白浜の小さな恋フロイドは小さな港町に暮らすごくごく普通の5歳の少年だ。いや、普通と言うには少々のんびりしすぎているきらいはあったが、放任主義の両親の元、のびのびと育った普通の少年だ。
そんな少年フロイドは暇さえあれば海辺によく行って遊んでいた。遊びはその日ごとに違って、何に使っているのかも分からない丸いガラス玉を集めては海の水で洗って持ち帰る日もあるし、ただひたすらに打ち寄せる白い波に足を浸からせてバシャバシャと飛沫を上げさせてはきゃらきゃらとはしゃいでいる日もある。時々バケツを持って行って何を取ってきたかと思えば、数多のヤドカリを詰めて蠢くバケツの底をそれはそれは嬉しそうに両親に見せては悲鳴を上げさせる日もあった。
そんな日常を一見楽しそうに日々を過ごすフロイドではあったが、この少年には友達がいなかった。
この港町に同じ歳の子供がいない訳ではない。フロイドが飽き性だから遊んでいてもすぐにどこかへ行ってしまう。
残念ながら普通の子供にはある種ワガママにも見えるフロイドの行動は受け入れがたいようで、自然とフロイドは独りで遊ぶ事が多くなった。海での一人遊びもそんな事が原因で習慣となっていた。しかしフロイドとしては別段寂しくは感じないようで、こうして波の音に耳を傾け、爽やかな潮風に当たっていると不思議と心が安らぐのだ。
「フロイドさん、今日も海に行って遊ぶの?」
「うん。はれてるからいいでしょ?」
フロイドは首にGPSのついた小さなまるっこい電話をかけ、愛用の青緑色のバケツに白いスコップを入れ、サンダルに小さい足を通すと玄関を飛び出ようとしていた。
「ちょっと待ちなさい!これこれ…それと絶対に海の中に入っちゃだめですよ」
そう言って慌ててフロイドの母はフロイドのポケットにペラペラとした何かを数枚ねじ込んだ。それが何かは確認しないものの、フロイドは知っている。紫のたこちゃんの絵が描かれた絆創膏だ。常に外を遊びまわるフロイドはよく擦り傷を作ってくる。子供が少し怪我をしたからと言って大げさに騒ぐほどではないが、とりあえずの応急処置として絆創膏を渡している。それ以外にも両親とフロイドの間には複数のお約束事があるのだが、それは割愛する。
暗くならない内に帰ってきなさいね。そんな母の声に対して遠くから「はーい」とソプラノの元気な声で応酬する。
パタパタと軽やかに音を立てながら走るフロイドはうっすらと汗をかいている。頬に黒いメッシュが張り付くのが煩わしくて、途中から持ってきた髪留めで耳に止めた。そうすると視界も気分もぐんと明るくなる。
時期は真夏。空は眩しいほど鮮やかな青で覆われ、太陽の光が容赦なく地面に黒い影を作る。麦わら帽子でも被っていなければ暑さで到底身動きなんて取れなかっただろう。遠くで海鳥の鳴く声が聞こえて、ちらりと空を見上げる。真っ白な雲がまるで綿あめのように浮かび、心の中で美味しそうだなんて思って、次のおやつにはわたあめを買ってもらおうと考える。そうして白い砂浜へと続く階段を降りて、砂地を踏みしめた。ここまで来ると波の音がより鮮明に聞こえる。
フロイドはバケツを置いてさっそく砂を掘り出した。今日はお城を作ろう。そう決めてバケツに海水を汲んで自分の横にドサリと置いた。
じりじりと焼け付く太陽が伸ばしたフロイドの腕を焼いて、少しだけ赤くなっていた。それでも真剣な程にスコップや指を使って砂の山を細かく削いでいく。もう何時間経ったかは分からない。ただ目の前の城を完成させようとひたすらに無心になっていると、突然今までとは違ったやや強めの風が海から吹き上げた。
「あっ」
視界が影の世界から突然明るくなり、そこで帽子が飛ばされてしまったのだと気づく。
砂浜の近くには浅瀬まで行くための小さな桟橋があった。その両脇には人一人が乗れそうな大きさの岩がぽつりぽつりと生えていて、どうやらそこまで飛ばされてしまったようだった。
フロイドはスコップを地面に置き、帽子を取りに行こうと小走りでそこへと近寄る。桟橋を渡って行って、その両脇にある岩へとそろりと足を延ばした。
「(このへんに落ちた気がする)」
目で見た記憶を頼りに、落ちないようにするりと移動する。本当はこんな危険な事をした事がバレれば両親にこっぴどく叱られる。しかしそんな事よりも帽子をなくしてしまったとバレた時の方が嫌だ、という気持ちが勝ってしまったのだろう。水面にぷかりと浮かんだ帽子を見つけて顔を明るくさせる。手を伸ばして帽子を持ち上げた。そして見つける。
「なんだろ、これ」
帽子の下から現れたのは、フロイドの掌くらいの大きさの魚。いや、魚というには上半身は人の身体のような作りで、全体的に碧っぽい生き物だった。鱗のような部分が日の光に照らされてきらきらと光っているようで、思わず物珍しさから手を伸ばして掬い上げた。それは小さく腹部を膨らませたり縮ませたり、生きてはいるものの、弱弱しい動きをしていた。薄っすらと目を開くとフロイドの手を振り切ろうと小さく鋭い歯をむき出しにして威嚇している。総じてこのような生き物がこちらを威嚇するのは自分の身を守る為であると父から聞いた事がある。心配になったフロイドはなるべく噛まれないようにとその小さな生き物の尾びれを摘まみ上げ、体をあちこち見て回った。
「おさかなくん、腕ケガしてんね」
そう言うと自身のTシャツの裾を広げて海水で湿らせるとその生き物を入れてやる。摘ままれるよりは落ち着いたのか、とぐろのように少々長い尾びれをくるりと巻いてすっぽりと収まったのを見てニカっと笑うと、先程の砂場まで走って戻る。
フロイドは地面に座って裾の中に納まる生き物をにっこりと見下ろすとポケットからタコちゃんの絆創膏を一枚取り出した。
「シンサツのおじかんですよぉ~」
気分はお医者さんだ。と言ってもフロイドはお医者さんが好きではない。消毒や痛いことをするから。でも自分が何かしてやらなければこの生き物は死んでしまうのではないか、なんてそういう知識はちゃんと持っている。
ぺり、と紙を剥がして、傷の出来ている右の腕にそれを巻いてやる。皮膚がすこしだけぬるっとしてうまく傷を覆い隠してくれないのだが、そんな事はフロイドに知る訳がない。張れば治るのだ。いつもママが言っている。
胡坐をかいたフロイドの足の間で自分の腕に何かを巻かれているのを大人しく見ていたその生き物は、巻き終わるとフロイドをじっと見上げる。
