甘くとろけて「…ドクター?」
どこからか、可憐な少女の声がかすかに聞こえた。
私の意識は薄暗いところをふわふわと漂っていて、まるで水の中に浮いているような感覚だ。
周りの景色を確かめようにも輪郭がぼんやりとしていて何一つ把握できない。
それどころか、今の自分が天を向いているのか地を向いているのかさえあやふやだ。
はて、今まで自分は何をしていたのだろうか。
何かなさねばならない事があって、必死になっていたような気がしたが、それさえも気のせいなのかもしれない。
このまま意識を手放して、深く暗い所へ沈んでしまおうか…。
「ドクター、大丈夫ですか?」
誰かに軽く肩を叩かれた感覚に、一気に意識が浮上し、びくりと身体が跳ねる。
鈍った思考のまま、叩かれた肩のほうを見れた、少し心配そうな表情をしたアーミヤがこちらを覗いていた。
正面をみれば、散らかったデスクに埋もれるように、情報で溢れかえったモニターが静かに光っていた。
…そうだ、締め切り数分前の書類と戦っていたのだった。
おそらくは無事メールで提出した安心感により座ったまま寝落ちていたのを、アーミヤに発見されたのだろう。
「ああ…すまない、寝てしまっていたみたいだ。」
時計をみれば、あと一時間ほどで日付がかわる頃。
寝てしまったのも10分程度だったようだ。
「お疲れだったのですね。仕事のほうは問題ないですか?」
仕事熱心、というかすぎるというか、そんな彼女はちょっとした隙も見逃さない。
普段なら冷や汗ものな質問だったが、今日は問題ない。
最低限の仕事は寝落ちする前に全て片付けた。
「問題ないよ、数日は慌てなくてもいい。」
「そうなんですね、よかったです。お疲れ様です、ドクター。」
心配していたアーミヤの声がワントーンほど高くなる。
今日はこれで解放されそうな気配を感じて、内心ほっと息をつく。
2轍した甲斐があったというものだ。
「それではドクター、今日はもう遅いですしお休みになってください。」
「ああ、そうするよ…」
ゆっくり伸びをして、身体をリラックスさせる。
身体中がぎしぎしと軋んでいることから、温めてマッサージをする必要性を感じた。
過酷なデスクワークに付き合ってもらったパソコンもスリープモードに設定し、デスク周りを簡単に片づける。
すると、指先に紙の箱がぶつかった感触がした。
そういえば今日はバレンタイン…感謝の気持ちや親愛の気持ちを伝える日だったと、箱に包まれたチョコレートを手に取る。
「…私も贈ったほうがいいのだろうか。」
「ええと、チョコレートを、ですか?」
「うん、皆にはいつもお世話になっているからね…。とはいえ。」
問題は誰に渡すか、である。
私がお世話になっている人といえば、目の前のアーミヤはもちろん、ケルシー、クロージャ、そして戦闘オペレーター、医療オペレータ、事務方の皆…ロドスの全ての人達だ。
正確にはロドスの外にも世話になっている人々は多くいるのだが、そちらは運搬の都合やらなにやらを考えると断念するしかない。
そしてロドス所属全員分のチョコレートを一瞬で用意することも難しい。
「よし、食堂のタダ券1日分を皆に贈ろう。」
「た、タダ券ですか?」
それはちょっと意図が違うのでは…と、アーミヤが苦笑いしている。
しかし、チョコレートや甘いものが苦手な人というのは案外多いものだ。
食堂で食事をしないという人はかなり少ないだろうし、困らせることはないだろう。
早速クロージャに発注をかけると、すぐさま返信が返ってくる。
その内、ロドスが配給している端末に無料クーポンが届くことだろう。
***
アーミヤに挨拶をして執務室をでてきた私は、購買部へ足を運んだ。
「クロージャ、さっきはありがとう。」
端末で作業しながら店番をしていたクロージャに、タダ券手配の例を言う。
「はい、どーも。そりゃあこの私なんだからあれくらいの手配は片手間にできるってね。でもさぁドクター。」
夜食の軽食と飲み水の支払いをしていると、クロージャにこつん、とフェイスガードに指を立てられる。
「特別のお気に入りには、別途何かを用意して、贔屓してあげたほうがいいと思うよ?」
それこそチョコレートみたいな甘いものをね、とサルカズの女性は意味深な笑顔を浮かべる。
