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    忘れ得ぬ、雪軒、A英など。支部から作品移動したもの有り。

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    A英/灰の色の怪物シリーズまとめ。
    支部にて投稿していたものをまとめたものです。

    灰の色の怪物1〜2灰の色の怪物



    狭い小さな部屋。向かい合った医者からの丁寧な説明を淡々と聞き流す。語られる現実はやはりそうかと、今更な気持ちと、ようやくという喜びに近かった。



    強い日差しが木々に遮られガラスの破片のようにコンクリートに散らばる。通り抜ける風はこの季節にしては涼しくて英二の切り揃えられた黒髪を揺らし去っていく。ぼんやりと見上げた先には濃淡のない作り物のような空が広がっていた。白く照った中庭で子供達が駆け回る。日陰の中の静寂で英二は目を閉じた。
    英二の隣、空いたベンチの上には無造作に大きな白い封筒が置かれている。これからすべき手続きのための書類だが今は目を通す気にはなれなかった。
    「隣、いいですか」
    その声に目を開ければ英二より幾分か若い男性が立っていた。青年と呼んでも差支えはなさそうだ。薄い茶色の髪とそれより少しだけ濃い色をした瞳だった。手足は細く背丈が高いせいか、それとも場所のせいなのか、どことなく儚い印象を受けた。
    「ええ、どうぞ」
    置きっ放しの封筒を手にして隣を開ける。彼は小さく礼を言いベンチの端に座った。
    しばらく沈黙が続いたが青年からの問いかけでそれも終わった。
    「ここに入院しているんですか」
    「これからそうなる予定なんです」
    英二は封筒を小さく掲げる。
    「あなたは」
    「僕は、知り合いがここにいて」
    青年は視線を前に戻す。子供達がナースに声をかけられ屋内に戻っていくのが見えた。
    「入院となるといろいろ不安でしょうね」
    「うーん、実はそこまで不安とかはないんです」
    このときの英二はひどく落ち着いていて、これからやってくる未来に対して恐怖もなかった。もうすぐ迎える結末の全てを受け入れられるほどに彼は穏やかであった。しかし胸に渦巻く感情はそう簡単ではなく、だからだろうか。今出会ったばかりの青年に少しだけ本音が出た。
    英二自身、自分の気持ちを整理したくて言葉にしたかったかもしれない。古い付き合いに言えば意図しない深い意味を持たれてしまうかもしれないから、他人の彼に話す方が気が楽だった。
    「いきなりこんなこと聞かされてもって思われるかもしれないですけど、僕の病気、もうどうにもならないみたいで。入院も治療というかなんというか……」
    青年は英二が言わんとすることを察し、言葉を探しあぐねていた。やはり困らせてしまったかと申し訳なくなる。
    「……怖くないんですか」
    「向こうで待ってる人がいるから」
    「だから、怖くない」
    「うん。こんな風に言うとみんなには怒られそうだけどね」
    あの夏の日と同じ空の向こうに。きっといる。
    眩しい太陽の色の髪をなびかせて、瑞々しい新緑と澄んだ河の輝きを放つ瞳で。
    彼を失ってからもう何年も経った。
    何度、彼の元へ行きたいと願っただろう。何度、あのとき彼の元へ這っていかなかったと後悔しただろう。
    後悔と思い出を繰り返して彼がいた時間に縋っていた。それほどまでに彼を愛していたと自分でも理解していた。
    愛しくてたまらない、永遠に時を止めた親友。
    彼は今、向こうでどうしているだろう。そんなことを考えられるようになったのは10年ほど前。それまでずっと彼の姿をあの街で探し続けていた。
    病気のことが発覚したとき、迎えに来てくれるのは君かな。なんて、思ったくらいには英二はこの先に結末を受け入れていた。待っていた、と言ってもいい。
    本当はすぐにでも追いかけたかったができなかった。彼に守られた命だからなのか。打ちひしがれる自分を懸命に支えてくれる人たちがいたからなのか。理由はよくわからないが、それでもそうすることは違うと感じたから。必死に過酷な世界を生きる彼をそばで見ていてそんなことはできなかった。
    ならば生きるしかなかった。
    彼がいない世界は寂しくて、彼が望んだ自由が果たされない世界は理不尽で。それでもここで彼が生きていたという事実だけで夜明けは美しかった。
    だから、迫り来る終わりは英二にとって恐怖でも不安でもなかった。もうすぐ会えるという、再会に近い。
    もちろん残していく友人たちとの別れは悲しい。支えてくれた人、見守ってくれた人、この国に来てからたくさんの人と出会った。そして心配ばかりかけた家族。彼らがどれほど自分を大切にしてくれているのかわかっているから胸の奥に燻るこの期待は秘めておこうと決めている。
    これまでの人生、自分なりに精一杯生きてきたつもりだ。胸を張って彼に会えるように。やり残したこともない。あとは、向こうで待ってる彼らに会うことが英二の望むことだった。
    「……僕にもいるんです」
    「え」
    英二が思わず隣を見やると青年は俯いていた。背中を丸め、うなだれる姿は先ほどまでの静かさと違ってどんよりと沈んでいた。
    「僕も、ずっと会いたくて……でも、今の僕じゃ無理なんだ…………」
    その声は聞いているだけで彼の悲痛さを伝えてきた。耐えきれなくなったのか、青年は手で顔を覆い、声にも震えが表れた。
    「あなたが羨ましい」
    「それって……」
    苦しげな様子に手を差し伸べようとした英二は動きを止めた。青年の言葉で彼が自分と似た境遇にあることを理解してしまう。
    「僕も会いたい……あの人に。だから」
    一際大きな雲が太陽を隠す。誰もいない中庭が不気味な影に覆われた。
    青年の指の隙間から僅かに光が溢れた。
    それは赤く、揺らめいていた。



    「こうするしかないんだ」



    青年の細い指が英二の首に絡む。
    「え……」
    伸ばされていくあてのなくなった英二の腕をもう一方の手で掴むと、晒された腕に焼けるような痛みが走った。
    まるで世界の時間が鈍くなったかのようにその光景が鮮明に英二の瞳に映る。
    薄暗い日陰で濃い赤色が光る。
    痛みとともに何が入り込んでくる。
    皮膚に刺さる牙は血に濡れ、彼の顔を汚している。
    一瞬だった。しかし英二にとってそれは恐ろしく長く、それだけの時間感覚があってもこの状況を理解することができなかった。
    気付けばベンチに倒れて生い茂る木々を見上げていた。思考が泥のように鈍く、瞼が重い。
    「ごめんなさい……ごめんなさい……」
    すすり泣く声がする。考えることができなくても聴覚だけがまともに機能し続けた。
    「ごめんなさい……、僕は、人として終わりたい…………あなたが羨ましかったんだ」
    とても眠かった。身体が疲労感に包まれて、今にも全てを放棄しそうだった。徐々に沈んでいく思考に、遠く声が聞こえる。
    「ごめんなさい…………」
    何度も何度も、謝り続ける声はひどく罪悪感に苛まれていた。そして振り切るように遠ざかる足音を最後に、英二の記憶はここで終わった。