その生き物は左の目が綺麗な程に宝石のシトリンのような色をしていた。
「おさかなくんの目ってきらきらしててキレイだねぇ」
フロイドはそんな生き物の目をもっと近くで見たくて顔を近づける。
突然、べちん、と音が鳴る。
「いたぁい!」
その生き物は突然暴れ出し、尾びれをフロイドの顔目掛けて振り上げた。小さいのでそれほどの力はないが、それでも不意打ちであったので思わずひっくり返ってしまった。
その反動でその生き物は白波の方へと放り投げられ、そのまま海へと這いずりだした。
白い波際で一度フロイドを振り返る。そして数秒フロイドを見つめてから、海へと潜ってしまった。
フロイドは頭の中がハテナで一杯だ。助けてあげたのに顔をぶたれた。でもべつに怒ってる訳じゃない。フロイドを見つめる目がほんの少しだけありがとうと言っている気がした。
あくまで気がした、というだけで実際どうなのかは分からないが、フロイドはびしょびしょになった自分のTシャツが腹にくっつく感覚にそれまでの楽しい気分が萎えてしまって、突然お腹が空いてしまった。
「レモン味のかき氷たべたいなぁ…」
黄色い瞳を思い出す。作りかけの城はそっちのけでバケツにスコップを入れて水滴を垂らしながら家に帰った。これだけ暑いからきっとすぐに乾くだろう。
「ママぁ、レモン味のかき氷たべたぁい」
「先に『ただいま』は?」
「ただいまぁ」
家の中ではそんな会話が繰り広げられていた。想定より早く帰ってきたフロイドに驚きつつも、母は食器を洗いながら椅子に座ってかき氷をしゃくしゃくと食べ始めるフロイドに話しかける。
「今日は早く帰ってきたのね。気分が萎えてしまったのですか?」
今の時刻はまだ午後の14時。昼ご飯を食べて飛び出したフロイドはいつもなら16時頃にはお腹がすいた、と言って帰ってくる。
そんな母の何気ない質問に、フロイドは今日の海辺での出来事をたどたどしく説明した。
「あんね、砂のお城作ってたら帽子がびゅーんって飛んでっちゃったの。そんで拾いに行ったら変なちっちゃいおさかなみたいな人間みたいなのがいてぇ」
「…?えぇ、それで?」
母からしたらフロイドの説明の中に突然登場した未確認生命体にドキリとしたが、なるべく話を遮らずに聞こうとした。
「んでぇ、腕ケガしてたからたこちゃんのバンソーコー貼ってあげた。そんで顔ベタって叩かれてレモン味のかき氷たべたいなぁってちょっと早く帰ってきたとこぉ」
脈絡のなさはいつもの事なので気にはしていないが、そのよく分からない生き物にカオを叩かれたという息子に多少の心配はしたものの、特にフロイド自身は恐怖も何も感じていないらしい。なら別に良いか、と母は納得するとフロイドに近寄って頭にキスを送った。
「フロイドは良い子ですね。怪我をした子の手当てをしてあげたの?」
「おれえらぁい?」
「えぇもちろん!でも見た事のない生き物や人には簡単に近づいてはいけませんよ?」
「なんで?」
「もしかしたら悪いひとかもしれないもの」
特に傷があるわけではない。しかしそんなフロイドの優しさに付け込んで悪い事をしでかそうとするモノもいるのだ。やはりひとりで遊びに行かせるのは止めた方がいいのだろうか、と思いとどまる。だがフロイドが一日中家でじっとしている事が出来ないのも事実だ。母は昼間は自宅で小さなカフェを営んでいて、毎日のようにフロイドを連れて遊びに行かせてやれない。出来るのは遊びから帰ってきたフロイドの話をじっと聞いてやる事だけだった。
母がほんのり顔を暗くしたのをフロイドは見逃さなかった。
「ママ、おれ大丈夫だよ。ちゃんとここに帰ってくるから、ここがおれのおうちだもん」
そう言って母のシャツをぎゅっと握り締めて抱き着く。海の匂いも好きだが、ほんのりコーヒーの匂いが染みついた母の匂いも好きだ。
夕方に帰ってきた父にも今日の出来事を言うんだ。そうしたら父にもきっと「お前は偉い子だなぁ」と褒めて貰えるかもしれない。
んふんふと笑うフロイドを、母もおなじくぎゅっと抱きしめ返した。
その日の夜。定時で帰ってきた父に飛びつくように抱き着いたフロイドは、今日あった出来事をこれまたたどたどしく説明した。そこでフロイドにたどたどしく語られたその謎の生き物の正体にピンとした父は、「もしかして人魚の子供なんじゃないか?」なんて冗談めかして言って、母はまさか、と笑った。人魚なんてのは空想の生き物だと言われがちだが、昔からこの港町では人魚の伝説なんてものが残っていて、怪我をした人魚を助けた船乗りは、遭難した時にその人魚の先導の元、無事にこの街まで帰ってこられた、なんて話がある。それもこれも大昔の話であって、真実は誰も知らない。
その夜はその仮定『人魚』にバンソーコーを巻いてあげたフロイドを両親揃ってべた褒めして終えた。
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その日もフロイドはひとりで海に遊びに行っていた。いつものセットを身に着けて、走り出す。今日は何をして遊ぼうか、砂の城づくりは飽きてしまったし貝殻でも掘って遊ぼうか。そんな事を考えながら砂浜へと足を踏み入れる。しばらく砂浜を歩いて、白い何かを見つけるとしゃがみ込んでシャベルでほじくり返す。綺麗な色だったらバケツにいれて、あんまりきれいじゃ無かったらまた砂の上に置く。そんな事をしていると、ぱちゃん、と音がした。
「?」
フロイドは顔を上げて音のした方へと顔を向ける。何もない。
気のせいかとフロイドがまた砂の地面に目を向けようとすると、またぴちゃんと音がする。今度は先程より強く。
顔を上げて海の浅瀬の方を見ると、見た事のある碧が水面からちらりと見えた。
その碧い生き物は口に魚を咥えている。フロイドが気づいた事が分かったのか、水面をバシャバシャと叩いていた尾びれを止めると、ほんの少しだけ近づいてくる。波打ち際まで泳いだり這ってきたその生き物に近寄ろうと、フロイドもゆっくりと近づいてしゃがみ込んだ。その生き物は相変わらずおおきなフロイドを見上げてはいるが、心なしか以前見つけた時よりも一回り成長しているようで、手のひらほどの大きさだったのが、今はきっとフロイドの両手いっぱいひろげなければ落としてしまいかねないほどの大きさだった。右腕に巻いた筈のたこちゃんの絆創膏は腕ではなく、手首に巻かれている。