そう言われて脳内に浮かんだ人物にチョコレートをあげるイメージをしてみるが、残念ながら喜ぶ顔は浮かんでこなかった。
「まぁまぁ、このクロージャちゃんの話を信じてみなって!もし断られたら自分で食べちゃえばいいじゃない。」
なんだか彼女のいいように誘導されている気がする。
逆らう元気もない頭だから追求はしないが、彼女にとってなにか有益なことでもあるのだろうか。
「ご購入ありがとうございまーす!ということで、はい、このチョコレートを誰かさんにあげてね!」
ぼんやりとした思考のまま、クロージャおすすめのチョコレートを追加購入。
まいどありー!という嬉しそうな声を背に、私は宿舎へ歩き出したのだった。
***
「そういうわけで、お邪魔します。」
「自室へ帰れ。」
そのままエンカクの部屋を訪ねてみたものの、人差し指でフェイスガードを押されて追い出されそうになる。
エンカクからすれば、自室で休んでいたら上司がアポなしで訪ねてくるのだから、迷惑でしかないのは確かだった。
しかし、まぁ、お互い相手には遠慮しない間柄なのだしこれくらい許してほしい。
簡単には引き下がらず、ぐいぐいと頭を押し付けていると、諦めてくれたのかエンカクはため息をついて自室の奥へ歩いていった。
羽獣の雛のように後へ続き、彼のプライベートを考えて部屋の扉にロックをかける。
エンカクが無言で用意してくれた備え付けの机に夜食を置き、ようやっと上着とフェイスガードをはずす。
「今の今まで仕事だったようだな。」
「ああ、ずっと執務室に缶詰になっていたよ。」
ふーっ、と息をはきながら、椅子にもたれかかる。
こうしたゆるんだ姿はなるべく他人には見せないようにしているが、彼だけがいるこの部屋なら誰も文句は言われまい。
「気を緩めすぎだ。」
訂正。
普段から目の前の彼にしつこく言われていたのだった。
「一瞬くらい許してくれ…。2轍した上に夕飯はこれからなんだ…。」
よたよたとした動きで夜食のサンドイッチを開封し、口へ運ぶ。
蒸した肉と葉物サラダと特製ソースの組み合わせが絶妙で、旨味が口いっぱいに広がった。
コーヒーばかり与えられていた舌は歓喜し、じっくりと食材を味わい尽くす。
ごくりと飲み込むと胃袋が刺激されたのか、ぐぅ、と音が鳴り、次を催促してくる。
先ほどよりも大きく口を開き、サンドイッチにかぶりつく。
真ん中に差し掛かったのか、先ほどよりも芳醇な旨味が広がり、思わず顔がほころんでしまった。
もぐもぐと咀嚼していると、エンカクがこちらをじっと眺めていることに気付いた。
「んむ?たふぇる?」
「いらん。」
部屋着を着てベッドに座っている彼は、恐らくは眠る直前だったのだろう。
邪魔をされて怒っているのかとも思っていたが、よく考えれば彼は私を放置して寝るタイプだ。
別の何かを考えているのかもしれない。
まずは目の前のサンドイッチを食したいので、視線をエンカクからサンドイッチに戻し、食べ進める。
そして全て飲み込み、水を三口ほど飲んでようやく満足することができた。
「そうだ、忘れていた。」
「まだ何かあるのか?」
呆れた声を出す彼をよそに、紙袋をごそごそあさり、目当てのものを取り出す。
それはクロージャおすすめのチョコレートだ。
黒い箱にオレンジと水色のリボンが巻かれただけのシンプルな装飾。
それをエンカクに差し出すと怪訝な顔をされた。
「えーと、ハッピーバレンタインということで…。遅刻しちゃったけど。」
ちらりと時計をみれば、いつの間にか日付が変わっていた。
食事の前に渡せばよかったなと、小さく後悔した。
「…そのイベントは耳にしたことがある。胸中の相手に渡すとかなんとか。」
「胸中…。私は感謝を伝える日と聞いていたのだが…。」
その時、ピロン、と端末の音が部屋に響いた。
どうやらクロージャから、食堂無料クーポンが配信されたようだった。
エンカクも確認したようで、はっ、と鼻で笑った。
「お優しい指揮官様は全員にクーポン、か。それも配って歩いているのか?」
顎で示されたのは、未だ受け取ってもらえていないチョコレートだった。
「いや、これは君にだけだよ。残念ながら市販品ではあるけれど。」
何かを考えるようにエンカクは黙り込む。
じわじわと眉間に皺が寄っていくのが怖いのだが、何故だろうか。
