想うはアナタ一人ドゥリーヨダナは人気のない校舎裏で、膝を抱えて蹲っていた。
小学校に入学して3回目の運動会が、もうすぐそこまで迫ったとある秋の日のことだった。
選抜リレーの選手に選ばれ低学年の部のアンカーを務めることが決まった時、ドゥリーヨダナは鼻高々に両親にそのことを報告した。
大喜びでどうすれば息子の勇姿を余すことなく記録できるのか計画を立て始めた父と母に、絶対に1番でゴールする所を見せるんだと意気込んでいた。
なのに。
なのに。
なのにっ。
今日は初めての本番形式の練習だった。
そこでドゥリーヨダナは負けた。
同じ日に生まれた従兄に、同じようにアンカーとして選ばれたビーマに、ドゥリーヨダナは負けたのだ。
生まれつきの大食漢。
学年の中でも飛び抜けて大柄なビーマと、どちらかというと小柄で線の細いドゥリーヨダナ。
必死に足を動かしても、一歩の幅が違いすぎて追いつけない。
じわじわと離れていく背中に指先が冷え、喉がキュッと締まるあの感覚は、プライドの高いドゥリーヨダナには耐え難いものだった。
悔しくて、悲しくて、認めたくなくて。
「俺はまだ本気を出していないだけだ!」
涼しい顔でゴールした従兄に向かってそう叫び、返事も待たず駆け出したドゥリーヨダナは、誰もいない校舎裏まで辿り着いて初めてずっと堪えていた涙を流した。
隠れるように蹲って、見つからないように声を殺して、ぼたぼたと落ちる雫が地面の色を変える様を眺めながらひとしきり泣いた頃。
ふと何かが腕に触れる感触がして、埋めていた顔を上げた。
「ぐすっ……彼岸花?」
そこにあったのは燃えるように赤い花だった。
泣くのに夢中で気付かなかったが、すぐ側に生えていたその花は、まるでドゥリーヨダナを慰めるかのように涙で濡れた頬を撫でた。
「ふ、ふふ、くすぐったい」
彼岸花。
地獄花。
幽霊花。
何とも不吉な名を持つ花。
今の今まで目にも入らず、興味もなかった雑草を、ドゥリーヨダナは愛おしく思った。
「お前は……きれいだな」
なので自然と漏れた言葉は嘘偽りのない本心だった。
そうして伸ばした指は揺れる花弁、ではなく、
「──ナマステ!俺は曼珠沙華の妖精、アシュヴァッターマン!よろしくな旦那!」
突如花の上に現れた小さな妖精に触れた。
「は?」
肩に太鼓を引っ掛けたその自称曼珠沙華の妖精は、自己紹介もほどほどに歌って踊り始めた。
「アンタのプライド、ヒマラヤ級〜♪誰に似たのか、自信過剰〜♪」
「はぁ?」
小さな手が小さな太鼓をぽこぽこと叩く。
「だけど誰より努力家で〜♪だから誰よりカッコいい〜♪」
「ふ、ふん。分かってるではないか!」
真っ赤な髪がひらりと舞って、額の宝石がきらりと輝く。
「アンタの味方の妖精だ〜♪旦那のための応援歌〜♪」
「お?な、なぜか力が湧いて……?」
「これで旦那は最強無敵!さぁ燃えろぉ!」
「うぉぉ!こ、この力は!」
歌に合わせてフツフツと湧き上がる力を感じて、ドゥリーヨダナは声を上げた。
「何やってんだドゥリーヨダナ」
そこにのこのことやって来た獲物(ビーマ)を見たドゥリーヨダナは、先程まで泣いていたとは思えない凶悪な顔でニヤリと笑った。
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「なるほど。花の妖精とは不思議なこともあるものだ。……そこにいるのか?」
「カルナには見えないのか?今も花弁の上でぴょこぴょこ踊ってるぞ」
「…………残念ながら」
「つまり俺にしか見えない特別な存在ということだな!」
あの後リベンジを宣言し、見事勝利を収めたドゥリーヨダナはここ数日ずっと上機嫌だ。
上級生の部のアンカーに選ばれているカルナがその様子を不思議に思い、問いかけたところここに連れてこられた。
カルナに妖精とやらは見えない。
見えないが、この年下の友が居ると言うならばそうなのだろうと納得した。
ニコニコと嬉しそうに花を見つめる友の姿に、カルナもつられて口角を上げた。
