目を覚ましてすぐ、その寒さに身体が震えた。カーテンを開けて外を覗くと、雪が積もっている。この地域では雪が降ることは稀で積もるなんて年に1度あるかないかくらいなのに、こんな大雪は珍しい。道路が凍っているから車は出せないし、きっと雪に慣れないこの地域の交通機関はどこも止まっていることだろう。今日がオフでよかったと冴は一息ついて再び布団に潜った。いつもなら早朝のランニングに出かけるのだが、今日はやめておく。そして再び起きたときも雪は相変わらず降っていて、これでは明日もどうなることかわからないなと思いながら冴は朝食を食べるために自室を後にした。
厚切りのトーストが3枚、カップは2つ。トーストを1つ取りジャムを塗ってかぶりつく。もう2枚は弟の分だ。いつもならもう起きてくる頃なのだが、今日はなかなか起きてこない。まあこの寒さだから布団から出たくないのかもなと冴はのんきに考えてトーストを食べ進めた。片手には先日買った海外サッカーファン向けの雑誌がある。表紙を飾っているのは弟の凛だ。今シーズンから冴と同じクラブに来た凛は、たびたび試合でハットトリックを決めているのもあってメディアに注目されているのだろう。チームメイトの奴らには弟だからって凛にばかりパスを出すなと軽く小突かれたが、冴は最高だと思う場所にパスを出しただけだ。で、たまたま凛がそこにいた。それだけ。仲直りをしたのかと聞かれれば、冴は「わからない」と答える。別に話し合ったわけでも、今までのことを謝ったわけでもない。ただ今回の移籍を機に一緒に住もうと言い出したのは冴だった。凛も反対はしなかったし、「兄貴がいいなら」と頷いた。ようやく昔のような関係性に戻れたのではないかと浮かれてしまうのはいい事なのか悪いことなのか。凛を突き放したのは冴なのに、今こうして同じ家の中で過ごして、一緒のチームでサッカーが出来るのが嬉しいと、思ってしまう。また夢を見てもいいのだろうか。――かつて世界一のストライカーという夢を捨ててでも縋り付きたかったあの夢を。
「(ぬるいな……)」
コーヒーの苦みが冴を現実に引き戻した。こんなぬるい考えはあの日に捨てたはずだったのに、何度だってそれは冴の中に戻ってきた。凛と一緒に過ごすうちにその気持ちがどんどん大きくなっているのは冴も自覚している。
コーヒーも飲み干した冴は雑誌を置いて首を傾げた。まだ凛が起きてこないのだ。オフだからとはいえこんな時間まで寝ているのは珍しい。せっかくパンを焼いたのに、冷めてしまった。仕方ないから起こしてやるかと立ち上がった冴は凛の部屋の扉をノックした。
「入るぞ。」
そう声をかけても返事はない。ガチャリとドアノブを回して部屋に入ると、ベッドの上にはこんもりと布団の山ができていた。しかし、冴が部屋に入ってきても凛が起き上がる気配はない。
「おい凛、いつまで寝てんだ。……凛?」
「……はっ、ッ、」
凛に近寄ると寝息が聞こえてきたが、どうも様子がおかしい。冴は嫌な予感がしてその布団をめくると、凛はまるでりんごのように真っ赤な顔をして眠っていた。汗をかいたのか前髪はじっとりと濡れているし、苦しそうに息をしている。
「あっつ」
額に手を当ててみれば、明らかに高熱だった。凛は冴の手の冷たさが気持ちいいのかそうやって冴が手を当てるだけで少し表情が和らぐように見える。冴はこうしてはいられないと桶に水を入れてきて、タオルを濡らして凛の額に当てた。
「ゔ……に、ちゃ…ん?」
「凛?気がついたか」
凛はゆっくりと瞼を開けた。まだ寝ぼけているのか、それとも熱のせいなのか、どこかぼんやりとした目だ。しばらくまじまじと冴の顔を見つめていた凛は不思議そうな顔で声を上げた。
「夢……?」
「夢じゃねぇよ。」
「つい……」
「…だろうな。お前熱あるぞ。ほら、熱測れ。」
「ん……」
冴に体温計を差し出されてのそのそと起き上がった凛はそれを受け取って脇に挟んだ。そしてそのまま瞼が落ちる。それから少しして体温計が熱を測り終わって音が鳴っても凛は動かない。
「凛、終わったぞ。」
冴が凛の肩を叩いても、凛は「う゛ん…」と呻くだけだ。冴が仕方なく凛の脇から体温計を取り出せば、それはもう高い体温が表示されている。本来ならすぐ病院に連れていくべきだが、外は大雪だ。車も出せないのに寒い中でこんな状態の凛を連れ出すのは気が引ける。せめて解熱剤だけでも飲ませるべきなのだろうが、家には置いてないし買いに出るしかない。誰かに頼もうと思っても、第一候補のジローランは運悪く急用で日本にいる。