    気付いたときには1人だった。
    親も兄弟もいなかった。
    誰も、自分を愛する人間はいなかったはずなのに、1人のはずなのに当たり前のように隣に誰かいる気がした。
    今はいないけれど、確かに隣にいて姿が見えなくてもずっと一緒だった。だから孤独ではなかったし孤児であることを悲観することもなかった。
    何かを忘れていて、それが思い出せないもどかしさにいつも悔しさを感じていた。自分は知っているはずだ。それを思い出せない。思い出せないから仕方ない、では片付けられなかった。何があっても見つけなければ。

    「なにを……」

    窓の外で鳥が飛び立つ。空へ伸び上がっていく白い影が遠くに消える。
    小さな掌をガラスに押し当てて一心に空に目を凝らす。足りないものを探して。
    眩しい金糸の幼子は大人が呼びに来るまでじっと空を見上げていた。



    アスラン・カーレンリースは20歳を迎えた。
    貧しい孤児院で育った彼は国の援助を受け学校に通いそこでギフテッドとして更なる教育を受ける機会を得た。勉強は嫌いではなかった。知識はいくらあっても困ることはない。そして大学を飛び級で卒業し、主に株とコラム、ときに論文を書いて日々の糧にしていた。
    美しさを形にしたような、誰もが見惚れる顔立ちと細く柔らかなブロンド、宝石にも劣らない輝きを宿した瞳。
    明晰な頭脳、完璧な容姿、そしてありあまる富。彼のことを知る多くの人間は、彼のことを成功した者、恵まれた者と羨むだろう。人が求め憧れるものを彼は持っていた。
    しかし当の本人にとってそんなものに大した価値はなかった。
    人が望むものを持っていても、彼にとっては必要なかった。
    願うのはただ1つ。ただ1人。
    「英二……」
    吐き出された息とともにこぼれ落ちた名前。アスラン––––アッシュにとってこの世界に意味と価値を持たせる唯一の存在の名だった。



    「アッシュ」
    店に入るとすぐに奥の席から見慣れた顔を見つける。静かな店内にはカウンターにいる老人以外は今のところ他の客はいない。
    「それで電話の件、確かなんだろうな」
    アッシュは席に着くと同時に切り出す。1分1秒すら惜しいというように急いていた。
    「情報としては確かだ。だがあいつを知ってるのは俺たちだ。直接確認しないと今までの二の舞だ」
    「もしかしたら外見だって違ってるかもしれないしな。だとしてもあんたなら間違えるわけないか」
    アッシュを待っていたのは青年と少年だった。スキンヘッドにサングラスをした青年はその外見に反して気さくな人柄が声や雰囲気から滲んでいる。
    もう1人の少年は小さいながらもその雰囲気は冷静で大人びている。
    テーブルには1枚の写真が置かれていた。画像は荒く、ピントもずれている。写っているのが人だということはわかるが角度からしても表情や顔立ちは見えない。後ろ姿から僅かに顔の輪郭が見える程度だ。
    アッシュはそっとその写真に触れる。写真の中の人物の頬を撫で、束ねられた黒髪をなぞる。
    「必ず見つける」
    「おう、もちろん」
    「当たり前だ」
    3人はそれぞれ決意を秘めた瞳でテーブルに置かれた写真を見やる。写真の中、その人物は眩しいネオン街の中で黒点のように人混みに紛れていた。



    記憶を全て思い出したとき、ようやく目が覚めた気分だった。長い間、夢を見ているようだった。全てを思い出してやっと生きている現実に目を向けることができた。
    アッシュにとって思い出せなかったこれまでの人生は欠けたものだった。パーツが足りないままどうにか歩いてきた。自分が自分でないような気がして、まともなふりをしているのも嫌だった。
    そして記憶を思い出し、知った。
    自分に欠けたものとそれを求める資格が自分にはなかったことを。
    何故かなんて、考えるもの嫌になるくらい自分がしてきたことは罪深かった。
    これはいわゆる生まれ変わりというやつなのだろう。これは続きだ。新しい続き。
    過去をなぞるのではない。けれど過去に囚われている、と言われればそうなのかもしれない。
    例えこの記憶がなかったとしても自分は自分だ。確かに記憶がなければきっと今とは違う人生だったろう。ならば自分はあのときの記憶を持つ今を選ぶ。自分がしてきたことの重さに打ちのめされても、彼を、英二との思い出を忘れたままでいるほうがよほど苦しかった。
    だからこれだけでいい。あの日、抱いて眠った手紙のように彼との思い出と与えてくれた愛があればよかった。
    例え今の自分の罪でなくても、かつての自分が犯した罪が消えるわけではない。それを否定してしまったらあのとき英二とともにいた自分は自分ではなくなってしまう。
    会えるわけはなかった。前世どころか今世でもトラブル体質の自分がまた彼を巻き込むことは目に見えている。こうして転生なんていうものがあるのだ。きっと彼もどこかに生まれ落ちてあいも変わらずお人好しで誰からも慕われているのだろう。
    だから記憶以上を求めてはいけないと、アッシュは英二に会いたがる自分の心を律した。もう会わないとあのとき決めたのだから、それと同じことだと。
    しかしアッシュの決意は思わぬところで破られた。






