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    むつき

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    むつき

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    傑にプロポーズを断られ続けている悟のお話です。昔他のところであげていた作品を手直ししました。

    五条悟はあきらめない! 通算一二九六回目のお見合いを破談にさせたその足で、悟はティファニーに向かった。頼んでいた特注のエンゲージリングが仕上がったとの連絡が留守電に入っていたためである。
     古めかしい羽織を脱ぎ捨て、お付きの人間を振り払い薙ぎ倒し、身軽になった身体で店舗までの道をスキップで歩く。二月の東京は寒い。車を拾っても良かったが、今はなんだか無性に歩きたい気分だった。
     どうやら現在のエンゲージリングのメインストリームを作り上げたのはティファニーらしい。とはいえ悟としては別段ブランドにこだわりはなく、カルティエでもハリーウィンストンでもブルガリでもどうでもよかったけれど、ティファニーブルーって朝焼けの下で見る悟の目の色にちょっと似てるね、と誰かさんが言ったので、買うなら絶対ここだと決めていた。
     鼻歌を歌いながらスキップで歩く大男を、通行人は遠巻きに見ている。人生の春というなら、悟にとって今がまさにその時だった。
     そう。悟には一二九六人のご令嬢なんかより、ずっと大事な人がいる。才能地位家柄頭脳ルックス金名誉声望全てを持って生まれたこの五条悟を十年にも渡って袖にし続けている難攻不落の男が。
     スマホを見ると、「少し遅れる」と連絡が入っていた。待ち合わせは今からちょうど三時間後。悟もそれまでに着替えて、雑多な仕事のあれこれを済ませ、花束と指輪を渡す段取りの確認をしなくては。
    「あ~、楽しみだなぁ」
     声に出して、悟は笑った。二月の風はつめたく、空は淡く、透き通るような水色をしていた。
     
     *
     
    「――で、なんで五条さんはその渡したはずの指輪を今も持ってるんですか?」
     曇りのない眼で灰原が問いかけるのを、悟はテーブルに突っ伏したまま聞いていた。「僕だって聞きたいよ!」と半泣きで暴れる悟を他所に、同じく後輩の七海が淡々とハイボールを注文していく。ちょっとはこのスーパーグレートな先輩を慰めるポーズぐらい取ったらどうなんだ。
     テーブルの真ん中に鎮座ましましている指輪は、そんな悟の嘆きなどお構いなしに大衆居酒屋の安っぽいオレンジの灯りの下で鬱陶しげにきらきら輝いている。
    「一応聞いて差し上げますが、夏油さんに渡しはしたんですよね? その指輪」
    「うん」
     七海が促すので、悟はさくらんぼの乗ったメロンクリームソーダをちびちび舐めながら、
    「傑が前から気になってるって言ってたホテルの最上階のレストランでさぁ。夜景の見えるいちばん良い席で、景色も良くて料理も美味しくて、傑も上機嫌で。今度休みを合わせて旅行でも行こうかって話してて、傑がハワイなんていいかもね、なんて言うから、僕はこう、今しかないってタイミングで指輪の箱を差し出したわけよ。「じゃあそれハネムーンにしない?」って」
    「はあ」
    「素敵ですね。それで、夏油さんはなんて?」
    「傑はさ。ちょっと驚いたあと、照れ臭そうに笑って、」
    「うんうん」
    「それ今高専で流行ってる遊び? って」
     悟の言葉に、灰原と七海は揃って「うわ」と口にした。何がうわ、だこの野郎。
     そうは思ったものの、悟も傑の反応のあとしばらくはショックでまったく動けなかったので、うわ、以外言いようがないのも悲しいかな理解できる。ただいつもは塩対応の七海ですら悟に向けて同情的な目線を送ってくるのでそれだけは切実にやめて欲しかった。なんらかのハラスメントで訴えてやろうか。