「おさかなくん、ちょっとおっきくなったねぇ。ケガも治っててよかったぁ」
フロイドとその生き物の距離は一メートルほど。ほっと安心したように笑むフロイドが手を伸ばして手のひらを上にするがその生き物は未だ警戒しているのか近寄ろうとせず、フロイドを見つめるだけだった。
なにをもってしてその生き物がまたこうして姿を見せたのか分からないフロイドは、首を傾げていたが、その生き物が咥えていた少々大きめな魚をブンっとフロイド目掛けて投げたのを見て、驚きつつキャッチする。手から滑り落ちそうになるそれを慌ててバケツに入れた。
それを見届けると役目は終えた、とばかりに再び海へと戻っていく。
「…このおさかなどうしよう…」
フロイドは投げられた魚を見る。急いでバケツに海の水を汲んで満たした中には鮮やかな赤い色の魚がぎょろりと大きな目でフロイドを見ている。持って帰るには少し重くて、でも渡されたものだから捨てる訳にもいかない。
フロイドは両手で抱えて、よたよたとした足取りで家へと帰ろうとした。
一瞬海の方を振り返る。そこにはただ静かなザァ…とした波音と、ひたすらに青い海しかなかった。
食べられる魚だろうか、なら少し良いお土産が出来たな、とルンルンとした気持ちでいたフロイド。
バケツの中の魚を見た両親の目を丸くした顔を見て愉快に声を上げて笑うのだった。
余談だが、フロイドの持って帰ったその魚は深海の高級魚で、到底子供の手で捕まえられるような代物ではなかった。
次の日も、次の日も。
フロイドが海に遊びに行くたびにその生き物はフロイドに気付くなり口に咥えた魚をフロイドへと投げた。相変わらず何を考えているのか分からないその生き物の表情。もしかしてこれはあの日助けたお礼なのだろうか。そう考えたフロイドは、自分のズボンが濡れるのも厭わず、少しだけ海に入って近づく。
「ねぇ、もしかしてコレ、ありがとぉって言ってるの?」
魚を渡して役目は終えたとばかりに再び海へと帰ろうとした生き物であったが、フロイドのその言葉にまばたきをひとつした。
しばらく目線をうろうろとさせ、徐々に頬のあたりが色濃くなる。
そして再びフロイドをしっかりと見上げると、口をぱかりと開ける。小さなぎざぎざの歯が見えて、自分とすこしだけお揃いな事に気付いた。まぁそれはどうでも良いのだが、自分に向かって口を開いてどうしたというのだろうとフロイドは首を傾げた。
その生き物は喉から音がしているのか、きゅぅきゅぅと鳴いている。いつだったか水族館でみたイルカの鳴き声のようだと思った。この意思疎通の測れない生き物が何かを自分に伝えようとしているのは理解できたが、フロイドにはそれがどんな意味を持っているのかは分からない。
「くちをあけてるって事はおなかがすいてるのかなぁ?」
鳥の雛が餌を求めるときに口を開けてピィピィと鳴く事を知っている。
先程目の前の生き物から貰った魚を見るフロイド。いつも貰ってそのままであったが、もしかしてこれを食べたいのを我慢してずっとくれていたのではないか、とそんな考えに至ったフロイドは、バケツからその魚を取り出し、その大きく開けたくちの中に突っ込んでやる。
今日貰った魚はそれほど大きい魚ではない。きっとこの子の大きさでも食べられるだろう。
「どぉ?おいし?」
しゃがみ込んだそのままに頬杖をついてふにゃりと気の抜けたように笑う。一方その生き物といえば、突然口に渡した筈の魚を突っ込まれた事に目を丸くした。そのままかぶりつき、頬を膨らませてもしゃもしゃと平らげる。食べながらもどこか浮かない顔をしていて、もしかしてあんまり美味しくなかったのだろうかと思った。
「せっかくくれたけど、おさかなくんがおなか空いてるなら、おさかなくんが食べた方がいいよ?」
おれはおうちにかえればおやつ食べれるし。そう言って笑うフロイドだったが、その生き物と言えば顔を俯かせたままそのままぽちゃんと海へと帰ってしまった。
そんな生き物に手を振って、「こんどおれのおやつ持ってきてあげるねぇ!」と叫ぶ。
あの子は何が好きなんだろう。大好物のたこ焼きは一緒に食べてくれるかな。そんな事を考えてくふふと笑うと、フロイドは空のバケツだけ持って家に帰った。
次の日は生憎の雨であった。その日一日は外で遊ぶことが出来なくて、フロイドは仕方なく家でテレビを見て過ごしていた。あの生き物はもしかしたらあの海でフロイドが来るのを待ってるかもしれない。でも今日だけは海に近づいちゃだめだと言われている。心の中でゴメンね、と言って、窓から外を眺めた。
ようやくの晴れ。フロイドはいつものように海へと足を運んだ。今日はバケツの代わりに小さなリュックを背負っていて、その中には青い水筒と白いパックに入ったたこやきが入っている。おやつを持っていきたいと言ったフロイドに母が冷凍のたこ焼きをチンしてくれたのだ。
『ママ、ママ!はやくつくって!』
『はいはい。だったらフロイドさんはソースとマヨネーズを用意してちょうだい?あと保冷袋もちゃんといれといてね』
そうして出来上がったたこ焼きを今すぐに食べたいのを我慢してフーフーと息を拭きかける。
熱すぎるときっとあのおさかなくんは火傷をしてしまう。だから少し冷ましてから崩れないようにそっとリュックに入れて、そうして背負って立ってみると随分と誇らしげな気持ちになる。今日の任務はさながら郵便屋さんだ。はやくお届けしなければ、そんな気分。
早く会いたくて走ってきてしまった。振動でリュックが左右上下に揺れるからか余計に疲れてしまったのだが、海の音と匂いを目の前にするとそんな疲れも吹き飛んでしまった。
海辺についたフロイドは砂浜を見渡した。キョロキョロと辺りを見て、しかしいつもの見慣れた碧がない。
「(まだ来てないのかなぁ?)」
フロイドは待ってれば来るかな、と期待しながら地面に座った。背負ったリュックを大事に抱えて、地平線をひたすら見つめる。耳を凝らして、目を凝らして、碧を探すがやはりない。
じっと座っているだけだというのに、お腹は減ってくるもので、しかも大好物のたこ焼きだ。
フロイドはリュックを漁るとたこ焼きと水筒を取り出した。
「来ないんならおれひとりで食べちゃうよ?」
海に向かってひとり話しかける。当然返事などない。
