でたくさん好きなだけというスタイルになる事が多かった。それが一緒に住むと「今日は一杯だけ」も出来るようになるのだろうか。たまには気合いの入っていない晩酌も良いなと思ったのが一つ目。

     次にネロが作ってくれる料理についてだった。よく食べるのは晩酌時に食べるつまみ、そして翌朝に出される胃に優しい朝食。手料理が食べられるのはどちらかの家で会うときに限定される。そうなると自然と晩酌に合わせた内容となってしまう。ピクニックにでも行くような爽やかな性格をしていればもう少し別のメニューも食べられたかもしれないが、残念ながら日向より日陰が似合う男たちであった。
     ネロはきっと頼めば作ってくれる。しかし、わざわざファウストが食べたいがために作らせるのも悪い気がしていた。同棲すれば晩酌の時以外でも、ネロの手料理を食べる機会が自然と増えるだろう。まだ味わえていない見たこともない家庭料理に、ファウストは唾液を飲んだ。

     その他色々。時間の関係や優先度が低くて実現出来なかった事がたくさんある。そのどれでもファウストはだらしなく、楽しそうに笑っていた。自然とそんな想像ばかりが思い浮かんでいた。不安な事を考えるよりも早く、ファウストの口から了承の言葉がネロに伝わっていた。

    「ファウストも大体同じようなもんじゃん……」
    「ふふ、そうだね」

     うにゃうにゃと照れているネロに笑いながら同意する。しかし、改めて口にしてみると、ネロに甘えすぎなような気がした。その点は今後注意して改善していくことにする。日陰者だなんだとか自ら言っていたものの、ネロとの同棲でかなり浮かれていたようだ。人並みに浮かれていた自分に恥ずかしさを感じつつ、ネロも同じだったことに喜んでいた。ああ、そうだ、大切なことを忘れていた。

    「ところで、ネロ」
    「え、あ、はい。なんでしょうか」

     思ったより力強い声が出た。声につられてネロが背筋を伸ばし、変に敬語で返事をする。余裕があったブランケットが引っ張られ、腕同士が余計に密着した。緊張した面持ちのネロが叱られる前の子供のように、こちらを伺っている。

    「提案があるんだが」

     紫色の雲が遠くの空から伸びて、朝がすぐそこまでやってきていた。

     ファウストは顎に手をあて立ち竦んでいた。ホワイト、グレー、ベージュ。こちらはシンプルな形で色も落ち着いた色合い。すぐ上の棚には、陶器の側面に溝が入ったデザインでそれによる塗装斑が縞模様になっている。下部と上部で色が違うもの。取っ手が特殊なもの。先ほどの店では縁に猫の飾りがついているものがあったが、普段遣いしようとすると不便かもしれない。愛らしいデザインではあるが今回の目的にはそぐわない為、候補から外す。
     少し離れたスペースのポップが目に入った。『夫婦・恋人 ペアに大人気‼』その横には二つ並べると絵柄が繋がるデザインや、赤色と青色で男女のペアをイメージしたマグカップが陳列されていた。せっかくだからこういうあからさまな物にした方がいいのだろうか。
     そんな考えが脳裏をよぎったが、脳内イメージがはっきりとするまでもなく、ファウストはその場から離れた。

     店を出て、人にぶつからないよう吹き抜けの柵へと移動する。スマートフォンを操作し別行動をとっているネロへ連絡を入れる。簡素にメッセージを送った後、吹き抜けの柵に少し体重を預け一息つく。結構回ったつもりだったが、ショッピングモールにはまだ多くの店舗がある。吹き抜けから見える範囲ではマグカップを取り扱っている店があるのかはわからないが、雑貨屋らしき店舗も見える。気に入るものが見つかればいいのだが……。ぼんやりとしていたところでスマートフォンが画面の点灯とともに短く振動する。釣られて画面を見るとネロからのメッセージが表示されていた。

    『二階に雑貨屋があった』
    『すぐに向かう』

    ファウストは素早く返信し、一緒に記載されていた店舗へと向かうべくエスカレータに向かって歩き出した。

     先日、ネロに「お揃いのマグカップを買わないか?」と提案した。今まで使用していたマグカップが欠けていたから、と言えば驚いた顔をやめ「いいよ」と快諾してくれた。欠けていたのはファウストのカップだけのはずだ。本来ネロとお揃いを買う必要は無いのだが、ファウストが理由を追加する前にネロは首を縦に振った。今まで恋人らしいお願いなんてしたことが無い。それなのに急にお揃いなんて言っても案外驚かないものだなと、残念に思ったことはしばらくは秘密にしよう。

    「ファウスト、こっちこっち」

     店舗を探しながら歩いているとネロが先にファウストに気づいて声を掛けられた。控えめな仕草で手招きする。導かれるままネロの後へ続き雑貨屋に入っていった。

     店内には食器や保存容器を中心にキッチン用品が多く陳列されていた。カトラリーやプレートはもちろん、調理器具まで種類豊富に取り扱っているようだ。ネロが好きそうな店だなというのが第一印象だった。
     さすがに鍋や包丁は専門店で買ったものを使いたいだろうが、きっと見るだけでも心躍るものがあるだろう。雑貨というものはそういうものだ。この店ならばマグカップの種類も豊富そうだと期待が膨らむ。
     ゆっくりと店内を眺めながら進み、目当てのスペースまで来た。期待を裏切らず、カラーバリエーションもカップの形状もたくさんの種類がある。マグカップが陳列されている棚の前に男二人で陣取った。ファウストが適当なものを手に取りネロがそれを見つめる。