    「これで何度目でしたっけ。夏油さんへのプロポーズ失敗したの」
    「確かやけくそ六百六十六回連続失恋記念パーティーしたのが今年の初めだから、今は七〇〇回目ぐらいですか?」
    「うーん、惜しい! 昨日ので七百九十五回目かな。セックスの最中に言ったのも含めるともうちょいある」
    「懲りませんねあなたも……」
     うんざりとした顔でため息をつく七海に向け「懲りてたまるか!」と叫んで、悟はグラスに注がれたメロンソーダの残りをぐいっと煽った。喉の奥で強めの炭酸がぱちぱち弾けていくのがなんだか切なくて、悟はテーブルに叩きつけるようにグラスを置いた。
     悟が親友兼婚約者(仮)の夏油傑にプロポーズを始めてかれこれもう十年にもなる。きっかけは十年ほど前、傑が術師としての在り方に悩んでいた頃、なんとか彼を悟のもとに繫ぎ止めるために必死に考えた思いつきだったのだが、口にすると悟の方でもすとんと納得してしまって、結局その後傑が高専を辞め、フリーの呪術師になった以降も悟の中では本当に傑と結婚するということが決定事項になってしまったのだった。
    「なんで傑はオッケーしてくれなかったんだろ。だって僕だよ?」
    「だからじゃないですか? まあそれはさておき、渡したあとちゃんと説得したら良かったじゃないですか。いつもの通りならどうせ本気にされないって、あなたも薄々分かってたでしょう」
    「……だって仕方ないじゃん。そのすぐあと「ところで下に部屋を取ってあるんだけど」なんて言われちゃったらさあ……」
    「なるほど、下半身に負けちゃったんですね!」
    「目先の欲に目が眩むから……」
     揃ってため息をつく二人に、悟はうなだれた。散々な言われようだが本当のことなので、悟としてもぐうの音も出なかった。
     いつもなら悟だってもう少しねばる。でも仕方がない。だってあの日の傑は本当にエロかった。クロスのかかったテーブルの下で、悟には負けるがそれでも長く引き締まった脚を悟のそれと絡ませて「で、どうする?」なんて艶めかしく聞いてくるのだから、やることと言ったら一つしかなかった。
    「ていうか前もその手で躱されてませんでした? 良い加減学習してくださいよ」
    「うるさい。僕だってセックスの最中に騙された! って気づいたよ。まあムカついたからちんこバカになるぐらい出したし、傑が気失った後もヤッて後始末せずに放置して帰ったんだけど」
    「夏油さんキレてませんでした?」
    「昨日から電話に出ないしメッセージも既読付かない。多分ブロックされてる」
    「自業自得ってこういうことを言うんだよね、七海!」
     七海からは白い目を、灰原からは五条さんってクズですね! とでも言いたげな曇りなき眼を向けられているが今はなんとでも言えばいい。
     そもそもこうして親しい人間には肉体関係まで筒抜けなのに、未だに結婚どころか俺たち付き合ってるよね? の問いにも「は? なんで?」とばっさり切られ続けていて、さすがにもう笑えなくなってきた。苦節十年、学生時代の照れ隠しのつたないプロポーズから王道の薔薇一〇〇本、完璧なロケーションでの全女子の夢みたいなプロポーズも全部やった。それでも「そういうのは本当に好きな子にやりな」とか「悟も冗談が上手くなったね」とかであっさり流されてしまったのだからもうどうしたらいいのか分からない。一体全体どうやったら本気にしてくれるんだろう。
    「もう傑と入るための墓も買ったのにぃ!」
    「どこからツッコめばいいですか?」
    「こういうのは突っ込んだら負けだよ七海」
     渋い顔の七海が灰原と目を見合わせるのを、悟はテーブルに頬をべたりと押し付けて見上げていた。本当にさらっと自然に一緒にいられて、いっそこの二人が羨ましいぐらいだ。悟も結婚なんて考えずに、傑とただの友達同士でいたら良かったんだろうか。でもそれじゃ満足できないから今こんなことになっているわけで。