少しだけ寂しさを感じながらフロイドはたこ焼きをほおばった。保冷剤のせいでちょっと冷たいけど、冷たくてもたこ焼きはおいしい。猫舌なのでそもそも熱いものは食べられない。今日はあのおさかなくんも用事があって来れなかっただけなのかもしれない。フロイドだって雨の日は来れないように。
フロイドはたこ焼きを食べ終えるとゴミをリュックに入れて立ち上がる。一度海を一瞥するが終ぞ見る事はなかった。
その次の日も次の日も、その次の日もたこ焼きを持っていった。あまりにも最近頻繁なので母がフロイドにたこ焼きのチンの仕方を教えると、フロイドは勝手に好きな分だけチンして持っていった。
今日もいない。
「おさかなくーん!いっしょにたべようよぉ!」
海に向かって叫ぶ。フロイドのソプラノボイスが木霊した。しかし返ってきたのはただ波の音と海鳥の声だけだった。
仕方なく一人で食べる。一口食べて、二口食べて。マヨネーズとソースをほっぺにつけて。
そうしているうちに手が止まる。美味しい美味しいと思っていた筈のたこ焼きを食べているのにどうにも気分が晴れない。段々と目に涙が浮かんできて、鼻の奥がツーンとした。
どうして来てくれないの?と、そんな気持ちが溢れてきてしまう。
「おれが雨の日に来れなかったから?せっかくくれたおさかな返しちゃったから?怒ってもうおれにあいたくなくなっちゃったんだぁ…」
おれのことキライになっちゃったんだ…
溢れる涙を両手で擦りながら拭って、でもたこ焼きを食べなければと、震える手と口でそれらを平らげた。
もう海には遊びに来ない。
あれだけ大好きな海だったのに、また来ればおさかなくんを思い出して悲しい気持ちになってしまうから。
それ以降フロイドは海へ足を運ぶことを止めてしまった。
ここは海の底。人間界と隔てたようにそこには色とりどりの魚が暮らしていて。そして人知れず人魚という生き物も暮らしていた。
「今日は海の上へいってみようとおもいます」
碧い髪をした一匹のウツボの稚魚が大きなタコの人魚にそう告げた。
「陸の上ですって!?やめなさい、父君に怒られますよ。あなたまだそんな小さな稚魚ではないですか。加護の届かない上の方へなんて行ったら肉食魚のエサになるか海鳥のエサになるか人間の網に掛かってエサになるだけです!」
どのみち稚魚なんて大きい生き物からみればエサである。碧い髪の稚魚の兄弟の大多数もそうやって『エサ』となり果てて減っていったのだ。
「しかしどうしてもりくを見てみたいんです」
たどたどしく説明をする碧い髪の稚魚。ある日海の上の方から海底へと落ちてきた一つの物体。それは小さくて青くて、横にカラフルな色の線が入ったゴム製の何かだった。そして巣穴のように大きな穴が一つだけ開いていた。碧い髪の稚魚はそれが人の物である事を知っていたが、どんな使い方をするのかは知らなかった。父に知る事を禁じられていたからだ。碧い髪の稚魚は兄弟の中でも一等賢いので父の言っている事は分かる。危険なのだ。
しかしそれと同時に好奇心も人一倍であった。昔からおかしなものを集める癖があって、こうやって人の世界の物を実際に目の当たりにするのは初めてで、どうしても好奇心が抑えきれなかった。
狡賢い碧い髪の稚魚はその場では素直に頷いていたが、心の中ではどう目の前のタコの人魚を出し抜こうかと思考を巡らせていた。
「聞いてますか?ジェイド。貴方はもっとこの珊瑚の海の王子である自覚を持って頂きたい」
「すみませんアズール。軽率なコトを言って心配させてしまいました…」
しおらしく振る舞うが、きっとこの演技すら見抜かれているのだろうなと確信すると、青い髪の稚魚、ジェイドはひとりになる時間を狙ってこっそりと抜け出した。
なんとか岩陰や海藻などの間を縫って肉食魚に見つかる事無く海面へとたどり着いたジェイドは、海からを顔を出した。
途端にあまりの眩しさに目をぎゅっと瞑る。そろりと目を開けると、そこには陸があった。太陽の光に照らされてキラキラと光る碧い海があった。空があった。雲の合間にはうっすらと色とりどりの橋が架かっていて、ジェイドは海の底に落ちてきたあの物体を思い出す。あのカラフルな線はあの架け橋をあらわしていたのではないだろうか。
そう思い当たるとジェイドの瞳は段々とキラキラと輝きだす。
「陸って、こんなにキレイなんだ…」
海の中では到底見れないほどの光彩溢れる世界。それがジェイドが第一に抱いた人間の世界の印象だった。
それからジェイドは海面から顔を出して泳ぎ出した。少し陸に近づいてみよう。そう思って。
その時である。
自身に大きな影が掛かったと思ったらふわりと体が持ち上がる。視線が急にグンと高くなり、掴まれているらしい腕の先を見ると巨大な鳥がいた。
「(ぼくをエサだと思ってる!?)」
ジェイドは必死で暴れ、自身を掴む足に小さな鋭い歯で噛みついた。
すると鳥はバタバタと羽を暴れさせ、ジェイドを振り落とした。
そのままジェイドは再びぽちゃんと音をたてて海の中へと落とされるが、どうにも掴まれた腕に痛みがあって顔をしかめてしまう。
見ると腕に怪我を負っているようで、ほんのり血が滲んでいた。
危険だ。ジェイドは咄嗟にそう判断する。海には血の匂いで寄ってくる獰猛な生き物が多い。サメなんかが良い例だ。
一旦どこかへ身を隠そうとよろよろと泳いでいると、ちょうど日陰になっている岩場を見つけた。ここなら狭くてきっと空からも海からも狙われることはない。小さな身体を利用してその隙間へと入り込むとほっと息をついた。
困った。まさか自分がこんな目にあうなんて。ジェイドは腕の傷を見た。ほんのちょっとの傷が海では命取りだ。こうやってここに隠れていたって何れは死んでしまうかもしれない。今更になってアズールを振り切ってきてしまった事を後悔した。ぼぅっと空を見上げながらやがて目を瞑る。生まれて初めて心からアズールに謝った。きっと自分が戻らない事で父はアズールを責めるかもしれない。幼いながらも王子としての自覚がそんな未来を予想した。
その時。強い風が吹いたかと思うと、自身を覆うように影が濃く暗くなったことに気付いた。先程の海鳥に見つかってしまったのだろうか。緊張から身を固くしてじっとしていると、パタパタと忙しない音が近づき、やがて影が去った。聞きなれない声が聞こえたと思って薄っすらと目を開けると、そこには大きな生き物がいた。ジェイドは産まれて初めて目にしたが、この生き物の事を知っている。
