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    sss333me

    @sss333me

    忘れ得ぬ、雪軒、A英など。支部から作品移動したもの有り。

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    sss333me

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    A英/獣人と人間シリーズまとめ。
    支部に投稿していた、猫の花通い、君に花束を、のまとめたものです。

    猫の花通い 君に花束を猫の花通い



    よく日が当たる二階の窓。
    白いカーテンが風と光と遊んでいる。
    窓辺の椅子に腰掛けて木々の隙間からこぼれる太陽に目を細めていると、トンッと軽い音がした。
    視線を下ろすとそこには黄金の麦畑を連想させる柔らかな毛並みをした一匹の猫がこちらを見上げている。その瞳は鮮やかな翡翠のようで、遠い宇宙の星のように輝いていた。
    その口には一輪の花が咥えられている。
    「やあ、おはよう。今日も素敵な花をありがとう」
    そう声をかけると、猫はまるで受け取れと言うように顔を僅かに動かす。猫が持ってきた花はそっと差し出した掌に乗せられた。
    花を贈られた青年は大事そうに花を見つめ、そして伺いを立てるように空いている方の手を猫に差し出す。
    すると猫は最初、じっと手を見つめ、次に青年の顔を上目遣いに見上げる。その猫の検分の間にも青年は嬉しそうな笑みを浮かべて猫を待っている。
    しばらくすると猫は、仕方ないなと青年の掌に擦り寄った。
    許しを得た青年は優しく、淡い毛色を撫でる。小さな額やゴロゴロと振動が伝わる喉を撫でると、猫は目を細めてされるがままだった。
    座っているだけで絵画のように凛々しい猫はいつの間にか青年の膝の上、撫ぜる手と日向の温もりにいつしか寝息を立てる。
    「君はすぐに寝ちゃうね」
    汚れひとつない毛並みの流れに沿って掌を動かしていると力の抜けた脚のところ、もう毛に紛れて見え辛くなっているが僅かに覗く傷跡が見える。
    傷を負った当初と比べればすっかり薄くなりこうして二階にも難なく登れるようになっているところを見るともう痛みはないようだ。
    ほっと息をつく青年は膝の上で丸くなる猫と一緒に穏やかな日向ぼっこを楽しんだ。






    その猫はただの猫ではなかった。
    人の姿を持ち、獣の姿も持つ獣人と呼ばれる種であった。
    その珍しさから度々人間狩られるなどして人口は年を経る毎に減少していった。人として扱われないことも多く、獣人は身を潜めるようになった。獣人の存在を知る人間も徐々に減り、今ではほとんどいない。そのため同種で集まり、人間社会の中で人としてどうにか生きている獣人は多かった。

    その一人がアッシュ・リンクスだった。
    彼は獣人の少年たちをまとめるボスであった。人でも獣の姿でも強く注目を集めるほど美しかった。
    そのせいかアッシュを狙う人間が何度も彼を捕まえようとした。しかし熊のような力も、狼のような牙も無いのにアッシュは誰よりも強く、そんな彼を捕まえられることはできなかった。

    しかしある日、仲間を人質に取られたアッシュは無謀にも人間に立ち向かってしまう。仲間を無事に逃がせたが、その時に負った怪我もありついにアッシュは捕まってしまった。
    欲深く、アッシュを手に入れたがった人間は彼を飼い殺そうとするが彼は暴れに暴れ続ける。どうやら人間の屋敷の中のようで逃げようにもネズミ一匹通る道もない。
    「人型にならないのはせめてもの抵抗のつもりか。これだから知恵のある動物は厄介だ」
    部屋の外から彼を閉じ込めた人間が手を伸ばせばアッシュは鋭い爪を剥き出しにして低く唸った。無理矢理眠らされたときに傷の手当てをされていたがアッシュが暴れ回るせいで傷は一向に良くならない。

    そんな日々がしばらく続いた頃、屋敷の中が慌ただしくなり、人間たちもどこかへ走り去って行く。しばらくすると屋敷にいた人間とは違う人間がやってきた。
    「猫 いや、わざわざ捕まえてるってことは獣人か」
    人間の男は屋敷の人間のように嫌な気配がせず、アッシュは警戒してじっと動向を伺う。
    すると男は檻の鍵を外した。
    「何にせよ、一旦保護を……っておい」
    アッシュはその瞬間、重い扉に体当たりして檻を飛び出す。後ろで何やら男が叫んでいたがアッシュは風のように走り抜け屋敷の外へと走る。
    しかし出されていた食事を拒絶していたアッシュは何日も飲まず食わず、そして走ったせいで治りきっていない傷が開いてしまった。
    とどめのように降り出した雨に全身はずぶ濡れとなり徐々に体温も奪われていく。
    こんな状態ではそこら辺の野良猫にすら勝てない。
    人型になろうにもそんな力も残っておらず、小さな体を震わせてアッシュは道の脇に並ぶベンチの下へと入り込んだ。
    隙間から雨粒が落ちてきて冷えた風が容赦なく体にぶつかる。
    (ろくな死に方をしないとは思ったが、こうも惨めに死ぬのか)
    触れる地面さえも氷のように冷たい。痛みと寒さで意識が遠のく。美しい瞳が閉じていく。

    そんなとき、突然雨が止んだ。そして風も。
    そのせいか体を覆っていた空気が僅かに温かく感じた。
    太陽が出たのなら最後に一目拝んでおくかと重たいまぶたを持ち上げる。しかし彼の目に映ったのは太陽でもなく空でもなく、一人の人間だった。
    「大丈夫かい」
    膝をついてベンチの下を覗き込んでいた青年は心配そうにアッシュに話しかけた。
    雨風が止んだのは彼がさしていた傘のおかげだった。
    「あ、血が出てる。怪我してるのか」
    手を伸ばす青年にアッシュは最後の力を振り絞って爪をたてた。本当は走って逃げたいがそれもできそうになかった。
    「いてて……。ごめんよ、驚かせて。でもそんな怪我をしてここにいたら大変だ。屋根のあるところに行こう」
    青年はアッシュを獣人だと気付いているのか、はたまたただの猫に真剣に話しかけているだけなのか。
    アッシュにはわからなかったかどちらにせよ、人間の言うことなど聞けない。
    動こうとしないアッシュに青年は悩むそぶりをするも、離れようとはしなかった。爪を立て、尚も威嚇するアッシュをどうにか助けようとする。
    すると青年はさしていた傘をベンチの上に置く。アッシュが濡れないようにと差し出したのだ。
    雨は未だ弱まらず、途端に青年をずぶ濡れにするがかれはそんなこと気にもしない様子だった。
    「これくらいの雨ならきっとすぐ止むよ」
    そう言って青年は少し離れた場所でしゃがみ込んで曇り空を見上げる。どうやら雨が上がるまでそばにいるようだった。
    当然だが、青年は雨をしのぐ方法もないためどんどん濡れていく。だというのにベンチにかけた傘が風に吹き飛ばされないようにと、押さえながらそこから立ち去ろうとはしなかった。
    アッシュはベンチの隙間から空を見上げる青年の横顔を見上げる。アッシュの視線に気付いたのか、青年は振り返りどうしたの と首を傾げる。
    その眼差しはもう会うことはない兄を思わせるほどに優しげだった。
    彼からすればアッシュは弱り切ったただの猫で、何故そんな眼差しを向けるのかアッシュには全く理解できなかった。何の得もない、だというのにこうも優しさを差し出せるのか。
    アッシュは警戒心以外の、何か不思議な感覚が込み上げるのを感じつつ、それを振り払うように身を丸くした。
    しばらくすると雨の勢いは弱まり始め、次第に風も止んだようだ。先ほどの曇天が嘘のように空まで見え始める。
    雨音に耳を澄ませていたアッシュはその隣から聞こえる青年の声に顔を上げた。
    「ほら。雨、上がったよ」
    よかったねと、その笑顔は雨に濡れ続けていた自分のためではなく、雨と怪我で動けなくなっていた一匹の猫に向けられた。
    それは太陽よりも眩しく、アッシュの瞳に焼きつく。
    体はまだ冷え切っているはずなのに、どうしてか温かく感じる。
    青年は髪から滴る水分をそのままに、背負っていたリュックの中を探った。
    「あったあった。これならちょうどいいかな」
    取り出されたのは青いハンカチだった。青年はそれが濡れていないのを確かめてそっと、アッシュの鼻先に差し出した。まるで安全なものだから確認してくれとでも言うように。
    「きっと君は嫌だろうけどせめてその怪我だけでもどうにかしないと。あ、捕まえたりしないよ。これだけ手当てさせてほしいんだ」
    青年の性格なのだろうか、猫に対しては妙にしっかりと話しかける。それとも獣人だと気付いているのだろうかとアッシュが疑いの目を向けるも、返ってくるのは子供のような無垢さでどちらにせよアッシュの警戒心は萎んでいく。
    逃げ出さないことを感じ取った青年は驚かせないようにとゆっくりハンカチを広げアッシュの足に触れた。
    巻かれたハンカチは青年の体温が移ったのか、温かかった。
    立ち上がったアッシュは感覚を確かめるように自身の後ろ足を見やる。痛みは未だ続くがあのまま雨晒しにならなかったおかげで幾分か動けるようになった。
    ベンチの下から出てきたアッシュにしゃがみ込んだままの青年が様子を伺う。
    「やっぱり病院についれていった方がいいよな……怪我したままなんて悪化したら大変だし」
    その呟きはアッシュのためを思ってのことだったが、さすがにそこまでされる気はないとアッシュは青年がそれを実行する前に走り出す。
    後ろの方で青年があっと声を上げるがアッシュは足を止めなかった。足の痛みを無視して茂みに飛び込み身を隠す。振り返り、遠目に見つめる先にはあたりを見回す青年の姿があった。
    アッシュは木々や物陰に隠れながら移動を続けていると見知った気配が近付くのを感じた。
    『アッシュ』
    アッシュの部下であるアレックスが慌てた様子で駆け寄ってきた。その姿はアッシュよりも大きな犬の姿だ。
    『アレックス、他の奴は無事か』
    『あんたが逃してくれたからな。とにかくアジトに戻ろう。ボロボロじゃねえか』
    いつもなら整ったアッシュの毛並みはボサボサで、アレックスは嗅ぎ取った血の匂いに眉をひそめた。
    『たいした怪我じゃない。が、さすがに疲れたな』
    『ん アッシュ、それは 人間に着けられたのか』
    外すか と問われたのはアッシュの足に巻かれたハンカチだ。人間から付けられたものなど、常であれば一瞬たりとも身に付けたくはない。アレックスもそれは同様で、だからこその問いだったがアッシュは視界の端に映るそれを一瞥するだけでアレックスの言葉に頷かなかった。
    『いや、いい。戻るぞ』
    驚くアレックスを伴ってアッシュは街の陰へと消えていった。






    その翌日にはアッシュの傷は塞がりいつも通りはいかないものの、難なく歩き回れる程度に回復した。当然完治には程遠いが元々丈夫で傷が絶えない暮らしをしていたアッシュにとってさほど重傷でもなかった。
    ハンカチが外れた足にはまだ傷が見える。
    しかしやはりあのまま雨に濡れていたらこんなに早く回復はできなかったであろう。
    そして思い浮かぶのはあの青年だった。

    アッシュはなんとなしに、昨日彼と出会ったあの場所へと猫の姿で赴いていた。明確な目的があるわけではない。ただ何となく足が向いたのだ。
    そんな誰に対するでもない言い訳をしながら遠くからあのベンチを眺めていた。道ゆく人々の顔を見て無意識に青年を探していることに気付くとアッシュは我に返って、何をしているんだと自分の行動に戸惑う。
    そんな考えを振り払うようにアジトへ戻ろうと人目を避けるために住宅地の塀や屋根を伝って移動しているときだった。
    とある家の二階の窓のへりに降り立つとふわりとカーテンが揺れた。どうやら窓が開いているようだった。そのまま立ち去ろうとしたアッシュは中から聞こえた声に思わず耳がぴくりと反応する。
    「すみません伊部さん。急に休んで……」
    「何言ってるんだい。元々今日は休みだったんだから気にすることないよ。いつでもできる作業だし、君は働きすぎなくらいなんだからこの期にゆっくり休むといいよ」
    そっとカーテンの隙間から中を覗く。窓のすぐそばのベッドの上には昨日の青年が横になっている。ぐったりとして目を伏せていた。顔色が悪そうだ。
    そしてこちらに背を向けているもう1人の人間がいた。彼らはアッシュには気付いていないようでそのまま会話を続けた。
    「それにしても、昨日は傘持ってたんじゃないのかい」
    「実は、怪我した猫がいて。その子に貸してたんです」
    「猫」
    「はい。でもろくに手当てもしてあげられなくて。大丈夫かなぁ。雨が止んだら走ってどこかへ行っちゃったんで今日もう一度探しに行こうと思ってたんです」
    「心配なのはわかるけどまずは自分のことだよ。この街の猫ならきっと強いから大丈夫ださ。ほらもう休まないと」
    コップと錠剤が入った瓶を片手に男が青年のベッドに向かう。アッシュは足音を立てないように飛ぶと一階の窓のヘリを伝い庭に降りた。
    見上げた二階からは微かに聞こえた「窓閉めるよ」と言う声を最後に音を立てて窓が閉じられた。
    アッシュは降り立った庭を横切り表通りに出ると振り返ってもう一度二階を見上げる。
    閉じられた窓には白いカーテンしか見えず、しかしあの部屋の中で今も寝込んでいる青年の姿が脳裏から離れなかった。
    それからアジトへ戻ったアッシュの頭から青年のことが離れず言いようのない焦燥感が募った。人の姿になったアッシュは眉間に深いしわを刻んで考え込んでいる。
    いつになく緊張感が張り詰める雰囲気に部下たちはアッシュの機嫌が悪いのかと密かに怯えていた。ボスとして慕われるアッシュだが寝起きと機嫌が悪いときは仲間ですら距離を置きたくなるほど恐れられていた。
    遠巻きにこちらを伺う部下をそのままに、アッシュはポケットからあるものを取り出した。
    それはあのハンカチだ。
    傷を包んだハンカチは血に汚れたままだ。もう青年の体温などないはずなのに、それは何よりも離れ難いほど温かく感じた。
    (昨日の雨のせいだよな)
    彼が体調を崩した理由は明白だった。
    青年が勝手にしたことなのだから気にすることじゃないと思うのに、気にせずにはいられなかった。
    そして今日聞こえた話も頭から離れない。
    自分の心配よりも昨日初めて見かけた猫の心配をする青年に、自分の心配をしろと言いたくなった。しかしそんなことできるはずもない。しかしこのまま何もしないのはどうにも納得できなかった。
    なにか、したいと。このたった一枚の布の礼をしたいと思った。彼のくれた優しさの礼と自分のせいで体調を崩した詫びとして何か。
    青年は自分を猫と言っていた。やはり彼は獣人だと気付いていない。このまま何もしなくても今日部屋にいたもう一人の人間がいたし、体調も良くなるだろう。そうすれば弱った野良猫を助けたことなどきっと彼は忘れるし、アッシュも気にも留めない過去になるだろう。