    「……なあ、どういうプロポーズならいい? お前ら傑に詳しいだろ。僕の次に」
    「うーん、ベタですけど給料三ヶ月分の指輪を渡すとかですかね?」
    「そうなるとどっかの国宝レベルになるからそのレベルの原石発掘するまで無理って」
    「試そうとはしたんですね……」
     眉間を押さえる七海が、ハイボールを口にする。卓の中央には依然として、傑に渡せなかった特注の指輪がリングピローの上で大人しく座っている。
    「五条さん、悔しいのは分かりますがソレさっさとしまってください。給料三ヶ月分とまではいかなくとも、それだって内閣総理大臣の年収ぐらいはするでしょう」
    「は? そんな安物僕が傑に贈ると思う?」
    「うわ……」
    「うわ~っ」
     ドン引きする二人の眉間に剥いた枝豆を飛ばしつつ、悟は思案した。どうして傑はプロポーズを本気にしてくれないんだろうか。大好きも愛してるもあらゆる愛の言葉はもう言い尽くしているし、示せるだけの愛はもう示した。豪華客船の舳先でタイタニックごっこもしたし、富士山の山頂で好きだー! と叫んでみたりもした。それでも「はいはい、わかったよ。ところで帰ったらバイオの新作やらない?」とかで流されてしまうので、もうここまでくると傑をボコボコにして無理やり婚姻届にサインをさせるしか道はないんじゃないかと思う。だがそれをしたらしたで傑はそのままノータイムで舌を噛み切って死にそうだからその案は五年ほど前にボツにしている。
    「あ~、もうここまで来たらあと何直せばいいんだよ」
    「性格?」
    「存在」
    「お前らマジふざけんなよ」
     
     *
     
     浅い眠りから浮上すると、視界がゆらゆら揺れていた。心なしか頬が熱くて、頭がガンガンする。
    「起きた? 悟」
     聞き慣れた甘やかな声に瞼を押し上げると、ほんの目と鼻の先に呆れたように笑う傑がいた。どうやら今は外で、悟は傑に背負われているらしい。
    「傑……? なんで」
    「灰原に呼ばれたんだよ。覚えてない? 君間違って七海の酒飲んで潰れちゃったんだよ。最強のくせして相変わらず酒にはめっぽう弱いね」
    「二人は……?」
    「帰ったよ。悟の財布から会計しておいたけどいいよね?」
     苦笑する傑の首筋に、黙って悟は抱きついた。そのまますっと息を吸い込むと、白檀の香の粉っぽい香りと、その奥に嗅ぎ慣れた傑の体臭がする。落ち着く匂いだった。
    「怒ってねぇの……」
    「そうだね。怒ってはいるけど、悟をそのままにして灰原達に迷惑かけられないし」
     呆れを含んだ柔らかな声が鼓膜をくすぐる。起きたんなら自分で歩きなよ、とは傑は言わなかった。もう深夜をまわっているのか人影はほとんどなく、たまに遠くで車の走る音がするぐらいの、本当に静かな夜だ。風は身を切るように冷たいが、傑の背中に触れている部分の肌は温かくて、とろけるように心地が良い。
    「悟、あんまり後輩に迷惑かけちゃダメだよ」
    「……お前はいいのかよ」
    「私はいいよ。だって悟だし」
     身長百八十五センチの男が、百九十センチの男を背負って夜の道を歩く。それだけで通報されてもおかしくないぐらいの絵面だというのに、今この瞬間、傑と悟がいて、世界に二人きりしかいないみたいで、全部が許されて、満たされて、なんていうか、完璧だった。傑が歩くたびに肌に伝わる振動が、歩幅の大きさやゆったりとした歩き方のテンポが、悟の肌には怖いくらいにしっくりなじむ。
    「……傑」
    「うん?」
    「好きだよ」
    「そう。私も好きだよ、悟のこと」
     いつも通りの諭すような優しい声に、悟はなんだか泣きたくなった。十年もずっと、変わらずこの男が好きだった。それなのに少しも伝わらない。悟の好きと傑の好きの間には、宇宙一個分くらいの隔たりがある。
