さっきまで治療していた竜の鳴き声が、満足そうに尾を振る音に変わっていた。
やれやれ、と息をついて、イファは潮の香りを含んだ風に顔を向ける。
夕方だが日が延びていて、町全体がまだ明るくゆったりとした時間が流れている。
「イファ?」
聞き覚えのある声に振り返ると、籠を提げたオロルンが立っていた。
「よう、きょうだい!」
甲高い声がして、イファの背後からもふもふの羽を揺らしながら、カクークが顔を出す。
「おまえ……なんでここに?」
「流泉の衆の宿に頼まれて、野菜の配達をしてたんだ。君は?」
「海際のコホラ竜の調子が悪くて診てた。もう、だいぶ落ち着いたよ」
ふっとイファが笑むと、オロルンも自然と頬をほころばせる。
「あ、そうだ! さっき配達先で果物をもらったんだ。冷たいまま食べると甘いって。よかったら一緒に食べよう?」
オロルンは籠の中から、冷えたケネパベリーを取り出す。淡い青い果皮には、うっすらと水滴が浮かんでいた。
「美味そうだな。せっかくだし、海を見ながらにしないか?」
「いいね」
二人とカクークは、海沿いのなだらかな斜面に腰を下ろし、それぞれ果物をかじった。
ひんやりと甘く、口の中に夏の香りが広がる。
夕日が照らす穏やかな水面が、金色にきらめく。
波の音。遠くで子どもたちの笑い声。
「……きれいだな」
「ほんと。夕方なのに、まだまだ明るいね」
「ここ、夏は日が長いんだ」
イファは果肉に残る果汁を吸い取りながら、空を見上げた。
その横では、カクークが果肉に顔を突っ込んでいる。
「おい、あんまり食うなよ。腹こわすぞ」
「だいじょうぶだ、きょうだい!」
そんなやりとりに笑いがこぼれた。
やがて、遠くの水平線に灰色のもやがかかる。海風が冷たくなったと思った次の瞬間、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
「スコールか……!」
「イファ、こっち!」
オロルンが手を引くように、すぐ近くの大木の下へ走り込む。
広い葉が覆ってはいるが、肩や髪はかなり濡れていた。
「……びしょ濡れだな」
イファの衣服は、濡れた布が肌にぴたりと貼りついていた。
首筋をつたう雨粒が、喉元のタトゥーをなぞって落ちていく。
オロルンの手が、無意識に伸びた。
「……オロルン?」
戸惑う声の直後、そっと唇が重なる。
触れるだけの、柔らかなキス。
思わずイファは肩を揺らし、小さく身じろぐ。
そのまま離れぬ距離で、オロルンが囁く。
「……もう一回、してもいい?」
イファは目を見開いた。
「お、おい、ここ外──」
言いかけた言葉は、最後まで届かない。
また唇が塞がれた。今度はさっきよりも深く、優しくて、心の奥にそっと染み込んでくるようなキス。
気づけばイファの指は、オロルンの胸元の服をしっかりと掴んでいた。
心臓の音が、波音よりも近く、大きく響いていた。
やがて、口元を覆いながらイファが顔をそむけた。
「……いい加減、濡れたままだと身体が冷えるだろ。風邪引いたら、おまえのせいだからな」
「でも途中からイファの方が、“もっと”って僕にしがみついて、キスねだってたけど?」
「……っ、……あああ、うるさいうるさいっ!!」
大木の下で、耳まで真っ赤にして叫ぶイファの声。
そして、カクークの「まじかよ、きょうだい」と呆れたような声が、スコールの音にまぎれて消えていった。
木々の葉が揺れる音の中、オロルンの目元にはまた、あの穏やかな笑みが戻っていた。