    「良さそう?」
    「そうだな。ここで決めてしまってもいいかもしれない。君も選んで」
    「はいはい」

     ネロが素直に返事をし、棚の下の方に置かれているカップを見るために腰を屈める。すぐに手に取ることはせずある程度目星をつけるのがネロらしい。ファウストは自分の手元に視線を戻し、手触りや形を吟味する。別のものを手に取ろうとしたところで、横眼にネロが手を伸ばしたのが見えた。

    「何か良いのあった?」
    「ああ、これ」

     ネロは手に取ったカップを少し確かめたあと、ファウストの方へ差し出した。差し出されるままそのカップを受け取る。通常より大きめのサイズで、底に向かってカーブしながら小さくなっているデザインのマグカップ。確かに良いな、と呟く。

    「ファウストっぽい色でいいなって」
    「色……?」

     確かに他では見なかった色をしている。そのカップを持ったまま、ネロと同じように身を屈める。どうやら色が豊富な物のようでかなりの種類がある。その中から一つを掴み取った。一瞬だけネロの前にかざして、そのまま立ち上がる。

    「会計してくる。待ってて」
    「え、それでいいの?」
    「こういうのは悩んでも仕方ないからな。君がこの色でいいなら」
    「はは、ファウストが選んだものならそれで」

     へらりと笑い、文句は無いよと返される。相手に流されやすいところがあるが、この笑い方は嘘ではないとなんとなく思う。散々店舗を回り、吟味した後の出会いは特別なようなものに思えた。歩き回り、悩み疲れた頭はもう、このマグカップたちに注がれる温かい飲み物のことで頭がいっぱいだった。


     遠くで何かの音がする。その音が少しずつ近づいてくる、否、大きくなり意識がはっきりしてくる。それが自身のスマートフォンで設定したアラーム音だと気付く頃には、完全に目が覚めていた。すぐにアラームを止め時刻を確認する。
     午前五時十五分。予定通りに目覚められたことに安堵し、続いて自身の隣を確認した。僅かに口が開いており喉の乾燥が心配になるが、ネロはすぅすぅと寝息を立てている。先ほどのアラームで目が覚めることは無かったようだ。どうせすぐに起こしてしまうがもう少しだけ寝かせておくことにする。
     時間には余裕をもって行動した方がいいのを、ファウストは知っている。健やかな寝顔を眺めるのもそこそこにベッドから抜け出し、キッチンへと急いだ。

     もろもろの準備を終え、ファウストはネロの部屋兼寝室へ戻ってきた。ネロは今もまだスヤスヤと寝ている。

    「ネロ、……ネロ。起きて」
    「んー……」

     呼び声は聞こえているようだがそう簡単に覚醒は出来ないようだ。しかしのんびりとネロが起きるのを待てる時間は無い。やむを得ず体を揺する。ネロ、起きて。

    「ファウスト……?」

     眉間にしわを寄せ、寝起きをの声で名前を呼ばれる。寝ぼけながらも名前を呼ばれたことに少し嬉しくなる。しかし、優しくは出来ない。布団をはがし呻くネロに申し訳なく思いながらも、腕を掴み無理やり上体を起こす。さすがに目が覚めてきたネロは大人しく指示に従う。

    「え、なに……?俺、寝坊した????」

     まだぼんやりして、目が半分しか開いていないネロにブランケットを巻く。

    「ほら、立って。僕についてきて」

     横に置いてあった先ほど用意したトレイを持ち、ファウストは立ち上がる。それに続くようにネロも立ち上がってくれた。もう大丈夫そうだ。ぼんやりしているネロは気が抜けていてちょっと可愛い。まるで母猫のあとを一生懸命ついてくる子猫みたいだなと、愛おしさを感じながら、ファウストは目的の場所へ移動した。

     ベランダに出ると空はまだ明るみ始めたばかりだった。間に合ってよかった。後ろをついてきたネロを振り返る。今日はファウストがベランダでネロを迎えた。訳もわからずといった様子で、ネロはファウストの横へ並ぶ。トレイを室外機の上に置き、乗せていたカップをネロへ手渡す。

    「これ、お揃いで買ったマグカップじゃん」
    「そう。朝のお茶会でもと思って」

     さすがに早すぎるよ、と苦笑いを浮かべつつもカップを受け取ってくれた。水色のマグカップが良く似合っている。

    「もうすぐ朝日が昇るよ」

     ファウストは視線をネロから、東の空へと移す。まだ陽は昇っていないが、もうすぐだとわかるくらい、空は複雑で美しい色をしていた。手には選んでもらった紫色のマグカップを握る。ネロもファウストに倣って空を眺め、カップに口をつけていた。

    「……あったかい」

     淹れたてのコーヒーの匂いを今更はっきりと感じる。言葉少なく、朝への色の移り変わりを、指先と肩から伝わる温もりを感じながら楽しんでいた。時々盗み見るネロの顔は穏やかで、その隣にいることを喜ばしく思う。この時の景色が鮮烈に焼き付いている。
     寝癖のついた前髪が、強い風に舞い上がっている。
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