     ずっ、と鼻をすすると、傑は「寒い?」なんてとんちんかんなことを聞いてきた。お前のせいだ、この馬鹿野郎。お酒を飲んで身体が温かくなるのは一時的な作用で、エタノールが肝臓で分解されるときに熱が発生するからなんだよ。けどアルコールには皮膚の血管を拡張させる効果があるから、結果的に皮膚の表面から体温が逃げて行ってしまってむしろ身体は冷えるんだ。そんな風に明後日の方向の蘊蓄を披露する傑があまりにもらしくて、いっそ憎らしくて、たまらなかった。
    「傑は僕のこと嫌いなの」
    「あはは、さっき好きって言ったばっかじゃないか」
    「……だってお前、全然僕のプロポーズ本気にしてくれないじゃん。お前は何。何様なの。かぐや姫かよ」
    「なにそれ、悟がそう言うなら月に帰らせていただこうかな」
    「いいよ、そしたら月破壊するから」
    「君が言うと冗談に聞こえないな……」
     若干引きつったような声で傑は言うが、当たり前だ。冗談なんかじゃない。悟はいつだって傑のことになると大真面目だ。大真面目にバカをやるし、大真面目に喧嘩もするし、十年も大真面目にずっと傑だけを好きなままでいる。
    「お前とこないだ会った日さ。僕見合いしてたの。しかも相手まだ十五歳とかだよ? いやもうほんと、犯罪かよって」
    「……そう」
     悟の言葉に、傑はほんの少し歩みを止めた。それから悟のことを背負い直して、またゆっくりと歩き出す。
    「今まで何かしら理由つけて断って来たし、今度も僕は嫌って言ったんだけど、実家がさあ、いい加減身を固めろってうるさいんだよ。結婚して、子供作って、〝五条悟〟をやれって。それが当主としての役割だから、って。僕もそれは理解してるけど」
    「そうか。じゃあ今みたいに頻繁には遊べなくなるね」
     寂しくなるよ。そう付け加えて、傑はごく薄く笑った。
     不安定に揺れる視界の中、悟は人気の絶えた住宅街を眇めた目で見つめる。きっとこれらの家々にも、普通の、人並みの幸せみたいなものがあって、役目があって、それは悟の肩に乗っているほどの重みではないけれど、そのために人はセコセコ働いて、生きて、そして死んでいくのだろう。それが単なる現象ではなく愛おしいものなのだと教えてくれたのは傑だった。
     傑の頭のお団子が悟の鼻先をくすぐる。考え方も生き方も大事にしたいものも、傑は最初からこんなにも自分とは違う生き物だった。それなのに傑のことを分かりたいと思う。分からないから、分かりたい。傑が最初から悟の一部だったら、こんな風には思わなかったのに。
    「……なんで俺じゃダメなの?」
     ぽつんと呟いた声が、つめたい夜の空気に溶けていく。真冬の空に月はしらじらと明るく冴えて、二人の姿を照らしている。もうすでにそこは見知った道だった。コンビニの角を曲がって、少し歩けばもうそこは悟の家だ。
     もう十年近く前、傑や傑が引き取った家族たちも暮らせるようにと一括で買った南青山の一等地。結局傑と一緒に暮らしたことは一度もないし、悟だって任務で西に東にと忙しくしているから、ここにはごくたまにしか帰ってこない。硝子からは「固定資産税払いたくて買ったみたいなもんじゃん」と揶揄されつつも、たまに傑と一緒にスマブラをしたり、ベッドを共にしたりするただそれだけで、帰るべき家と呼ぶだけの価値はあると思っている。
    「俺って強いし、最強だし、ずっと傑のことだけを好きでいる。それでもまだ足りねーって言うんなら、俺が直せるとこ全部直すよ。だから言ってよ、傑。俺に何が足りない? どうしたら俺のこと好きになってくれる?」
     縋るような悟の問いに小さく息を呑んだ後、傑はだまって立ち止まった。どこか遠くで犬の遠吠えがする。互いの息遣いまで聞こえてきそうな沈黙の後、傑はすっとまっすぐに首を反らして、そうしてとうとう観念したように、深く、ゆっくりと息を吐いた。
    「……このままじゃダメかなあ」
