この世界を斬れスタートレーニングセンター、通称STC。スター団という名称を失くした訳では無いが、これまでの印象が完全に払拭できたわけではない。そのままの名前をリーグの息のかかった施設に冠するわけにはいかないというのは道理である。
強引な勧誘を行っていた一部の団員の存在も事実ではあるし、そういった団員に直接迷惑を被った生徒がいることも間違いない。
そして、件のスター大作戦で彼らによって大きく人生を変えられた者も少なくない、というのもまた、揺るぎない真実である。
チーム・セギンには、まだ寮に残らずに留まっている団員もそれなりにいる。単純に「こっちの方が居心地が良いので!」と言う者もいれば、学園に戻る、ということへの準備がまだ整っていない者もいる。
チームのボスであるピーニャはそんな彼らの意見を尊重して、「ここへは好きなだけ居ていいし、好きな時に帰ってきていいよ」と彼らに伝えていた。
セギンの団員は自分たちのボスのかつての厳しい振る舞いと現在の威圧的な風貌のどちらも分かっている上で、その心根の良さや心配になるほどのお人好しさも知っている。
時折アジトで行うライブはほぼ全ての団員が総出で盛り上がり、学業や音楽活動もこなすピーニャのハードスケジュールを心配し、話す時間ができれば喜々として集まってくる。
いつの間にかすっかりピーニャをボスとして受け入れ、そして慕ってくれる団員を、くだらないことに巻き込むことはしたくなかった。
「留守番サンキューね、ドドゲザン」
宵っ張りも少なからずいるセギンのテントも明かりが消え静かになった深夜。
しんと冷えた空気が音を立てるほどの静寂の中で、ピーニャの声はなお聞き取れないほどに小さなものだった。
普段張らずとも遠くまで聞こえるよく通る声の面影もない。
ざらりと掠れた声は喉の奥に詰まった何かを震わせるようにすぐに地面に落ちていくようだった。
いつもの改造制服でも、最近時折着るようになった学園の新しい制服でもない。
上下揃いの黒いジャージに、深く被ったニット帽。ハイカットのアーミーブーツと、頭から足先まで真っ黒なピーニャは滑るように自分専用のテントに身をしまった。
「誰も来なかった?」
「ド、」
「そう。良かった。キミもいるし、まあ、分かんないよね」
照明もついていないテントの中は薄暗い。宵闇に目が慣れたピーニャと、このくらいテントの中でじっと主の帰りを待っていたドドゲザンには問題はなかった。
スター大作戦以前からずっと使っている簡易ベッドに詰め込んだタオルや着替えを引っ張り出せば、それらが作り上げていた「人らしい膨らみ」は消える。
「お疲れ様。こんな時間まで付き合わせてごめんね。戻っていいよ」
取り出した着替えの中から就寝時に使っている部屋着を選んでベッドに放り、今着ているジャージを脱ごうと首元に手をかける。
「…………」
普段なら机に置いている彼のタイマーボールに自分から戻るはずのドドゲザンがいつまでもそこに留まりこちらを見ていることに気づいて、怪訝な目を向けた。
「ドドゲザン?」
「………」
何か報告が必要なことでもあったのだろうか。真剣な表情でこちらを見るドドゲザンを視界に入れつつ、着心地の悪い服を着替えることを優先した。
中に来ていたTシャツ毎首を抜いて、腕を延ばして背中から引き抜けば、ぴきりとどこからか鈍い痛みが走った。
「っ、」
一瞬顔を顰めてから、服を抜き取って頭をふる。ついでに落ちたニット帽の上に抜いだ服を投げる。とてもではないがベッドや机に置ける状態ではない。真っ黒い生地と薄暗い夜闇で誤魔化せたが、明るいところで見ればそれには所々まだ固まってすらいない血がついているのが分かるだろう。
それらのおよそ半分はピーニャ自身のもので、半分はもう出会うことはない相手のものだ。
切れた口の端に滲んでいた血を指先で拭い、痣が目立つ身体を一瞥すること無く部屋着に手を伸ばす。
「………どうしたの?」
濃紺のTシャツに触れかけた手が止まる。
振り返れば、何故か直ぐ側までやってきていたドドゲザンがその手をそっとピーニャの背中に触れさせていた。鋼の、冷たく硬い感触がひやりと背中を粟立たせた。
「ドドゲザン?」
やはり何かあったのだろうか。着替えの手を止めて体ごと振り向けば、こちらを見つめるドドゲザンの目が確かに「何か」を伝えていた。
ああ。
ピーニャにはその目が物語っている彼の心がすぐに分かった。