    「ふざけんな」


    ビリビリと肌に彼の怒りが伝わってくる。あの頃のように子供の憤りではない。冷え切った、研がれた刃のような怒気がシンから放たれている。





    今では真っ当な生き方ができるが時折、真面目ぶるのも疲れて昔の街並みが恋しくなることがある。ふらりと立ち寄った店もそんな雰囲気が漂う通りに建っていた。
    そこで思わぬ再会があった。あちらもよほど驚いているのか、互いに数秒身動きが取れなくなる。
    「アッシュ」
    先に動いたのはショーターだった。加減なしにハグされて苦しかったが耳元で聞こえる彼の笑い声でそんなことはどうでもよくなった。
    そして呆然と立っているシンはグッと口をひき結んで必死に涙を堪えていた。あの頃と変わらない身長と子供っぽい表情に思わず頬が緩む。
    話したいことはたくさんあった。あのとき言えなかったことや、聞きたかったこと。
    ショーターはアッシュがあのときのことを謝罪するとお前のせいじゃないとアッシュを責めるどころか、辛い思いをさせたと言われてしまった。
    すると今度はシンが思いつめた表情で、頭を下げた。
    「アッシュ……こんなこと言っても今更かもしれないし、許されないとは思う。けど……すまない」
    「それは、何に対しての謝罪だ」
    「ラオのこと……俺がちゃんと伝えていれば」
    「もう終わったことだ。恨んでもないし、ショーターの言葉を借りるなら、お前のせいじゃない」
    シンはそれでも何か言いたげに顔を上げ、口を開こうとするが流れてくる涙を拭ってうまくいかない。この3人で1番長く生きたのはシンだ。それ故にシンが背負ってきたものはアッシュが知ることよりもだいぶ大きかっただろう。
    「あの……さ、聞いてもいいか」
    ひどく躊躇いながらシンが口を開く。視線を合わせようとしないシンに疑問を抱きながらも無言で先を促す。
    「英二は、一緒じゃないのか。あいつは今どこにいるんだ。会えたんだよな」
    シンは身を乗り出し焦ったようにまくし立てる。まるでアッシュなら英二と会えているはずだと確信のような願望があった。
    英二という名前にアッシュは思わず視線を落とした。その反応にシンは意気消沈した様子で椅子に着く。
    「俺は英二には会わない」
    アッシュの言葉に弾かれたようにシンが顔を上げる。2人の様子を見守っていたショーターも思わずといったようにおいおいと声を上げる。
    「アッシュ、どうしちまったんだよ。会わないって……まさか探してもないのか」
    「お前らは……探してるみたいだな」
    「当たり前だ。もちろんお前のことも探してた。ここら辺でお前に似たやつがたまに来るって聞いてな」
    どうやらこの再会は2人のおかげだった。
    「どうして……英二に会わないんだ」
    俯くシンの声は僅かに震えていた。アッシュはシンの問いかけに自嘲的な笑みを浮かべる。理由など聞かなくともわかるだろうと。
    「俺は疫病神だ。あいつのそばにいても、あいつを不幸にしかしない。シン、お前も見たはずだ。英二はあのとき俺のせいで死にかけた」
    今でも鮮明に覚えている。英二から溢れる血や痛みに苦しむ英二の表情を。
    そばにいたかった。けれどそのせいで英二を危険な目に遭わせた。自分がいなければ銃に撃たれて重傷を負うことなど、平和なあの国で生まれた彼には起こるはずのないことだった。
    「俺がいない方があいつは幸せに……」
    あのとき、伸ばされた手を取れなかった。それでいい。
    アッシュは自分の決意を反芻するように言葉を重ねた。これでいいと言いながらその声音はひどく落ち込んでいた。


    「ふざけんな」


    テーブルを叩きつける音と共にシンの声が店に響く。周りの少なくない客も何事かとこちらをうかがう。
    「シン……」
    ショーターが落ち着かせようとするがそれすらも振り切ってシンはアッシュの胸ぐらを掴んで抑えきれない衝動に身を震わせた。
    その凄みはあの頃の比ではなかった。アッシュがシンと知り合ったのは僅かな月日で素質はあるが未熟なボスという認識だった。しかし彼はやはり自分が死んだ後、平坦ではない人生を歩んできたのだろう。感情をただぶつけるのではない、圧倒するような気迫があった。
    しかしそれでもアッシュを動揺させるには及ばなかった。アッシュは冷めた目をしてされるがままだった。
    「あいつが、英二がどんな思いでいたか知らないくせに」
    シンが語るのはアッシュが知り得ない英二だ。チリっと胸の奥が痛むのを無視する。
    「あんたが死んだ後英二がどうなったか想像できるか 英二は知らせを受けてすぐに戻ってきた。そんで待ってたのはアッシュ、あんたの死体だ。あいつが、どれだけ泣いたと思う。どれだけあのとき会いに行かなかったことを後悔したかわかるか」
    苛立ちに舌打ちするシンは突き放すように手を離す。ショーターに促されてなんとか席に戻った。
    自分の死後、英二がどうなったか知る術はなかった。初めて聞かされた英二にアッシュは心臓が縮む思いがした。
    「それからずっとあの町で暮らしたんだ。永住権まで取って。プロのカメラマンになったんだぜあいつ」
    「……そうか」
    「あんたの死に、ずっと囚われてた。俺にはそう見えた。でも、俺には何もできなかった」
    うなだれるシンの頭をショーターがかき混ぜるように撫でた。
    「俺もさ、聞いた話でしかないけどよ。シンはずっと英二のそばで支えてくれてたんだ」
    アッシュの脳裏に浮かぶのは英二との最後だった。涙を流し、行けと叫ぶ英二。自分は何も返せなかった。たくさんのものを与えてくれたのに、礼の一つも言えないまま。
    どんなに思っていても時間の流れに押し流されいつか忘れてしまう。人の感情など変わる。不変などありはしない。
    けれど、英二はアッシュのことを忘れるどころかアッシュと共に時間を止めてしまった。
    いつも、金髪の後ろ姿を探していたと、聞かされアッシュは自分の考えが間違っていたことを知る。英二の思いを思い知らされた。
    「それでも、英二なりにあんたの死を乗り越えられたんだ。忘れるとか、過去のことにするとかじゃなくてさ……」
    英二が個展で出したというアッシュの写真のタイトルを聞いて、思わず泣きそうになった。英二が与えてくれた自分の名前の意味。英二は一体どれだけの親愛を自分にくれるのだろうかと、死してなお思い続けてくれたことが嬉しくて、そんな彼を1人にしてしまった自分の不甲斐なさに顔を覆う。
    「頼むよアッシュ。英二を見つけてくれ。英二と会ってくれ。あいつの幸せを願うなら」
    「……今、英二がどこかにいるとしても俺たちのように記憶があるとは限らないんだぞ」
    「記憶なんて関係ないだろ 記憶がなくても英二は英二だ。あいつはきっと変わんねえよ」
    ショーターはすっかり涙で濡れた2人の背をバシバシと叩く。慰めにしては随分と雑だったが彼らしい。
    アッシュが懐かしさに苦笑いするが、シンの表情は暗いままだった。
    「早く見つけないと……アッシュとなら一緒にいると思ってたのに……」
    「シン」
    「焦るな。アッシュと会えたんだ。きっと英二も……」
    確かにこの広い世界でたった1人の人間を見つけ出すのは困難だ。同じ時代に生まれている確証もない。
    シンの苦痛の滲む声は只事ではなかった。英二と再会できるかを悲観するのとはまた別の感情のようだった。それはショーターも同じだった。
    「何だ。英二も俺たちと同じように生まれ変わってるはずだろう」
    生まれ変わりを証明することはできないがあの時間を共に過ごした自分たちがここにいるのだ。英二もその可能性が高い。
    シンとショーターは顔を見合わせ、黙り込んでしまう。それに不安を感じ取ったアッシュは嫌な汗が背中を伝うのを感じながら身を乗り出した。
    「英二に何があった」
    前世のことなのか、今世のことなのかわからないが2人の様子から英二に何かがあったのは明らかだ。
    「…………いないんだよ」
    「は」
    「英二、いなくなっちまった……」
    シンが躊躇いながら言った言葉にアッシュの思考は停止する。
    「どういう、意味だ」
    「アッシュが死んで17年くらい経ったときだった。仕事で日本に行くって帰ったきり戻ってこなかった。後から調べたら日本での仕事なんて無かったし、イベさんも家族も誰もあいつの行き先を知らない。その頃の俺はある程度の地位にいたから日本とアメリカ中を探し回ったよ。他の国も。けど、どこにもいなかった。考えたくなかったけど、裏でアジア人絡みの事件も探ってみたけど……」
    「……最後まで、見つからなかったのか」
    「ああ。俺が死ぬまで探した。部下には俺が死んでも探してくれとは言ったけど、俺は英二を見つけられなかった。その後どうなったかなんてわからない」
    血の気が引いていった。
    アッシュの頭の中に最悪の結末がいくつも思い浮かぶ。
    あくまでも前世のことだ。だが行方不明のまま見つからない英二が無事でいたはずもないだろう。そして転生しているならば、彼がどんな死だったのか。そんな状況での最期が果たして穏やかなものであったのか。
    そして今も、あの笑顔が陰っているかもしれないと思うとなりを潜めていた感情がフツフツと湧き上がってきた。
    「アッシュ」
    ショーターに強く肩を掴まれアッシュは無意識に詰めていた息を吐き出す。心臓がバクバクと気持ち悪いくらいに激しく動く。
    英二が苦しんでいるかもしれないと思うといてもたってもいられなくなる。誰も、英二の安否もわからないまま転生している。英二の状況は全くわからない。だが、アッシュはもう英二に関わらないなどと言ってられない。
    自分の都合などどうでもいい。英二が無事に笑っていられないならこんな世界滅んだほうがいい。そう思えるくらいアッシュにとって英二は全部だった。
    「英二を探す。けど俺はあいつが今幸せかどうか確かめられればそれでいい……」
    「強情だなぁ。今のお前はボスでもないただの一般人なんだぜ 思う存分英二と一緒にいられるじゃねえか」
    「俺は、別に……」
    「あんたが思ってる以上に英二はあんたのこと好きだぞ」
    「……随分と英二のこと理解してる口ぶりだな」
    「俺、英二と暮らしてたから」
    「はぁ」
    「まあまあ、落ち着けって」
    まるであの頃に戻ったような時間だった。だからこそ、ここに英二がいないことがひどく寂しかった。
    アッシュは不安を抱えながらも英二との再会を決意する。




