翠雨に紛れた悩み事 しとしと傘を突く水の音、見上げれば鈍い灰色に染まる空が広がっている。
とある雨の日、八重龍之介が道を先導し、その後ろを皇煌士が付いていく。足元の水たまりに波紋を作りながら、二人はゆっくり歩を進めていた。
雨の降る中、なぜこうやって外に出かけているのかというと、きっかけは
「せっかくだしこの時期にしか見られないものを見に行かないか」
という龍之介の誘いだった。
というのも、ダイキは住民からの依頼のため席を外しており、春鈴は暇だからと神社で昼寝を始めたため、二人して時間を持て余していた。そのため、せっかく来てもらったのにもてなしも何もないのは流石に失礼だと思い、龍之介は煌士に出かけの提案をしたのだ。
煌士自身も何かしたいと思っていたため、その提案に賛成し、そして今に至るわけだ。だが結構な距離を歩いてきたため、出かけ始めよりも若干テンションが下がってはいた
「龍之介くん、まだ着かないの?」
「もう少しで見えてくるから頑張れ」
「え~もう靴の中グチョグチョなんだけど…」
「後で何とかしてやるから今は我慢してくれ」
この雨の中、足元が悪いこともあり、かれこれ神社を出発してから一時間は経過しているだろう。普段から走り込みや鍛錬を積んでいる龍之介からしてみれば何てことない距離だが、一般人である煌士には少々苦痛であっただろうか。項垂れながらも付いてきてくれる煌士を何とか励ましながら龍之介も歩みを進めていく。
5分ほど歩くと、今まで薄暗く並んでいた木々の代わりに、道の両脇にちらほらと梅雨の時期らしい『ある植物』が生えているのが目に入った。もしかしてと思い、煌士が龍之介に声を掛けようとすると、彼が唐突に足を止め先を指さした。
「ほら、到着だ」
「…わぁ、すごい」
そこには、水を滴らせながら綺麗に咲いた紫陽花が目の前に広がっていた。
着いたこの場所は小高い丘のような地形になっており、そこを埋め尽くすように青・紫・ピンクの紫陽花が咲き誇っている。その中心にはポツンと東屋が一つ佇んでいて、この景色を眺めるための特等席になっているようだ。
曇天の下でもここまで綺麗な景色になるのかと感心していると、龍之介が肩をトントンと叩き、今度は東屋を指さした。
「傘差しながら突っ立っててもいいが、せっかくなら座って観賞しないか。ここに来るまで疲れただろ?」
「あ、そうだね。思わず見惚れちゃってたけど、そういえば足パンパンだったかも笑」
そう話しながら二人は東屋へと向かった。
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屋根の下には木製の丸いテーブルが一つ、それを挟むように配置された木製の長椅子が二つ。そんな簡素な造りの建物で二人は雨宿りを始める。
お互い向き合うように座り、肩の雨露を払ったり靴の湿りを確認していると、足元につむじ風のようなものが現れた。それは二人の足をくすぐるようにクルクルと回ると、いくつかの水の塊と共に椅子の隙間を潜り抜け、東屋の外へと消えた。
「今のって龍之介くんの仕業?」
「ああ。湿り気を風で払う簡単な術だ。意外に便利だろ?」
「へぇ~。ダイキくんみたいなことも出来るんだ」
「まぁな。とはいえ、本当に簡単なものだけだ。今こうやって人間の姿になっているのも霊力を用いた変身術なんだが、俺が扱える最大値はここまでといったところさ」
「それも術なんだ!?いいな~俺も扱えたらいいのに」
靴を履き直しながら煌士が羨ましそうにため息を出す。その発言に龍之介は少し怪訝そうな表情を見せた。
「…煌士くんも使えるんじゃないか?」
「え?」
「俺からは、煌士くんにも霊力が宿っているように見えるんだよ。といっても、霊力と呼ぶには少し違和感があるようにも感じるが…」
「違和感?」
龍之介の目には対象のオーラを読み取れる力があるため、他者の気持ちや正体をある程度察することが出来る。煌士もそのことは前々から知っていたが、自身のことについてはあまり聞いたことが無かったため、不安が混じりつつもその返答に興味を持った。
