Unpacking your heart「いただきます」
「どうぞ」
テーブル代わりの段ボールに、龍之介お手製の料理が並ぶ。正規の食卓よりも狭すぎる空間は、食事を共にする人物をより近く、龍之介に感じさせた。フローリングの床に置いたクッションを椅子にして座る虎於は、こんな体勢でも美しい所作で料理を口に運んでいる。
「明日には家具が届くから。そうしたら、もうちょっとちゃんとしたものを作るよ」
「ん、……それは、謙遜か?」
「いや、謙遜ていうか……」
食べる手を止めて虎於はじっと、龍之介の言葉を待っている。
二人で決めたマンションは、陽当たりも交通の便もすこぶる良い。高層階とベランダ付きかを迷って、結局、30階程度のベランダ付きに落ち着いた。近場には緑の多い、広々とした敷地を有する公園があって、メインストリート沿いにはスーパーやコンビニも多くある。龍之介が習慣にしているランニングにはもってこいだし、仕事柄、生活リズムの安定しない二人には恩恵の大きい環境だ。
二人での新しい生活は、時間をかけて意見を擦り合わせ、ようやく決まった。虎於が頷いてくれた時に感じた最高の瞬間を、決めるまでに悩みながら交わしたさまざまな情動を、龍之介は形にして彼に渡したかった。大切にしたい人だから、そのことをしっかりと記憶に灼きつけて欲しかったのだ。
内覧の時に感じた心躍る高揚感は今や、背後にある荷解きの済みきっていない段ボールの山に、少しだけ萎縮していた。
「こんな食卓で申し訳ないな、って思って」
「なにが? あんたの作るものは、一流シェフに引けを取らないぜ」
「はは、ありがとう。虎於くんが気に入ってくれたなら、嬉しいよ。でも、そうじゃなくて……」
机もソファーもなく、ほぼ床で食事をするなんて、虎於にとっては初めての経験に違いなかった。
「ちゃんとしたかったな、って。ちょっと後悔してるんだ」
虎於が案外と好奇心旺盛なことを、龍之介はもう知っている。今だって彼が、段ボールの食卓に文句を言うことはなかった。この居た堪れなさは純粋に、龍之介の自己満足だ。分かってはいるのに、段ボールの食卓と御堂虎於という人間は余りにもミスマッチだった。
「……そうだな」
暫く黙っていた虎於が、長い脚を投げ出して呟く。
「段ボールの上で食事なんて初めてだ。しかもこうやって、とんでもなく無作法な格好で地べたに座ってる。御堂の家じゃ考えられない」
両腕を支えに天井を見上げた虎於の顔は、龍之介からは伺い知れない。
「食事をするためのテーブルだけじゃない。ベッドだってないし。今夜どうやって寝るのか、どうすれば朝まで快適に過ごせるのか、オレには全くアイディアがない。なんたって、こんな扱いをされるのは生まれて初めてだからな」
「とら……」
「だから、――」
高い天井を仰いでいたその顔が起き上がる。身体ごと、真っ直ぐに龍之介を見つめる。
「楽しいよ。今、すごく」
「虎於くん……」
「人から上等なものとして扱われるのは慣れてるから。それに見合う態度や作法なら、オレは知ってる――あぁ、いや……それしか知らないと言った方が正確かな」
虎於は少し視線を伏せて、フローリングに置いてあったグラスにワインを注いだ。
「なぁ、何があんたを不安にさせた? オレが楽しいってことは、あんたを安心させられないのかな……」
澄んだルビーが、グラスに注がれる。引越し先で飲むのだと、虎於が探し回った銘柄だ。
「こんな夜は散々なのかもしれないけど、――」
虎於は二つのグラスの片方を、龍之介へと差し出す。
「どうせ散々なら、あんたとが良いよ。オレは」
ルビー色が揺れている。彼そのものを差し出されているように思えた。
「――オレは……オレも、」
爪の先までもが精巧にできた彼は、薄いガラス製のワイングラスほどに繊細だ。慎重に、優しく触れないと壊れてしまう。でも、いつまでも豪奢な棚で飾られて、あるいは、箱の中で眠っていることを望んではいない。
「この先の最高も最悪も、虎於くんとがいいよ」
彼が注いでくれたルビーを、龍之介はそっと受け取る。
少しだけ触れた指先の、自分よりも低い体温が泣きたくなるほどにあたたかい。
「ふはっ、もう最悪があること前提かよ」
「あ、や……! もちろん! 大事にする……!」
「はは、いいよ。あんたがいてくれたら。その最悪ってやつもきっと、今みたいなんだろうな……悪くないよ」
フローリングに置かれたグラスの縁を、精巧な指先が撫ぜる。甘くほどけた目尻、緩やかに弧を描く口元。グラスに注がれる彼の穏やかさが、酷く鮮やかに龍之介の瞳を灼いた。まぶしさがツンと鼻先を抜けて、そのままぽろりと龍之介から溢れた。
「――虎於くん」
呼べば、透きとおるルビーが見つめてくれる。何も言わず龍之介が差し出したグラスの縁に、虎於の持った対のグラスが、そっと触れあう。密やかに、凛とした音を鳴らして虎於が口端を上げた。
「何に乾杯する?」
「んー……そうだな――」
とびきりだけど、ありふれた、これからの毎日に