    シンとショーターにはどうやら独自の伝手があるようで英二に似た人物をそこで探しているという。容姿が変わっている可能性もあるがまずは目に見える手がかりから手を付けていた。
    英二と思われる人物が見つかったと連絡を受けて3人は夜のネオン街に繰り出した。
    人気が多く、騒がしい通りを進む。光があちらこちらにあるが少し奥へ行けば途端に寂れた薄暗い空間に繋がる。暗闇の中に紛れて捨てられたものが詰め込まれる、そんな場所だった。
    「あの写真はここだろう」
    とある店の前に辿り着くとショーターは早速店先に立っている店員と何やら話をしていた。短い会話を終えてアッシュたちを振り返る。
    「俺はここの店の知り合いとちょっと話してくる。2人は……」
    「手分けした方が早い。何かあったら連絡を」
    「あ、アッシュ」
    アッシュは足早に街の中へと溶け込んでいった。シンが呼ぶ声を聞こえないふりをしてアッシュははやる気持ちを抑えられなかった。
    ひっきりなしにアッシュを引き留めようとする声や向けられる腕と視線を躱しながら辺りを見回す。
    こうして英二に似た人物の情報を得て探しにくるのはもう何回目だろうか。その度に期待してどんな顔して会えばいいと悩んで、それでも無事な姿を確認したくて探さずにはいられなかった。そして英二ではないとわかると落胆して、また一から情報を集める。会うことをためらったくせに、会いたくてたまらない。
    もう一度だけでいい。もう一度、英二に会いたい。あいつの笑った顔が見たい。
    人気を避けて店と店の間の暗い通路を進む。喧騒が遠ざかり、明かりが届かない裏通りが奥へと続く。この広い街で1人の人間を探すことは簡単ではない。しらみつぶしに街を回ってもすれ違わなければ見ることもできない。それでも藁にもすがる思いでアッシュはあの黒髪を探す。
    そうして裏通りを歩いていると、どこかでドアの開閉音が聞こえてきた。
    「全く……レオ、そいつ適当に置いとけ。相変わらず酒癖直んねぇだから……1人で平気か」
    男の話し声からしてもう1人いるようだ。酔いつぶれた客を外に出しているのか。そんなことを考えたときだった。
    「ああ、大丈夫だよ。先に戻ってて」
    その男とは別の声が聞こえた瞬間、アッシュは目を見開いた。
    この声を覚えている。鼓動が早くなるのを感じる。呼ばれていた名前は違う。けれどあれは英二だと確信できる。
    あの声で名前を呼ばれるだけで幸せだった。忘れたことなど一度もない。聞こえてきた声に向かって走り出すアッシュ。
    角を曲がり、飛び出した。