「凛、買い物行ってくるけどなんか欲しいもんあるか?」
「うん……」
「おい、」
会話が成立しない。高熱で頭がバカになってるのかもしれない。このまま凛を置いて外に出るのは正直心配だが、行くなら早い方がいいだろう。冴は体育座りでうなだれている凛を寝かせると、もう一度水に浸したタオルを凛の額にのせて部屋を後にした。
*
外はとても冷え込んでいた。しんしんと降り続ける雪と、自分の白い息。薬局は車で数分の距離にあるのだが、今日は徒歩なのに加え、地面が滑りやすくて時間がかかってしまう。時折すれ違う通行人が派手に転ぶところを何回か見かけて、足を怪我するわけにはいかないとより慎重に歩いたからだ。
そうしてたどり着いた薬局で薬を買ったあと、家に食材がろくにないことを思い出してスーパーに寄った。凛に食べさせるゼリーや飲み物をカゴに入れ、会計を終えて外に出ようとするとスーパーの従業員に引き止められた。
「いまは外に出ない方がいい。さっきよりも吹雪いてる。」
「でも…」
「止むまでここで待ったほうが身のためだよ」
外を見れば確かに酷く雪が降っていて、帰るにも帰れなさそうだ。他の客もこの雪が止むのを待っているのか、入口付近に溜まっているらしい。予報ではしばらくすれば雪は止むというので、冴は仕方なく雪が弱まるのを待つことにした。凛は大丈夫だろうか。念の為帰るのが遅くなりそうだとメッセージをとばしたが、既読はつかなかった。
『俺の人生にお前はもう――』
「はぁッ!……は、っ……」
凛は飛び起きた。先程まで冷たい雪の中にいたはずなのに、気づけば布団の中にいる。どうやら悪い夢を見ていたらしい。先程までは寒いと思っていたはずなのに今はすごくあつい。頭もくらくらするし、気持ち悪い。
「みず……」
とにかく喉が渇いた。凛は体を起こして、ベッドから降りようとする。すると途端にぐにゃりと視界が歪んで床にどさりと転げ落ちた。
「いって……」
そこからなんとか立ち上がった凛はおぼつかない足取りでキッチンへ向かう。水を飲んで一息ついたところで、やけに静かな家の中に違和感を覚えた。兄がいないのだ。冴の部屋、いない。風呂場、いない。トイレ、いない。一体兄はどこへ行ったのだ。そういえば冴がなにかうにゃうにゃと言っていた記憶があるが、その内容は何も思い出せない。そしてとぼとぼと自分の部屋に戻ってきてベッドに座り込んだ凛はふと窓を見て、外では真っ白な雪が降っているのだと知った。それに気づいた途端に、凛は息の吸い方を忘れてしまった。
「はっ、」
――こんなに雪が降ってるのにわざわざ外出?なんのために。……そうだ、俺が熱をだしたから、うつりたくなくて、
全身が冷えるような感覚がする。ベッドの隅に転がっている自分のスマホを手に取ると、通知が一件。
〝帰り遅くなる〟
「っ……」
それが冴から来ていた唯一のメッセージだった。凛はそれを見て、また息が苦しくなった。要は凛の風邪を貰いたくないから夜まで外にいるということだろう。こうしてはいられない。凛は冴にメッセージを返し、ぐわんと歪む視界もお構い無しに立ち上がるとクローゼットからコートを引きずり出した。そしてそれに袖を通して、マフラーも巻いて、最低限の防寒をした凛はふらつきながら家を出るために玄関の扉を開けた。これで冴が安心して家に帰ってこられる。面倒なやつだと思われなくて済むと、このときの凛は本気で思っていたのである。
もちろんそれは熱によって夢と現実がごちゃごちゃになった凛の勘違いだ。
ピコンとスマホが鳴った。メッセージが来たらしい。凛が先程のメッセージに返信してきたのかと思って画面を見た冴は、その内容に思わず顔を顰めた。
〝おれがでてくからにいちゃんはかえってきていいよ〟
「は?」
冴はそのメッセージを三度見した。しかし何度見たところで内容は変わらない。すべてひらがなだからなにか違う意味があるのかと考えるが、冴がいくら考えたってそれは「俺が出てくから兄ちゃんは帰ってきていいよ」でしかなかった。