「どんな違和感なの?」
「そうだな…具体的に言い表すとしたら、『神気』に近いかもな」
「『神気』って?」
「『神気』というのは霊力の中でも、主に神様やその眷属がまとっているものをそう呼んでいるんだ。以前に依頼をしてきた神様が居てな、ダイキと一緒に直接会ってきたことがあるんだ。その時に感じた神聖さみたいなのを、煌士くんの霊力からも感じるんだ」
「俺の霊力から…」
呟くと同時に手の平を見つめる。
確かに、自分が普通の人間ではないような感覚は何度か味わってきた。実際、春鈴や月詠は俺の向こう側に、俺ではない誰かを見つめているような眼差しをしていると感じることさえある。
だが、俺が神様であるなんてことが─
「…すまん、混乱させるつもりはなかったんだが…」
聞こえてきた声にハッとする。顔を上げると、龍之介がバツが悪そうに後頭部を掻いていた。恐らく自分が急に押し黙ってしまったから、余計なことを言ったと感じたのだろう。
「あ、ううん!そんなんじゃないよ!ただ、自分の正体なんて今まで真剣に考えたことなかったな~って思っただけで…」
アハハと笑って誤魔化してみるが、彼の表情はあまり変わらない。きっとこれも読まれているのだろう。
「いや、普通自分の正体について聞かれて戸惑うのは当たり前だ。他人に秘密を暴かれるようなものだし、あまり良い気分はしないだろう。配慮が足りなくてすまない」
「いいよいいよ、そんなに畏まらないで。寧ろ俺としては、自分のことを見つめるいい機会になったし、全然大丈夫だよ」
「…そう言ってくれるなら、これ以上謝るのは無粋だな。ありがとう」
感謝の一言を尻目に詰まりかけた空気が解消された。
その後しばらくは小雨が降りかかる紫陽花を眺めながら、「最近だんだん暑くなってきた」だの「今年の夏はどう過ごすか」などと他愛もない世間話を繰り広げていた二人。
すると、とあることが気になった煌士は龍之介にあることを問いかけた。
「あー話は変わるんだけどさ、龍之介くんってダイキくんが竜王様…?の子孫だ~とかの話を前々から知ってたわけだよね?」
「ん?そうだが?」
「そんで、それをダイキくんに伝えずにずーっと一緒にいたわけじゃん?そん時ってどんな気持ちだったの?」
「どんな気持ち…どうしてそんなことを?」
「あーいや…さっきの話に戻るんだけど、本当の俺が神様か、それらしい何かかもってことを春鈴たちがもし知ってたら、どんな気持ちで普段一緒に居るのかなーって気になって…」
(…濃い緑、不安や焦りといった感情か)
歯切れが悪そうに理由を口にする煌士。まとわりつくオーラの雰囲気からも、その言いにくそうな原因が何となく読み取れた。恐らく日頃から抱えていた悩みなのだろう。
かといってここで適当なフォローをしても仕方がない。ここは当時の俺がどう感じていたのかを、ありのまま伝えるのが良いだろう。
そう考えた龍之介は昔の記憶を想起しながら口を開いた。
「…そうだな。まず、俺にはあいつの護衛という最優先の使命があったから、最初の頃は秘密どうこうと考えることは無かったな。そういった思考を持ちだしたのは俺達が高校生になった頃。ダイキが祖父母を亡くして、一人で生き続けなくちゃいけなくなった時だ」
ふと、外の紫陽花畑に目を移す。屋根を打つ雨音と対比的に、静かに凛と咲く姿がとても綺麗だ。
「元竜王様から『20歳の誕生日にダイキの霊力が覚醒する、その時に真実を告げろ』と命令されていたから、その時を迎えるまでは話すことが出来なかった。だから正直なところ、あいつに対して多少の後ろめたさはあったよ。騙していると捉えられても何らおかしくないからな。それが、言えない本人に直接関わることなら尚更な。
それに、抱えた秘密を相手に打ち明ける時もきっと怖いだろう。相手がどう反応するのか、自分が思ってもみなかった状況に陥る可能性だって考え得るしな」