     そう言って、傑は肩越しに振り返ると、細めた目で悟を見つめた。笑みと諦めとを含んだ、駄々をこねて仕方のない子供を諭すような声だった。
    「ダメ。全然よくない」
    「どうして? 今だって時間が出来たら一緒に過ごすし、二人きりで旅行にも行く。キスもセックスもしてる。あとはもう一緒に暮らすぐらいだけど、仕事柄生活がすれ違いがちになるからそれはあんまり必要性感じないかもって、高専時代にそう二人で話したじゃないか。これ以上何が不満? 結婚とか恋人とか、そういう名前のついた関係じゃないと怖いのか?」
    「逆にそこまで出来るのに、なんで結婚はダメなんだよ……」
     傑の背中からすべり降りて、真正面から抱きしめる。でかくてごつくて筋肉質で、思い切り抱きしめたら骨格ごとへし折れそうな一二九六人の良家のお嬢様なんかとは比べ物にならない、五条悟の最愛。
    「ああもう、今更なんだよ。本気にされてないって思ってた。冗談って流されてるだけって」
    「……もちろん最初は私を高専に引き止めるための方便だったって、そのことも知ってるよ。けど流石にあんなに熱心に言われ続けたら誰でも本気だって気づくよ」
    「は? じゃあその時からもう……。ひどい! 弄ばれた! もうお婿に行けない!」
    「いや行きなよ。もういい歳なんだし、いい加減駄々こねてないでさ。結婚してからもこうしてたまに会って、二人で美味しいものでも食べよう」
    「……セックスは?」
    「浮気になるだろ」
    「それ正論? 僕正論嫌い」
     悟の言葉に、傑は仕方がないとでも言うように笑った。それから随分迷った挙句、悟の背中にそっと、ひかえめに手を回した。
    「……きみは温かいね。子供体温だ」
    「は? ガキだってバカにしてんのかよ」
    「ううん。好きだよ。家族よりも両親よりも、君の体温が一番安心する」
     寄せた頬の熱に懐くようにすり寄って、傑がそう言って瞼を伏せた。切れ長の美しい目がうすい瞼に隠れていくのを、悟はただ見つめていた。
    「……悟は怖い?」
    「怖くない。本当は関係性とか名前なんてどうでもいい。僕はただお前が欲しいだけだよ」
     悟の言葉に、傑は「そう」とだけ言って、白い息を吐いた。そしてここじゃない、どこか遠いのところを見るような瞳をして、
    「……私は怖いよ。君との関係が変わってしまうことが」
     見開いた悟の目に、寂しげな傑の表情が映し出される。多分それが、初めて聞いた傑の本音だった。傑の口から出て行く言葉が空気に触れるとたちまち白く淡い靄になって、二月の夜に溶けていった。
    「ねえ悟。私達が高専で過ごしている間に、君は最強になって、私は術師であることに絶望していった。そういう自分が間違っていると強く思った。でもそうやって私が立ち止まっている間にも、君はどんどん進んで変わっていく。怖いものなんて何もないって顔で」
     そう寂しそうに傑は言って、悟の手をそっと握った。
    「変化を恐れない人間なんていない。人は死ぬし、身体も心も簡単に変わっていく。永遠なんてない。君だけだよ悟。君だから平気でいられるんだ。みんな君が思うほど強くない。もちろん私だって。だからもう一緒にはいられない。いつか互いの存在が、互いを一番苦しめてしまう日が来る。そんなのは嫌なんだ」
     考えに考え抜いた末に出したであろう答えを、傑は切れ切れに吐き出した。言葉にも表情にも苦しみが満ちていて、彼が一体どれだけの覚悟で悟の求愛を振りほどいたのかいやでも分かってしまう。
    「……なにそれ。俺がもっと弱ければ良かったってこと?」
    「強さの問題じゃない。在り方だよ」
     傑は言って、それからふっ、と優しい息を吐いた。今までのどんなごまかしやお為ごかしなんかよりもそれはずっと心にこたえた。