冴は頭を悩ませた。「俺が出てく」ってなんだ、凛は部屋で寝ていたはずだ。まさか家の外に出るというのだろうか?あのぐずぐずな体調で?じゃあ「兄ちゃんは帰ってきていいよ」の意味は?まるで凛がいるから帰って来れないとでもいうような言い回しだ。いや、そのままの意味なのかもしれない。理由はわからないが凛がいるから俺は家に帰れなくて(?)だから凛が出ていくから帰ってきていいよ、と。つまり、凛が家を抜け出した可能性が高いということだ。
「あのバカ……!」
店員がまだ中にいろと冴に声をかけたが、そんな声はお構い無しに冴は外にとび出た。冷たい雪が冴に降りかぶる。行きはあんなに慎重に歩いてきた道を冴は全速力で駆け抜けた。
*
「おい、安静にしてろって!!」
「でも凛の……看病……」
「凛は薬飲ませて眠らせたし、雪が落ち着いたらお医者さんも来てくれるって。だから冴も……」
「あ……?睡眠薬盛ったって……?」
「冴が買ってきた薬だっつの!!」
潔は冴にペットボトルの水を押し付けて、「それ飲んだら寝ろよ!」 と部屋を出た。なぜこんな状況になっているのかといえば、事の発端は凛から突然電話がかかってきたからである。潔がメッセージを送っても既読すらつけてくれないあの凛が、ていうかてっきりブロックされているものだと思っていたのにその凛が、潔に電話をかけてきたのだ。かけ間違いか?とも思ったが、凛からの電話に出ないという選択肢は無い。そして出たもののしばらく無言が続き、どうした?と問いかける潔にようやく口を開いた凛は「にいちゃんが、しぬ……」と言い、その後床に何かが落ちるような鈍い音と共にぶつりと通話が切れた。
ここで運が良かったことが二つ。一つ目。潔は偶然、凛たちが住むマンションの近くのホテルにいたのだ。というのも潔は試合のために来ていたのだが、突然の大雪で中止になった上に飛行機は飛ばず、足止めを食らっていた。以前お土産を送ったときに住所を聞いたことがあり、そういえばここから近いなぁと思っていた矢先の出来事である。そしてなんとか駆けつけたものの、セキュリティがしっかりしているこのマンションの中に入ることはほぼ不可能。運が良かったことの二つ目はダメ元で相談した大家さんがブルーロックTVの大ファンで、顔パスでいけたこと。最初、潔はマンションの入口にいた警備員に声をかけたのだが、数時間前に冴が焦った様子でその警備員に「凛がどこに行ったか見てないか?」と聞いてきたらしい。しかし警備員がこの雪だしマンションから出ていったのは冴くらいだということを伝えると、冴は駆け足で部屋に戻っていったと。警備員もそんな冴の様子に何かあったのかと疑問に思っていたらしく、大家さんにスムーズに連絡をとってもらえたのだ。そして大家さん立ち会いの元扉の目の前までやってきたもののインターフォンを押しても反応は無く、すんなり鍵を開けてもらえたので冴たちは事が起きる前にここから引っ越したほうがいいと潔は思った。しかし事が起こっているのは今である。あれから何度も電話をかけたが繋がらず、メッセージを見た形跡すらない。これが実は酔っ払った凛が電話しただけでした、とかだったらどうしようと心の中で冷や汗を垂れ流しながら扉を開けると、すぐに潔と大家さんはヒュっと息を飲んだ。入ってすぐのところで凛がなにかに覆いかぶさった状態で倒れていたからだ。一瞬死んでる!!と思ってしまったのも仕方ないくらいには衝撃的だった。前情報で「にいちゃんがしぬ」というタレコミもあったので。いや、聞いていた話と違う。
「凛!?おい、どうした!」
もはや不法侵入したことも忘れて、潔は凛の肩を揺さぶった。真っ赤な顔、そして荒い息。あ、生きてる!?と思ったのもつかの間、何やら凛のものでは無い声が聞こえてくる。
「ク、ソ………どかせ……」
どこから聞こえてきたのかと思えば、凛が覆いかぶさっている〝なにか〟からだ。布団やらコートやらマフラーやらがぐちゃぐちゃに積まれているそこから、よくよく見ればその隙間から腕がとびだしているではないか。それに気づいて「ヒッ」と声を漏らした潔は大家さんと協力して凛の体を抱き起こして移動させると、モゾモゾとゆるい動きで冴が顔を出した。冴も凛と同じように真っ赤な顔で、辛そうに息をしている。この謎の状況に困惑して動けない潔と大家さんなんて見えていないかのように冴は凛のいる方へ顔を向けて、立ち上がろうとしたがよろけて床に倒れ込んだ。
「冴!?おい…!」
「はやく、凛を……」
そう言い残してがくりと気絶した冴の勇姿を潔は忘れないだろう。たぶん。