    目に飛び込んできたのは赤色だった。
    「君が、君が悪いんだ 俺をその気にさせといて、馬鹿にしやがって」
    アッシュが今生、初めて目にした彼は痛みに顔を歪めていた。ザックリと切られ、溢れ出した血で汚れた腕を掴まれ、男が握るナイフが今にも心臓に突き立てられようとしているところだった。
    アッシュは湧き上がる殺意のままに男の手首を掴みへし折る。痛みに悶える隙を与えずその顔面に拳を叩き込む。力加減などする気もなかった。
    血のついたナイフが落ちるのと同時にグシャリと男の体が地面に叩きつけられる。一瞬の出来事だった。男はピクリとも動かなくなったがこの程度では死んではいないだろう。
    怒りで荒くなる呼吸をどうにか鎮めて振り返る。
    「……えいじ」
    座り込み、アッシュを見上げる英二がいた。
    最後、アッシュが知る英二よりも幾分か年を重ねているようだったがそれでもあの頃の優しい闇色をした大きな瞳を知っている。伸びた黒髪は束ねられ、雰囲気がだいぶ変わっている。
    「アッシュ、なの……」
    この身体では初めて聞く英二の声がアッシュの名前を口にする。それだけで目の奥が熱くなってくる。
    一目会えれば。もう一度会うだけでいいと思っていたのに、いざ英二を目の前にするとそんなささやかな願いは吹き飛んでしまった。
    抱き締めたい、触れたい、もっと声が聞きたい。
    暴力的なまでに英二を求めてしまう。どうして英二から離れて生きていけると思っていたのだろうか。こんなにも魂が欲しているのに。
    アッシュはやっと英二に出会えたことに気を取られ、英二が顔色をなくして微かに震えていることに気付けなかった。
    「そんな……どうして……」
    英二の押し殺した叫びはアッシュには届かなかった。
    すると英二は突然アッシュを背にして走り出した。
    「え……」
    あまりに突然のことで困惑するアッシュだが考えるよりも先に体が動き出した。すぐに英二の後を追いかける。いくつも続く曲がり角に見失いそうになりながら必死に追いかけるアッシュ。
    「英二 待て お前、怪我を」
    さっき男に切られた傷から血が落ちている。英二がいたことの喜びと彼が傷付いていることに心臓が止まりそうだった。決して軽くない傷だというのに、構いもしない英二を止めたくて手を伸ばす。
    「英二っ」
    傷がない方の腕をやっとの思いで掴む。つんのめる英二の腰に腕を回して抱き留めた。しかし勢いを殺しきれず、アッシュと英二はもつれるように倒れ込んだ。英二の傷がぶつからないように抱え込む。
    人気のない通りの真ん中、アッシュの腕の中に英二がいる。
    英二に触れられる事実に歓喜が湧いてくるが今はそれよりも英二の傷をどうにかしなければ。
    「英二、傷を……」
    「見ないでっ」
    傷の程度を確認しようとアッシュが腕に触れると、悲痛な叫びで英二がそれを拒絶する。
    「だめだ。動いたら傷が広がる」
    「放して、お願いだアッシュ、放して いやだ」
    英二はアッシュの腕から逃れようともがくが、アッシュの力には勝てない。
    英二に拒絶されたことなどないアッシュはその強い拒絶に一気に絶望に落とされた。触れることも許されないほど嫌われた、と落ち込んでいると、英二は自分の身を守るように傷のない腕で傷口を覆った。
    「お願い……見ないで……、見ないで」
    「英二 どうしたんだ、何が……」
    アッシュは英二の様子がおかしいことに気付き、顔を覗き込もうする。だが英二は嫌がって首を横に振る。それは何かに怯えているようだった。
    すると変化は起きた。
    「……なんだ」
    拒絶され、まともに触れることもできないがそれでも離れることもできずにいると英二の腕の切り傷がみるみると塞がっていく。裂けた皮膚が閉じ、痕すら残さず滑らかな肌に戻る。英二の肌を汚していた血もまるで水が蒸発するように薄くなりやがて消えてしまった。
    目の前で起こったことに頭が追いつかない。英二の身に起こったそれが何を意味するのか、それは優秀な頭脳を持つアッシュにすら明確な答えは出せない。
    「どうして……君に、アッシュにだけは知られたくなかった……」
    そう言って英二の固く閉じた瞼から涙が溢れ出す。アッシュの視線から隠れるように顔を覆った。
    「どうなってるんだ……英二、お前は……」
    長い黒い睫毛に縁取られた瞼がゆっくりと開く。アッシュが嫌いだった、けれど英二の色ならば愛しささえ感じる闇色の瞳があるはずだった。
    だがそこにあったのは赤色。
    鈍く光る赤い瞳が涙に濡れていた。
    「こんな僕を見ないで……」


    醜い怪物になってしまった僕を。


    英二の涙は止まらなかった。




    灰の色の怪物【2】






    「……えいじ」


    どれほど、どれほどその声でもう一度名前を呼んで欲しいと願っただろうか。
    それが叶わないなら、早く彼の隣に行きたかった。何度願っただろうか。

    英二の願いはようやく叶った。
    だが今の英二にとってそれは己の背負う宿命を突き付ける刃に等しかった。




    彼が笑っている。
    日の光を浴びて、振り返り名前を呼んでくれる。
    なんて幸せなんだろう。
    隣に行こうと駆け出した。
    だがあと一歩で触れられる距離まで近付くと、世界が暗転する。
    彼の手を握るはずの己の掌は空を切り、ヒヤリと濡れた感触がした。光の無い世界、ただその掌は目を刺すほどに鮮明な赤色に濡れている。
    己から滴り落ちる滴は血か涙か。


    ああ、喉が渇いた。


    英二の唇がゆっくりと濡れた赤色に近付く。











    「っ……ぁ はぁっ、はぁ……」
    覚醒と共に全身の強張りが解けていく。
    冷や汗が首筋を落ちる。
    月明かりすら入り込まない部屋に苦しげな呼吸音だけが聞こえる。部屋のほとんどがベッドに占拠されるような狭い空間に英二は身を縮こませて丸くなった。
    そっと掌を解くとそこには僅かに汗が滲んでいるだけで血などどこにもついていない。
    それに安堵し、長い息を吐き出す。
    彼の夢を見るのは初めてではない。もう数え切れないほどに、彼の夢を見た。
    かつて過ごした激動の日々、あったかもしれない願望の未来。それは英二を慰め、苦しめた。




    乾いた風が光に透ける髪を揺らしては通り過ぎる。並木道を真っ直ぐに、何も考えなくとも自然と足が向かう。
    空に向かって伸び上がるビルとは違い、目の前の建物はどっしりと訪れる人々を待ち構えているようだった。
    中では人々の静かな気配が紙の匂いに紛れている。それぞれが自分の世界に篭るように掌の紙面を目で追っている。
    これだけ多くの人間がいながらその視線も世界も、交わることがない。心地よい孤立感にアッシュはふと息を吐き出した。
    カウンターに向かうと受付の女性がアッシュの姿を見てニコリと笑う。
    「こんにちは。今日も同じ本」
    「ええ、お願いします」
    女性は手慣れた様子でアッシュにちょっと待ってねと告げると受付を他のスタッフに任せ席を離れた。
    アッシュは向いのソファーに腰掛けぼんやりと天井を見上げる。そうして少し待っていると一冊の本を手に女性が戻ってきた。
    カウンターに差し出された紙に必要事項に書き込み差し出せば入れ替わるように本を手渡される。
    「ありがとう」
    重みのある本を受け取り、閲覧室へと向かうアッシュの後ろ姿を女性が見送っていると代わりにカウンターに入ったスタッフが声を落として話しかけてくる。
    「すっごい。彼モデルかなにか あなたあんな知り合いがいたの」
    「違うわよ。彼、もう何回も閉架書庫から借りてるからそれで顔を知ってるくらいよ」
    「ああ、だから『同じ本』って言ったのね。何回も同じ本を借りるだなんて熱心ね。学生かしら」
    学校にも大抵立派な図書室があるがここら大きな図書館であるため学生がレポートの資料を求めて何度も通うことも珍しくはない。顔見知りになる程何度も借りるような本なら金銭で困っていない限り買ってしまった方が早いが閉架書庫からとなると話は別だ。
    絶版となっていたりもはや世に出回っていないほど希少な本なら何度も借りにくるのもおかしくはない。
    好奇心を隠せないスタッフは声が大きくならないように努めて何でもないことのよう去っていった青年にいて聞き出そうとする。
    「それで何の本なの」
    同僚の態度にやれやれと思いながらここで言わなければ何度も聞かれるだろうなと悟った女性はこれだけだと決めて声を潜めて告げた。
    「かなり昔のカメラマンの本よ」