    けれど次の日、結局アッシュは再び青年の住む家の前までやってきた。当然猫の姿だ。
    昨日と違うのは明確な目的と口にくわえた一輪の花だった。
    猫の姿で会うとして喋ることは出来ない。獣人であることを明かすこともできない。猫として彼に何ができるかと考えた末、病気の見舞いといえば花だろうかといささか安直な考えだった。
    喋ることができないとなるとこうしてた物を持っていくくらいしか他に方法はない。猫の姿になれるがアッシュはあくまで獣人だ。本物の猫のようにネズミは食べないし捕まえたりもしない。持ってこられる方も困るだろうと花という無難な選択となった。
    アッシュは身軽にジャンプして二階の窓に降り立つ。窓は閉まっていたがカーテンの隙間から中を伺うと今は誰もいないようだ。
    昨日青年が眠っていたベッドは空っぽで耳を澄ますと微かに物音がする。それに混じって咳き込む声も。
    アッシュは持ってきた花を窓辺に置き、このまま去るのが少し惜しく思った。
    どうせだったらもう一度あの青年に会いたかったと思ってしまう自分がいた。爪で引っ掻いた傷も大丈夫だろうか。そんなことを考えていたせいか、部屋のドアが音を立てて開くまで人の気配に気付けなかった。
    会いたいと思いながらやはり会うことは出来ず、アッシュは慌てて窓から飛び降りた。
    「あれ、今……」
    どうやら去り際を見た青年の声が聞こえてくるがアッシュは逃げるように街へと駆けていく。

    部屋では青年が一瞬だけ見えた影が何やら見覚えがあるなと首を傾げていた。窓から下を覗き込んでも姿はなく、見間違いだろうかと思っていると窓の狭いへりに何かがあった。
    「花 どうしてこんなところに」
    窓を開いて花を手に取る。この家は二階建てで上の階から花が落ちてくるなんてことはない。風に乗って……というのも不自然だ。
    そのとき先ほど見えた小さな影にもしかしてと、とある考えに辿り着いた。
    宝石よりも綺麗なグリーンの瞳を思い起こして青年は頬を緩ませた。



    更に次の日、アッシュは昨日とは違う花をくわえて住宅地を歩いていた。
    せめて青年の体調が戻るまではと考えたアッシュは今日も二階の窓に降り立つ。すると今日は窓が開いている。無用心だなと思いながらそっと中を覗くと。
    「あ、来てくれた」
    するとばっちりベッドに横になっていた青年と目が合ってしまった。
    アッシュは驚きのあまり固まってしまい咄嗟に逃げることもできなかった。
    そんなアッシュに青年はニコニコと嬉しそうに笑うと体を起こしあのときのように話しかけてきた。
    「やっぱり昨日の花も君だったんだね。ありがとう。傷はどうだい」
    びっくりして動きが止まったアッシュはこれからどうすればいいのかと動けずにいる。青年は自分の体調を崩したというのにまたアッシュの心配をした。
    (なんで怒ってないんだ)
    猫一匹に構ったせいで傷を作り、風邪をひいたというのに青年はそこらで摘んできただけの花に嬉しそうに笑う。青年の手には自分がつけた傷がまだ生々しく残り、どうしてかそれ以上直視できなかった。
    「今日も持ってきてくれたのかい。君は優しいんだね」
    アッシュはその言葉にくわえていた花を思い出しておずおずと窓辺に置いた。ちらりと伺い見ると青年は変わらず嬉しそうだった。
    「傷はまだ治ってないだろう。悪化したら大変だ。治るまで大人しくしていないと。病院に連れて行ってあげたいけど、君すごく綺麗だからもしかしたら飼われてるのかな でも首輪ないしやっぱり野良かな」
    少し体を傾けてアッシュの足を見る青年。傷は人型のときに治療したから痕が見えるだけでもうそれほど痛みはないのだ。
    猫の姿の方が治りも早い。お前が心配することはないのだと、言ってやりたかった。もう俺の心配ばかりするな。自分のことを考えろと。
    だからついつい口に出てしまった。

    「ニャ」

    それはまるで青年の言葉に返事をしたように聞こえただろう。実際そうだが、それがわかるのは同じ獣人くらいだろう。
    しかしこういう声は何というか、威嚇の時くらいしかあまり猫として声を出さないアッシュからすると抑えきれない本能を見られたようで妙に気恥ずかしかった。
    人としての言葉も持つ身としては猫の声は自分には可愛らしすぎると密かに思っていたせいかもしれない。
    しまったと気まずげなアッシュとは対照的に青年は一瞬、キョトンとした顔をしすぐまた満面の笑みを浮かべた。
    「ふふふ、それは野良だっていう返事かな。それとも病院行く」
    「ニャッ」
    「今のは嫌そうな返事だね」
    またもや鳴いてしまった。しかし青年が楽しそうに笑うのでアッシュの気恥ずかしはすぐにどこかへ飛んでいった。
    「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だから気にしないで。もう怪我しないようにね」
    しかしそう言いながら青年は咳き込んで、じっと見つめるアッシュに気付くと、すぐ治るよと平気なふりをした。
    このまま自分がいてはこいつは休まないだろうと判断したアッシュは思ったよりも滞在してしまった窓辺から立ち上がった。
    青年は一瞬、寂しそうな顔をしたがアッシュはひらりと地面に降り立つ。
    見上げると二階の窓から青年がこちらを見下ろしていた。
    怪我なんてもう何ともないと言うようにアッシュは庭を堂々と横切って通りに出た。青年はほっとした表情でその後ろ姿を見送っていた。アッシュが細い道に入り込んだとき、青年の家の前に車が止まる。
    運転席から降りてきたのはガタイの良い男で助手席からは昨日部屋にいたもう1人の男だった。
    「英二 なんだ思ったよりも元気そうじゃないか」
    「もうすっかりだよマックス。ありがとう」
    アッシュはそのとき初めて青年の名前を知った。
    英二。
    それが彼の名前だった。
    青年、英二は遠くで振り返ったアッシュに手を振ると二人を出迎えるためだろうか、部屋に戻りその姿は見えなくなった。
    アッシュはアジトへと戻る道すがら、彼の名前を繰り返し心で呟いていた。







    「やあ、今日もありがとう」
    それはもはやその家では見慣れた光景となりつつあった。

    あれからアッシュは英二の下へ通い続けていた。もちろん花を持って。
    英二の名前を知った次の日もアッシュは見舞いに行ったのだが窓は閉まっており、人の気配もなかった。このまま窓に花を置いていくかと少々落胆しつつその場を後にしようとしていると、おーいと声が聞こえた。
    見下ろしてみると英二が手を振っている。
    「心配ないって言ったのに来てくれたんだね。僕今日から職場復帰だったんだ」
    そう言った英二の顔色はすっかり良くなって咳も止まっていた。
    どこかほっとした気持ちと、もうここに来る理由がなくなってしまったという気持ちが入り混じる。
    とりあえず今日持ってきた花くらい渡すかとアッシュは英二の下へ降りて行った。
    アッシュのためにしゃがみ込んだ英二の前にくわえていた花を置く。それを受け取った彼はまるで壊れ物を扱うように大事そうに拾い上げる。
    「ありがとう」
    英二は宝物でももらったかのように嬉しそうに喜んだ。だからだろうか。それからもアッシュは英二のために花を摘んでは、ときにわさわざ人型で花屋を訪れ彼のために選んだ花を運んだ。
    英二の笑顔が、喜ぶ顔がアッシュの胸の深いところを優しく照らす。あの雨上がりに見せた笑顔が英二には似合うと思った。
    それからアッシュは毎日花を運んだ。
    そしてだんだんと距離は近くなり、花の受け渡しが直接英二の掌となる頃には英二はアッシュに触れられるようになっていた。
    アッシュの部下が知ったら腰を抜かすか嘘だと疑うだろう。
    それだけアッシュは他人に触れられるのを嫌っていた。それは今でも変わらないが英二だけは別だった。

    差し出された手にアッシュの爪痕がうっすらと残っている。それを見るたびに申し訳なくなり、アッシュはその傷跡を労わるように舐めた。今は猫と人間である二人には言葉は通じない。しかしアッシュが何を考えているのか、何を思っているのかを英二はしっかりと理解していた。
    「もう痛くないよ。あのときは驚かせてごめんね」
    そう言ってアッシュを撫でる手は優しく、こんな彼を傷つけてしまったのだと後悔に襲われながらも許されたことがひどく嬉しかった。

    出会ったあの日、傷の手当てのために触れたこともあるが明確に、撫でるための接触をしたときの英二はまるで花を受け取ったときのように笑った。
    それがまたアッシュの機嫌を良くし次第に英二が触れることを当たり前のように許していた。
    またあるとき、雨が酷かった日はずぶ濡れのアッシュに英二は驚いて慌ててタオルを持ってきたりもした。
    その日の花はすっかり雨に打たれ花弁は所々散ってしまっていた。これでは英二は喜んでくれないどころか、受け取ってもくれないかと気落ちするアッシュ。しかし英二はボロボロの花をいつものように受け取り、濡れたアッシュを優しくタオルで包み込んだ。
    「言っただろう。もう風邪もとっくに治ったから心配いらないよって。僕に花を持ってきてくれるのももちろん嬉しいけど、何より君が来てくれるのが一番嬉しいんだよ。だから君の気が向いたときおいで。今度は君が風邪を引いちゃうよ」
    心配そうにそう言われ、アッシュはまた思わず鳴いてしまった。
    それなら、変わらず毎日ここへ来るだろうと。そして変わらず花を持っていく。
    アッシュが今まで贈った花を英二が写真にしてとってあるのを知っている。もう花束ができるほど贈った花を見返しているのをアッシュは知っていた。
    「ニャー」
    「わかってくれた」
    言葉が通じないというのは不便だと思っていたが、こういうときは結構都合がいいなとアッシュは小さく鳴いた。


    アッシュはすっかり英二の家に馴染んでいた。花を届けるだけでなくここで過ごす時間も少しずつ増え、英二について知ることが増えた。
    彼はカメラマンを目指して今はアシスタントとして働いているという。日本からやってきた英二はアッシュの想像に反して年上だった。
    伊部と呼ばれていた男は英二の上司にあたりカメラマンとしての師匠だ。この男が側から見てもだいぶ過保護なことはアッシュにもすぐにわかった。
    この家はこの街を拠点にする伊部のもので英二は居候だ。こちらに来て英二は一人暮らしをしようとしたが慣れるまではと引き留められたらしい。
    こんな話を知っているのは英二がアッシュを話し相手にすることが多かったからだ。
    いくらアッシュが英二に会いにきてもアッシュには仲間がいる。ずっとここにいるわけにはいかない。英二もアッシュが飼い猫か野良か気にしていたがアッシュの自由な行動にそういう猫かと納得したらしい。
    だから会うと何やら楽しげに今日あった出来事や仕事の話をするようになった。
    アッシュがそれに相槌を打つように時折小さく返事をしてくれるのも楽しい要因のようだった。
    人の姿になって英二と伊部について調べたりもした。彼らの写真を見たかったからだ。
    今では英二の膝の上で撫でられるようになる。英二の掌が優しく毛並みを撫でる。獣人としてボスとして気の休まらない日々が日常のアッシュにとってこの時間は心から安心できる時間だった。
    猫の姿にこれほど感謝したことはないだろう。
    「もう寝ちゃうのかい。嬉しいけど最近すぐ寝ちゃうね君」
    そう言いながら撫でる手つきが一層丁寧になる。アッシュは耳を動かして聞いてるよと返事をする。
    それに気付いたのかわからないが英二は話を続けた。
    「それでね、僕の友達に君の話をしたんだ。すごく綺麗で優しい猫がいるんだって。そしたらその友達が見てみたいって」
    英二の人柄か彼は友人が多かった。英二を知れば確かに惹かれる人は多いだろうなと複雑な気持ちを抱えながらもアッシュはまた耳を動かす。
    「考えてみたら君の写真一度も撮ったことがなかったよ。どうしてだろう」
    それは英二がアッシュと触れ合ったり話すことに時間をかけているからなのだが、英二は思いつかないようだ。
    アッシュもそういえばそうだなと、尻尾を揺らして返事をした。
    ときどき英二が見せてくれる写真を思い返す。まだうまくいかないと英二は言うがアッシュは彼の写真が好きだった。そんな英二の被写体になれるなら存外悪い気はしない。他の人間や獣人だったらお断りだが。
    「ンー」
    「モデルになってくれるかい いいの」
    「ンー」
    半分寝ぼけた状態でアッシュは気の抜けた返事をした。写真を撮られただけでは獣人だとバレることはない。
    英二に懐いてある猫として写るだけだ。それくらいいいだろうとアッシュはウトウトしながら小さく鳴いた。
    ベッドに腰掛けていた英二はガサゴソと音を立てて何かを漁る。膝の上のアッシュは気にもせず身を預けていた。
    するとアッシュの頭上でパシャリと音がした。
    もう撮ったのかと片目を開けてみると、英二が写真の写りを確かめていた。
    「すごいや。モデルがいいからかな。プロになった気分」
    そう言ってはしゃぐ英二に、そんなことない。英二の写真、俺は好きだぞと伝えたくなった。
    しかしそれはこの姿では声にならず、訪れた眠りに鳴き声にもならなかった。







    「なーなー、この前の猫写真撮れたのか英二」
    「もちろん。ばっちりだよ」
    親しげに英二に話しかけるのは伊部のスタジオでアルバイトをしている少年だった。
    「ずっとその話ばっかりだもんな。気になっちまうよ」
    もう一人のアルバイトの少年も同じく英二の写真を待ち望んでいた一人だった。
    二人は英二のようにカメラマンを目指しているというわけでもはないが年が近い英二とは友人関係にあった。
    英二はカバンから取り出したファイルを自信満々に二人に差し出した。英二は我ながら上手く撮れたこととあの優しい猫を誇るような気持ちで自然と笑みが浮かんだ。
    「すごく可愛いんだ。我ながら上手く撮れたよ」
    「へー、どれど、れ……」
    二人が揃って写真を覗き込む。英二はそんな二人から歓声が上がるのを待っていたのだが、しばらくしても声すら聞こえない。
    「どうかした ボーンズ、コング」
    振り返った二人に英二は首を傾げる。
    写真を見つめるボーンズとコングは驚きに身を固くしていた。
    それは見てはいけないものを見てしまったときの反応であり、この写真を見たことが当の本人に知られたとき果たして自分たちがどうなってしまうのかという本能的な恐怖だった。
    それに気付かない英二は「可愛くてびっくりしたのかな」と、相変わらずの笑みを浮かべていた。



