嫁不足 ここは竜の国。現竜王である八重蒼蓮(やえ そうれん)の屋敷に仕える使用人、銀羅は目の前の光景に困惑を隠せなかった。
スゥーーー
「あ”ぁー......」
「…龍様、何をなさっているのですか…?」
なぜなら、入った部屋の主が椅子に座って、くるまった布らしきものを嗅ぎながらまるで違法な薬物をキメたかのような表情と共に、中年男性の出しそうなダミ声を上げるという、どう見ても不気味な光景を目撃したからだ。
今、彼がいるのは八重家の長男である八重龍の部屋。一応、ちゃんと断りを入れて入室したのだが、龍本人は銀羅を特に気にしていないようだ。
「ん?ダイキのTシャツ嗅いでる」
「は?」
聞き間違いか?というかそうであってくれ。
そうじゃなかったらこの方は今、ダイキ様の衣類の匂いを嗅いでいたことになるのだが…。
因みにダイキ様という方はこの八重龍様の結婚相手であり、元は幼馴染みの親友という、深い絆で結ばれたお方である。龍様はダイキ様をとても愛されているのだが…
「…ダイキ様のTシャツ、と仰いました?」
「あぁ、ここ数日忙しくてあいつと全然触れ合えてなかったからな。成分が足りなくなってたから補ってた」
補うって何ですか。ダイキ様の匂いをタンパク質とか炭水化物みたいな栄養分のジャンルみたいに扱わないで下さい。
…とまぁ、このようにダイキ様に関することとなると、少々常軌を逸した行動を取ることもあるのだ。
「そ、そうですか…。ですが、いくら私の前でもそういうことはおやめになって下さい。変な噂が立ってしまいますよ?」
「お前以外に誰も見ていないなら問題ない。今見たことを他人にベラベラ話すようなやつを信頼してる訳でもないしな」
「それは勿論ですが…そういう奇行を見させられる私の身にもなってください」
「奇行とはなんだ、俺が生きていく上で欠かせない行為なんだぞ?それに、全部見ろなどとは頼んでない。部屋の隅でも眺めておけばいい」
「部屋の埃を数える前に行為に走る貴方のせいで見たくなくても目に入ってしまうんですよ!」
部屋に怒声が響き渡る。こんな大声を出したくなかったが、目の前の主君の奇行を今律さなければ執事の名が廃ってしまう。銀羅はため息を一つ吐いた。
「とにかく、その行動を今すぐやめろとは申しませんが、せめて人目が無いときに行うようにしてください!誰かに見られることに慣れてしまうと、いつか取り返しのつかないことになりますよ!」
「…はぁ、分かった分かった。お前の前でも控えるように努力するよ」
「それと、Tシャツの匂いを嗅ぐ以外でもスマホに保存されたダイキ様の写真を眺めてニマニマしたり、ボーっとしたままぬk…猥らな発言をするような言動もお控えください!」
「猥らな発言?俺なんか言ってたか?」
「先日、公務が多く入りお忙しくなってしまった日の午後に…」
「…あ」
(「あ“ー疲れたー...。ダイキぃ...抜きてぇ」)
(「!?」)
詳細な日時を教えられやっと思い出す。そういえばあの日は激務の末、全部処理し終えた後の休憩でかなり脱力していたが、同時にそのような発言をしたような覚えがある。まぁ、ほぼ無意識的に欲望を吐き出していただけなのだが。
「あの言葉を聞いた際は驚きましたよ。普段口にしないようなお言葉だったんですから」
「あ、あれはただ気が抜けていただけで、頻繁に言ってる訳じゃないだろ?見逃してくれよ」
「確かにああいった言動はあれっきりですが、それ以外の行動が増えるとまた無意識に仰るかもしれませんからね。出来るだけ頻度を抑えて下さいね!」
「…分かったよ」
ため息交じりの返事をし、少し落ち込む龍様。
厳しく言い過ぎたかもしれないが、これも彼が竜人族の安寧を図る次期竜王であるからこその指導なのだ。それに同じ竜人族として、番を深く愛する気持ちが分からないわけではない。だが…
「龍様自身がどう扱われようとお気になさらないのは構いませんが、ダイキ様にご迷惑が掛かるのは不本意ではありませんか?」
「ダイキに?」
「例えば、『ダイキ様が次期竜王を誑かしている』、とか…」
「そんなことはない。俺たちは対等な立場で接している」
「ええ、それについては我々竜人族も承知しています。ですが、先ほど申した言動を見かけた者がそう考えてしまう可能性もあるのではないでしょうか?」
今はまだこの程度で収まってはいるが、下手をすればお二人が積み上げてきた信頼に傷がついてしまったり、あるはずのない歪な関係をでっち上げられたりするかもしれない。
そうなれば、“今までのような扱い”を、お二人が再び受けることに繋がる可能性もある。
「はぁ…お前が言いたいことは分かった。俺としても、ダイキにあらぬ噂が立ってしまうのは望んでないし、次期竜王として情けない姿を民衆に晒すことはしない」
「お分かり頂けたなら結構です。貴方様はまだ修行・鍛錬を積んでいく途中の身ですが、既に王として求められる姿があることをお忘れなきよう」
「あぁ、肝に銘じておく」
そう言うと龍様は右手に抱えていた布を丁寧に畳み、書斎机の引き出しの中にそっとしまった。
…私としても、この方がまたあの時のように辛い日々を送られるのは望んでいない。ダイキ様と出会い、以前よりも明るい雰囲気を纏わせながら公務と鍛錬に励む主を、執事としてこれからも支えていきたい。黒い竜人だろうと関係なく、師として一つ一つを教えていたあの頃のように─
「銀羅」
提出する書類を受け取り、退室しようとする自分を呼び止める主の声。その方へ顔を向けた。
「どうされました?」
「…いつも心配してくれてありがとうな、『師匠』」
「…その師匠の心配を、無駄になさらないで下さいね」
「あぁ、分かってるさ」
あの頃とは違う、強い芯を持った眼差し。龍様の成長に携わることが出来ただけでも、私は幸せなのだろう。そう思える気がした。
「ところで龍様、あのTシャツはダイキ様にちゃんと許可を得て持参されたんですよね?」
「いや?ダイキがあんまり着なさそうなのをチョイスして持ってきたんだ。普段着てるのだと困らせちまうからな」
「…次同じことをなさった場合はダイキ様に報告させて頂きますからね」
こんなに拗らせるような指導をした覚えはないのだが…。
まぁいい、どの道この方の元を離れるつもりはないのだからな。執事兼師匠として、しっかり指導させて頂きましょうか。