「(にんげんだ…)」
その大きな人間は、ジェイドを見るなりもとより大きな瞳を更に大きくして何かを呟いた。そしてジェイドに片手を伸ばし、水面から掬い上げた。ジェイドはそのまま食べられてしまうのではないかとグルルルと喉を鳴らし鋭い歯を晒して威嚇する。少しでもおかしな動きをしたら、その指を噛み千切ってやる!そんなあからさまな敵意に反応したのか、その人間はジェイドの尾びれを掴んで逆さまにした。頭が下を向き振り子のようにユラユラと揺れ出す。やめなさい!とギィギィ声を出して暴れると、その人間はあらゆる角度からジェイドをじろじろと見始めた。巨大な目が自身を観察する様子に心臓が竦む思いである。そしてある一点を見つめると、ジェイドを自身の身に着けている大きな布の上に優しく降ろした。
「?」
途端に不安定だった場所から柔らかい場所に降ろされ、ほんの少しの安心と警戒心から尾びれをクルリと巻く。するとその人間はジェイドに向かってにこりと可愛らしく笑った。大丈夫だよ、そう言っているような気がして。
自分を食べるつもりではないのか…しばらくその布の上で揺られながらジェイドを運ぶ人間を観察していると、その人間はまたもや何かの言葉を発した。そして細長い可笑しな絵の描かれた布のようなものを取り出す。
小さなジェイドの腕を指先でそっと持ち上げて、ペラペラとした布をジェイドの腕に巻き付けた。どうやら右腕のケガを覆い隠すつもりであるようだった。ジェイドの皮膚は鱗のおかげでぬめりけがあって、とうていその人間の不器用な巻き方では上手く怪我を覆い隠せずにいた。しかし、ジェイドはこの人間が悪い人間ではないのだとそう感じた。
ジェイドのケガを不器用に隠し終えると、その人間は見上げるジェイドに目線をあわせるように屈みこむ。
「おさかなくんの目って、きらきらしててキレイだねぇ」
何を言われたのかは分からない。人間の言葉を知らないから。しかし自身の瞳を覗き込んだ人間の瞳のなんと優しく美しいことか。過酷な海で生きてきたジェイドはそんな純粋で無垢な瞳を見た事がなかった。きっと何かを褒められているのだろう。この綺麗で純粋な存在に…
心臓がうるさい気がする。
そう思ったらジェイドの尾びれは勝手に動いていた。
「いたぁい!」
ジェイドの小さな尾びれを顔に受けた人間はころりと地面にひっくり返り、ジェイドはその衝撃で海へと投げ出され、小さな水しぶきを上げて落ちた。少しひどい事をしてしまっただろうかと心配になって転がった人間を振り返った。しかし別段その人間は怒っているふうでもなく、きょとんとジェイドを見返すのみだった。
その日、珊瑚の海へと戻るとアズールにこっぴどく叱られた。ジェイドが不在の理由をなんとかバレないようにやってくれたようで、父にはバレていない。
しかしジェイドの腕に巻かれた歪な布を見るやアズールはまた顔を青くして、「なんですかソレは…あなたまさか!」と再び怒り出しそうになった為、ジェイドは弁明する。
「すみませんアズール。ぼくはたしかに陸に行ってにんげんにみつかりました」
「ほんっとに…っ…はぁ……何もされませんでしたか」
額に手を置いてなんとか冷静になろうと努力をしているアズールに申し訳なさを覚えて、ジェイドは少しのウソを混ぜて説明をした。
「陸に行ったあと、波の激しさで岩に腕をぶつけてしまい、ケガをしてしまったんです。そうして岩場で身を隠していたところ、幼いにんげんに見つかってしまったんです。でもあの子は悪いこじゃなくて、ぼくの腕にこれをまいて治そうとしてくれたんですよ!」
心臓が高鳴った事は言わない。言ったらきっと発狂するだろうから。
アズールはそれを聞くとため息をつく。たまたま出会ったのがその人間の子供であったから良かったものの…とぶつぶつと言っている。この分では残念ながらジェイドの協力者にはなってくれないだろう。またジェイドが陸へ行ってあの子に会いに行くと言ったらきっとあのたこ足で雁字搦めにされてしまうに違いない。
ジェイドは少しだけ大人しくして、監視の目が外れたら再び陸へ行こうと決めた。
時はたちひと月ほど後であろうか。
その日もジェイドはこっそりと陸へと泳いでいった。
稚魚の成長というものは早いもので、一番最初に陸に行った時は落ちてきた靴の穴の中にすっぽりと納まる程度の大きさであったのに。今では一回りも大きくなって、あの穴の中は窮屈で仕方ない程になった。
自身で得る事の出来る獲物も少しだけ大きくなって、ジェイドはそんな獲物を摑まえて咥えるとひとつの決心をした。
今から一週間ほど前の事だ。ジェイドよりいくぶん年上の従兄弟の人魚がメスに求愛をしていた。ウツボの求愛は基本的に口を開ける事であるが、それとは別に従兄弟はその想い人にせっせと自身の捕まえた魚を捧げていたのだ。ウツボにそんな習性はない。不思議そうに見ていると、その従兄弟はジェイドの顔を見るなり近寄ってきた。
『どうしてにいさんはあの人にさかなをあげたんですか?』
無邪気な質問である。
『そりゃあ…口開けただけじゃ呆気ないっていうか、俺個人としての気持ちをちゃんと示したかったんだよ。っつってもジェイドみたいなチビ助にはまだ分かんねぇか』
特別。プレゼント。貴方の事が好きだから。
そんな想いを込めたプレゼント…
そんな事を聞いたからだ。ジェイドは深海に住む鮮やかな赤い魚を捕まえると、意気揚々と陸へ向かって泳ぎ出した。
あの子にこのさかなをあげるんだ!そう決めて。
ジェイドが海から顔を出すと、その人間の子供はいた。なんとか気づいてほしくて尾びれでぴちゃんと水面を叩く。
しかし一度顔をあげたは良いものの、ジェイドを見つける事が出来なかったのか、また貝殻の採取に夢中になってしまう。
ジェイドはなんとかこっちを見て欲しくて、今度は強めに尾びれを振り上げた。
ぱしゃん!
水しぶきが上がり、その人間の子は顔をあげた。そして海の方をみるとジェイドに気付いたようで目元を緩ませた。ジェイドは咥えたままの魚を何とかその子に渡そうと近寄り、しかし恥ずかしさから少しだけ距離を開けてしまう。相変わらず自分より大きなその子はしゃがんでジェイドを見つめた。
「うでが治ってよかったね」
人間の子が何かを喋ってまた微笑む。ジェイドは心臓が高鳴っていた。
ぼくはあなたにこれを渡したくて、捕まえてきたんです!