    君に花束を


    「ボーンズ、コング」
    心なしかいつもより低く感じるアッシュの声に2人の少年の肩が大袈裟に揺れた。呼び止められた2人はボスを無視することなどできず、油の切れたブリキ人形のように振り返るしかない。
    アジトの一つにしている古びた店にボーンズとコングは呼び出された。目の前には彼らのボス、アッシュ・リンクスが鋭い眼光を放っている。
    「あの、俺らなんかやっちまったのか……」
    リンクスとしてアッシュに命令されることは少なくない。だがボーンズもコングも彼の期待を裏切るようなことはしていない……はずなのだが。アッシュの常人ならざる頭脳では何か2人の行動に不都合が生じてしまったのか。
    得体の知れない恐怖に2人は怯えながら、ボスの言葉を待った。
    「お前ら、自分たちが最近様子がおかしいことに気付いてないのか。俺に何か、隠していることでもあるのか」
    「まさか 俺たちがボスに隠し事なんて……」
    「そうだよ、ボスにバレて困ることなんて……」
    2人は最初こそ勢いよく否定したものの、何やら心当たりがあるのか、徐々に声が小さくなる。
    アッシュはボスとして、グループを把握しなければならない。獣人グループとして少年達が身を寄せ合っているのはリンクスだけではない。他のグループとの衝突、獣人狩りを続ける裏の人間など敵は多い。
    アッシュはこの2人に対して信頼できると判断しているがここ最近の様子はどうにも看過できなかった。
    どうしてかアッシュに対しての反応がやけに過剰であったり、いつものように出掛けようとすると何やら「やっぱりそうなのか……」と呟く声がする。
    何にせよ、彼らの様子をこのままにしておけないとアッシュは2人を呼び止めた。
    これ以上逃げられないと判断したのか、ボーズとコングは顔を見合わせる。すると躊躇いがちに口を開いたのはコングだった。
    「じ、実はよ、アッシュによく似た猫を見かけて……」
    「それだけか」
    予想もしない答えにアッシュは思わず眉をひそめる。アッシュは猫の獣人だ。アッシュの毛並みには模様はなく、確かに色さえ同じなら似ている猫は多いだろう。
    だがそんなこと当たり前で、2人が動揺することでは無い。
    すると今度はボーンズが口を開く。
    「見かけたっていうか、写真なんだけどさ。俺らがバイトしてるとこでできたダチが撮ったんだ」
    アッシュによく似た猫の写真。
    ボーンズとコングのバイト先。
    たったそれだけのキーワードだったが連鎖的に導き出された答えにアッシュはしばし頭を抱えた。
    「あ、アッシュ」
    黙り込んだボスにますます怯える部下をそのままにアッシュは自分の詰めの甘さを嫌悪していた。
    「……事情はわかった」
    何故彼らがアッシュを前にして動揺するのか、言わずとも理解できてしまう。それがまたアッシュにとっても気まずいことなのだが。
    「じゃあやっぱりあの写真は……」
    ボーンズの震える声はそこから続かず、鋭い視線に口を押さえた。何故かその隣のコングも。
    「他言無用だ。いいな」
    「「イエスボス」」
    これ以上ない返事に彼らの必死さが滲む。
    (まさかこいつらが英二が言ってた友達だったのか)
    確かに、君の写真を見せたいと英二が写真を撮った次の日から2人の様子がおかしくなっていた。英二とリンクスのメンバーが繋がっていたことになんとなくモヤモヤとしたものが生まれる。
    あの写真を見られた、となると正直2人の記憶を消してしまいたいがそういうわけにもいかない。
    アッシュは事態を悔いるよりもこの状況を利用することを選んだ。
    「英二はあの写真を他の奴に見せたのか」
    ボーンズとコングは英二の名前が出たことにやはり……と顔を見合わせながらボスの質問に答える。ボーンズはうーんと唸る。
    「そこまではわかんねえな。もしかしたら見せてるかも知れないけど、あそこにはオレら以外獣人はいないのは確かだ」
    「念のために英二に聞いておけ。……なんだ」
    反応がない2人は何か言いたげなソワソワとしている。口を開いたのはボーンズだった。
    「いや、アッシュと英二がいつ知り合いになったのかと思ってよ」
    「……そのうちな。あと、英二のことで……何かお前らが知ってることはあるか」
    果たしてこれはボスとしての情報収集なのか、あるいは私情か。どちらにせよ2人が英二と近しいならば聞かずにはいられないことだった。
    「そういえばこの前なんか言ってたな」
    「確か……」





    「展示会に出るんだ」
    ぷらーんと抱き上げられたアッシュは花をくわえたまま英二にされるがままだった。
    子供のようにはしゃぐ英二が落ち着くといつものように花を渡し、窓辺に置かれるようになった透明な花瓶に差し込まれる。
    英二の話によるとこの街を拠点とするカメラマンが集まって展示会が開かれるらしい。伊部も参加するということで英二を含め彼のスタジオスタッフもその準備に追われている。
    そしてカメラマンを目指すスタッフを何人か選び同じく展示会に作品を飾れることになったという。
    「メインは伊部さんや他のプロのカメラマンなんだけど、僕みたいな新人が数人分だけ狭いけどスペースもらえたんだ。どんな写真を撮ろうかな」
    英二はあれやこれやと撮りたい題材を列挙したり、時折うまくやれるか心配だと小さな不安を口にした。それでも英二は楽しそうに話し続ける。
    「ニャ」
    「応援してくれるの ありがとう」
    温かな掌がアッシュの頭をワサワサと撫でる。英二の手はいつでも優しかった。





    とある安ホテルの一室。ヒビが入った壁は落書きで上書きされている。壊れかけたスプリングが悲鳴を上げるベッドに腰掛ける青年。錆びた空間に浮く艶のある金髪が窓から入り込む風に揺れる。
    「展覧会か」
    伊部の写真が載る雑誌には彼が参加する写真展についての詳細が書かれていた。開催地は遠くなく、行こうと思えばすぐに行ける。
    アッシュは英二の写真だけでなく、伊部が撮るものも目にする機会が多かった。もちろん、あの家で。
    猫として英二のもとに通うアッシュのことは伊部も認知しており、最初の頃は英二と同様に飼い主のことを気にしていたようだ。首輪もしていない、しかし野良にしては妙に毛並みが綺麗なアッシュを不思議そうに思っていたようだが、飼い猫にしろ自由に出歩けるか、野良ならば色々なところで世話をしてもらっているのだろうと結論付けていた。


    「やっぱり英ちゃんしか触れないね」
    それはアッシュが英二の部屋ではなく、リビングで英二の隣に陣取っているときだった。
    テーブルに広げた写真の整理をする英二の隣で彼の脚にもたれかかっているアッシュと共に英二は伊部の言葉に顔を上げた。
    「その猫、英ちゃんにしか懐いてないみたいだ」
    「そうですか 伊部さんも懐かれてると思いますよ」
    「でも撫でようとすると逃げ出すよ」
    ほら、と言ってアッシュに触れようと手を伸ばすとひらりと躱して反対側に移動する。
    「きっともう少ししたら撫でさせてくれますよ」
    「まあ、マックスよりかは望みはありそうかな」
    マックスという名前にアッシュの耳が伏せるの見て英二と伊部は揃って苦笑いする。
    綺麗な猫が英二に花を届けていると、伊部が友人であるマックスとの話題に出したところ、面白がったマックスが家に見に来たときがあった。
    しかしどうしてかこの一人と一匹は相性が最悪なようで、マックスがアッシュに触れようとする鋭い爪が彼を襲った。
    これまで英二に初めて会ったとき、そのときでもうっすら血が滲む程度にしか爪を立てなかった猫の容赦ない洗礼に英二も伊部も声も出ないほど驚かされた。
    英二がアッシュを抱き上げ、伊部が猫を捕まえようとするマックスを押さえてそれ以上の惨事にはならなかったが、あれ以来彼らの間には険悪な雰囲気が漂うばかりだった。
    「相性が合わないこともあるらしいし、難しいところだ」
    「どうしてあんなに仲悪いんですかね」
    触れないにしろ、伊部にも爪を立てたことがないのにと、英二はアッシュの顔を覗き込む。
    「酔っ払ってたからとか。猫は匂いに敏感って言われてるし」
    「マックスあの日、酔ってましたもんね。ジェシカに追い出されたからって自棄酒してももっと彼女を怒らせそうなのに」
    英二と伊部の会話に耳を立てながら、アッシュはもうその話題はいいだろうと英二の手に頭を押し付ける。
    すると英二は作業の手を止めてアッシュを膝の上に乗せる。やっとこちらに意識が向いたことに満足したアッシュはゴロゴロと機嫌良く喉を鳴らした。
    実際のところ何故アッシュがマックスを気に入らないかといえば、マックスの突然の来訪でアッシュを構っていた英二は彼の介抱に取られてしまったからだ。そして英二に文句を言う鳴き声を何を勘違いしたのか客人……本人としては客人と思っているようで、その自分に構われたいのかと思ったマックスが触れようとしてきたからだった。
    それに気付かない英二たちは、早くマックスにも慣れるといいねと、少しずれたことを思っていたがそれに気付くことはなかった。


    変なことまで思い返してしまったとアッシュは思考をもとに戻した。
    開かれたページに記載された日付はもうすぐだ。
    ここのところ英二も忙しそうで帰りも遅く、アッシュが訪ねてきても家に明かりすら点っていないこともあった。
    英二と会える時間が減るのは正直喜べたことではないが、会いに行けなくなる前に英二が楽しげに展覧会について話す姿が脳裏に浮かぶ。
    英二の写真。
    もちろん伊部の写真も十分興味はあるが、やはり贔屓にしてしまうのは英二の方だ。
    彼が撮る写真ならばもう何度も、何枚も見たことがある。
    しかし展示されているのは見たことがない。夜遅くまで写真の選別をして重い機材を持って駆け回る英二が一体どんな風にあの写真を見せるのか。
    彼の目に映るものを、もっと知りたかった。
    しかしそれが許されるのか。
    アッシュはその答えを出せずにいた。






    展示会場はオフィス街にあるとあるビル内のホールを貸し切って行われる。今回参加するカメラマンが複数人、しかも事務所に所属していたり個人で活動していたりと様々でその準備もまた、統一感のないざわめきの中進んでいた。
    準備にはもちろん英二も駆り出され、伊部からの任された区画の作品の配置に取り掛かっていた。細かな調節は伊部が行うが予め決めていた配置に作品を並べていく。
    場の雰囲気やライトの角度、光量によって作品の見え方は変わってくる。また伊部さんから指示してもらおうと、一通りの作業に区切りがついたところで「ねえ」と、声を掛けられた。
    振り返れば英二と歳の近いと思われる数人の男女がこちらに近付いてきた。
    「あなたイベシュンイチの子供 今日は親の手伝いかしら。 私たち彼のアシスタント探してるのよ」
    「えっと、僕は伊部さんの子供じゃなくてアシスタントだよ」
    「えぇ あなたが」
    話しかけてきた彼女だけでなく、彼女と一緒にいた数人も同じく信じられないと英二をまじまじと検分する。
    こちらに来てもう幾度と繰り返している台詞だがここまで言われ続けると何か対策でもした方がいいのかなとまで思えてしまう。
    「ごめんなさい、私ったらとんだ失礼しちゃったわ」
    「いいんだ、気にしないで」
    話を聞くと彼らは今回の展示会に参加するカメラマンのアシスタントらしい。同じカメラマンのもとにいるアシスタントもいるようだが殆どが別のプロのもとで働きながら経験を積んでいるという。
    英二と同じで彼らもプロを目指しているらしい。
    「同じプロ志望同士、話がしてみたいのよ。もちろん、作品も見てみたいわ。あなたもこの後どうかしら」
    作業を終えたら早めでも直帰でいいよと伊部には言われている。作業は今後まだ続き、根を詰めるのはもう少し後の予定だ。早めに帰れるうちは早めに帰るようにと。
    「もちろん。今日の作業もちょうど終わるところだったんだ」
    「よかったわ。準備ができたら声を掛けて。スタッフルームで待ってるから」
    その場で別れた英二は手早く片付けを始めた。



    ボーンズとコングは車に積まれた機材をスタジオへと運び込んでいた。外での撮影に使われた機材を運ぶ彼らの手付きは慣れたものだ。
    そろそろ日も沈もうと空が赤く染まる時間だった。
    「運び終えたぜ」
    「ああ、ありがとう」
    運転席から降りた伊部もボーンズとコングと共に事務所内へと戻る。
    「そういえば今日は英二休みだったのか いないよな」
    「英ちゃんは展示会の準備に行ってもらってるんだよ。終わったら直帰していいって言ってあるからもう帰ってるんじゃないかな。本格的に忙しくなる前に休ませようと思ってね。良くも悪くも働きすぎる子だから」
    「俺からすればイベさんも働き過ぎたと思うけどな」
    「そうかな」
    そんな話をしながら事務所に入った3人は見慣れた後ろ姿を見つけて思わず声を上げた。事務作業やデスクワークのために用意された個人席がいくつも並ぶオフィスには先ほど話題に上がった人物が書類を片手に作業していたからだ。
    「英ちゃん どうしたんだい。忘れ物」
    「伊部さん、お疲れ様です。ボーンズとコングもお疲れ。家にいても落ち着かなくて。僕も作業あるので進められるうちに進めたくて」
    「え、もしかして仕事しに戻ってきたのかい」
    この時間ということはすでに展示会場の準備を終えているはずだ。そのまま直帰でと話したときは英二も了承していたはずだった。だというのに突然どうしたのか。
    「ジャパニーズってみんなこうなのか」
    「かもしれねえな」
    ボーンズとコングが信じられないと顔を見合わせる。
    今回英二の作品の展示もあるため彼の作業量は他のスタッフに比べて多い。英二の言うこともわからないでもないが、普段から作品を撮り続けている彼なら急いでする作業はそこまでないはずなのだが、と伊部は英二の焦りに違和感を覚えた。
    「何かあったの」
    「……いえ、何でもないですよ。会場の準備の続きやってきますね。こっちでもやることあるんで。伊部さんに確認したいことあるんですけど明日いいですか」
    「え、ああ、前から決めてたし午後に会場行ける予定だよ」
    「じゃ、それまで作業進めてますね。必要なもの取りに来ただけなので僕行きますね」
    いつになく忙しない英二を引き止める間も無く、伊部たちはその背中を見送ることしかできなかった。
    「うーん、大丈夫かな英ちゃん……」
    英二はそれからいつにも増して熱心に作業に取り組み続けた。元来、真面目な気質ではあったが必要以上に仕事を抱え込むようになった。
    展示会の作業、自身の作品作りも時間を取られるはずだというのに事務所の事務作業まで片付けてしまう。それはまるで没頭することを必死に繋いでいるかのようだった。