「そっか。…ん?『だろう』って、龍之介くんはそう思わなかったの?」
「ああ、思わなかったな」
「思わなかったなって、え!?」
けろっとした返答に思わず目を丸くする煌士。話していた後半部分を感想ではなく予想のように話していたから若干違和感を覚えていたが、まさか本当にそうだったとは。
「後ろめたさはあったが、告げる際の不安は特に感じなかったな。というのも、俺には覚悟が出来ていたからだろうな」
「覚悟…」
「そうだ。元々、真実を明かした後にその先をどうするかは、あいつ自身に選ばせるつもりだったんだ。自分の正体を知った上でどう生きていくか、それを選ばせて初めて桜龍院ダイキとしての第一歩になる、という考えの下でな。
同時に俺は、ダイキがどんな道を選んだとしても必ず傍で支えると、あいつが生まれた時から誓っていた。80数年になるであろうあいつの生涯を隣で支え続けて、最期まで見送る…ってな。竜人族にとっては一瞬のように感じる短い時間でも、あいつをずっと見守っていく。その覚悟があったから、俺には秘密を明かす不安が一切なかったんだ」
「……」
「ま、実際に打ち明けてみたらちょっとばかし戸惑ってはいたものの、あいつはすぐに受け入れてな。その上で、『誰かの役に立てるなら』って今のハザマの管理人としての道を選んで…本当に大したもんだよあいつは」
「…俺は、ダイキくんみたいにちゃんと受け止められるのかな」
どこか誇らしげな口調で懐かしそうに話す龍之介の傍ら、煌士は呆けたままの表情で少し俯き、おぼろげに呟く。不安の末に生まれたであろう、その言葉に龍之介はフッと微笑んだ。
「大丈夫さ、お前もちゃんと受け止められるはずだ。それとも、春鈴くんを信じていないのか?」
「別にそういう訳じゃないけど…」
「なら、お前がやれることはただ待ってあげること、それだけだ。さっきも言ったが、抱えてる秘密を話すには、それなりのタイミングや機会が必要なんだ。そして、それには多少の勇気も必要になる。それを理解して、その上でちゃんと話を聞いてあげるのが、お前に出来ることなんじゃないか?」
「……!」
「少なくとも、あいつはそうしてくれた。その覚悟と準備が、きっとお前の抱える不安を、そして春鈴くんの不安も一緒に和らげてくれる。俺はそう思うぞ」
真剣で、尚且つ穏やかな顔つきで諭してくれる龍之介の言葉が、温もりのようにじわじわと煌士の胸に染み込んでいく。抱えていた懸念が溶け、目の前に浮かんでいた霧が少しだけ晴れたような気がした。
(覚悟と準備、か。俺はそれが出来ていないからこんなにも…)
「…そうだね。あいつが打ち明けたいと思う時まで待ってあげるのも、俺に出来ることだよね」
「ああ、それまでに心構えをしっかり持っておくこともな」
「…うん、分かった。このことについては俺自身でもちゃんと向き合ってみるよ。聞いてくれてありがとね、龍之介くん」
「気にするな。また悩んでることがあれば遠慮なく相談してくれ、大事な友人だからな」
「うーん、そう真っ直ぐ言われるとちょっと恥ずかしいな」
互いに笑い合っていると、顔に何やら明るいものが当たっている気配を感じた。
横を見てみると、いつの間にか降りやんだ雨雲の隙間から白い日の光が差し込んでいるという、何とも神々しい景色が広がっていた。周りでは、雫のついた紫陽花が陽に照らされてキラキラと輝いており、雨に濡れていた時とはまた違った美しさを演出していた。
「…綺麗だね」
「だろ?この時期ならではの景色だ。是非、手土産代わりにと思って見せたかったんだ。春鈴くんに持たせてあげられなかったのが残念だが」
「あいつは景色見たぐらいじゃ満足しなさそうだし、丁度良いんじゃない?」
「フッ、そうかもな。どちらかというと、お前と一緒に見ることの方があいつにとっては重要そうだ」
「それは否定できないや」
ふとした冗談でクスクス笑い合う二人。空から大地へ降り注ぐ斜光がその様子を爛々と照らし続けていた。
~終~