    なるべく人がいない奥まった席がアッシュの定位置だった。
    大型の分厚い辞典のような専門書ばかりが揃う本棚の近くには滅多に人が来ない。
    ページをめくる音やペンが走る音さえここには届かない。語る者がいないその一角は時が止まっているかのようだった。
    もう何度も読み返した本をアッシュは飽きることなく、まるで初めて読むかのように隅から隅まで読み耽った。
    写真家の歩んだ人生を作品とともに追っていく。
    幼少期のまろやかな輪郭をした子供の写真はやがてしなやかな身体で空を舞う姿へと変わる。
    書かれた文字を追い、もはや覚えてしまった文章を指でなぞる。


    ––––年にアメリカ、ニューヨークへと旅立つ。彼は後にこの旅こそ自身を形作る最も重要な時間と経験だったと語っている。


    それからのページではぐっと作品が増えてくる。今までの写真はこの写真家自身の過去を表すものであり、彼自身がカメラを手にしたのはこの時期だ、とも記されていた。
    作品としては未発表なものである写真たちは何処ともわからぬビルの隙間から覗く空だったり観光写真のようなわかりやすいものが撮られていた。
    しかしそれらはページを経る毎に洗練され、作品となっていく。温かな陰を孕みながら、物寂しい光がある。彼が撮り続けた街は色褪せることなく今もこのページの中で眠っているようだった。
    差し込まれた文章はインタビュー記事だ。



    ––––おぞましいものもなつかしいものも



    ––––かつて僕の友人が



    ––––光も闇も、愛しているから


    そして最後に載せられた作品がページに広がる。
    窓辺に腰掛け、目を伏せる横顔。その向こうは朝焼けに染まる。


    「お前には、俺がこんなふうに見えていたんだな」


    最後のページには写真家自身の写真が小さく載せられていた。傍には彼の愛犬がいる。記憶よりも幾分か歳を経ている顔立ちはそれでも、彼だとわかる。
    その写真の下に文が続く。


    ––––数々の作品を残しながら––––年に行方不明となる。
    行方不明となる直前、病に侵されていたことが発覚、失踪は病を憂いた結果だと当時は判断される。
    知人の意向によって故郷の国とは別に、彼が人生の大半を過ごしたニューヨークの街にも墓が作られた。



    パタンと裏表紙を閉じた。
    裏返し、表紙を眺める。彼の画集の表紙を飾った猫の写真が同じく表紙となっている。
    そこに刻まれた名前。


    Eiji Okumura


    今から一世紀以上も昔に生きたカメラマンの名前だ。
    そしてアッシュが探し続けている唯一の存在。
    2年という僅かな時間を共に過ごし、その全てでアッシュの魂を救ってくれた。英二の言葉が、温もりが、愛がアッシュに幸福を教えてくれた。

    アッシュは今生、英二と出会うつもりはなかった。だからあえて英二のことを調べようとはしなかった。
    この現代の英二のことも、アッシュがいなくなってからの英二についても。
    知れば会いたくなるとわかっていた。
    だがそんなことを考えている暇などなかったとショーターとシンと再会したことで思い知らされた。
    アッシュの死後、一世紀以上昔であるがカメラマンとして活躍した英二の経歴を調べることはもともと難しくはなかった。
    ショーターたちから英二が行方不明のままだと聞かされた直後、取り憑かれたように英二について調べた。
    そしてすぐショーターたちの言葉は紛れもない事実だと思い知らされる。疑っていた、というよりも信じたくなかった。
    幸せになってほしかった。
    自分がいなくとも、きっと英二は幸せになれる。なるべきだと。
    最悪と不幸を形にしたような人生だったけれど、その最期があんなにも心穏やかなものであれたのは英二のおかげだ。自分は幸せに死ねた。それなのに、英二は。
    自分がどんな目に遭おうと恐ろしくはない。けれど彼が苦しむのが、傷付くのが恐ろしくて気が狂いそうだった。
    カメラマン奥村英二の情報はあっさりと収集できた。その活躍と最期。
    もし、もしも会うつもりがなくとも英二のことを調べることだけはしておけば彼の最期をもっと早く知ることができたはずだ。ショーターとシンと再会する前に知っていれば、もっと早く英二を探せた。
    自分の恐怖心ばかりを気にして、英二のことを考えられなかった。
    アッシュはこの本に向き合う度に後悔の底に叩き落とされる。彼を手放せず傷付けてしまったあのときのように。
    だが今日は違う。
    今のまま後悔だけを抱えている場合ではないのだ。
    (今度こそ、俺が守る)
    決意に握り締められた掌はようやく見つけた守るべき温もり覚えている。
    アッシュはそれが消えないようにと縋るようにまた力を込めた。