    夜の闇が街を包み、建ち並ぶ家の窓に灯りが灯る。眩しい街灯を避け、影を縫うようにして屋根から窓辺へと着地する。夜風に揺れるカーテンが今夜も彼を受け入れてくれた。
    二階の窓からそっと中を伺うのは一匹の猫だ。開けられた窓にはアッシュが日々贈り続けている花のために小さな花瓶が置かれるようになった。
    まとまりのない花が数輪活けてある。今日もまたここに一輪加わることだろう。
    部屋の明かりはついておらず、作業台のライトだけが煌々と照っていた。机に向かい何やら作業する英二はアッシュには気付いておらず、真剣な表情で没頭していた。機材の手入れだろうか。
    詳しいことはわからないが、英二の邪魔をする気もなく、彼が撮る写真が好きなアッシュはそのまま眺めることにした。
    くわえていた花を窓辺に置き、じっと英二の横顔を見つめる。
    一心に手元に向けられる瞳には普段の幼さが鳴りを潜め、静かな熱が映る。
    この家に訪れるとこうして作業する英二の姿を見かけることは度々あった。アッシュはそんな英二の横顔を眺めるのが好きで何も言わずに彼が気付くか、英二の様子を見に来た伊部に気付かれるかするまで窓辺に座っている。
    「来てたなら教えてくれよ。足音がしないからわからないね」
    その度に英二にそう言われたが彼の邪魔はしたくない。それに作業に夢中になっているときならば、アッシュは思う存分英二を見つめることができるのだ。
    あの穏やかで優しい黒い瞳を真っ正面に向けられるとどうにも落ち着かなくなる。ソワソワと、気恥ずかしさに視線を逸らしてしまう。だからこうして英二を待つのは嫌いではなかった。
    そのとき、英二の手がふと止まる。
    少しだけ考え込むように目が伏せられ、小さくため息が聞こえた。力なく作業台に下ろされた掌の中で機材をぼんやりと見つめる。
    それは初めて見る英二の姿だった。
    いつでも明るく、穏やかにときに子供のようにはしゃぐ英二が背中を丸め机に突っ伏すようにして腕に顔を埋めていた。
    それは衝撃に近かった。
    アッシュは窓辺を強く蹴って大きく飛んだ。一瞬で英二のそばへと駆け寄る。
    「ニャー」
    足元で聞こえる声に英二はハッと顔を上げ、視線を巡らせた。影が濃い足元が見え辛いようでアッシュが光の下に出ると、その姿を捉えた英二は顔を綻ばせた。
    そこにはもう先ほどの陰りはない。
    「ああ、ごめんね、気付かなくて。こんにちは」
    英二の膝に手を置き、伸び上がったアッシュを撫でる英二は窓辺に置かれた花を見るといつものようにありがとうと告げ、またその柔らかな毛並みに触れる。
    英二は椅子から立ち上がり、今日の花を窓辺の花瓶に加える。英二の表情はいつもと変わらない。しかしアッシュは先ほどの様子が気になった。
    出会ってから英二の笑顔や快活な様を見てきたアッシュにとってそれは強く違和感だった。
    誰しも生きていれば疲れることも悩みも当然あることで、英二にだってそれは例外ではないだろう。だが当然のことだとしてもアッシュは気にしないことはできなかった。
    何かあったのか。そんな顔をするほど悩んでいるのか。そんなこと、いつあったんだ。
    「ニャ」
    「ん どうしたの」
    ひらりと作業台に登り英二を呼ぶつもりで鳴けば、すぐに彼は気付いて振り返る。机の上には用途はわからないがいくつもの機材が置かれていた。
    そして何枚かの写真も。
    「機材の確認をしてたんだよ。もうすぐ展示会だからね」
    聞きたいのはそうじゃない、どうしたんだ。
    ただそれだけを伝えたいのに、この身ではそれも叶わない。様子の違う英二に何かあったのではと探るアッシュだがそううまくはいかない。
    それでも彼の話を聞いていれば。猫相手にも律儀に写真や仕事のことを話す英二なら愚痴の一つでも口にするかと思ったが、英二は展示会の話しかしなかった。
    アッシュはいつものように静かに彼の話に耳を傾ける。
    (疲れてただけか)
    英二のため息など初めて聞いたが、彼はもう社会に出て働いている。苦労も多いだろう。ため息の一つくらいついて当たり前かと思いながらアッシュは英二の掌に顔を擦り寄せた。無理をするなと、そんな想いが伝わるように。
    「いつもよりも甘えただね。寂しかった」
    英二はアッシュの毛並みを撫でながら機嫌よく鳴る喉をくすぐる。そうされると体は勝手にもっと撫でてくれと芯をなくしたように力が抜けていく。ふわふわの毛並みを堪能する英二はそんなアッシュの様子に笑っていたがやがてその手はゆっくりと止まってしまう。
    どうしたとアッシュが見上げると英二はギュッとアッシュを抱き締めた。決してアッシュが苦しくならないように、腕で囲い込むような優しいものだった。
    英二の表情は伏せてしまって見えない。アッシュはライトに照る黒髪や首筋に身を擦り寄せては伺うように鳴いた。
    やっぱ様子が変だ。どうした、英二。
    しかしそれは当然伝わらず、側からみれば人懐っこい猫が戯れついているようにしか見えない。
    「僕って全然だめだなぁ……」
    それはアッシュの毛並みに埋もれてしまうような小さな呟きだった。その声音に、アッシュはそれ以上鳴くこともできず、伊部が英二を呼びに来るまで彼の腕の中で静かに寄り添い続けた。


    アッシュが覚えた違和感はそれからも消えることなく、気付けばあっという間に展示会の初日を迎えた。アメリカ内でも名の知れたフォトグラファーたちの展示会とあって訪れる人は多く、初日から連日賑わいを見せた。街中ということもあり絶えず人が観覧に訪れる。
    そしてアッシュはというと。
    展示会が開かれているビルはもう目と鼻の先というところにあるカフェのテラス席に1人の青年が険しい表情で一点を見つめていた。
    その視線の先はもちろん展示会場のビルだ。出入りする人々をもう何人も見送り続ける青年は時折立ち上がるそぶりを見せるも、結局椅子に座り直りまた同じ場所を睨むように見つめる。
    どんな宝石の輝きにも勝る翡翠の瞳や光を束ねたようなブロンド、壁画に描かれる天使のような人間離れした美しい顔立ちだったが均整のとれた身体つきは可憐さではなく精悍さを滲ませる。
    そんな青年は店に訪れてからずっと周囲の視線を集めているのだがまるで気付いていないように振る舞っていた。それらの視線には当然気付いていたが今の彼にはそれに構っているほどの余裕はなかった。
    周囲の人間、性別問わず彼に話しかけたそうに視線を送るが全く相手にされず、しかし話しかけようにも彼の放つピリピリと緊張した雰囲気に誰も近付けなかった。
    青年、アッシュがこうして展示会場を見つめるばかりなのは今日に限ったことではなかった。
    開催から数週間経った今でさえ、アッシュはあの場に踏み入れずにいた。展示期間が長いのが幸いし焦る必要はないのだが、会場近くのカフェや長居できる店に入ってはこうして躊躇い続ける日々が繰り返されていたのだ。
    そして数時間の葛藤の末、会場とは反対方向へと帰る。それがここ数週間のアッシュだった。
    いつもとは違い良いところの坊ちゃんのような装いで出かけるアッシュにアレックスだけでなく他のリンクスメンバーも何事かと疑問に思っていたがアッシュの形相に誰もそれを口に出せなかった。
    事情を知るボーンズとコングだけは何やら言いたげだったがそれは黙殺した。
    そして今日も同じようにコーヒーを飲んで帰ってきただけのアッシュはボロボロのソファーに腰掛けて内心肩を落とした。
    「はぁ……」
    アッシュは己の掌をじっと見つめた。それは紛れもなく人間の手であったし今の彼はどこをどう見ても人間にしか見えない。瞳の瞳孔も人間のものだ。獣人と知られる要素はどこにもない。それでも自分が獣人であるという変えようのない事実が見透かされそうで踏み出せない。
    こんなに悩むのなら行くのをやめれば済む話だった。それでもアッシュがやめない理由はたったひとつだ。脳裏に浮かぶのは数週間前の英二の姿。
    あれから英二には会っていない。花を置いてくるだけで顔を合わせないのは何となくどんな顔をして会えばいいのかわからないからだった。
    展示会に行かずに彼に会うのはどうにも気が引けて、ならば彼の写真をこの目にしてから会いに行こうと決めたのだが、その日が一向に訪れない。原因は自分自身にあるためにアッシュは溜まり続けるストレスに辟易していた。
    英二の常でないあの様子が気になって仕方ない。落ち込んでいる彼をどうにか励ましたい。いつものように笑ってほしい。けれど彼の努力を見にいくこともできず、そのまま会いにいくこともできない現状ではそれは叶わなかった。
    すると外との出入り口が先程よりもにわかに騒がしい。人型となっても優れた聴力が付近でたむろするメンバーの声を聞き取った。
    「うわっ。なんだよ2人ともすごい匂いだな」
    「最近じゃずっとこれだよ。馬鹿でかい花の塊みたいなの運んでばっかだからな」
    「えれーたくさんあってよ、鼻がいかれちまうぜ」
    聞こえてくる声はボーンズとコングだ。伊部の下で働いているとするとおそらく展示会での祝いの花が贈られてくるのをスタジオまで運んでいるのだろう。その移り香の話をしていた。
    花、贈り物。
    そこでアッシュはハッと思い付いた。
    花だ。花束を贈ろうと。
    いつものように、いやたった一輪ぽっちじゃなくてこの姿なら抱えるほどの花を英二に贈れる。そうすればまた喜んでくれるかもしれない。落ち込んだ英二を励ますことができる。
    そうと決めたアッシュの行動は早かったのだが、決行は遅かった。
    英二に贈る花束を悩み、結局選び終えたのは最終日前日となってしまったアッシュは失敗できない最初で最後のチャンスを翌日に控えた。
    明日をこんなに待ち望んだのはもういつ以来だろうか。今日だけを必死に生き延びるだけのアッシュにとってそれは世界が変わってしまったような衝撃をもたらした。けれど決して嫌なものではなく、それは心臓を昂らせ、心があたたかなもので満たされていく。

    しかし悪い出来事は最も起きてほしくないときに起こってしまうものだ。今のアッシュはそれに気付くことはできなかった。






    翌日は灰色の雲が空を覆っていた。雨の気配もあったが用事が済むまでは大丈夫だろうとアッシュは街へ繰り出した。
    その日は朝から、というよりもアッシュが目覚めた昼から何かとついていなかった。
    緊張のあまり寝つきが悪かったせいで時刻は昼過ぎ、文字通り飛び起きた。我ながらこの寝起きの悪さに情けなくなる。起こさなかった部下に理不尽な怒声を浴びせながら手早く身支度をしアジトを飛び出す。
    部下たちがアッシュ起こさなかったのではなく、起こせなかったのだがそれは彼が知るところではなかった。
    息を切らしながら駆け込んだ先は時折猫の姿で英二に贈るための花を買うようになったとある花屋だ。小さな店だが花はどれも鮮やかでよく手入れされている。
    他の花屋では人目を惹くアッシュの容姿に店員だけでなく他の客も騒がしくなり熟考できなかった。不必要に話しかけてくるのに耐えられず店を出ることもしばしばあった。
    ここの店主はいつも人の良さそうな笑みを浮かべてアッシュが来ても「いらっしゃい」と声をかけるだけであとはこちらが話しかけるようなことがない限り下手な干渉がない。
    アッシュが店に訪れると店主は心得たように店の奥から1つの花束を手に戻ってくる。
    昨日まで悩み続けてようやく決めた花々は両掌ほどの花束となって青いラッピングペーパーに包まれていた。
    ボーンズとコングの話にもあったようにプロカメラマンたちに贈られる花はかなり数があるだろう。だからこそアッシュはあえてこの小さなサイズにした。
    最初は両腕に抱えるほど大きなものにしようとした。だが大きさだけで英二が喜ぶだろうかと考え直し、何度も考えているうちに両手に収まるほどの大きさへと変わっていた。
    これほど小さければ他の贈り物に紛れるだろうと。それくらいで、いいのだと自分に言い聞かせた。
    受け取った花束の重みに改めて今日、彼にこれを贈ることができることを実感する。そして同時に喜んでくれるだろうかという不安と緊張も。代金と多めのチップを渡し花束を受け取る。
    「良い1日を」
    店主のいつもの穏やかな笑みと共に贈られた言葉は何気ないものだったが、まるで今のアッシュの不安を見抜いているかのようだった。
    「ああ、ありがとう」
    その言葉に背中を押され、アッシュは店を出た。会場から少し離れた場所だが今から向かっても十分に間に合う時間だった。
    花を贈るシミュレーションはもう何度も繰り返したが、道すがらまた最後の確認だと思い浮かべる。
    会場に行って、写真を観覧して、彼の写真をこの目に焼き付ける。そして受付に「奥村英二というカメラマンに」と花束を預ける。
    それだけだ。失敗しない。会場に贈られた花はボーンズたちのようなスタッフが送り届けているのはわかっている。この花もきっと英二の元に届くはずだ。
    アッシュは頼んだぞと、ここにはいない部下2人に念を飛ばす。
    コートのポケットから取り出したのは1枚のメッセージカードだ。アッシュはそれをじっと見つめ、悩んだ末に花に隠れるように茎の隙間に差し込んだ。
    花を贈ることができればそれでいい。そのつもりだったが直前でどうしても言葉も伝えたくなってしまった。内容はあまりにも簡素なメッセージだ。


