冬隣に参る 淡い亜麻色の髪を滑る淀みない鋏の音と、切られた髪が床に落ちる音。
きこえるのは、そのふたつだけ。
あまりの静けさに、思わずふわあと欠伸が洩れた。その拍子に淡い亜麻色の頭髪が後ろに傾く。
「っ、急に動くな。まあ、ふた目と見られん頭になりたいなら話は別だが」
「う……ごめん」
頭上から放たれた、些か棘のある声に慌てて背筋を伸ばす。鋏の先をとらえたままの海色の双眸に非難を滲ませつつ、仕損じがないことを確認してから、金の髪をもつ青年は再度亜麻色の髪に鋏を入れた。
室内が再び、鋏と髪の落ちる音に支配される。
「それにしても…」
鋏を器用に動かしながら、金髪の青年──ルー・シモンズが静かに問うた。
「何故、俺なんだ?床屋なら街にいくらでもあるだろう」
「ん……まあそれはそうなんだけどさ」
おまえは器用だし、失敗しなさそうだから。
「それに」
気を抜けば閉じてしまいそうな瞼と格闘しながら、淡い亜麻色の髪をもつ青年──シオン・N・エルフィールドは儚げに笑った。
「今日は……今日だけは、俺を知ってる誰かに切ってもらいたかったんだ」
それは、ほんのささやかな儀式。
ひとりではないことを証明するための。
友人、恋人、仲間、家族。親しい者を冠する肩書は様々だが、自分をより深く知る者であればあるほど、シオンの中でそれはより強い意味を持つのだ。
血を分けた家族など──今のところは恋人も──居ないから、それはどうしても仲間や友人といった括りに限られてしまうけれども。
「今まではノイマン隊長が切ってくれてたんだけどね」
自分がエンフィールドに来てからずっと、それは彼の役目だった。だが、その彼はもうこの世にはいない。シオンはそっと目を閉じた。
「仕方がないから、今は自分で切ってるんだ」
「だからこんなにバラバラなのか。不器用な奴だな」
「しようがないだろ、後ろとか見えないんだからさ」
「ふん。だったら大人しく床屋に行け」
見目も大事な商売道具だというのに、シオンという人物は本当に自分の容姿に頓着がない。
「……せっかく……のに」
「なんか言った?」
「なんでもねーよ」
再び沈黙が訪れ、鋏と髪が落ちる音だけが室内に響く。
「……今日は、ノイマン隊長の誕生日なんだ」
「そうか」
シオンはその薄い反応に安堵する。
ああ、やはりこいつに頼んでよかった。
故人を悼むのは構わないが、自分が憐憫の対象になるのは御免被る。だって彼とは身内でもなんでもない。行き倒れた戦災孤児を拾って育ててくれただけの、赤の他人だ。
感謝はしている。恩義だって感じている。尊敬もしている。だからこそこの街で生きていくための名前に、あのひとの頭文字をいただいたのだ。
だけど、それでも、あのひとと自分は。
「馬鹿が」
溜息と共に頭上から呆れたような声が降ってくる。なんだか責められているような気になって、シオンは薄い鳶色の瞳を眇めた。
「なんだよいきなり」
「馬鹿だから馬鹿だと言ったんだ」
いつの間にか鋏の音は止んでいて。
かわりに、シオンの首筋にひやりとしたものが宛がわれた。先程まで自分の髪を切っていた、銀の髪切り鋏。
「……ルー?」
表情を窺おうと首を捻れば、冷たい刃先が食い込んできて思わず顔をしかめる。
「馬鹿がいちいち理屈を捏ねるな」
時間の無駄だ。
にべもなく言い放たれて流石に腹が立った。
「なにを──」
「くだらない意地を張るなと言っている」
身内だの他人だの些末なことだ。血の繋がりひとつで絆を保っていられるぐらいなら、自分は今ここにはいない。それは、親父と対峙したおまえが一番良くわかっていることだろうに。何を迷うことがある。
「情があるのだろう。おまえみたいな馬鹿にはそれで充分だ」
とどめとばかりにまた馬鹿と言われた。
「おまえが『そう』だと思えば『そう』なんだ。考え過ぎるな。おまえの悪い癖だ」
たとえ最初は赤の他人だったとしても、ノイマンという人間がおまえを育てて、その信念を、理想を、未来を託してくれたこと。目をかけてくれた事実は変わらない。
そこに血の繋がり以上のものがあったとしても、何ら間違いではないのだと。負い目など感じなくてもいいのだと。
そのことは目の前にいる自分が身をもって証明しているのだから。
「……そっか」
告げられた言葉の裏に込められた意味を噛み締めれば、長年つかえていたものがすっと外れたような気がして、シオンはふわりと微笑んだ。
恐らくこれは彼なりの励ましだ。普段は人の三倍ぐらい口が回るくせに、こういう時だけ。
それと同時に、首筋から金属の冷たさが消える。何度か鋏が入る音がした後、ばさばさと髪を払われた。
「終わったぞ」
「ありがとう。だいぶ軽くなったよ」
自分で切っていた時とは違い、切り損ねや長さの違いなどは見当たらない。どうやら随分丁寧に切ってくれたようだった。
「さすがはルー。プロ並みの腕前だな」
そう言って財布を取り出したが、金なら要らんと突っ返される。
「そんなことより、行くんだろう?」
「え、何処に?」
「墓だ」
は?と間の抜けた声がシオンの口からまろび出る。一体何の話だ。
「ちょ、ちょっと待ってルー。一体誰の」
「さっきまでの話の流れで気づけ馬鹿」
十数分振りにまた馬鹿と言われた。どういうことだと首を捻っている間に、ルーはてきぱきと後片付けを済ませていく。
「……まさか、ノイマン隊長の?」
「それ以外に何処へ行くつもりだおまえは」
呆れたように──否、実際呆れているのだろう──ルーは深いため息をひとつ吐いてから、早くしろとシオンの肩を叩いた。
「え、もしかして、ルーも一緒に来てくれるの?」
「……どうしてもというのなら、付き合ってやらんでもない」
気乗りしなさそうな口振りだが、おそらくシオンの話を聞いた時から彼の中では確定事項だったのだろう。それにしても、今日はいつになく。
「……おせっかいめ」
ちいさく呟く。よもや自分がこの言葉を、よりによってルーに使うことになろうとは。なんだか可笑しくて、シオンはふは、と笑った。
「何か言ったか?」
「なんでもないよ。でも」
ありがとう。
俯きがちにささやいた声が、払い損ねた髪とともにはらりと落ちた。