敬人BD事務所中のカレンダーをめくっていると視線を感じる。あえて気づいてほしいと言わんばかり、訴えてくる気配を無視して作業を進めていると、向こうから痺れを切らして近づいてきた。
「夏休みが終わったと言うのにまだまだ暑い日が続くのう。この調子で夏ばかりになったら吸血鬼は消滅じゃ。そう思わんかえ?」
物々しい言い方をしながら敬人の横に立ってカレンダーを眺める朔間零は、昼下がりの事務所に先ほどやってきたようだ。彼らしくなくほんのりと汗ばむ額に目を潜めると、敬人はカレンダーの月の満ち欠けに指を伸ばす。
「…………地球は自転と公転をしているから夜はある。日が翳った頃から活動すればいいんじゃないか?」
「そうじゃな、夜は短いが、最近の夏は長い。秋風もめっきり吹かんくせにお仕事は冬のものばかりじゃ」
「あぁ、この間の冬物の撮影か?うまくいったようでよかった」
「ふふん、当然じゃ」
「それで? 用事はそれだけか?」
嘆息しながら会話を切り上げようとした敬人に、零がにんまりと唇を上げた。こういう顔をした零は碌なものではない。より険しい表情を浮かべる敬人に、零は蓮巳くん、とゆっくりと名前を呼んだ。
「もうすぐお誕生日じゃろ? 何か欲しいものはないかえ」
「……いや、今は特段何も」
「なんじゃ欲のない。自分へのちょっと早いプレゼントでも買ったのかえ」
「そういう習慣はないな。自分で買ったらプレゼントにならないだろう?」
「……………」
敬人の返答に明らかに零の表情が曇っているのがわかる。不満じゃないけど不満げな顔。複雑な顔をしながら零はそうかえ、と苦笑顔を浮かべる。
「朔間、何が言いたいんだ」
「なんというか、蓮巳くんらしいのう……」
「は?」
「今日は夜から収録なんじゃよ、我輩ちょっとどこかでお休みしてくるぞい」
「おい朔間、ほんとに何しにきたんだあんた! 暇なら仕事を手伝えっ」
敬人の声を聞かずにふらふらとその場を離れていく零がピタ、と足を止める。何かがぶつかる音がして敬人もその場に行けば、維吹が零に飛び込んでいた。
「……っと、ごめんね〜朔間サン… 事務所じゃ走っちゃダメね〜?」
「うむ、子供が元気なのは良いことじゃがの。人を傷つけてしまってからでは遅い」
「にゃはは、そうね〜? 蓮巳サンが見えたからつい走っちゃったさ〜」
「そうかえ。蓮巳くんのせいかえ」
「そう言うことになる……のかも?」
「なるか。バカいうな」
叱りつけたい気持ちを抑えながら敬人は維吹の首根っこを掴む。
「事務所で走るなと何度言ったらわかるんだ。あと俺を見て飛びつこうとするな。犬か、貴様は」
「にゃはは〜ごめんなさい?」
反省しているとは思えない声音で敬人の言葉を受け流す維吹に、はあああと特大のため息が出た。その様子を零に見られているのだから余計に居心地が悪い。
この少年、滝維吹の身体能力自体はそれなりに高いものだから不意に飛びつかれると敬人も倒れてしまいそうになるのだ。視界に入って構えているのならまだいい。後ろからどんと飛び乗られた時には事務所だろうがスタジオだろうが大声を出してしまいそうになる。
「仲が良くていいことじゃ」
「にゃは、そう見える〜?」
言いながらも維吹は敬人に本格的に説教を喰らう前に体を離した。
「何か用事だったか」
「蓮巳サンと会ったら聞きたくて。甘いのと辛いのどっちがいい?」
「…?? 辛いほうが好きではあるが」
にんまり、と維吹は笑顔を浮かべる。質問の意図が分からずに敬人は首を傾げた。
「じゃあじゃあ、赤と緑ならどっちがいい?」
「『紅月』なら赤…‥と言いたいところだが、メンバーカラーなら緑か?」
「辛くて緑、ね?…‥わかったさ〜」
「?? ああ、そうか…?」
それくらいプロフィールに書いてあるからわかりそうなものだがわざわざ聞いてくるとは何か意味があったのだろうか。満面の笑みを浮かべる維吹はその真意を教えてくれはしない。
「……くく、蓮巳くん、今の回答でよいのかえ?変更するならいまのうちじゃよ?」
「好みを答えただけだろう、別に何も変なことは…」
「あっ朔間サン、わかっても言っちゃだめさ〜!」
「わかっておるよ。時に滝くん、お主はわさびは苦手じゃったのではなかったかのう?」
「青唐辛子の青は緑の意味、って聞いたから平気よ〜? ちゃんと食べられる辛さにするし」
「そうかえ。自分が食べられないものだと味見もできぬからの」
「そういうこと〜。………って、全部喋っちゃったさ?!」
あわわ、と口を塞いだ維吹に、もう遅いとばかりに敬人がまた首根っこを掴む。零が何もかも見透かしたように笑う。健気じゃのう。なんて、ちょっといい話に加工したように、笑って。
「…………何を企んでる」
「企んでないっ! も〜〜誕生日にサプライズできなくなっちゃったでしょ〜?!」
「得体の知れないものを食べさせられそうになる俺の身にもなってみろっっ」
「くはは、蓮巳くんが欲しいものがないというからじゃ」
「そうよ〜?! もっと主張して〜?!」
「貴様らーッッッ!!」
「にゃはは〜」
「ふはは…」
事務所の片隅に笑い声が広がる。小さな声、小さな息。他愛のない時間と、くだらない喧嘩。いま、満たされているからこそだ。怒っても叱っても、軽口を叩いてもまたすぐに笑いあえる。そういう時間と、関係が続く以外、案外欲しいものなどないのかもしれない。