    奥村英二へ

    あなたを応援しています

    あなたのファンより


    本当はもっと書きたいことはあった。けれどもいざ文字にするとどれも、一欠片も伝わる気がしなくて書くことはできなかった。結局、無難な例文のようなメッセージになってしまった。これが今のアッシュには精一杯だった。
    決して自分とはわからない。どこの誰で、ましてや花を運んでくるあの猫だなんて英二は気付くこともできない。そのことに安心するような、寂しいようななんとも言えない気持ちになる。しかしそうでもなければこうして彼へのメッセージカードなど用意できなかっただろう。
    アッシュはこれ以上考えるのはやめようと花束から視線を上げた。とにかく今は展示会に向かうことを優先すべきだ。
    雲は濁った水を湛えているように重く街の上を覆う。微かに雨の気配が鼻先を掠めアッシュは足を早めた。
    時刻はすでに昼を過ぎている。さほど遠くもない会場だったため間に合うだろうと緊張で強張る足をなんとか動かして歩くアッシュ。だが彼を襲う悲運はまだ終わっていなかった。
    一体誰が仕組んだのだろうかと疑うほどにアッシュは道の先々で足を止めることとなった。
    会場へと向かう道は事故のため通行ができなくなっており、遠回りになる道を通ることになった。
    選んだ道が悪かったのか、運が悪かったのか。道ですれ違った学生であろう若いグループに因縁をつけられたり。今のアッシュはストリートであることを隠すために一見すれば上流階級のお坊ちゃんに見える程度に身なりを整えていた。普段の雰囲気を隠した今の彼は大人しい優男にしか見えないだろう。
    普段なら穏便に、それこそ暴力なんて知りませんという顔をして煙に巻いたが今は時間が惜しい。不躾に肩に回された腕もそのままにさせて表通りから外れた路地にされるがまま着いていく。
    花束があるため片腕は塞がっているが、そう問題でもない。
    人目がなくなった瞬間、アッシュは花束を庇いながらも素早い足技で相手を転がし、呆気に取られている残りのグループも数で襲いかかるが結局数分もしないで彼らは地面と挨拶することとなった。
    「急ぐか……」
    たいして汚れてもいないが服を払い、ちらりと腕時計に視線を落とす。まだ焦るほどの時間でもないがこのままでは何が起こるかわからない。なるべく早く目的地を目指そうとアッシュが歩き出そうとしたときだった。
    「アッシュ こんなとこで何してんだよ」
    路地の奥から飛び出してきたのは少し前から顔を見知った少年だった。
    「シン。それはこっちの台詞だ」
    黒い短髪の少年が駆け寄る。
    「何って見回りだよ。この前獣人の売人が彷徨いてるって話が入ったんだ」
    「お前1人でか それにここらはお前らの縄張りじゃないだろう。またラオの奴にどやされるぞ」
    兄であるラオの名前を出されたシンは苦い顔をして決まり悪そうに頭をかいた。
    「俺だってもうガキじゃないんだ。ショーターの役に立てる……」
    シンはチャイニーズのストリートギャングの少年だ。そのグループもアッシュがボスを務めるグループ同様に獣人で構成されている。シンのボス、ショーターとは数年前から親交もありグループも友好関係にある。
    アッシュたちがいる場所はどちらのグループの縄張りから少し外れている。そんなところにシンのような子供を1人仕事を任されるはずもないのでおそらく彼の単独行動だろう。
    世話を焼くつもりもないが親友が目を掛けている部下を見て見ぬ振りをすることもできずどうしたものかとアッシュは顔に出さず思案した。
    この子供を放って展示会に向かうか、時間のロスを覚悟して友人に引き渡すか。自分のグループでもないこの少年の面倒を見る責任はアッシュにはないが、彼のボスの友人としての義理くらいは多少ある。
    どうしたものかと思案しているそのとき、アッシュの耳が微かに獣の声を聞き取った。街中の野良猫や野良犬など珍しくはない。しかしそれらとは違う何かを感じ取ったアッシュは耳を澄ました。
    「アッシュ、今の……」
    「静かに」
    シンにも聞こえたようで2人は神経を尖らせ周囲を探る。
    この声は、子供のものだ。
    そしてそれに混じって風が運んできた別の声にアッシュはハッと顔を上げた。
    駆け出し向かう先はすぐそこだ。通りを抜けた2人が目にしたのは目の前の建物から何かを抱えて車に乗り込もうとする男の姿だった。声は男の手元から聞こえる。それは紛れもなく子供であった。そしてアッシュはもがく子供の腕を見て目を見開いた。
    獣の毛に覆われ小さな爪が剥き出しになっている。
    獣人の子供だ。
    子供を車に押し込める男がアッシュたちの存在に気付く。
    「何見てやがる」
    男が銃を向け躊躇いなく引き金を引く。アッシュは咄嗟に後ろに飛び、建物の陰に隠れる。シンも身を屈め息を潜めた。
    獣人の誘拐。それは獣人の存在がほとんど知られなくなった今でも時折起きていた。獣人を知る数少ない人間がその希少さゆえに誘拐や売買をしているだ。アッシュも幾度となく狙われ、一度は捕まった身だ。
    そのため獣人は自身の正体を仲間や家族以外に知られないように暮らしいてる。男たちはおそらくあの子供が獣人であることをどこかで知り、拐いにきたのだろう。獣人を買う人間がいれば獣人を売る人間がいる。
    アッシュは怒りにギリッと奥歯を噛み締める。
    腰に差した銃を取り出そうとするとカサリと花束が音を立てた。
    銃に伸びた手が止まる。
    獣人の誘拐犯などという、下手をしたら自分も狙われるかもしれない面倒な人間を相手にして見ず知らずの子供を助けるのかと。これから英二のいる世界に触れようとしているのに、人を殺すのかと。
    だがそんな考えが過ったのもほんの一瞬だった。
    獣人の子供が鳴いた。それは母親を呼ぶ独特な鳴き方。
    そして小さく、けれどアッシュにははっきりと聞こえたのだ。助けてと子供の泣き声が。
    アッシュの脳裏にかつての自分がフラッシュバックする。
    故郷を飛び出し、泣きながら彷徨う幼い自分。
    雨に打たれて死にかけた自分。
    そして、差し出された傘。
    瞬間、アッシュの右手は銃を握る。
    「シン、お前はこのことをショーターに伝えろ」
    「待てよ あんたまさか1人で……」
    「行け」
    シンの制止を振り切ってアッシュは身を低くしたまま物陰から身を乗り出し男の視線の下から弾を撃ち込んだ。
    「ぎゃぁぁ」
    腕を撃ち抜かれた男は突然の痛みと衝撃に子供を手放す。子供の方も落とされた痛みに小さく悲鳴をあげたが無事のようだ。
    アッシュの狙撃はあまりにも早く、仲間であろう運転席のもう1人の男は自分にも銃口が向けられてようやく我に返った。しかしアッシュはその薄暗い車内に別の人影を捉え僅かに動きが止まる。
    (もう1人捕まってるのか)
    猿轡をかまされ、怯え切った表情の女はアッシュの構えた銃に恐怖の色を見せていた。アッシュが狙うのは運転席の男だ。
    彼の狙撃技術をもってすれば決して狙いを外す距離ではない。しかしそんなことは彼女には分かりもしないし関係もないだろう。
    銃口を向けられた男と同様に、向けられる殺意に怯える女は色を無くしていた。
    それでもその動揺すら相手には無いも等しいほどの時間だ。アッシュは運転手の男の両肩を正確に撃ち抜く。飛び散る血に女が咄嗟に伏せる。
    しかし男は最後の抵抗のつもりか、車を発進させた。急発進してこちらに向かってくる車体にアッシュは体を翻すように横に跳ぶ。もはや操作できない車はそのまま直進を続ける。スピードに乗り切る前に、車のタイヤに迷いなく狙いを定める。
    撃ち出されたら弾丸は分厚いゴムに穴を開け、バランスを崩した車は道脇の建物にぶつかるとガシャンと激しい音を立てて動きを止めた。
    地面に伏せていたアッシュは素早く立ち上がると、未だに地べたに尻餅をついている獣人の子供が無事であることとそばに転がっている男が痛みに失神していることを確認すると車に駆け寄った。
    「悪いな。手荒な方法で」
    後頭部座席の割れた窓越しに声をかけると両腕を縛られていた女がびくりと肩を揺らした。ぶつかった衝撃で怪我をしてる様子もない。運転手の男を撃ったとき、身を屈めていたのが功を成したようだ。
    アッシュは今度は運転席のドアを開け、男を引き摺り出す。こちらは辛うじて意識があるのか低く呻き声をあげている。
    銃などの武器を隠し持っていないかと確認すれば男の上着の内側から拳銃が出てくる。それを取り上げてようやくアッシュは女の拘束を解いた。
    「あの……」
    ひどく動揺していた女もアッシュが敵ではなく、助けてくれたのだと気付いたようだ。躊躇いがちに口を開くとそれを遮る声がした。
    「おかあさん」
    すると道端に座り込んでいた先程の子供が必死に駆け寄ってくる。それに気付いた女はハッと息を呑んで車から転がり落ちるように降りる。
    2人は道の道の真ん中で強く互いを抱き締めた。子供はわんわんと泣き、女はそんな子供の背を何度も撫でながら大粒の涙を流す。
    どうやら2人は親子だったようだ。親か子どちらかが目をつけられて血縁者もと拐われそうになったのか、はたまた両者ともに正体を知られたのか。どちらにせよ、このまま2人を放置するわけにもいかない。
    アッシュは汚れてしまった上着を脱ぐと未だ泣き続ける子供を隠すように覆い被せた。
    子供は人型に慣れていないのか、感情が大きく現れて人型を保てないのかわからないが、あまり獣の姿を晒すのは得策ではない。
    母親の方は人を姿を保っているのを確認してアッシュはようやくこちらを見上げた2人になるべく簡潔に話しかけた。
    「ここに留まっているのは危険だ。俺の知り合いに獣人の保護やら援助をしてる奴らがいる。じきにあんたらを迎えに来るはずだ」
    「あの、あなたは……」
    動揺と僅かな怯えを滲ませる母親はそれでも子供をしっかりと抱き止めながらアッシュを窺い見た。アッシュはおもむろにしゃがみ込んで視線を合わせる。
    その瞳孔が獣のように細く変化するのを見て自分たちと同じ獣人であるとわかるとようやく彼女の肩から力が抜けた。
    それを確認したアッシュは瞳を元に戻して再び立ち上がる。入り組んだ路地とはいえさすがに発砲すれば多少の騒ぎになる。仕方なかったことだがアッシュ自身もここに長居するのは得策ではない。仲間を呼びに行ったシンと早く合流しなければと考えていたときだった。
    そばで倒れていた運転手の男が呻き声を上げながらこちらを睨み上げてくる。獣人の親子を庇うようにアッシュがその背に隠す。
    「うぅ……くそっ」
    肩を撃ち抜かれた男は起き上がれずに地べたに這う。致命傷にはしていない。だが痛みに男は脂汗を滲ませていた。
    「彼らの情報をどこで手に入れた」
    獣人たちの情報元を聞き出そうとするアッシュ。
    彼の背後で獣人の親子は怯えているのが伝わってくる。それを見て男は乾いた声で、痛みのせいか途切れ途切れ笑う。その不愉快さにアッシュはますます眉間の皺を深くした。
    「どれだけ隠れてようとな、こいつらが人間と同じ社会で生きていけるわけがない。世間じゃ獣人なんていないんだからな。せいぜいが金の種だ」
    男はアッシュから親子へと視線を移す。吐き捨てられる言葉は苦し紛れの嫌味と獣人への嫌悪に満ちていた。そしてどうしようもなくそれは獣人という存在の現状だった。
    アッシュが同じく獣人であることには気付いていないようで男の矛先は背後の親子に向けられていたがその言葉はアッシュにも振りかざされた。
    「人間のふりしたってお前らが化け物だってことは変わらねぇんだよ」
    息が止まる。
    人間のふり。こうした獣人を嫌悪する言葉など数えきれぬほど浴びてきた。しかし今のアッシュにはそれは心の奥、柔らかく無防備なところを不意に刺された気分だった。
    どう足掻いても獣人は人間にはなれない。一体いつからそんな当たり前のことに心揺らぐようになったか。
    ポツリと、ついに耐えきれなくなった雲から滴が零れ始めた。増えていく雨粒はひどくやかましく耳に響き心を騒つかせた。
    吐き捨てられた男の言葉にじわりと頭の奥の方が焼けつくように熱くなるのを感じた。アッシュの眼光はその熱とは逆にどんどんと冷え切っていく。その威圧感に男が息を詰まらせたときだった。
    「そんだけお喋りできる元気があるならこの後俺とじっくり話でもしようぜ」
    現れた青年にガンッと頭を掴まれ勢いよく地面に打ち付けられた男はようやく静かになった。
    地面に沈む男を冷ややかに見下ろしていたアッシュは切り替えるように目を伏せ、現れた青年ショーターへと視線を移す。
    スキンヘッドとサングラスという威圧しそうな風体だが本人は「よう」と片手を上げて相好を崩す。
    「シンが血相変えて戻ってきたときは何事かと思ったぜ。お前も災難だな」
    「シンは」
    「あいつは俺に知らせに来た後ラオに捕まった」
    「だろうな」
    ショーターを実の兄のように慕っているシンは実際実力はあるがまだ未熟でもある。アッシュがいなければシンは単身で乗り込んでいたことだろう。
    ショーターの登場に詰めていた息を吐き出す。嫌悪感は未だ拭えないが今はそれよりも優先すべきことがある。
    アッシュは手短に獣人の親子と誘拐を企んでいた男たちについてショーターに話した。話を聞き終えたショーターはなるほどと、頷く。
    「あの親子のことは任せろ。こっちで支援する手筈にするさ。売人側に情報が流れてたらこのまま表では生きていけないだろうがな」
    「誘拐犯どもの処理もそっちに任せた」
    「もちろん。お前のおかげで生捕にできたからな。色々と聞き出せたらまた連絡するわ」
    「わかった。お前んとこの蛇野郎によろしく」
    蛇野郎、と聞いてショーターは苦笑いして肩をすくめた。
    「相変わらずだなお前ら。ま、俺もあのヒステリックは治した方がいいと思うけどな」
    ショーターたち華僑において絶対的な地位を持つ李家の次期総帥とも呼ばれる男を思い出してアッシュは口を曲げる。顔を合わせるたびに魔王やらライバルやら言われ続けアッシュとしてはあまり関わり合いたくはない。
    「で、お前はこんなとこで何してたわけ なんか用事」
    「何って……あ」
    ハッと腕時計を見れば思った以上に時間が経っていた。間に合うかどうか、ギリギリの時間だ。
    「悪いショーター、俺はもう行く」
    「お、おう」
    ショーターの返事を聞くのも惜しいと駆け出すアッシュ。降り出した雨はもう水溜りを作っている。アッシュは足元の水溜りを踏み越えてここから会場までの最短ルートを考え出していた。そしてもう一つ。
    アッシュはこの路地に入ってきた辺りに視線を走らせる。雨で霞がかる視界に鮮やかな色彩が掠めた。
    水溜りの中に潰れた花がゆらゆらと揺れていた。青い包紙にはタイヤの黒い跡で塗り潰されている。誘拐犯が急発進させた車を避けるときに取り落としたのだろう。そのときは花束を庇うほど意識が向いていなかったとはいえ、もう少しどうにかなったのではと過去の自分を責めてしまう。
    見るも無惨な姿となってしまった花束に肩が落ちる。すると少し離れたところに一輪だけポツンと花が落ちているのに気付く。
    今目の前で水溜りに沈む花束から運良く零れ落ちたのか、雨粒に濡れてはいるがまだ形を保っていた。
    アッシュは難を逃れた花を拾い上げる。
    何とも言えない気持ちを抱えて、せめてこいつだけでもとアッシュはそのたった一輪を手にして今度こそ走り出した。
    街に降り注ぐ雨は一層強くなる。
    アッシュは雨も不安も、胸の奥に刺さる痛みを振り払うようにただ足を動かす。