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「勝利熱望♪前途有望♪」
「ラップか?歌うばっかりじゃなくて、たまには何か話せ」
「横暴棍棒聞かん坊〜♪……ん?何かって何だ?」
「なんだ棍棒って。というかそれはもはやただの悪口では?……まぁ良いか。何かは、そうだな。お前のこととか」
「俺は生まれたばっかりの妖精だぜ?旦那の知ってる通りだよ」
「むむむ」
「邪魔する奴らはぶっ潰せ〜♪」
「棍棒でか?」
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「お前、そんなに薄い色だったか?」
「…………」
「……アシュヴァッターマン?」
「……ん?あぁ……歌わないとな」
「………………」
「〜〜〜♪」
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「……カルナ、来てくれ」
「?了解した」
さらに数日後、今度は暗い顔をしたドゥリーヨダナに呼ばれてカルナは再びあの花のもとへ赴いた。
そこには先日よりも萎れて変色しかけた彼岸花があった。
「調べてみたら、日当たりの良いところの方が合ってるみたいなんだ。……だから」
「分かった。どこに植え替える?」
「!……どうせなら俺の活躍を直接見せてやろうと思ってな!」
花と同じく萎れていた友が指示した通りに、カルナは花を慎重に植え替えた。
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「お前……もしかして、」
日の当たる場所に植え替えて数日、リレーの練習では最初以降負け知らずのドゥリーヨダナは、日に日に色を失っていく妖精に焦りを覚えていた。
「……どうかしたのか旦那?……何か悩みがあるなら、歌うぜ?」
「!……ダメだ!」
「うぉ!ど、どうしたんだよ。急に大きな声出して」
「アシュヴァッターマン、お前はもう歌うな!」
「な、んなこと、……俺は旦那のために、歌うために生まれて」
「うるさい!いいか、これは命令だ!お前は二度と、歌も踊りもするな!」
「で、でも、もうすぐ運動会ってのがあるんだろ?絶対に勝ちたい奴がいるんだろ?……せめて、その時だけでも」
「俺は!!歌がなくても奴に勝てる!!」
「───アンタが、そういうなら」
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ドゥリーヨダナはかつてないほど努力した。
学校だけでなく、放課後も休日も時間を見つけてはリレーの練習に励んだ。
努力する息子の姿に感動した両親も一肌脱ぎ、家族一丸となってフォームの研究やら足の疲れを取るマッサージやら、出来ることは何でもやった。
そうしてついに本番を明日に控えたその日の夕方。
ギリギリまで練習をと走っていたドゥリーヨダナは、必死になる余り足元の確認を怠り、僅かな段差に躓いて足を酷く挫いてしまった。
心配する両親を大丈夫だと押し切り、迎えたリレー本番。
1、2年生の頑張りでトップで受け渡されたバトンを手に、ドゥリーヨダナは走った。
けれどズキズキと痛む足では練習の時のようなスピードは出せず、2位のビーマにあっという間に
差を詰められてしまう。
「手ぇ抜いてんじゃねぇよ!ドゥリーヨダナ!」
「くっ……うるさい!」
練習では最初以降一度も勝てなかったというのに、悔しくてヤケ食いまでして怒られたというのに。
ビーマはこれはどういうことだと問い詰めたかったが、周囲の歓声にこれが本番であることを思い出し、怒りを飲み込んでそのままドゥリーヨダナを抜き去った。
「────ぁ」
じわじわと離れていく背中。
指先が冷えて、喉がキュッと締まって、あのときと同じ無力感に包まれる。
足が痛い。
見開いた目にジワリと涙が滲んで、遠のく背中がボヤけていく。
「(あんなに頑張ったのに、全部無駄だった)」
勝ったのだって、所詮は借り物の力のおかげ。