そう気持ちを込めて咥えていた魚をブンっと人間の子に向けて投げつけた。
「おっとぉ」
のんきにそんな掛け声を言いながら無事キャッチしたのを見届けると、ジェイドは恥ずかしさからすぐに海へと潜ってしまった。
一所懸命獲ったので、食べてくださいね。そんな意味を込めて。
それからというものの、ジェイドは目を盗んでは陸へ行き、海辺で遊ぶあの子を見つけ、魚を捧げる毎日を送っていた。
魚を受け取ってもらう度にひどくご機嫌で、勉強だってなんだって頑張れた。大人びた話し方をするジェイドであるが、まだ幼い故に魚を受け取って貰って求愛をした後の事は考えていない。とにかく思いを伝えたいだけなのだ。
鼻歌でも歌い出しそうなジェイドであったが、ある日の事。
いつものようにジェイドが魚を捧げる日課を果たしていると、人間の子が思ったよりも近くジェイドに近寄ってきた。手には先程あげた魚が握られている。何かを言いながら首を傾げている。何を言っているのかは相変わらず分からないが、仕草からなぜ魚をくれるのか分からない。そう言いたいのではないかと考えた。
「(どうしましょう…思いを伝えてしまおうか)」
ジェイドは悩んで悩んで、そして眼をキョロキョロとさせると目をぎゅっと瞑る。
そして決心をすると同時に口をぱかりと開けた。
好きの気持ちが喉から溢れてくるたびにきゅうきゅうと鳴いてしまう。
「(すきです!あなたがすきです!)」
一所懸命に思いを伝えようと必死になって身を乗り出した。顔が熱くなっている気がして、このままでは火傷をしてしまうのではないかと錯覚する。
人間の子はそんなジェイドの様子に首を傾げると、貰ったばかりの魚とジェイドを往復して見る。そしてジェイドの口へとその魚を入れた。
突然のそんな行動に戸惑って固まっていると、人間の子はふにゃりとジェイドに笑い掛ける。
あげた魚を返される。求愛もしたのに。受け取ってもらえなかったのだ。
それがジェイドにはショックでならなかった。どこかでジェイドは言葉が通じなくてもきっと自分達は思いが通じ合っていたのだと勘違いをしていた。
とりあえずは口に入れられた魚を沈んだ気持ちのままもしょもしょと齧り、フロイドの様子を見る事なくしょげた気持ちのままひとり海へと帰った。
あの人間は始終にこにこと笑っていた。自分が魚を捧げたり口を開けて求愛した事がそんなに面白かったのだろうか。少しずつ卑屈な気持ちになって、珊瑚の国にたどり着いた頃にはあまりの沈んだ様子にアズールが心配したほどだ。
「ジェイド…何かありましたか?」
アズールの珍しくそんな優しい声にジェイドは段々と涙が出て来て、声を上げて泣いた。
プレゼントをうけとってもらえなかった。
すきだっていっしょけんめい伝えたのに、あのこはぼくのことすきじゃなかった。
幼いながらに失恋を経験したジェイドは心が痛くて痛くて、到底絆創膏を貼った程度では治る気がしなかった。
アズールはそんなジェイドを一旦は落ち着かせようと自身の部屋へと案内し、話を聞き出そうとした。
そうしたらボロボロと出てくる禁忌の数々。アズールは国王に知らせるべきかと迷い、しかし、と未だ泣き止まないジェイドを見やる。
「貴方が僕にも父君にも黙って陸へ度々行っていた事は今は目を瞑りましょう。しかしどうしてそんなに泣くほどの事があるっていうんですか?」
ジェイドはそれまでの経緯を話した。
陸で手当てをしてくれたあの子を好きになってしまったのだと。従兄弟が意中の人に魚をプレゼントしているのを見て、自分も真似をしてあげていたのだと。そしてなぜ魚を渡されるのかよく分かっていないようであったあの子に、意を決して求愛をした所プレゼントを返され、見事に玉砕してしまったのだと。
人間の世界の事にも詳しいアズールは事の経緯を聞いて眉をピクリと動かした。
あぁ、この幼い人魚はきっと勘違いをしているのだ。しかしそれを言うべきか言わざるべきか悩んでいた。きっと真実を知らないままであれば、ジェイドは二度と陸へいこうだなんて馬鹿な事をしない筈だ。頭の中に天秤が現れ、王国への忠誠とジェイドへの親愛で揺れている。
アズールは深く深くため息を付いた。
「あのですね…ジェイド…」
ええぃどうにでもなれ!結局はこの少々生意気な少年が大事なのだ。産まれた時から教育係として傍で成長を見てきた。陸と海の違いを教えてやるのも一つの教育だ。そう自身に言い聞かせてジェイドの頬を挟むと続きを言った。
「あなた方ウツボ属の求愛の仕方は、口を開けて意中の相手に向けることですね?」
「っ…そうです…でも」
「では授業です。人間が意中の者に好意を伝える時は、どういった行動をしますか?」
「…口を開ける…?」
「そんなわけないでしょう?」
そう、ジェイドにはそこの知識がないのだ。だからその人間の行動の意味をはき違えている。
「人間は言葉や態度でそれを伝えます。貴方を好いている、と。例えばハグをしたりキスをしたり。勿論プレゼントを渡すという習慣もありますが、決して魚ではない事だけは事実ですね。あの種族は美しく綺麗な物が好きなんです」
「では…」
ジェイドはそんな説明を聞きながらとある答えに行きつく。
そう、口を開けて求愛する習慣がないのであれば、あの人間の子はきっと口を開けたジェイドを見てこう思ったのだろう。
何かを食べたがっているのでは?