それは共に越えてきた時間と密度と、二人の間にある「ポケモンとトレーナー」以上の感情の賜物かもしれない。
しかし、今はそれが酷く苦しかった。
「これはさ、ボクら…人間の、業っていうの?そういうのの、代償みたいなものだからさ」
今、ピーニャが自らドドゲザンに触れることはない。いつも体温を分けるほど握りしめているタイマーボールすら、こういう時には指一本触れたくない。
「キミには関係ないから」
彼らポケモンは、いや、彼は、ピーニャの中ではこの世に残った唯一の「綺麗なもの」なのだ。
スター団の仲間たちも、団員も、最近親しくなった学園の友人も、皆等しく大切な存在だ。「宝」と称したことに嘘偽りはひとつもない。
それでも彼らが人間である限り、そして、それぞれの望みを持ち、考え、行動する中で犠牲にしている「何か」がある限り、それはいかに崇高な想いがあったとしてもピーニャ同様「清廉さ」とは離れていく。
人間、とは、生きているだけで醜く汚い生き物だ。
これまでの長いとは言えない人生の中で、ピーニャはそれをまざまざと見せつけられた。体に、頭に、心に痛みとともに刻まれたそれは決して消えること無く、きっと生き続けることで増えてさえいくだろう。
今のピーニャはその人間の汚さの塊と言っても過言ではなかった。
スター団に、あるいはその中の個人に、多かれ少なかれ恨みを抱いている人間は一定数存在する。
あの時逃げ出したいじめの加害者や、今も学園に留まっているが後ろめたさを抱えることになった当時傍観していた生徒たち、子供の紛争に巻き込まれ職を追われた元教師。それ以外でも、スター団がそれなりの規模を持ったために生まれた悪感情や、本当にプライベートな中で発生した軋轢など、数え上げれば切りが無い。
「何かご意見があれば、スター団のまとめ役、チーム・セギンボスのピーニャまでどうぞ」
ピーニャが把握している限りのそういった者たちにそれとなく発信した言葉はすんなりと広まったらしい。
大所帯のスター団に対する被害を一箇所にまとめることは、メリットは多くデメリットは少ない。
幸いにも、自分は大抵の「抗議」に対してそれなりの耐性がある。
余程強い執着がなければ、そういった者たちは憤りを向ける相手が「誰か」などは重要ではない。自分たちの鬱憤を晴らし、己の正当性を振りかざし、自分よりも弱い「何か」が這いつくばる姿さえ見られればそれで満足するのだ。
馬鹿みたいに単純で、浅はかで、簡単なことだと思った。
勿論、そんな物騒な相手をただやられて取り逃がすわけではない。
大抵はピーニャが動けないと確信すればそれで溜飲を下げて立ち去ろうとするか、たちが悪ければ趣味の悪い「遊び」に興じようとする場合もあるが、いずれにせよ気を抜いた人間など用意さえしていればどうとでもできる。
他者に対して残酷になれる者に、慈悲や憐れみや良心といったものをもつことの愚かさはこの身を持って知っている。
そんな夜の闇に溶けていなければ気が狂いそうな時間を経てここにいる自分は、目の前で心を砕いてくれているドドゲザンに触れることも、その優しさに凭れ掛かることも許されない。
「ごめんね。今日は疲れたから、明日、シャワー浴びてからちゃんと、」
目の前で、空気をも切り裂くような刃が閃光をあげた。ような、気がした。
「っ、ドドッ、」
背中に回る手はやはり冷たく、それなのに酷く優しい。
触れれば薄い皮膚などすぐに裂けてしまう鋭利な刃がついた体は、傷跡が剥き出しなままのピーニャの体を守るようにあたりを覆う。
だめだ。
触れないで。
キミが汚れてしまう。
虚勢に傷が付く。
離れて。
縋り付いて、しがみついて、
声を上げてしまいそうになるから。
「ドドゲザン、おねが、だから…」
硬い胸板を押し返す手はとてもそんな気のなさそうなほど弱々しく、溢れた声は情けないほどに震えていた。
「駄目だよ、キミは……ボクの、大切な、」
この感情を、なんと表わせば良いのだろう。
肌が触れるほど密着したドドゲザンの体が、呼吸に合わせて小さく動いている。
彼の体で脈打つ血も、その息遣いも、ピーニャに向けられる想いも、全て、全部、感じられるからこそ、苦しい。
「ドドゲザン…ドド、ねえ、ごめん」
思わず片手で覆った口から、何度も噛み殺したものが血反吐のようにどろりと零れ落ちた。
「ボクの世界を、キミだけにして」
終わり