     すぐそばに無駄に広くて暖かい家があるのに、二人して凍えるような寒い夜に抱き合って過ごしている。バカだと思った。自分も傑も。お互いの意見はきっと間違っていないのにそもそもの考え方が違いすぎて、方向性の違いで解散するバンドみたいだと思う。
    「……あ~なんか七海にも言われたな。どこ直したら良いかって聞いたら、存在だって」
    「フフ、七海らしいな」
    「ひどい! 傑くんは最強の僕に世界一好かれてても嬉しくないんだ」
    「嬉しいに決まってるだろ。君がたとえば使徒になって全人類皆殺しにしても、それでも好きだよ」
    「僕だってお前がたとえ花とか虫だって、犬だって猫だってミミズだってオケラだってアメンボだって、どんな姿でどんな形でどんな関係性になってもずっと大好き。愛してるよ」
     悟の言葉に「大袈裟だね」と傑は笑う。自分だって同じレベルのことを言っているくせに、まるで人ごとみたいだ。悟は傑の言葉ならなんだって信じるのに。
    「だって本当だもん。傑だってエヴァに乗って使徒の僕をブチ殺しても絶対最後は君は私の親友だよって笑って言ってくれるだろ」
     そう言って目が合うと、傑は呆れたように苦笑するので、たまらず冷たい唇にかじりついた。一度離して、そのあともう一度、今度は角度を変えてしっかりとくっ付ける。傑は全て心得たように顔を少し傾けて、すぐに悟が好きにやりやすいようにしてくれる。そんなにも互いのことを分かりきっているのに、傑は悟のものにはなってくれない。
    「君は私に、どうして欲しいんだい」
     長いキスの後、少しだけ息を乱した傑が言った。
    「今以上になんてならなくていいって、本当は君だって分かっているだろう。私は別に、もう君を置いて勝手にどこか遠くに行ったりしないよ」
     そう言った傑の言葉に、悟はにわかに混乱した。そうだ、十分だ。分かっている。分かっているけど。でも。
    「僕は……」
     喘ぐように息をする。悟を見つめる傑の瞳はあいも変わらず聞き分けのない子供を諭すようだった。悟は最強なのに、傑の前だとどうしても幼い子供のような振る舞いばかりしてしまう。きっと無意識に甘えているのだ。精神的な支柱に。悟を人間にしたこの男に。
    「……僕は別に、置いていかれて嫌だとか、そういうんじゃない……。お前がどこに行って何をしてたって、この世界にお前が生きて息をしてるって事実だけで僕はもうそこそこハッピーだよ。多分お前が死んでも、お前と生きた時代の記憶が、ずっと俺を生かすんだと思う」
    「あはは。……何それ、愛じゃないか」
     照れ臭そうに、傑は言った。悟は人より目が良いから、暗い夜道でも傑の頬に朱が差したのが分かる。それを悟は綺麗だと思った。こんなにも美しいものは他にない。夏油傑以外には。
     悟は目を閉じ、額を傑の額に寄せ、そして自問自答した。自分は傑とどうなりたいのか。傑にどうなって欲しいのか。そして、その答えはすぐに出た。
     傑。そう呼ぶと、傑はだまって悟の背に回した手に力を込めた。
    「僕はお前に、僕なしで生きられないようになって欲しかった。お前はもう僕の一部だから。でも、お前はお前で、僕は僕だから、僕らはきっと互いが居なくても生きていけちゃう。それはとても寂しいことだけど、とても当たり前で、……多分、そのことが僕らが別々の体と魂を持って生まれてきたことの意味なんだろうな」
     ゆっくりと瞼を押し上げ、思ったよりもずっと真剣な傑の瞳を真正面から見つめる。美しいと思った。悟とは違う切れ長の目に、夜を写したような真っ黒い虹彩。別々の存在だからこそ、こうして見つめ合うことができる。抱きしめあって、キスができる。
    「でもさ、やっぱり僕は、それでもお前に隣にいて欲しいよ。これから先、僕がお前以外の誰かと結婚して、ガキが出来て、孫もひ孫も大量に出来て、畳の上で百人ぐらいに囲まれて大往生する時もさ。あーあ、今隣に居たのが傑だったらなーって、そう思って数えきれないぐらい後悔するんだと思う。そんで畳から飛び起きて、ダッシュでお前の家に行って、傑くん遊びましょーって家の外から呼びかけて、メチャクチャ迷惑そうな顔して出てきたお前と一緒に桃鉄やって、喧嘩して、仲直りして、あー満足した、明日もやろうぜ、って笑って、……そんでようやく、満足してくたばるんだろうな」