その答えにたどり着いた瞬間、ジェイドは今まで泣いていたのが嘘のように恥ずかしさで両手で顔を覆った。
なるほどそれならあの優し気にジェイドを見つめる瞳の意味も納得できる。
アズールは一つの答えにようやくたどり着いたジェイドの頭を軽く撫でてやると、気持ちが晴れたならはやく部屋へ戻りなさい、と促す。きっとアズールはこんな事を伝える事にだって葛藤したに違いないのにと優しさで嬉しくなる。
ジェイドにとってこの国で唯一甘えられる存在なのだ。
だから甘えついでにもうひとつお願い事をすることにした。
「アズールは人間の言葉を知ってるんですよね」
「なんですか?藪から棒に…」
知らない訳ではない。なんといってもジェイドが産まれる前は陸で人間と一緒に暮らした事もあるから。だからこそ人間の中にもジェイドの言うあの子のように優しい人間もいれば、悪さをする人間もいる。無知な状態で行くものではないと身に染みて分かっている。
ジェイドは深呼吸をすると真剣な顔でアズールを見た。
「ぼくに人間の言葉をおしえてくれませんか?」
あの子が何を言っていたのか、知りたいのだ。そして自分の想いも伝えたい。
そんなジェイドの無垢で純粋な想いを真に受けたアズールは「愛の為ってやつですか…」と鼻で笑うと、ひとつ条件を提示した。
「良いでしょう。人間の言葉を特別に教えて差し上げます。ただしひとつ条件があります」
「どんな条件でも受け入れます」
ジェイドは一つ返事で頷く。どんな条件でも、とは出たものだと苦笑いし、厳しいようでちょっとだけ優しい条件を出してやった。
「フロイドくん!一緒に駄菓子屋さん行かない?」
学校の帰り道。ターコイズブルーのランドセルを背負ってのろのろと歩いているフロイドに、後ろから同じクラスの少年が声をかけた。その少年はクラスの男の子の中では一番背が低く、割と身長が高めであるフロイドの横に並ぶと少しだけ見上げるように話した。
フロイドは現在小学3年生。あの出来事から3年が経過していた。
相変わらず特定の誰かとの親密な交流はないものの、多少の社交性が身についたのか、以前のように一人ぼっちでいることがなくなった。頭も良く運動神経はさることながら見た目だってまるで小学生モデルのようであるため、運動の出来るグループにはいつもサッカーやら野球に誘われるし、女の子達はチラチラ見て顔を赤らめるし、それでいて良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりものを言うため、ヒーロー的な感覚で一部の子供たちからは尊敬の目で見られている。フロイドにとっては知ったこっちゃないが。
さて話を戻そう。
フロイドに声をかけた少年は、振り返ったフロイドの横に並び返事もしていないのに「僕、魚のグミが欲しいんだよね」とひとりで喋りだした。フロイドとしては別に仲良しなわけではないし、断った所でどうにかなるものでもないので「ふーん」と気のない返事をしていたが、ひとつだけ頭に浮かんだお菓子を思い出した。
「たこ焼き味のうまい棒ってあるかなぁ?」
それを聞いた少年は、憧れのフロイドが一緒に買物をしてくれる、という事実に舞い上がったようで、目をキラリと輝かせると、
「うん!絶対あるって!」
と頬を紅潮させながら叫んだ。
「フロイドくんて何でも出来るよね。良いなぁ、やっぱ天才だから?」
駄菓子屋の中は学校帰りの子供達の憩いの場であり、そんな少年の質問も喧騒で少しだけ掻き消えている。フロイドはその質問にしばらくだんまりした後、ぽつりと話し出す。
「…天才だからとかそういうの、諦める為の言い訳じゃん。出来るまでやんの。そうすれば案外大抵のことは出来るようになるんだよ?」
テストで高得点取る事だって、鉄棒で逆上がりする事だって、早く走る事だって。
フロイドは時々難しい事を言う。だからそれが大人びている印象を受けるのだろう。少年はポカンと口を開けて、そっかぁ、なんて言っている。おそらくはそれほど理解はしていない顔。フロイドとて別に分かってほしいと思ってはいないのでそれ以上の説明はしない。フロイドはそんな少年を放って、目当てのコーナーまで行った。
帰り道、少年と別れてうまい棒を齧りながら家へと向かって歩いていたフロイドは、ふと湖風の匂いを感じた。別段おかしな事ではない。フロイドの家は海からそれほど離れていなくて、昔は10分もあればすぐに遊びに行けたのだから。それも今では全くなくなってしまった習慣だが。別に海が嫌になったわけではない。今もこうして懐かしさに目を細めて、少しだけならもう良いんじゃないか、なんて思っている。期待をするから悲しくなるだけで、あの日々を無かった事にすれば何も問題はない。
つま先を家がある方向から海へと向ける。
あの時は大きく見えた階段は、今なら一段とばしで降りることが出来る。スニーカーのまま足を砂地に着けて、変わらない踏み心地にほんの少しほっとした。フロイドはそのままスニーカーと靴下を脱いで、ついでにランドセルを降ろして水の届かない場所に置いた。ザァンと裸足の指先をちょんと寄せ波に触れさせると、少しだけひんやりとしていて、ヒャッと小さく声をあげる。
「海の水ってこんなに冷たかったっけ」
段々とおかしくなってきて、今度は大胆に足首まで浸すとアハアハと声を出して笑い出した。
やっぱり海が好きだ。
しばらく足をぴちゃぴちゃと鳴らし、水しぶきでシャツやズボンの裾を少しだけ濡らしながら水を蹴り上げて遊んでいると、視界の隅に碧い煌めきが見えた。
まさか…!
そう思って瞬時に顔を向けるが、そこには何もない。
「(未練タラタラじゃん…)」
自嘲するように小さく笑っていると、遠くから微かに声が聞こえた。高くも低くもない、まだ少年のような声。どこから聞こえているのかと辺りを見回していると、見覚えのある岩の後ろからフロイドの方をチラチラと覗く碧い人影が見えた。
もしかしてあの子だろうか?知らず知らず、期待で足早になってしまう。
フロイドが近づくと焦ったように隠れてしまうその影に、そっと話しかけた。
「もしかして、おさかなくん…?」
優しく、慎重に。
水が膝まで浸かるのを厭わず、岩陰まで近寄ると、その人影がおずおずと姿を現した。
最後に別れた時よりもずっと成長した姿。体格もフロイドとそう変わらないほどに大きくなり、そうして初めてよくよく顔を見ることが出来た。
幼いながらに聡明そうなツリ目がちの瞳。キュッとひきしめられた唇はほんのり碧くて、驚く事にフロイドに少しだけ似ていた。
そんな生き物は、口を小さく開けたり閉じたりして、そうして、音を紡いだ。
「…ぉお…」
「?」
初めて聞く鳴き声以外の音。人間が発するような音にびっくりしたフロイドは目を丸くした。その生き物はまた口を開いては閉じ、それを繰り返すと
「こぉ、ん、にち、はっ!」
たどたどしくそう話した。フロイドはびっくりして、思わず口をぽかんと開けてしまう。そんなフロイドの様子を見た生き物は言葉が伝わっていなかったのかと焦ったようで、もう一度今度は大きな声を出す。
「こんに、ち、はっ!!」
「…あ…こ、こんにちは?」