    間に合わなかった。


    最終入場時間をとうに過ぎ、すでに閉場時間を迎えている。降り出した雨は徐々に大粒となり、服はアッシュの心のように重くなっていく。
    最終日は閉場時間が早まる。常であれば忘れるはずもないようなことをなぜ今日に限って忘れるのか。これがとどめの不運だった。
    屋根の下に入ると一層身体が冷えた気がした。あの日の雨よりもずっと冷たく感じるのは何故だろう。
    写真を見ることも、花を贈ることもできなかった。
    これほど気持ちが落ち込んだことはない。アッシュは疲労と無念さで一気に体が重くなるのを感じた。
    辛うじて無傷だった一輪の花を手にして会場の入り口にずぶ濡れで立ちすくんでいる姿は目立ったのだろう。
    「あの、どうかされましたか」
    会場のスタッフらしき女性に声をかけられる。彼女はアッシュに話しかけながらもその顔立ちと憂いを帯びた雰囲気に頬を染めた。しかしそんなことに目を向ける気力もないアッシュはどうにか返事をするので精一杯だった。
    「今日の展示を楽しみにしてたんだけど……。間に合わなかったみたいだ」
    手の中の花が寂しそうに揺れる。この姿ならたった一輪だけじゃない、バラバラに花瓶を飾る花じゃなくてきちんとした花束を贈れると思っていた。
    しかし残ったのはいつもと同じ。
    これならば猫の姿で会いに行った方がましだったかもしれない。
    自嘲的な笑みが溢れ、その場を去ろうとすると入口の奥に見知った顔が見えた。
    「伊部……」
    彼の個展なら本人が来ていてもおかしくはない。彼の写真も純粋に見たかったのだが仕方ない。
    するとアッシュの口から伊部の名前が出てきたことに驚いた女性はすぐに何か合点がいった顔をして奥の伊部に向かって呼びかける。
    突然のことにアッシュが訝しげな表情をすると、彼女は人が良さそうな笑みを浮かべた。
    「もしかして伊部さんの友人の方ですか 仕事で遅れるかもしれないって伊部さんが言っていたんですが」
    どう考えてもアッシュのことではない。アッシュが伊部を知っているのは一方的なもので彼はアッシュの存在を、厳密にはこの姿を知らないはずだ。恐らく彼女の勘違いだとアッシュは否定しようとするがその前に伊部がこちらに来てしまう方が早かった。女性は他に仕事があるのかすぐにその場を離れてしまう。
    「えっと、君は……」
    伊部が驚いたような、困惑気味な表情をするのも当然だ。伊部からすれば見ず知らずの人間が訪ねてきたのだ。
    アッシュもこの事態にどうすればいいのかと言葉を探していると手の中の花が目に留まる。
    もうこんな機会はないかもしれない。見ず知らずの人間として記憶に残らない今なら多少不審がられてもいいから。
    アッシュは行き場をなくした花に背中を押されるように口を開いた。手にした花はそっと後ろ手に隠して。
    「……奥村英二というカメラマンの写真があると聞いたんだ」
    「英ちゃ……じゃなくて、英二のことを知っているのかい」
    「雑誌で、見かけて。彼の写真、あるんだろう」
    伊部は驚きながらも嬉しそうな顔をして何度も頷いて返事をする。伊部は並のモデルどころか、トップモデルも霞んでしまうような美青年とその口から自分の弟子の名前が出てきたことに驚いて開いた口が塞がらなかった。
    「彼のファンなんだ。応援してると伝えてくれないか」
    たった一輪の花に飽きもせず喜んでくれる。その優しさが嬉しくて何度も何度も彼に花を贈る。だからこの姿でも彼を笑顔にしたかった。
    彼の憂いを一瞬でもいいから晴らせたら。自分にそれほどの力はないけれど代わりにこの花がそれを叶えてくれるかもしれない。
    だからこの花束を贈ったら何か変えられると思った。しかし願望に近い希望はすっかり変わり果てた姿になってしまった。
    噛み締めるような言葉に伊部は目の前の青年が並々ならぬ何かを思っているのを感じ取った。
    「なら、是非見てやってくれ。あの子も喜ぶ。それに今……」
    自分のことのように嬉々とする伊部はアッシュを会場へと勧める。しかしもうアッシュにはその気はなかった。髪から滴る水が足元の水溜りへと落ちる。
    「いやこんな格好じゃ悪い。やめておくよ」
    ボロボロでずぶ濡れで、花束一つ渡せやしない。アッシュは自分の無力さに打ちのめされながら踵を返した。
    伊部は慌てて呼び止めるがアッシュに止まる気配はない。また大粒の雨がアッシュを迎えた。
    雨にけぶる街を足が赴くままに進む。空は灰色。歩くたびに滴がどこかへと跳ねていく。
    気付くとそこは英二と初めて出会った通りのベンチだった。そういえば会場からここは近くだったなと頭の片隅の記憶が過ぎった。
    なんとなしにベンチに腰をかける。こんな土砂降りの中、人影は一つもなかった。
    まるであの日を繰り返しているようだ。
    けれどあのときと違うのはアッシュの心と手にした花だった。
    渡せもしない花をそれでも濡れないようにと掌の小さな傘で守る。
    そういえば初めて花を持っていって渡せなかったと今更ながら気付く。それが人の姿であることが、まるで人間のフリなど出来はしないと言われているようだった。
    猫として彼に飼われることも、人として言葉を交わすことも出来はしないと。
    獣にも人にもなれる獣人は、獣にも人にもなれない。どちらの世界にも生きられないのだろうか。
    アッシュが望むのはただ、英二のそばにいることだけだというのに。雨に押し潰されるように、深く項垂れる。
    「あの、すみません」
    そのときだった。雨が、止んだ。
    顔を上げ、声の方へと向く。
    差し出された傘がアッシュを雨から隠していた。
    見上げた先にはあの時と同じ、温かな闇色の大きな瞳があった。
    呆然とするアッシュに英二は少しだけ息を切らして、呼吸を落ち着けるように数度深く呼吸した。
    「あなたが伊部さんが言ってた人ですか」
    突然のことに驚きながら、英二の言葉の意味を考えようとするが目の前の事実にアッシュの脳はしばらく空回りを続けた。
    返事のないアッシュに英二はつい先程のことだと、彼がここにいる経緯を教えてくれた。




    「英ちゃん」
    「伊部さん、マックス来たんですか」
    展示物の撤収に取り掛かろうとしていた英二を慌てて呼びに来た伊部に英二は首を傾げた。最終日である今日、英二は作品の撤収作業のために会場で待機していた。今日のうちにスタジオに持ち帰れるものだけでもと片付けを始めようとしていたところだった。
    「いやマックスは結局来られないって連絡があって……そうじゃなくて 英ちゃん、君にお客さん」
    「僕に」
    先程会場のスタッフに呼ばれた伊部が戻ってきたと思ったら自分に客とは何事だろうか。
    「君のファンって人が来たんだよ。すごい美青年がさ、君のファンだって すごいじゃないか」
    「え、でも僕全然写真出したことなんて……」
    「雑誌で何度か載せただろう その彼も雑誌で見かけたらしいよ」
    英二は伊部の話に思考が置いてけぼりになりながらもなんとか言葉を咀嚼していく。
    ファン。僕の。
    ジワジワと嬉しさが心臓を満たしていく。それが全身に回ると思わず「本当に」と声が出た。
    「本当に それで今日の展示見に来たみたいなんだけど間に合わなかったみたいで。諦めるって帰っちゃったんだ。この雨の中傘も差さないで」
    会場の窓から見える外は雨に霞んでいる。
    英二は考える間もなく駆け出していた。後ろから聞こえる伊部の声に「すぐ戻ります」と返事をしてスタッフ用の裏口に回って自分の傘を掴むと外へと飛び出した。
    直後に伊部にその人がどちらへ向かったか聞くべきだっと後悔したものの、会場の入り口付近ならばどうにか探せるかもしれないと、傘を差すことも忘れて英二は走った。




    揃って雨に濡れた二人はしばし無言で見つめ合い、雨音だけが鼓膜を叩いた。
    座り込んでいたアッシュは我に返ると勢いよく立ち上がる。英二は慌てて傘を少し高く持ち上げた。一つの傘に収まる二人の距離は触れ合うほどに近かった。
    見上げる視線が今度は英二へと変わる。
    「それでもしかしたらと思ったんですけど……」
    「あ、ああ……。伊部……さんが言ってたのは俺のことだろうな」
    「そうだったんですね。僕、お礼を言いたくて。それにこの雨の中、傘も差さないで帰るなんて風邪ひきますよ」
    そう言って笑う英二を直視できなくてアッシュは前髪の滴を払う振りをして顔を隠す。見ず知らずのアッシュをこの雨の中、追いかけてきてくれた。相手が誰であろうと英二は英二のままだった。
    その彼の変わらなさに、胸の奥が温かく疼いた。
    「あんただって同じだろう。それと、普通に話してくれ。俺はあんたより年下だ」
    「え、そうなんだ。大人びてるからわからなかった」
    「ジャパニーズはみんな若々しいみたいだな」
    「それって童顔って意味 それにしても本当に僕のこと知ってるんだね。えっと、ファンっていうのは……」
    「本当だよ。俺は……英二、の写真が好きなんだ」
    気持ちを言葉にして伝えることがこれほど難しく、幸福を伴うことだったのかとアッシュはまるで言葉を覚えたばかりの子供になった気分だった。
    同じ言葉で話ができる。
    その嬉しさに高揚感は増し、アッシュはいつになく饒舌に話した。
    雑誌に載ったいくつかの写真について。
    ほんの数枚だが心動かされることに数は関係ない。ずっと眺めていたくなる、あたたかな写真だ。
    彼を励まそうと思ったのに出てくるのは自分が感じたままの言葉で、しかしそれはアッシュがずっと言葉にできなかったもので。
    本当は彼が日常的に撮っている写真も知っていたがそれを知っているのは猫のアッシュだけだ。
    それでも伝えたかった言葉を本人に届けられた。話す行為がとてつもない奇跡のように思えた。
    安堵に近い達成感にアッシュとこうして英二と話す喜びに密かに浸っていたときだった。
    雨に紛れるように一粒、透明な滴が闇色の瞳から落ちていった。
    最初は雨粒かと思った。幾分か濡れてしまっている英二から滴る粒に、また彼が風邪をひいてしまうと浮かれていた頭が一気に冷静になる。
    しかしそれは雨粒ではなかった。雨の降らないはずの傘の中、それは降り始めた。ポツリポツリと、そしてそれは数を増やしてどんどん彼の頬を濡らす。黒曜石の瞳は水溜りのようにゆらゆらと揺らめく。
    それを目の当たりにしたアッシュは驚愕のあまり息も忘れた。雷が落ちたかのような衝撃がアッシュに走る。
    彼の涙にひどく心がかき乱される。
    ついには目元を押さえ俯く英二にアッシュの心臓は軋むように歪な鼓動を刻む。彼の涙が苦しい。彼が苦しみ泣いている。アッシュはその事実に胸が張り裂けそうだった。
    どうにかして彼の涙を止めたい。
    「ど、どうした。何か変なことでも言ったか」
    「違うんだ……。すごく嬉しくて」
    傘を支える手が傾き、英二の体が濡れているのに気付いたアッシュはそっとその手に自身の手を重ねた。その温もりに顔を上げた英二の目にはまだ涙が滲む。
    持ち直された傘には二人の手が重なったままだ。
    「何か、あったのか」
    無理には聞かないと、小さく付け加えたが内心彼の涙の理由を知りたくてたまらなかった。それにここのところ様子が変だった。その涙の理由が聞きたい、聞いて消し去りたい。
    英二は何度か口を開いては閉じ、迷う仕草を見せた。やがて決心したようにアッシュの瞳を真っ直ぐに見つめた。
    「僕、本当に君の言葉が嬉しかったんだ」
    悲しくて泣いているわけじゃないと英二は未だ溢れ出てくる涙を拭いながら、雨音に紛れポツリポツリと話してくれた。



    「この国に来て、いやたぶん日本にいてもプロとして認められることは難しいことだってわかってた。けどそれを改めて思い知って」
    経験を積んでいけば大丈夫だと伊部に言われ、勉強をしながら腕を磨く日々。焦りも苦労ももちろんある。けれど自分が目指す道を歩けることは英二とってやりがいのあることだった。
    英二と似たような環境でプロを目指す若者は多い。彼同様にプロの下でアシスタントとして勉強しながら実績を積む。今までそういった人との交流がなかったわけではない。
    先日、展示会で出会った彼らも同じ志を持つ英二を誘ってくれた。人見知りしない英二はそれを躊躇うことはなかった。
    こちらの国に来て、自分の意見ははっきりと言ったほうがいいことと、相手もはっきりと意見を言ってくるということを学んだ。
    それを学んでいたが、やはり考えてしまうことはある。
    最初、随分と若くみられた英二は彼らからいつから伊部のアシスタントをしているのか、どういう経緯で今の仕事を目指しているかを尋ねられた。聞かれて当然のことだったので英二もありのままを語った。
    昔、棒高跳びの選手だったが怪我がきっかけでスランプに陥り気分転換にと伊部にこの国に連れてられてきたこと。
    写真を撮る側になってこの道に進もうと決めたこと。だからまだ経験が足りないから今は学ぶことが多いと。
    彼らは話は興味深かった。撮影のために聞いたこともないような土地に出向いたり、コンテストのための作品を手掛けていたり、陸だけでなく海の撮影のためにスキューバの免許を持っていたりと、彼らは夢に対して着実にチャレンジを積み重ねていた。
    英二も自分なりの経験や作品について話しているときだった。話を聞いていた青年が突然、英二の話を遮った。
    「そんな素人同然の経験でアシスタントをしているか」
    その場の空気が凍り付いた。しんと静まり返ったテーブルでその青年の声だけがまた聞こえた。
    「カメラを触ってる年数が少なすぎやしないか まあ当然か、ダメになったスポーツの代わりに選んだんだからな」
    「ちょっとやめなさいよ」
    英二を最初に誘ってくれた彼女が怒りを露わにする。対して当の本人である英二は体が強張ったまま何も言えなかった。
    「今もたった数枚写真が雑誌に載っただけだろう。俺と比べたら目にも留まらない小ささだ。展示会に選ばれたアシスタントだと思ったらこんな子供だなんて……」
    そのあと彼女がまた語気を強めて青年を嗜めるていたのだが、英二にはその声は届いていなかった。
    同世代に比べ目に見える成果が少ないのは正直なところ、本当ではあった。だからこそ、今回の展示会はチャンスであり、成功させたい。もう失敗したくない。
    同じ場所を目指す同世代、みんなが次々と進んでいく中、1人出遅れる感覚。
    みんなが飛び越える姿と高くそびえるバーを見上げていたあの時と同じだ。地面に囚われてるのは英二だけ。
    そう思うといてもたってもいられなくなった。いつにも増して仕事を詰め込んだり、ふとした瞬間に青年の言葉が蘇ってじっとすることがてきない。
    焦りは自己嫌悪へと変わり停滞する自分を責めた。
    英二はなるべく何てことないように目の前の、会ったばかりの青年に話したがその顔はぎこちなかった。
    今回の展示会でも選ばれた一人に英二がいることを妬むものも少なくなったこと。スペースをもらえた新人を選んだのは今回メインとなったプロのカメラマンたちだ。
    伊部とて英二を可愛がってくれているがそういった贔屓はしない。英二の実力を認めるのは彼にその力があるからだ。
    それでも妬みは理屈ではない。プレッシャーとストレスにどうすればいいのかわからなかった。
    バーの前で逃げることもできず立ち竦んでいるようだった。
    飛び越えなければと迫る壁と背中に刺さる無言の視線が、何よりもそれを恐ろしいと思う気持ちが英二の身体を重く地面に縫い付ける。
    けれど今日、それを振り払ってくれた人が現れたと、英二は服の袖で目元を拭う。
    「だからお礼が言いたかったんだ。僕の写真なんて、誰も見てないと思ってた。でも君が僕の写真が好きだって言ってくれたからそういうの全部吹き飛ぶくらい嬉しかった」
    手の甲で目元を擦る英二。必死に泣き止もうとする英二をアッシュは止めることができなかった。
    「ありがとう。ごめんね、こんな話聞かせて」
    ふわりと花が咲く。それは太陽のように眩しく綺麗ででもまだ涙が滲んでいる。