    「……なんだよそれ。十重にも二十重にも迷惑な奴だな……」
     傑の額が、肩口に寄せられる。寒い。傑の言う通り、飲酒のせいで体温が低下しているのかもしれない。だからこんなにも震えているのだ。決して傑が泣いているわけではない。だから肩口に染み込んでいくこの水は、なんか適当なアレで、空気中の水分がアレした結果のアレなんだろう。
     力一杯傑の身体を抱きしめて、とおくで瞬く星を見つめていた。バカだ君は、と傑が言う。バカだ。バカ。大馬鹿野郎。切れ切れに投げつけられるそれが、今まで傑から与えられたどんな言葉よりもずっと、アイラブユーに近く聞こえた。
    「……うん。馬鹿でいいよ。だからさ、もう諦めてお前の人生僕にくれない?」
     そう悟が言うと、傑はぐちゃぐちゃな顔をして悟を見た。何かしらの液体でびちょびちょのひどいことになっている、それでも悟にとってはこの世界の誰よりも美しい顔をして。
    「……君は、私でいいのか」
    「お前ね、十年間何を見てきたんだよ。このグッドルッキングガイを七百九十五回も振りやがって」
     この期に及んでそんなことを言うから、悟がそう言ってやると、傑は「ベッドの上のも含めたら今ので九百九十九回目だよ」と言って、おもむろに両手でこちらの目元を拭った。幾度も幾度も。そうした傑の指先も何かしらの液体で濡れてはいたが、多分汗か何かだろうと思う。アルコールには発汗作用があるらしいから。
    「あーもー、数えてたのかよ。性格悪」
    「性格悪くなきゃ十三年も君の親友なんてやってられないよ。何回目で諦めるか試してたんだ」
    「はあ、まあそんで……ご感想は?」
    「……まあ、君は人に言われて諦めるようなタマじゃないよね」
     そう言って、傑はとうとう観念したとでも言うように息をついて笑った。憑き物が落ちたような、ひどく晴れ晴れとした表情だった。
     思わず見惚れて、焦れるように手を伸ばすと、傑の方からも手が伸びて、自然とそれが重なった。指先を絡めて繋ぐと、濡れて汗ばんで変な感じがする。
     お互い照れて、何も言えないまま時間だけがすぎていく。まるで付き合いたてのカップルだった。自分たちは随分遠回りをして、ようやくスタート地点に戻ってきたのかもしれない。
     ポケットに手を突っ込むと、四角い形の箱の感触がある。悟はすっと息を吸い込んで、手の中の箱を強く握った。
    「あのさ、傑」
    「何」
    「結婚しよっか」
    「……いやって言ったら?」
    「お前が納得できるまで、また何度でもチャレンジするよ」
     悟の言葉に、傑は「そっか」と白い息を吐いた。綺麗に生え揃った睫毛を震わせて、それから悟の手を握り返す。
    「いいよ」
    「えっ」
    「だから、……いいよ。悟」
     鼻の頭も頬も指先もどこもかしこも真っ赤にして、傑はヤケになったみたいに言った。逃げようとする指先をつかまえて両手で掴む。
    「……今良いって言った? 言ったね、言ったわハイ言質! 縛り! 返品不可~! オラ指輪喰らえ!! まあピッタリ!! お似合いですよ奥さん!!」
    「情緒やば」
     指輪を薬指に突っ込まれて、呆れ返った目でこちらを見てくる傑をよそに、傑はそのままの勢いで傑を抱き上げて、公道のど真ん中でくるくる回った。
    「あー僕もう今、なんでも出来る気分! 世界の全部僕の手の中! 僕って最強! 無敵! 愛してる!」
    「ちょっ、おいっ。……まったく、はしゃぎすぎだ悟。ご近所迷惑だろ」
    「うるせー!! ご町内の皆さ~ん! 僕たち結婚しま~~す!」
    「ああもう、君って奴は……」