    点滅するライトが人々を引き留めようとひしめき合う路地から少し外れた場所。喧騒から離れたそこは別世界の様に薄暗い。切れかかった外灯から時折焼ける様な音が鳴る。
    そんな暗闇を縫って店の裏口へと向かう人物がいた。
    深く帽子を被り足早に目的地へと急ぐ英二はしきりに、だが不自然にならないように周囲を気にしていた。
    今彼が向かっているのは現在の仕事先の一つだ。本当なら先日の一件のためここには近付きたくなかったが仕事の途中で勝手に抜け出した形であの場を去ってしまった。
    動揺がなんとか落ち着いてから電話を入れたがやはり一度は店に来いと言われてしまえばそれを無視することはできない。
    まさかこんなことになるだなんて。
    あの夜から幾度も浮かぶことだった。
    あのときの自分の置かれた状況など一瞬でどこかへ飛んでいくほどの衝撃を受けてまともな思考など保てるはずなかった。
    どれほど長い時間を経ても、忘れたことなど一度もなかった。
    光に透ける髪色と同じまつ毛を、からかいながら名前を呼ぶ声を、寂しげなあの横顔を。
    もう四角く切り取られた紙面の上にしかいない彼が目の前に現れたのだ。
    神様、と咄嗟に思ってしまった。
    他人の空似だなんて考える暇も与えてくれず、彼は、アッシュは自分の名前を口にした。
    本当の名前を呼ばれたのはいつぶりだろうか。
    まるであのときの続きかの様に、その姿はあの頃と同じで錯覚してしまいそうになった。この現実という間違いが終わって、またあのときの時間がまるで再生機のように元の現実の続きを始めたんだと。
    暴力的な生と死を味わったあの街に、時代に巻き戻ったと。
    しかしそんな幻想は一瞬で終わった。
    覚えのある感覚が体を巡り、自分の現実を突きつけてきたからだ。己の意思に反して肉体が元に戻ろうとする感覚。
    結果としてあのまま家に逃げ帰ってしまった英二は果たして今からどんな顔をして仕事場に行けばいいのか。
    電話を入れてから言い訳を考え続けてはいるがどうなることやら。それでも『長年』の経験で何とかなるかと頭の中で言い訳を組み立てながら、これからのことも同時に考える。
    (もうここにはいられないな……。本当はもう少しいられる予定だったけど、ここにいたらまたアッシュに会うかもしれない……)
    死を覚悟したあの頃、アッシュに会いたくてたまらなかった。いや、それ以前から。アッシュから離れたいだなんて考えもしなかった。
    なのに今は会うことがたまらなく恐ろしい。
    会うべきじゃない。
    英二はもう傷一つない腕を服の上からさする。
    これからのことを考え、憂鬱なため息をこぼすと見慣れた裏口はもうすぐそこだ。
    歪なドアノブを握ろうと手を伸ばすと、それは触れる前にガチャリと音を立てて回る。
    「え」
    明かりがほとんどない裏路地からは店内の光が眩しい。一瞬その眩しさに目が眩んだのだが、どうやらそれだけではなかったようだ。
    ふわりと柔らかなブロンドが安っぽいライトを反射した。決して自分の身長は特別低くないのに散々からかわれた身長差が自分を見下ろす。その視線は忘れることすら許さない翡翠色で、名前の通り朝焼けの輝きを閉じ込めていて。
    道すがら考えていたことが全て頭から消えてしまった。
    そしてぼんやりと、なぜ自分が彼の思考の上を行けると思っていたのだろうかと。それによって目の前の彼が間違いなく、幻でも自分の夢でもなく本当にアッシュなのだと思い知らされた。
    あまりの衝撃に何も言えないのはアッシュも同様なようだった。しかしそんな彼の後ろから顔を出した職場の同僚の登場で英二よりも先に立ち直った。顔を出したのは昨日、アッシュと会う直前に会話していた男だ。
    「よう、レオ。昨日は散々だったみたいだな。話はお前の友達から聞いたよ。俺は早くあいつは出禁にしてくれってオーナーには言ったんだけどなあ。俺も気付けなく悪かったな」
    お前の友達、と言って指し示したのは当然のようにアッシュだった。そして何やら話や同僚の態度から察するに予想していた状況にはなっていないようだった。
    英二が仕事を放り出したことを責めるどころか何やら同情的なことまで言われる。常であればもう少し冷静でいられたのだが、英二の心を最も揺さぶる存在が眼前にいるこの状況ではそれも無理な話だ。
    そして当の本人は未だ衝撃で固まっている英二をじっと見つめたまま。2人の様子に気付いていない同僚はそのまま喋り続ける。
    「俺からオーナーに言っとくから今日は休みでいいぞ、有休扱いだ。呼び出しといて悪いな」
    「え、でも……」
    まだ目の前の衝撃から抜け出せない英二は思考の端で聞き取れる言葉をなんとか拾うも、視線はアッシュから逸らせないままだ。
    「お前の友達がわざわざヘルプ探してくれたから気にすんな。あんたも悪いな。元はと言えばこっちの問題なのに」
    「昨日こいつを帰らせたのは俺の勝手な判断ですから」
    さも当然のようにアッシュと同僚の会話が成り立っている。
    昨日の失態の説明に来たというのに知らぬ間に丸く収まった様子で、しかもそれがアッシュの仕業で。
    いやまず、何よりも何故アッシュがここにいる。
    店の奥から同僚を呼ぶ声をきっかけに男はそれじゃあとその場を後にした。店の表の喧騒から切り離されたそこには、動かない2人だけが取り残される。
    「どうして……」
    英二がやっと捻り出せたのはそれが精一杯で、ひどく弱々しいものだった。
    止まっていた血が回り出したように状況が感覚を伴ってようやく理解できるようになる。無意識のうちに後ずさる英二をアッシュは許さないと言わんばかりに英二の細い手首を掴む。
    「傷は」
    「っ」
    「傷は大丈夫か」
    掴んだ手首からするりと指が昨日切りつけられた腕をなぞる。そこに傷はない。それはアッシュも知っているはずだ。見られてしまったのだから。
    それでも英二はそれに答えられなかった。そうすれば変えようもない事実を自分の口から告げることになる。
    (離れなきゃ……)
    今すぐ腕を振り払って昨日のように逃げなければ。確かめたいことはたくさんあるがそれよりもアッシュから離れなければ。
    しかし英二の意思を感じ取ったのか、アッシュは決して離すまいと一歩距離を詰める。
    彼の後ろから差す電灯よりもあの頃と同じ美しさの翠の方が強い光をたたえている。
    「英二」
    名前を呼ばれた、ただそれだけでもう英二の目に薄く涙が浮かぶ。
    掴まれた手首がひどく熱い。
    どうして会ってしまったんだろうか。
    あの頃なら、きっとなんの躊躇いもなく彼を抱き締めて、置いていくなと八つ当たりをしてこれからはずっと一緒にいたいと彼に願わずにはいられなかっただろう。
    それももう過去のことだ。
    「ずっと探してた」
    「なんで」
    「会いたいからに決まってるだろ」
    「だから、どうして。君は、昨日見ただろう。僕が……」
    逃げることを許さないアッシュから逃れるように英二の視線が下へと落ちる。乱れた鼓動が動揺を表していた。
    アッシュは見ていたはずだ。英二の体が人を逸脱していることを。
    「生まれつきなのか」
    「……へ」
    咄嗟のことに思わず伏せていた顔を上げてしまう。何の話だと、英二は一瞬アッシュの言葉の意味がわからなかった。
    (そうか、普通思い付かないよな)
    アッシュは死んだ。それを英二は嫌というほどあの街で、あの時代で思い知った事実だ。だから今目の前にいる彼はいわゆる生まれ変わったアッシュなのだろう。
    そしてアッシュは英二も自分と同じくこの時代に生まれてきたのだと。
    同じ『人間』だと、信じている。
    それに気付いた英二は自分でも驚くほどの力でアッシュの手を振り払った。ひどく驚いた、そして英二に拒絶されたことにショックを受けた表情を浮かべた。
    「英二」
    「君に、話せることはないよ」
    ぐっと感情を押し殺して平坦な声を出そうとしたが、微かに震えた声になってしまう。どうか気付きませんようにと祈りながら、英二は来た道を駆けた。
    まるで追い立てられるかのように必死に足を動かしながら英二は振り返りもしない。だから英二は気付かなかった。
    その背後、音もなく、山猫の瞳をしたアッシュが跡を追っていることを。







