こういう話が見たいシリーズ①(ジニピ) 吐く息も見えるような真冬の早朝。その学生は朝帰りの気だるい頭を俯かせて駅から家までの狭い道を歩いていた。通っている大学と同じ駅だが、反対側の出口を降りただけで途端に賑やかさは無くなる。学生向けの安い賃貸アパートが多いせいか、あまり治安が良いとも言い難い。
とは言えもうそこに住んで二年目になる男子学生は慣れた足取りで先を急ぐ。アルコールの抜けてきた体にこの寒さはきつい。早く帰って少しでも眠りたい、とネックウォーマーに顔半分を埋め直した時、道の隅にそれを見つけた。
ヒビの入った古いアスファルトの上に落ちていたのは、手袋だった。男女どちらともつかない大きさの、黒い革の手袋だ。
特に珍しい光景ではない。こんな時期だし、場所柄酔っ払いも多い。落とし物などよくあることだ。しかし、男がそれを目に止めたのはある「違和感」からだった。
膨らんでいる。革でできたタイトそうな手袋はそのままであれば平たく潰れているはずではないだろうか。
まるで「誰かがはめている時」のようなその形に、中に何か入っているのだろうかと好奇心にかられて通り過ぎざまにその入口部分を覗き込んだ。
男の叫び声が、静謐な朝の空気に反響した。
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「人の手首ねえ。それは普通に警察案件じゃないんですかあ?」
「いやそれが、その話には続きがあって」
がりがりと年季の入ったシュレッダーの働く音が響く部屋で、ピーニャは積み上がった冊子を一冊ずつ適当な厚さに破きながら話を続けた。
「無くなってたんですって」
「何があ?」
「手袋の中身が」
「手首が?」
「はい」
裂いた冊子の頁をジニアに渡せばそれを受けっとてまたがりがりと音を立てシュレッダーに飲み込ませる。ひたすらにその動きを繰り返す姿を見てそういう妖怪みたいだな、と思ったが口には出さなかった。
「どのタイミングで?」
「びっくりして一度走り去って、流石に通報した方が良いかと思って数分後に戻ったら、中身が無くなっていたそうです」
「誰かが持ち去ったんじゃないですかあ?」
「だとしても怖くないですか?」
「それか手首が自力で歩き去ったか」
「もっと怖いじゃないですか」
「怖いです?」
「怖いですよ!」
意外そうにこちらを見たジニアに、当たり前じゃないかと勢いよく顔を向ければからかう様に目を細めた。
「もっと怖い思いしてるでしょうに」
「いや…それは、」
「というか、」
紙の束を渡そうと向けた手首を掴まれた。あ、と思った時には遅く、引かれた体は座っていた椅子のキャスターの力を借りてジニアにぶつかるほど近くまで引き寄せられた。
「なに、」
「それはまたどこで“つけて”きたんです?」
「は………あぐっ」
何の前振りも遠慮もなく口内に突きこまれたジニアの指が喉の奥に伸びる。途端にこみ上げてきた吐き気に顔を顰めるも、この凶行の「理由」は分かっているので体に力を入れて抵抗しないように自分を抑える。
抉じ開けられた口の中に深く入り込んだジニアの手からいつも感じる消毒液の臭い。せめて手を洗ってからやってほしいといつも言っているのに。
「ん…、ぅ」
「引っ張りますよお」
「、ぅ」
ずるり、と喉奥から「何か」が引き摺り出される感覚に嗚咽が漏れた。びくりと震えた肩をジニアの片手に押さえられ、開いた口から唾液が垂れる。
舌の上をやけに冷たくぬるりとしたものが這っていったと思えば、それまで聞こえていなかった「外」の喧騒が一気に耳に入り込んできた。
窓はずっと開いていた。大学の構内にはまだ沢山の学生がいる。人の話し声。足音。誰かのメッセージが着信を告げる音。形の把握できない音の集合体がどっとピーニャに襲いかかった。
「げほっ……あれ…?」
「なんですかねえ、これ。どっか行きましたあ?」
「い、いえ」
「じゃあ『誰か』かなあ」
ジニアを見れば、何かを摘むように合わせた指先を見詰めている。そこに何があるのか、ピーニャには見えない。しかし、ついさっきまでピーニャの耳に「シュレッダーとジニアの声以外何も聞こえなかった」理由が“それ”なのだろうことは理解した。
最初から信じていたわけではない。この母方の「叔父」にあたる男は、同時に自分の大学の所属ゼミの講師でもある。様々な事情が重なって現在彼の家に世話になっているのだが、その中で体験した様々な「奇妙な」出来事はピーニャの中の常識や普通といったものを悉く破壊していった。
濡れた口元を長い袖で拭いながら、ピーニャは呆れたように声を出した。
「これ、もっと楽な方法ないんですか?毎回苦しいしちょっと…居た堪れないんですけど」
不満げに呟いたピーニャに、ジニアの返事は簡潔だった。
「他の手っ取り早い手段としては、きみが吐くまで腹部を殴打するかぼくが直接口から吸い出す方法かくらいですけど」
「このままで良いです」
間髪入れない返事に、ジニアは可笑しそうに笑った。
ジニピニャ『奇譚日和』