     さすがに酔った身体ではそれが限界で、回り疲れて傑を地上に下ろす。そのまま抱きすくめると、傑の心臓がどくどく言っているのが聞こえた。愛おしくて、たまらなくて、こんなにも自分は誰かを愛せるのかと、そうじんと痺れるように思った。
    「……幸せ。今死んでも良い」
    「大袈裟だって」
    「本当だって。僕がどんだけお前のこと好きか、全然伝わってないでしょ」
     悟が眉を下げると、返事の代わりに、傑はちょっと俯いた。悟の肩を掴む手がほんの少し震えている。
    「……私、悟がお見合い行くのほんとはずっと嫌だったよ」
    「は? 何それ、言ってくれれば行かないのに」
     悟の答えを聞いても、傑はなお憮然とした顔をして、悟の胸元に顔を埋めた。
    「言えるわけないよ。たかだかセフレのくせにって、そう言われるのが怖かった」
    「……待ってお前の認識何!? この関係一番不安がってたのお前なんじゃん!! つうか好きでもない男のケツに僕がちんこ突っ込めるわけねーだろ!!」
     わかれよ、と悟は拳を握って、傑の背中をどんと殴った。傑は思ったよりずっとバカだ。答え合わせをするたびに、今後何度も呆れる気がする。
    「せめてさあ、彼氏ぐらいには思っておけよ……。こっちは僕が何しようとお前は気にしてないって思って寂しかったんですけど。今更妬いてたとか言われてもさあ……」
    「呆れた?」
    「興奮した。ちんこもうガッチガチだわバカ」
     もう行く必要なくなるから、と囁くと、傑はホッと息をついた。僕って思ったよりも愛されているのかも知れない。そう思った。
    「……私もついに年貢の納め時ってやつかな。あーあ、美々子と菜々子になんて言おう。二人とも君のこと目の敵にしてるっていうのに」
    「普通に結婚します、で良いんじゃない? お互い良いトシだし」
    「挨拶の手間は省けそうだね。悟が私にぞっこんなの、知らない術師はいないだろうし。で、明日の予定は?」
    「ん? 朝から任務。伊地知が迎えに来るけど、お前はこのまま僕ん家居ていいよ。疲れてるだろ」
    「そう。じゃあ帰ったらセックスしよう」
     あまりにストレートなお誘いに、悟の中で多分脳内時間で五分くらい時間が飛んだ。ぶん殴られたぐらいの衝撃のあまりエラーを吐いた頭で、悟は両手で顔を覆って呻く。
     なんだこの男。ちょっと引いたかと思ったらいきなりど真ん中に踏み込んできて、人の心を弄ぶなんて。もうダメだ、勝てっこない。こんなの勝てるわけがない。いやおかしいだろ。最強はこっちなのに。
    「ゔ、うう~~っ」
    「ホラ立って、行くよ悟」
    「お前まじ覚えてろよ! 帰ったら絶対死ぬほど抱いてやるかんな! もう絶対! 一撃で仕留めて一瞬で帰ってくるからね!」
    「はいはい、頑張れ頑張れ」
     アスファルトの上に情けなくくずおれた悟に手を差し伸べて、満面の笑みで傑は笑う。嬉しそうに、そしてどこか勝ち誇ったように。
    「君は知らないみたいだから教えておくけど、恋愛ってたいてい先に惚れた方が負けなんだ」
    「……は? じゃあ僕の負けじゃん」
    「そうだよ」
     そうだよ、君の負けだ。なんて当たり前みたいに傑が言うから、悟は少しの間のあとで、すとんと納得してしまった。なんだ、そっか。最強でも負けることあるんだ。
     じわじわと胸の中にこみ上げるような感覚があって、悟は声を上げて笑った。最高の気分だった。傑といると、この世界はまだ知らないわくわくすることだらけだ。
     差し伸べられた手に光る指輪が、二月の寒空にしらじら輝く。こんな夜のことを、悟に向けて笑いかける傑の声や表情や指先の温度を、そのすべてを、悟は一生覚えていようと思った。僕の人生、お前が居たから満足だったのだと、いつかこの分からず屋に伝えてやるために。
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