    英二は日の当たらない狭いベッドに座りこんでうなだれていた。時刻としては朝日が部屋に差し込んでくる頃なのだが窓の向かいはコンクリートの壁だ。薄らと周囲が明るいということくらいしかわからない。
    物が少ない部屋で英二はあれから眠ることができなかった。文字通りアッシュから逃げてきた英二は一目散に荷物をまとめた。
    一刻も早くここから、アッシュから離れなければと。身軽な生活をしていたおかげで荷物は少なくさてここから出て行こうとしたのだが、家賃の安さに比例する治安の悪さが仇となりアパートの前で物騒な怒号と銃声が聞こえ始め渋々部屋に逆戻りした。
    気配を消し、もはや役に立っているのかわからない古い鍵をかける。この騒ぎでは今日ここを離れることは諦めるしかない。英二の中で逃亡が一旦中止になると次に浮かぶのは当然アッシュのことだった。
    昨日、動揺ばかりが先走り逃げることしか頭になかったが触れ合った肌や鼓膜を揺らした彼の声が途端に鮮明に浮かぶ。
    生まれ変わり。もしかしたらと、期待したときもあった。今度は有り余る程の幸せが訪れるそんな人生を送ってほしい。
    アッシュが生きている、その事実を改めて実感すると言いようのない気持ちが込み上がってくる。嬉しい、良かったとか言葉に収まりそうもない感情が渦巻く。
    生きてる。君は今、生きてるんだね。
    だからこそ、そこに英二は彼のそばにはいられない。
    己の現状を理解するからこそ英二はアッシュから逃げたのだ。
    けれどアッシュの悲しげな表情が脳裏を離れず、英二は一晩中心の中で彼に謝り続けていた。
    深く沈んでいた意識を引き上げた朝の気配に英二はようやく思考を立て直す。これからどうすべきか。とりあえずこれ以上あの店では働けない。できれば直接伝えたかったが働けなくなった旨を電話しようと立ち上がったそのとき。
    間の抜けたインターホンが鳴った。ここに住んでこうも律儀にインターホンを鳴らす相手などいなかったせいで英二の反応が遅れた。そのせいか、少しして今度はドアをノックする音が続く。
    夜中の騒動のため返事をするのも躊躇われる。しかし物騒な相手がわざわざこちらに存在を知らせるだろうかと、どうしようかと考えあぐねていたのも一瞬だ。
    ガチャリと、向こうから鍵が開けられた音に英二は目を見開く。やはりもう形だけになっていたのか。
    「えぇ ちょっと」
    慌ててドアを押さえようとするが、抵抗虚しく薄いドアはあっさりと開けられた。
    そしてその向こうに立っていた人物に英二はまたも驚愕する羽目となる。
    「な、な……んで、いるの」
    「隣に引っ越してきた」
    「はい」
    見上げた先には数時間前再会したアッシュ。この立ち位置すら先ほどの状況と一致していて妙な気分になる。
    「今日からよろしくねオニイチャン」
    からかいまじりのその呼び方にまた懐かしさで呆けそうになるのを堪えようと俯く。
    (なんで、追いかけてくるんだよ)
    英二の頭の中はどうすればアッシュから離れられるか、それしかなかった。
    (でもどうせ僕はもうここを出て行くし関係ない)
    このアパートのオーナーなり、紹介してくれた不動産屋なりに電話をして鍵と金を渡せば後腐れなくここを離れられる。だからここを選んだ。
    今出ていけばアッシュにまた追われるだろうから彼がいないときに……と、逃亡の策を巡らせていた英二にアッシュは笑みを浮かべる。
    それは決まって英二をからかうときにする意地の悪そうな笑みだった。
    「それとここ買い取って俺がオーナーになったから出て行くのは諦めてね」
    「今なんて言った」








    アッシュが英二と再会したその夜、手分けしていたショーターとシンが連絡のないアッシュを探していた。
    「それらしい情報あったな。どう思うショーター」
    「でもその話した奴がアジア人の区別つくような奴だったか 大体の日本人が黒髪黒目だぞ。まあ、同じ外見してればの話だけど」
    何度、今度こそはと期待して別人だったと落胆してきたことか。それだけ彼らは必死だった。
    今日も奥村英二という名前とかつて写真家として生きたあの時代の写真を頼りに聞き込みを続けていた。だが黒髪のアジア人などこの街では珍しくもなく、当然そんな名前の人間も聞いたことがないと首を横に振られるばかり。
    別行動のアッシュの方はどうだろうかと、連絡を入れるも音沙汰がない。いつものことだが翌日にでもまた連絡が来るはずだと2人はそのまま情報を集めようとすると着信音が響く。
    「お前がちゃんと折り返すなんて珍しいな。なんかあったか」
    隣のシンも電話の声を拾おうとショーターのそばに寄る。
    『ショーター、お前のことから信用できる奴貸してくれ。とりあえず1人。場合によっては3人』
    「はあ おいおい、いきなり何の話だよ」
    『見つけた、英二だ』
    「本当か」
    「今どこにいんだよ」
    アッシュの言葉に2人は思わず声を上げる。シンは電話口にさらに寄って向こう側のアッシュに詰め寄っているようだった。
    『いや、逃げられた』
    「逃げられたって……え、何で逃げんの」
    ショーターが浮かんだ疑問に首を傾げていると、シンはその手から電話を奪い取る。
    「何逃げられてんだ あんたなら追えるだろうが」
    『……焦るなシン。もう手は打った』
    「何やったんだよ」
    『あいつの仕事先押さえた。同僚とやらに住んでるとこも聞いた。明日までには買い取れるように手配もした。明日の夜にまた店に来るように電話もさせた。まあ、この街で後ろ暗くない店の方が少ないからな。オーナーに話したら素直に応じてくれたよ』
    「は、おいアッシュ 何の話だよ」
    『だから英二のことだ。あいつの後を追えなかったのは……俺のミスだ。だがこれだけ情報が集まったんだ。何より英二がここにいるならやることは1つだろ』
    逃げられた、というわりに全く逃していないアッシュの包囲網はシンの予想を遥かに超えていたようだった。
    短い間だが、リンクスを率いていた彼の背中を見てきたシンはこの男が英二のこととなると冷静でいられないことを思い出した。
    「なら今からでもあいつのとこに」
    『俺が何とかする。また連絡するまで大人しくしてろ。警戒されて逃げられる』
    そういうとアッシュは一方的に通話を終わらせた。
    怒涛の展開に2人はしばらく飲み込むのに時間がかかったが組織のボスを務めただけあり立ち直りは早かった。
    「とにかく今はアッシュに任せるしかないか。無事に見つかったみたいだし」
    「確かに英二がアッシュより上手に行動できるとは思えねえけど……」
    シンはまだどこか不安げだが渋々納得したようだ。ショーターもアッシュがこれから何をするのかいまいちわからないがアッシュと英二がやっと出会えたのだ。どうとでもなるかといささか楽観的になりながらもアッシュからの頼み事にとりかかるため慣れた様子でどこかへと電話をかけた。


    後日、アッシュが買い取ったアパートの英二の隣部屋に住むと聞かされたシンが俺も住むと言い出すも、オーナーとなったアッシュがそれを認めずショーターが一触即発の2人を宥めた。
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