自分の力では一度だって勝てていないのだ。
「────〜♪」
俯きかけていたドゥリーヨダナは、どこからともなく聞こえてきた歌声に顔を上げた。
歌うなと言ったのに。
それ以上力を使ったら、きっと。
半分以上色の抜けた妖精の姿を思い出す。
太鼓を叩く力も無いのか、聞こえるのは微かな歌声だけ。
「ダメだ……歌ったら、お前は」
本当は分かっていた。
そもそも彼岸花は一週間程度で枯れる花だ。
歌おうが歌うまいが、きっともう限界なのだ。
「〜〜♪」
「だから、歌うなって……」
足の痛みが引いていく。
体に熱が戻っていく。
でも、息だけがずっと苦しい。
「イヤだ……ずっと一緒に、」
「俺はずっとアンタの味方だ、ドゥリーヨダナ」
「!」
何故かハッキリと耳元で聞こえたその声が、ドゥリーヨダナの背中を押した。
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「なぁんてことも、あったなぁカルナ〜」
「飲み過ぎだドゥリーヨダナ。ほら、ちゃんと歩け」
仕事終わりに久しぶりに友とサシで飲んだ結果、ドゥリーヨダナはへべれけに酔っていた。
ヨロヨロとあらぬ方向に向かおうとする友を、肩を貸したカルナが元の道に戻す。
「結局リレーは勝てなかったしなぁ、わし様あんなに健気に頑張ったのに、酷い話もあったもんだ〜」
「勝てはしなかったが負けもしなかっただろう。引き分け……1番中途半端な結果とも言えるが」
あれはもう20年近く前の出来事だ。
薄情なことに、記憶は少しずつ鮮明さを欠いている。
「足を挫いてなかったらずぇったいわし様の勝ちだった!」
「そうだな。だがとりあえず真っ直ぐ歩いてくれないか。また挫くぞ。」
あのリレーの後、息も荒いまま向かった先で、花は既に枯れていた。
妖精の姿はどこにも無く、茶色く変色して力無く倒れた花だけがそこにあった。
「ほら、お前の家に着いたぞドゥリーヨダナ。鍵を出せ」
「ん〜むにゃむにゃ」
花を前に声を上げて泣くドゥリーヨダナに、周囲は理由もわからず困惑していた。
そんな中カルナだけが、泣き喚く彼の側に歩み寄った。
そうして、カルナは友のために手を伸ばす。
「まったく……遅い時間だが、仕方ない」
──ピンポーン
インターホンが鳴って数秒後、ドタドタと走る音が聞こえてくる。
ガチャリ、と扉の開く音と共に、肩口の友がぴくりと動いた。
「おかえり旦那」
「……ただいま」
赤い髪の青年が広げた腕の中に、友を託す。
猫のようにスリスリと首に懐くドゥリーヨダナに、自分より大きな男を軽々と抱えた青年は擽ったそうに笑った。
「カルナも悪かったな。この状態の旦那を連れて帰るの大変だっただろう。……もう遅いし泊まってくか?」
「気持ちは嬉しいが遠慮しておこう。馬に蹴られる趣味はない」
「な、お前なぁ」
笑って踵を返したカルナの目に、庭一面に咲き誇った彼岸花が映る。
それは全て、かつて校舎裏に咲いていたあの彼岸花の球根から増えていったものだ。
あの日泣いていたドゥリーヨダナの前で、カルナは枯れた彼岸花を丁寧に地面から掘り出した。
ぽこりと膨らんだ球根は不思議と温かく、ほのかな光を纏っているように見えた。
「……ここにいるな、アシュヴァッターマン」
「あぁ、ずっと側に居るぜ。……眠れないなら子守唄でも歌おうか?」
「ふふ、それも悪くないが……どうせなら、デュエットが良いな──」
ぱたりと扉が閉じて、二人の声も聞こえなくなる。
ちょっぴり寂しくなったカルナは、今度三人でカラオケでも行くかと思案する。
いつ頃からか実体を持つようになったアシュヴァッターマンは、今ではカルナの大切な友人の一人だ。
最初こそ花の側から離れられなかった妖精は、庭の花が増えるにつれ行動できる範囲も広がっていった。
「(さてトリオで歌うなら何がいいか)」
そんな益体もないことを考えながらつく帰路は案外悪くないものだ。
さわさわと揺れる曼珠沙華に小さく手を振って、カルナは次の休みの計画を立て始めたのだった。