しあわせ 診療所の一日は、思いのほか長い。
窓辺に夕暮れの赤が差し込む頃、イファはようやく器具を洗い終えて椅子にもたれた。カクークがカウンターの上でふよふよと羽を広げ、目を細める。
「おつかれさま、きょうだい!」
「カクークも疲れただろ」
イファは十字の形に焼いたクッキーをバスケットに移し、もう一度ショコアトゥル水の鍋をかき混ぜた。
濃く溶かしたショコアトゥルの香りが、部屋いっぱいに広がる。
「んー、いい匂い。ちょうど焼けたし、食べるか」
そのとき、羽音とともに窓辺に影が落ちた。長身の影が、風に乗ってふわりと着地する。すぐに木の扉が控えめに叩かれた。
「……オロルンか?」
問いかけるまでもなく、扉の隙間から漆黒の服が覗く。腕にはいくつもの紙包みが抱えられていた。
「うん。診療、終わった? 僕は今日の配達、全部済んだんだ。それで君たちに差し入れ」
「……この匂い、タタコスか?」
「うん。配達先のおばさんに貰ったんだ。ほら、すごくいいにおいだろ?」
紙袋を開けると、こんがり焼かれた生地に、ぷりっとしたエビ、甘く炒めた玉ねぎにとろけたチーズ。ナタの屋台ではおなじみだが、オロルンが持ってくると、なぜか少し特別に感じられる。カクークがふんふんと鼻を鳴らした。
「ちょうどクッキーが焼けたところだ。ショコアトゥル水もあるぞ。合うかは分からないが、食べていくだろ?」
「うん!」
イファはくすりと笑い、焼きたてのクッキーを小皿にのせた。木のお皿を三つ引き寄せて、ささやかな夕食が始まる。
クッキーは粗めのナッツ入りで甘さ控えめ。ショコアトゥルの苦味と香ばしさが、タタコスの塩気に妙に合っていた。オロルンは何度も頷く。
「君の作るクッキーは美味しいな」
「そうか? じゃあ、また焼いておくか」
「ほんと?」
「この間、蜜を二缶も貰ったしな。甘いのは、おまえが喜ぶだろ」
「やった」
「今日はありがとな、オロルン」
「うん。君が笑うと、僕もうれしい」
「……」
ふいに沈黙が落ちる。
その静けさの中で、オロルンは小さく吐息をもらした。
「……幸せだなぁって。こういう時間」
「……なにが」
「君とカクークと話しながらご飯を食べて……なんでもない時間だけど、うれしいんだ。君といると……あぁ、生きてるって思える」
イファはしばらく言葉を探していた。だが、ふっと笑って、口を開く。
「……死にかけて、そんなこと考えるようになったのか。なら、これからもカクークの側に居てやってくれ」
「うん、もちろんイファの側にもいるよ」
「はは……よろしく、きょうだい」
呆れたように言いながらも、その声はどこかやさしい。
カクークがくぅ、と低く鳴いてタタコスにかぶりついた。チーズがほんの少し羽毛について、イファはため息をつきながらも、そっと拭ってやる。
外ではナタの夜風が、葉っぱをさらさらと揺らしていた。診療所の小さな灯りの下、彼らの他愛ない夕食は、穏やかに続いていく。