    伝えなければ。
    ただ甘やかされるだけの猫では伝えられない言葉を今、彼に。贈らなければ。
    「英二、俺は英二が撮る写真が好きだ。お前には世界がこんなふうに見えてるのかって驚いた。俺はもっと見たい。英二が見たものを、どうやって撮るのか」
    アッシュは言葉を必死に探す。伝わるように、取りこぼさないように。
    難しいけれど諦めたくない。
    「英二は逃げてない。逃げてる奴はこんなに苦しまない。だから……」
    泣かないでくれ。どうか、悲しまないでくれ。
    お前は知らないだろうが、お前は俺を救ってくれたんだ。
    続く言葉はあれど、声にならず喉でつっかえたまま言葉尻が消えた。
    英二を伺い見れば、彼の瞳はまた涙が滲んだがもう零れることはなかった。そこに浮かぶ色はもう悲しみではなかったのをアッシュは確かに感じた。
    そのことにホッと息を吐くと、今更ながら彼との距離の近さに途端に我に返る。英二の顔ならいつもすぐそばで見ているはずなのに、どうしてか心臓が騒がしい。
    自分よりも下にあるつむじやひとまわり小さい掌が弱いだなんて思わない。けれど今は、雨に濡れたその肩を抱き寄せたくなった。
    ジワジワと顔が熱くなるのを感じながらアッシュはそんな自分から目を逸らすように視線を落とした。すると英二も彼の後を追ってその視線を下ろすとアッシュの手に守られていた花にようやく気付いた。
    「その花……」
    直接手で持っていたせいで少ししなびた花をアッシュは今更隠すこともできず、かと言ってこの花を英二に渡すこともできない。本当ならもっと鮮やかな花束を渡すはずったのだ。
    随分と貧相になってしまった贈り物を手にどう説明しようかと必死に頭を回していると英二はアッシュの気不味そうな雰囲気に気付いて「ごめん」と謝る。
    「詮索する気はないんだ」
    「いや、その……。本当は人に渡すはずだったんだ。けどちょっとトラブルが起きてな。もう花束ですらなくなっちまった」
    手の中の花を持て余していると英二は「渡さないの」と首を傾げた。
    「まさか。こんな花……」
    花屋で受け取ったときはあんなにも美しく鮮やかだったのに。残ったのはたった一輪。おまけに容赦ない雨に晒されてアッシュと共に濡れ鼠になってしまった。
    目を伏せるアッシュに英二は同じく彼の手の中の花に視線を落とした。
    「そうかな。とても綺麗な花だと思うよ。それにその一輪だけだとしてもらった人は嬉しいんじゃないかな」
    英二の思わぬ言葉にアッシュの動きが止まる。
    「どうして、わかるんだ」
    「だってたった一輪になっても君はその人に渡す花を大切にしてるじゃないか。そこまで思ってもらえてその人だって嬉しいはずだよ」
    「……そういうものか」
    その言葉のおかげか英二に渡すはずだった花は先ほどよりも鮮やかにアッシュの瞳に映る。特別な花へと生まれ変わる。
    「きっとね。その花を見てたら僕が知ってる猫のこと思い出して」
    花と連想して思い出す猫と言ったら、十中八九自分のことだ。ドキッと心臓が跳ねた。
    「……その猫ってどんな猫なんだ」
    正直聞くのは怖かった。他人からどう思われるかなんて気になることはなかった。
    けれど英二から本当はどう思われているのか知るのは怖いけれど、それよりも知りたかった。
    アッシュが猫について聞いてきたことに英二は視線を空に投げ、脳裏に思い浮かべた猫のことを伝えようと頭をひねる。
    「初めて会ったとき怪我をしてて、まともな手当てしてあげられなかったんだけどその二日後くらいかな。窓に花が置いてあったんだ」
    話し始めた英二は嬉々として、猫のことを教えてくれた。ちゃんと喜んでもらえたとアッシュは密かに胸を撫で下ろす。
    それから英二が、猫が毎日のように訪ねてきくれて嬉しかったこと。まだ傷が残っているのに無理をして欲しくなかったこと。そしてその心優しい猫に励まされていた。最近は姿を見かけなくて心配していると。
    アッシュは時折小さく相槌を打ちながら雨音と共に聞いていた。
    「すごく賢い子だから僕が話してる意味がわかってるみたいなんだ。それに花をね、来るたびに一輪くれるんだ。恩返しみたいだろう」
    「英二は、花が好きなのか」
    「そうだね。好きだよ」
    「じゃあ……花以外に好きなものは……」
    花を贈るだけでは満足できないと思う気持ちは果たして何なのだろうか。答えも知らぬままアッシュは問いかけた。
    「うーん、猫かな」
    また心臓が跳ねた。それに気付かない英二は言葉を重ねる。
    「もちろん猫が好きっていうのもあるけど僕はあの子が……そういえばあの子の名前知らないや」
    飼い主がいるかもわからない猫の名前を知らないことにこのときようやく気付いた英二。
    あの猫と話しているときは特に名前を知らなくても問題なかったし、伊部と話すときも「あの猫が」というだけで通じていた。
    「あの子と仲良くなれたから猫が好きになったのかな」
    元々嫌いなわけではなかったけどねと笑う英二にアッシュはある思いが込み上がるのを感じた。
    今までは英二のことを知りたいと思った。そして今は、同じくらい自分のことも知ってほしい。
    その口から語られる猫が羨ましかった。
    彼の心に居座るのが自分だというのに、それはやっぱり猫でしかない。知ってほしい。彼の心に猫ではなく『自分』という存在の居場所が欲しい。
    「アスランだ」
    「え」
    気付けばそれは自分の口からこぼれ落ちた。
    英二は首を傾げ目を瞬かせる。しまったという気持ちもあったがそれよりも彼に名前を呼んで欲しい欲求が勝った。
    「その猫の名前はアスランだよ」
    「君、あの子のこと知ってるの。もしかして君の猫」
    「……たまに見かけるだけだ。あとあいつは野良だ」
    「そうなんだ。でもどうして名前を」
    「な、名前をつけたやつを知ってて……。あと……」
    どうしても本当のことは話せないからいくつか嘘を混ぜる罪悪感に言葉尻が微かに小さくなる。
    「ん」
    「あの猫の名前のことは……誰にも言わないでほしい」
    我ながらおかしなことを言っている自覚はあった。英二からすれば初対面の人間が野良猫の名前を他人に言わないでほしいだなんて、どう説明すればいいのか。
    ただ、アスランという名前を教えることは誰にも見せなかった本当の自分を晒しているような気持ちだった。
    1番無防備で脆い部分を差し出せたのは英二だからだ。
    「もしかして何か事情があるのかい」
    今度こそ不審がられると覚悟したアッシュに意外な声が届く。英二は真っ直ぐにアッシュを見つめる。その瞳には不信感も疑いもない。
    その真っ直ぐさにアッシュは目を奪われながら頷いた。
    「わかった。あの子の名前のことは誰にも言わない。あ、誰もいないときに僕が名前を呼ぶのはいいかな」
    「それなら……大丈夫だ」
    確かに望んだのはアッシュだが、こうもあっさり受け入れられると何ともいえない気持ちになる。英二のあまりの素直さに心配になるがこうやって言葉にしない感情を切り捨てず、受け止めてくれるところが彼らしいとも思った。
    「アスラン……綺麗な名前だね」
    英二の声がアッシュの名前をかたどって鼓膜を揺らす。
    アスランという本当の名前を呼ばれたのは一体何年ぶりだろう。その名前はもう兄とともに失ったはずだった。もう呼ばれることはないと思っていた。
    英二に、英二にだけ呼んでほしい。
    この姿にはないはずの尻尾がピンと上を向いている気がする。
    彼の声が笑顔が雨の中、小さな傘の中で満たされる。世界から切り離す雨が今だけは英二とアッシュを二人きりにする。
    「英二」
    アッシュはそっと手にした花を英二に差し出した。すると英二は反射のようにそれを受け取る。そして手渡されたのが彼が誰かに渡すためのものだと気付くと花とアッシュの顔に交互に視線を彷徨わせる。困惑というよりどうしてという疑問が浮かんでいた。
    アッシュが誰かのために用意した花をどうしてと、その大きな瞳が訴える。
    「でも、これは……」
    「だからだよ」
    「え」
    アッシュは空いた手がおもむろに英二の髪に触れる。滴に濡れながら白い指先が涙の跡を辿り、親指の腹で瞳の縁を撫でた。まるで見えない涙を拭っているように。
    温もりが直接肌に伝わる。雨に濡れた体はもう冷たくない。思いも言葉も花も彼に贈ることができた。トラブルに見舞われた最悪な一日は、いつの間にか雨が止み晴れ間を見せる空のように一変していた。



    英二は突然のことに驚きながらも彼の手を振り払うことはしなかった。初めて会った青年に触れられても嫌悪感など感じることはなかった。
    それは彼が自分を応援してくれたからなのか、こうして短いようで長い会話を交わしたからなのか。驚きを凌駕する何かを、彼に感じていた。
    英二は何か引っかかりを覚えながら、吸い込まれそうなほど澄んだ翡翠の瞳に自分が映るのを見た。
    ゆらゆらと揺れる淡い金色の中、緑の星が光っている。そこに映る自分を前から知っているような気がする。
    「ねえ、君は……」
    英二がそう言いかけると青年は触れ合っていた手を離した。彼の顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
    「もう風邪引くなよ」
    それだけ言うと彼は振り返って傘から飛び出していった。窮屈な傘の下が途端に寒々しくなる。
    また雨の中に出て行ったら大変だと追いかけようとするがふといつの間にか雨が止んでいたことに気付く。差していた傘を傾けると雲間から空が見えた。
    それに一瞬気を取られ、慌てて視線を戻すが青年はもうどこにもいなかった。辺りを見回しても影もなく英二だけが通りに残された。
    「名前、聞いてないや」
    猫の名前を教えてくれたのに、彼の名前を聞きそびれるだなんて。あんなに認めてくれて、雨の中で静かに英二の話に耳を傾けてくれた。
    彼の存在をなぞるように目元に触れようとして手の中の花の香りが鼻をかすめる。
    脳裏によぎった猫の姿。
    贈られた一輪の花はまるで……。
    英二はしばらくいなくなった青年の背中を探すように雨上がりの通りに立ち尽くしていた。






    ぼんやりと眺める空に絶えず雲が流れる。
    窓の外には変わらぬダウンタウンが広がり、アッシュはそれを眺めるでもなくただ遠くの風景を視界に収めるだけだった。
    あの慌ただしい日から数日が経つ。
    アッシュはあれ以来、英二へ花を届けていなかった。
    獣人と人間が別の生き物であることはわかっていたはずだった。それでもあの日、その隔たりを強く思い知って悲しくなったのは人間と、英二と一緒にいられないことを突きつけられたからだった。
    この気持ちのまま英二に会うこともできず、それでも何もかも忘れたふりをして英二の膝の上で眠りたい、相反する気持ちで身動きが取れなくなっていた。
    しかしあの騒動でショーターたちの手を借りたアッシュは一度彼らのところへ顔を出さなければならない。獣人を狙った人間はこの街に少なくない。今後のためにも派閥の垣根を越えた協力は必要だ。
    アッシュはいつもより重く感じる体を渋々動かして起き上がる。
    するとまるで見計らったようにこちらへ向かう気配にアッシュは何事だと顔を向ける。その足音はひどく慌ただしかった。顔を覗かせたのはやはりボーンズとコングだった。
    「……どうした」
    アッシュの覇気のない声に話しかけたボーンズは目を剥いた。隣のコングと顔を見合わせる。寝起きの不機嫌さならまだしも、こんなアッシュは見たことがないと開いた口が塞がらないようだ。
    怪訝そうな視線を隠しもしないアッシュに二人はようやく目的を思い出す。
    「もしかしてボスって最近英二と会ってないのか」
    「なんで知ってるんだ」
    英二という単語に反応したアッシュがようやく瞳に光を灯す。振り返ると2人はやっぱりと何故か気まずそうな顔をしていた。
    「その……英二のやつが言ってたんだ。あの猫……がいなくなったって」
    「前は会えなくても花が置いてあったのに最近それもないから心配してたぜ」
    「俺らは知ってるから大丈夫だろって一応言っといたんだけどあいつ、仕事終わりとか休みの日にボスのこと探し回ってるみたいで」
    アッシュを窺い見るボーンズとコングを他所に、当の本人は胸が詰まる思いがした。
    まさか英二が自分を探しているとはという驚きと、心配させている申し訳なさ、そして彼の心に自分がいるという喜びが胸の中に渦巻いた。それはグルグルと力強く、アッシュの体を揺らして本人すら制御できない。
    それでも躊躇いは未だアッシュの足に纏わりついて走り出そうとする体を重くする。
    雨の中、小さな傘の下で涙に濡れた黒い瞳が今も鮮明に脳裏に焼き付いている。彼に、心配をかけている。躊躇いはある。しかし英二の心に憂いを残したままでいることの方がアッシュには堪え難かった。
    黙り込むアッシュにボーンズもコングも顔を見合わせるしかない。彼らとてこんな私情でボスに頼み事をすふことは気が引けたが友人である英二の弱った様子を見て放ってはおけなかった。
    詳しいことはわからないが自分たちのボスと友人が何かしらの関係であることは知っている。ならばどうにかしたいと思うのは彼らの人の良さだった。
    そうして重苦しい沈黙の中、ようやく聞こえてきたのはアッシュが立ち上がる音だった。
    「話はわかった」
    「ボス」
    期待が籠ったボーンズの声は弾んでいるように聞こえた。コングも浮き足だったように身を乗り出した。
    「……少し顔を見せるだけだ」
    部下の懇願を叶えるだけ。英二に無駄な心配をかけるほど無情ではない。それだけだ、とまるで言い聞かせるように自分を納得させる。その背後でボーンズとコングがホッと胸を撫で下ろしていたことに気付かぬほど、アッシュの頭の中はたった一人のことでいっぱいだった。
    アッシュは瞬く間に猫へと姿を変えると軽やかに窓から飛び出す。重力を感じさせない着地で降り立つと狭い通路へと身を滑り込ませ陰に溶けていく。見送っていた視線が無くなり、辺りに人気もなくなってきた。
    それを感じ取っていたアッシュは念には念をと、辺りを見回す。疎らに人影はあれど道行く猫をアッシュ・リンクスだと知るものは周辺にはいなかった。
    それを確認した途端、足取りはゆったりとしたものから足早となり、やがては小走り。そしてアッシュはいつの間にか風のように乱雑とした街を駆けた。
    人間には通れないような細い道を凄まじいスピードで走り抜け、通い慣れた道を辿る。辿り着いた先、英二の家の二階の窓へと上がるが窓は閉まっており、中に人の気配はなかった。
    時刻は昼過ぎ。今日は英二の仕事の日ではなかったはずだが、不定期に仕事が入ることが多い。ならばとアッシュはまた走り出した。
    猫一匹のために風邪を引くようなお人好しのことだ。下手をして危ない目に遭っては寝覚が悪い。自分が無事にいる姿を遠目から見せてやれば英二も満足するはず。もう不要な心配などしなくて済むはずだと。
    アッシュは言い訳めいた理由を誰に聞かせるでもなくいくつも考え出し、仕方ないという思考とは裏腹に足取りはどんどん早まっていく。
    次に向かう先は伊部のスタジオだ。調べてはあったが来るのは初めてだ。アッシュはビルの入り口付近に近寄る。扉は閉まっており入れそうにない。どうにかして入り込むか、どこかから飛び移って窓から入るか。
    悩んでいると窓の向こうに見知った顔が見えた。向こうも気付いたようで窓を開けた。
    「久しぶりだね。君、こんな街中にも来るのかい」
    伊部なら英二がどこにいるか知っているかもしれないがそれを聞く術がない。
    「どうしたんですか」
    「ああ、英ちゃんのところによく来る猫がだよ。ほら、前に話した」
    「綺麗な猫ですねー」
    窓の外に話しかける伊部にここのスタッフらしき若者が同じく身を乗り出してきた。
    「英二がいないときに残念ですね」
    「そうそう。君のこと探してるんだよ。今日も休みなんだけど探しに行ってるはずだから会ったら……」
    それだけ聞くとアッシュはまた走り出した。呆気に取られる伊部とスタッフはもう見えなくなった猫を見送る。
    「逃げちゃいましたね」
    「今のは逃げた……のかな。本当に賢い子だなぁ」