必死にこちらに話しかけているのがようやく理解できたフロイドは、呆気にとられたように返事をする。そうすると碧い生き物はみるみるうちに頬を緩ませてそれはもう嬉しそうに目を輝かせる。すると今度は自らフロイドの方へと近寄り、フロイドの顔へと自分の顔を近づける。近づいた事でよりはっきり見えた顔は、幼いながらも美しくかっこよかった。
少しだけ見惚れたようにじっとフロイドとその生き物が見つめ合う。するとまばたきをするような一瞬の間に、唇にひんやりとして柔らかい感触がした。
「…」
至近距離にカオがあって、一旦離れたかと思ったらもう一度口にちゅっと可愛らしく自分の口を付けてくる。
呆気にとられるフロイドを他所にその生き物はフロイドの両手を握ると、また口を大きく開く。あの時と同じだ。そう思っていると、
「ぼく、あなた、すきっ!です!」
「え?」
必死にフロイドに伝えるその生き物の顔を見て混乱しているフロイドを誘導するように、砂浜まで手を引いていく生き物。
「あなたと話をしたくて、にんげんの言葉、べんきょうしました。3年かかってしまったけど、ちゃんと想いを伝えられてよかった、です」
拙い言葉で語られた空白の三年間の内容に、フロイドは言われた内容なんて吹き飛んでしまって一つの事で心が一杯だった。
ずっと凪いでいたような表情が段々とくしゃくしゃになって、もう三年生になろうというのにまたあの時のように声をあげて泣きだしそうだった。
声が段々と震えてきてしまい、そんなフロイドを心配したのか、その生き物が下から顔を覗き込む。
「あれから全然会いに来てくれないから、オレ…おさかなくんに嫌われちゃったんだと思ってぇ…」
涙がぽろりと目から零れて頬に伝うと、それを見た生き物がぺろりと雫を舐めた。
「うみの水みたいな味がします」
「…んふふっ」
まるで場違いのようなその生き物の発言に、泣きながらもつい声をだして笑ってしまった。
それから砂浜に座ったフロイドはその生き物と話をした。水場から離れられないその生き物はフロイドの横で寄せ波に体を浸しながら腕を伸ばして座り、時々長い尾びれで水をぴちゃぴちゃと遊ばせている。
「おさかなくんにも名前あるんでしょ?なんてーの?」
「なまえ…えっと…じぇいど、です」
「じぇいど?」
おうむ返しに聞くフロイドにこくりと頷く。
「うみの下、きました」
「海の下…もしかしておさかなくん以外にも似たような生き物ってたくさんいるの?へぇ~すごいねぇ!」
「すぅごい?ふふふ!」
やはり勉強をしたと言ってもすんなりと会話が出来ないようで、覚えのある単語を拾っては繰り返し、すごい、という言葉もどう習ったのか、褒められていると思ったようで嬉しそうに笑った。
「(褒めたわけじゃないけど)」
フロイドは同じくらいの歳のようなのにどこか幼げな反応をするこの生き物、ジェイドを見て弟が出来たような心地になった。
口にキスをされたのは流石に驚きはしたものの、きっとその海の下とやらで親愛でも恋愛でも、相手に好意を伝える手段としてキスを送る、とでも勉強したのだろうと結論付けた。だったら自分もフロイド自身の事や陸の事をたくさん教えてやりたいと思った。だって健気ではないか。自分とこうやって会話をして、好きだと伝えたいが為にずっと三年間人間の言葉の勉強をしていただなんて。
「オレね、フロイド!」
「ぅう、おい、お?」
「ちぃがう~っ、ふぅーって。息をふーってするみたいに発音すんの!」
「ふぅー!」
フロイドが口を突き出して息を拭く真似をすると、ジェイドも一緒に口を突き出してふーっと息をする。そうやって一音づつレクチャーすると、ジェイドはすぐに要領を掴んだのか。数分もすると「ふろいど」と拙いながらもしっかりと発音をした。
「ジェイドえらぁい!」
「えらい?」
「うんえらい!上手に言えたじゃん!」
思わず感激でぎゅっと抱きしめる。やはり体もひんやりとしていて、少しだけ心地よさにジェイドの柔らかい頬に頬ずりをしてしまう。
するとジェイドは少しだけ身じろぎ、「あついです…」と小さく呟く。
その言葉を拾ったフロイドが離れると、ジェイドは申し訳なさそうにフロイドを見返した。
「ふろいどのからだ、あつい、ぼく、だきしめれない、です」
よくよく見れば頬ずりをした部分の頬がほんの少しだけ色濃くなっていて、もしかしてあついの苦手?と聞くとこくりと頷いた。
そっか、じゃああんまり近くで一緒に遊べないね、なんて困ったように呟くと、ジェイドが「ごめんなさい」と謝る。謝る必要なんてないのに。そもそもこの人魚のような子供とどうやって遊べばいいのか分からなかったのだが、それでもフロイドももっとこのジェイドのコトを知りたい。そう思って次の約束を取り付けた。
「ジェイドは明日も会いに来れる?」
「あしたも、ふろいどにあいます!」
食い気味に返事をするジェイドに嬉しさであはぁと笑うと、自身の小指をジェイドの目の前に差し出した。
「約束だよ。明日も会いに来て?」
その指を見てジェイドも真似て小指を差し出した。フロイドはその指に自分の指を絡ませた。
「やくそく?」
「そう」
ジェイドは絡ませた指を見てもじもじしながら水で遊ばせていた尾びれを強くびちゃりと叩きつけた。水しぶきがフロイドに掛かり、それに怒るでもなくケラケラと笑った。上も下も髪も何もかもびしょ濡れで、きっと帰ったら母にびっくりされるだろう。そうしたら人魚の友達と一緒に海で遊んだと言ったらどんな反応をするのかわくわくした。
「ただいま、ママ!」
「フロイドさんおかえり…あら随分とびちょびちょじゃないですか?」
風邪を引くから早く着替えていらっしゃいと急かされ、服を着替えてから母のいるリビングへと行った。
「オレね、またおさかなくんと会ったんだ」
「おさかなくん?」
突然の息子の話に頭にはてなを浮かべながらも、そういえば三年前にそんな事を言っていた気がする、と思い出す。
「そう、ずっと会えなかったんだけど、オレと一緒にお喋りしたくてずっと勉強してくれてたんだって。ジェイドっていうんだよ。人魚なんだって。好きって言われちゃった」
机に伏せて顔だけ上げる。年齢が上がって少しだけ大人びたように見えた息子だったが、恥ずかしさからか床に付かない足をブラブラと所在なさげにゆらしているところを見てまだまだ子供だなと思わずクスリと笑いそうになる。母がフロイドの前に温かいココアをマグカップに入れて出してくれた。フロイドは少しだけ浮世離れした雰囲気を纏わせていて、そのフロイドの言う人魚のジェイドという存在が本当にいるのかは分からない。幼い子供によくみられるイマジナリーフレンドというものだろうかと思いもしたが、過去にフロイドがお土産として度々魚を持って帰ってきた事を考えると、あながちウソとも言い切れないのだった。
なによりも好き、と好意を向けられて照れ臭そうに笑っている息子の顔が可愛くて可愛くてしょうがないので、どっちでも良いか、となったのだ。
フロイドの家族は一家揃ってどこか楽天的であった。
「明日も会う約束したから、オレが色んな事教えてあげるんだぁ」
何が良いだろう。学校の話とか?駄菓子屋の事とか?ママとパパの事とか?そういえばまだたこ焼きを食べさせていなかったから、学校が休みの日に作って持っていってあげようか。
まだ言葉が拙いジェイドと自由に会話を出来るようになる日を想像してわくわくする。食後のお風呂もご機嫌で歌を歌った。