普段はなんとなく察する事ができる私の頭脳だが、今日は疲れた上にほどよい食事をしたためにうっすらと眠い。
おかげでエンカクが何を考えているのかいまいちピンとこなかった。
「…それならば、まぁいい。受け取ってやる。」
小さな箱は、節だった大きな手にゆっくりと握られて、エンカクのもとに運ばれていった。
クロージャ、本当に彼は喜んでくれているのだろうか。
うーん、と少し悩んだが、受け取ってもらえたのだからそれでいいか、と思い直す。
部屋に戻るのも億劫になった私は、許可を得る前にエンカクのベッドにごろりと寝転がる。
特にお咎めの声も飛んでこないし、許されただろう。
靴を脱ぎ、服を緩めていると、箱を開けているエンカクの姿が目に入った。
てっきり食べるのは明日以降だと思い込んでいた私は、珍しい、と思い彼が一粒のチョコレートを口に運ぶ様をぼんやりと眺めていた。
「え、ちょ、エンカク?」
眺めていたらそのままエンカクがこちらに覆いかぶさってきた。
美しい形の唇には、チョコレートが挟まったままだ。
「待って、何を、んむっ」
そのまま口付けをされる。
もちろん真っ先に私の口へ飛び込んできたのはチョコレートだ。
舌に触れるととろりと溶け出し、カカオの香りと甘みが口に広がる。
甘みに気を取られている内に、エンカクの熱い舌が入り込み、チョコレートごと舌に絡みついてくる。
「んぅ~!ん、ぅぅ…っ」
二人分の熱と唾液にチョコレートはどろどろに溶け、まるで潤滑油のようだ。
甘い香りは鼻腔内をくすぐり、思考を鈍らせていく。
よくない薬を飲まされている気分になり、何故だかぞくぞくと背中が震えた。
ぴちゃぴちゃ、じゅるじゅると、私の口内を十分に味わったエンカクの舌が出ていく。
そこでようやく、私は唾液にとけたチョコレートを飲むことができた。
とんでもなく、あまい。
「せっかくだ、お前も味わっておけ。」
気づけば、エンカクは二粒目を咥えていた。
普通に食べればいいのに何故こんなことをするのだろうか。
ちゅ、というリップ音と共に口付けが再開される。
その時、ふと唐突に、チョコレートを渡した時のやり取りが脳裏に浮かんだ。
一つ目:エンカクはバレンタインを「特別な相手にチョコレートを渡す」というイベントととらえていた。
二つ目:他の誰かにも渡したのかを気にしていた。
…もしかしてこのサルカズは嫉妬でもしていたのだろうか。
この状況下では確かめようがないが、そういうことだとしたら案外かわいいところがあるのではないだろうか。
私の両手をつかんでベッドに縫い付けるような強引な手口がなければのことだが。
二粒目を飲み干したと思ったら、すぐさま次を放り込まれ、舌をねじ込まれる。
これ以上は脳みそまでどろどろに溶けてしまうじゃないだろうか。
「ぷはっ、ん、もう、もういいだろ…っ」
長い口付けで軽い酸欠になり頭がぼぅっとする。
彼との口付けに興奮しているせいか、身体がぽかぽかと温まり、どことは言わないがじわじわと熱を持っている気がする。
人の(特に私の)表情を見て愉しむ彼のことだ、さぞご機嫌だろうとよく見て見れば、顔のあらゆるところをゆがめた不機嫌な顔だった。
ひっ、と気づかれない程度にひるんでいると、彼はゆっくりと尋ねた。
「…このチョコレートだが。どこで入手した。」
まさかの入手場所をきかれた。
「ええと、クロージャ、にすすめられて…。」
ふわふわとした思考で答えると、チッと盛大に舌打ちをされた。
あの女…とかぶつぶつ言っているところから、そういうことらしい。
クロージャ、また何かやったのか。
というか、変に身体が火照っているのはそのせいか。
「ごめん…もう少し確認すれば、よかった…。」
「…もういい。続けるぞ。」
「えっ」
てっきりここでお開き、と思っていたら、続行を宣言された。
エンカクが私の上にまたがり、服を脱ぎだしたところから、戯れは終わりのようだ。
「…悪いが、付き合ってもらうぞ。」
彼もチョコレートに多少影響されているのだろう。
ふぅ、と吐かれた吐息は熱を帯びていた。
***
「さーて、ちょっとした思いつきで媚薬を混ぜたチョコレートをドクターにあげたけど、成果はどうなったかな~♪」
ドクターの報告をご機嫌で待っていたクロージャの元に、エンカクの凄まじいクレームが入ったのは翌日のことだった。
---END