    人間が猫を探しに行くとしたらどんな場所だろうか。居ついている場所、餌場、寝床。英二と会うのはいつも彼の家だ。それ以外で彼と会った場所。
    アッシュは街を駆けた。
    小さな心臓が張り裂けそうなほど激しく鼓動を刻む。
    拓けた通りに等間隔で並ぶベンチはあの日のままだ。それなりの距離が続く通りをアッシュはキョロキョロと落ち着かない様子で進む。
    すると道の脇に生える街路樹を見上げたり、ベンチの陰を覗き込む姿が遠目に映った。その人物もアッシュと同じように辺りを見回している。
    本当ならもう疲れて動きたくないほど脚は重かった。しかしその後ろ姿を見た瞬間、そんなものは吹っ飛んだ。
    無事な姿を見せるだけ。そうすればあいつも納得するだろうと。
    そんな考えは甘いと、必死にこの広い街の中から本気で猫一匹を探しているその横顔を見て思い知らされた。そして奥村英二という人間は存外頑固だったことを思い出した。
    そしてそんな彼にどうしようもなく惹かれている自分を。
    アッシュはたまらず駆け出した。
    「ニャー」
    「っ あっ」
    駆け寄りながら声が出てしまった。地面を蹴る振動で声が揺れる。
    バッと振り返る英二はこちらに走り寄る猫の姿にしゃがみ込んで両腕を広げた。
    飛び込んだ胸に抱かれアッシュは喉を鳴らして英二の首筋や頬に頭を擦り寄せる。英二の匂い、体温がアッシュを包む。
    「よかった。全然見かけないからまた怪我をして動けないかと思った。どこ行ってたんだよ」
    「ニャー」
    「なんだよ、心配したんだぞ。ふふ、くすぐったいよ」
    英二の笑顔にアッシュの尻尾がピンと上を向く。彼が笑ってくれることも、会えたことも全てが嬉しい。
    「怪我はしてないみたいだね。安心した。僕、君に何かしちゃったのかな。そしたらごめんね」
    「ニャ」
    まさか英二がそんなふうに捉えているとは思わず、咄嗟に出した声は低かった。
    「君が気が向いたときにおいでなんて言ったのは僕なのに。やっぱり君がいないと寂しいや。また来てくれる」
    そう言って英二は照れくさそうに笑ってアッシュの小さな額を撫でた。いつもと変わらない温もりがアッシュに触れる。
    あんなにも会うことを躊躇っていたのに。彼の姿を見た瞬間、それは綺麗に消え去ってしまった。
    獣人が生き難い社会、存在すら消えていく獣人たち、正体を明かすことすら難しい自分。痛いほどに思い知っている。だが英二といるこの瞬間はそれらを凌駕する衝動となってアッシュを突き動かす。
    どうか、今だけは。今だけでいいからと。
    アッシュは会えなかった時間を埋めるように英二に身をすり寄せる。
    「アスラン」
    その名前に思わずアッシュの動きが止まる。英二は見上げてくる猫の反応を見てやっぱりと1人納得していた。
    「君のこと知ってる人に会ったんだ。その人が君がアスランって名前なんだって教えてもらったんだ」
    教えたのも自分だったが、不意に呼ばれた名前に驚いてしまった。もう決して呼ばれることはないと思っていた名前。
    「アスラン、とても綺麗な名前で君によく似合ってるね」
    英二はいつものように小さな額を撫で、微笑んだ。
    「知ってるかい アスランは古代ヘブライの祈りの言葉で夜明けって意味なんだ」
    知ってるよ。アッシュはそっと心の中で返事をした。
    「君にぴったりだ。アスラン」
    アッシュは自分の名前の意味を知っていてもそこに込められた思いなど知る由もなかった。母に捨てられ、父には見放された。
    兄も同じ獣人だったが暮らしのためにと人間のふりをして戦争に行ってしまった。そしてそのまま帰らぬ人となった。
    親がどんな気持ちでアスランなどと変わった名前を付けたのか。何を考えていたのかなんて。
    捨てた名前に何の思い入れもない。もう誰も知らないし、呼ばないのだから。
    そう思っていた。
    「この名前をつけた人はきっと君のことがとても大切だったんだね」
    それが本当かはもうわからない。けれど英二がそう言ってくれるなら。ほんの一欠片でも、掛けてくれた思いはあったかもしれない。
    「ンー」
    「……ねえ、アスラン。君は––––」
    何かを言いかけた英二だったが不意に言葉が途切れる。立ち上がってアッシュを抱き上げた英二は何かを見つけたのか、あっと声を上げた。
    「エイジ 久しぶりね」
    知らない声にアッシュも振り返る。そこにいたのは男女の若者だった。女の方が男の腕を掴んでいる。というより引っ張っているように見えた。
    「サラ、久しぶり。今日はどうしたの」
    アッシュは英二の腕の中、途端に警戒心を剥き出しにするも彼は気付かない。誰だこいつらはと睨み付けるが女、サラは気にした風でもなく英二のもとへ駆け寄ってきた。
    「まずはこの前の展示会、あなたの写真とっても素敵だったわ。前の食事会だけじゃ話し足りないのよ。私もあのとき一緒だったアシスタントの子達も。時間がある日を教えてくれない また食事でもしましょう」
    「もちろん。僕もみんなの話を聞きたいな」
    快活ではきはきとした物言いの彼女は英二の返事に、ありがとうとにこやかに笑った。すると今度はそんな明るい表情を引っ込めて居心地悪そうにしている隣の男に視線を向けた。サラは連れてきた男の背を押して英二の前に立たせた。急に近付いた距離に男だけでなく英二も思わずのけぞる。
    「この前のこと、こいつから話があるのよ。ほらライアン、謝るんでしょ。自分から言いなさいよ」
    サラは英二に向けてはにこやかだったが、男、ライアンに向けた後半の言葉は詰るような口調だった。
    「あー……、この前のことなんだが……」
    「はっきりと喋りなさい」
    「わ、わかってる」
    アッシュは会話の端々から彼らが英二を誘ったアシスタントたちだと察した。そしてこの男が英二に不躾な言葉をぶつけ要らぬ心労をかけた張本人だと知る。腕に抱かれたアッシュは英二とライアンの顔を交互に見上げる。2人は気不味い様子で互いの顔色を伺っている。
    猫であるアッシュは当然蚊帳の外なのだが、だからといって大人しくもできず、アッシュは英二の体に爪を立てないようによじ登った。突然のことに英二は慌てながらもアッシュの好きにさせ、落ちないように手を添えた。
    「あら、可愛い猫ね。あなたの」
    「この子は野良だよ。友達なんだ」
    英二とサラがそんなやり取りをしているのに聞き耳を立てながら首の後ろ、肩に陣取った。英二からは見えないが、アッシュの眼光は喧嘩をしているそれと同じだった。今にも飛びかかりそうな目付きの猫にライアンはたじろぐ。それでもなんとか本来の目的であろう英二に視線を戻しつつ、躊躇いがちに口を開いた。
    「えっと……その、あの時はすまない……。さすがに言葉が過ぎた」
    「え、ああ。いいよ、確かにちょっと落ち込んだけど本当のことだし。時間ばっかりはどうしようもないよ」
    するとサラは「本当のこと言いなさいよ」とライアンを睨む。
    「違うのよ。こいつ、あなたに嫉妬してたの」
    英二は彼女が言ったことが理解できなかったのか、首を傾げる。
    「いざあなたと会ったら自分より年下で悔しくなったみたいね。ほんと、子供よね。こっちが恥ずかしいわ。英二の写真見て一目でファンになったくせに」
    「う、うるさいな 言わなくていいだろ」
    「同じアシスタントととして嫉妬してカメラマンとして憧れてるからって言っていいことと悪いことくらい区別つかないのかしら。あとね、あんたの写真が雑誌に載ったってあれ、他のメンバーとの共同作でしょ。何気取ってんのよ」
    サラの怒涛の勢いにライアンは言い返せないようで口を噤んで視線を落とした。2人の様子に英二の方が落ち着かなくなる。何と声をかければいいか考えあぐね困惑する英二の肩でアッシュの尻尾が不機嫌にパタパタと暴れる。
    この男が英二を嫌って彼を傷付けたのではないのは理解した。しかしだからといって、英二がそれをきっかけで泣いたのは事実だ。英二の写真に惹かれたいう男の目はまあ、見る目があるとは思うがアッシュの機嫌はどんどん降下する。
    (そんな理由で英二を泣かせたくせにファンだと)
    おまけにこうして他人に引きずられなければ謝罪にもこないような男だ。アッシュの目付きが一層険しくなる。
    「すまない……彼女のいう通りだ。いくらなんでもあんな言い方はなかったよな。その、許してもらえないだろうか」
    ライアンは気不味そうに、そして申し訳なさそうに謝罪を口にする。その様子に英二も驚いて言葉を探すように口を開いた。
    「うん。言われたときはびっくりしたけど、そうだったんだ。えっと、僕のこと嫌ってるわけじゃないのかな」
    「まさか 彼女のいう通り、君の撮る写真を嫉妬するくらい君のファンだよ」
    身を乗り出し英二に迫るライアンにアッシュの尻尾がブワッと膨らむ。
    (俺の方が英二のファンだ)
    お前が知らない英二の写真だって見たことあるし、俺は写真のモデルにもなったんだぞと張り合いをするが当然、彼らには伝わらない。
    「そうなんだ。照れるなぁ」
    「よければもっと話がしたいんだ。いいかな」
    「もちろん。僕も聞きたいことたくさんあるよ」
    「ああ ありがとう」
    英二が差し出されたライアンの手に応えようと手を伸ばしたとき。
    「シャーーッ」
    「わっ どうしたの」
    突然牙を見せて威嚇し出したアッシュに英二だけでなく2人も同様に驚いた。特に今にも引き裂いてやるぞと言わんばかりに剥き出しになった爪を向けられたライアンは思わず後ずさっていた。
    「びっくりしたのかい 大丈夫だよ。怖くないよ」
    こちらに伸ばされた男の手に驚いたのかと思った英二はアッシュを落ち着かせようと優しく声をかける。
    逆立った毛並みを梳くように撫でた。
    アッシュはなおもライアンに威嚇して爪を出した手で空を引っ掻く。しかし英二が腕に抱き抱えると大人しく爪を仕舞って、今度は同じ猫なのかと疑うような甘えた声で彼に顔を擦り寄せる。
    「ニャーン」
    「よしよし。落ち着いたね」
    その豹変っぷりにサラは思わず苦笑いし、ライアンの方は猛獣に襲われたかのように身を固くしていた。
    「すごい猫ね……」
    それから英二は2人と食事の約束をしてその場を後にした。そのそばでは不機嫌そうに大きく尻尾を揺らすアッシュが未だライアンを睨みつけていた。
    それには気付かず久々にアッシュと再会し、蟠りが無くなった英二は足取り軽く家へと向かう。
    (そういえばさっき英二が何か言いかけてたが、何だったんだ)
    ふと思い出したがそれを尋ねる術を持たない猫は温かな腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしていた。




    リビングのソファーで寛ぐアッシュはもはやこの家では見慣れた光景だった。すっかりリラックスしたアッシュから少し離れた場所で伊部はその光景を微笑ましく眺めていた。
    再びアッシュがこの家に通うようになってまた日常が戻ってきた。愛らしい花は今日も花瓶の中で風に揺れ、美しい猫は日向で微睡む。大抵は英二の膝の上なのだが、今はソファーの上で丸くなっている。英二は食事の用意のためキッチンだ。
    「そういえばこの前展示会に来てくれた彼は見つかった 英ちゃんのファンの人」
    アッシュの耳がピクリと動く。
    「全然ですよ。名前も聞きそびれちゃったし、探す当てが全くなくて」
    「もしかしたらこの街の人じゃないのかもね。他の州から展示会のために来る人もいるし」
    「そうですよね……もっとちゃんとお礼を言いたかったなぁ」
    ちらりとキッチンに目を向けると英二の後ろ姿が見える。その声に落胆を滲ませるのをアッシュは複雑な気持ちで耳を澄ませていた。
    「突然スタッフに呼ばれてびっくりしたよ。友人の方ですよって言われてマックスだと思ったらあんなモデルみたいな子が待ってたなんて」
    「でもそのおかげで彼と話ができたからよかったです。本当に……」
    「確かにそうだね。マックスに礼でも言っておこうか」
    「マックスからしたら何のことかわからないですよね」
    それもそうかと笑う伊部にアッシュはふと、体を起こした。確かに先日英二と話ができたのはちょっとした勘違いからだった。だが伊部があのとき英二にすぐ知らせたから彼はアッシュの後を追いかけ、アッシュは本当の名前まで明かすことができた。
    アッシュはしばし思案しておもむろにソファーを降り、ダイニングテーブルへと飛び乗る。テーブルに着く伊部は突然乗り上がってきたアッシュにひどく驚いた。触るどころかなかなか近付くこともできなかった猫が突然目の前に、自分からやってきたのだ。
    「どうかしたかい」
    アッシュの睨んでいるかのような強い眼光にどうすればいいのかと伊部は動けなくなる。すると、アッシュはまた少しだけ近付いて、尻尾をパタンと動かす。そして目を閉じ、少しだけ頭を傾けた。
    アッシュの突然の行動に動揺していた伊部はハッと何かに気付いた。
    「もしかして……」
    料理に集中していた英二は自分の後ろが妙に静かなことに気付かないまま調理を続けていた。そのとき。
    「え、英ちゃん」
    伊部のただならぬ声に英二は慌てて振り返る。
    「どうしたんですか」
    「見て……」
    それは伊部が示す前に英二の視界に飛び込んできた。
    なんとあのアッシュが、伊部に撫でられていた。頭の狭い面積を伊部の指先が遠慮がちに、ぎこちなく撫でる。撫でるというよりも触るのを許されていると思わせる絵面だったが。
    「しゃ、写真 写真撮って」
    「カメラ取ってきます」
    元陸上部の脚力でダッシュしたが英二の努力も虚しく、カメラを手に戻ってきた頃には伊部から遠いテーブルの端へとちょこんと座っているアッシュと悲しそうな伊部の姿があった。
    すぐに戻ってきたのに、これは本当に一瞬の出来事だったようだ。英二はこれからカメラは常にそばに置いておこうと決意した。
    「やっぱり伊部さんにも懐いてるんですよ」
    「一瞬だったよ」
    「まあ、そうですけど……」
    残念がる伊部だがそれでも嬉しそうだった。
    (これで礼はしたぜ、伊部)
    アッシュは一仕事終えたような気持ちでフンと鼻を鳴らす。そして英二が手を伸ばせば逃げることもせず、されるがまま抱き上げられた。
    「やっぱり、その子には英ちゃんが1番みたいだね」
    「ニャー」
    その通りだと返事をするアッシュに2人は思わず笑い出す。
    「ふふ、本当 嬉しいなぁ」
    アッシュは伸び上がって顔を寄せると、英二の鼻とアッシュの鼻が触れ合う。くすぐったいと笑う英二にアッシュの尻尾は機嫌よく揺れた。







    時間は遡り数日前。
    獣人の親子が誘拐されかけた路地、アッシュたちが去ってから少しした頃。
    容赦なく降り出す雨が地面を叩く。雨にけぶる街の一角、雨粒に晒されているのは少し前まで鮮やかに咲き誇っていた花束はその花弁を散らし見る影もない。
    するとそこに伸ばされる手があった。
    その指先は花々の奥に差し込まれた歪んだメッセージカードを捕まえる。花に守られていたおかげか、インクはまだ滲んでいない。
    綴られた文字を読んだその男は雨の中、不敵な笑みを浮かべた。

    「奥村英二……か。随分とご執心だな、アッシュ」

    グシャリと踏み潰された花が濁った水溜りに沈む。
    雨は男と、男の思惑をも覆い隠すように降り続けた。




    後日。
    「あの猫触れるようになったんだって」
    伊部がアッシュに触れたと知ると否や、家にやってきたマックスは英二の膝の上で眠っていたアッシュに手を出し、また新しい傷を作った。
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