Just another day 大井路の十九番目の路地には近づくな。洛軍が城塞に来て配達の仕事を受けるようになると、龍捲風はそう一言だけ忠告した。この時はまだ洛軍と龍の間に信頼関係のシの字も無かったので、洛軍もその言葉をなにか黒社会絡みの立ち入り禁止区域とかそういう場所なんだろうとしか思わなかった。
それが洛軍に衣食住が与えられて、さらに仲間と娯楽にまで恵まれるようになった頃、龍はもう一度洛軍に同じ忠告を与えた。
「いいか、大井路の十九番目の路地に配達があっても絶対行くんじゃない。荷物は捨てて無視しろ」
「なにかあるのか?」
「逆だ、何もない。大井路に十九番目の路地は存在しないからだ。だから配達も行かなくていい、それは無い住所だからな」
「分からないが……分かった」
洛軍はこの時も龍哥も変な冗談を言うときがあるんだなとしか思わなかったが、話の内容より龍の妙に緊張したような表情が脳裏に焼き付いて忘れられなかった。
龍の忠告も忘れかけた頃、いま洛軍の手元には例の住所宛ての荷物があった。荷物をいつ受け取ったか、差出人が誰なのかは定かではない。ただいつものガスの配達を終えて、さぁ帰ろうと振り返ったときにこの荷物に足を取られて転びそうになった。
大きな荷物だった。洛軍がいくら力自慢でも持てる荷物の大きさは限られているが、その限界ぎりぎりのサイズ。さらにとんでもなく重い荷物で、おそらく五十キロはくだらない。デカくて重い荷物の詫びなのか、箱の上には札束が入った分厚い封筒が無造作に置かれており、添え書きには「陳洛軍 今日の夕方六時までに必ず届けてくれ」と書いてある。そして配達先は例の大井路の"ない"住所だ。洛軍は少し躊躇ったあと、なにか決意したように重たい箱を持ち上げた。
九龍城塞はまさしく立体迷路である。それこそ配達の仕事のおかげで洛軍も道を覚えることができたが、それでもまだ行き止まりと思ってた裏路地から人が出てきて驚くこともある。長年の住民しか知らないような近道、あとは信一のような城塞に詳しくてフットワークが軽い若者しか使えないショートカット、それから人の家の居間を横断するルート。
そして洛軍は見つけた。すでに何度も通ったことがある道に知らない路地があった。宛先は察するにこの路地の奥にあるだろう。ここは元から一日陽も差さずに薄暗い場所ばかりだが、その道だけは殊更暗くてまるで何者かがわざと明かりの入る隙間を全て塞いだかのようだった。
ここに入るのか? 洛軍は珍しく怖気づいていた。誰より城塞を知ってる男が二度も行くなと忠告した場所だ、しかし龍哥あんたは無い住所だと言ったのにだったらここにある道はなんなんだ?
西日は急激に傾いて城塞の全てを赤く染め上げている。洛軍はじりじりと肌を焼く黄昏から逃げるように路地に向かって一歩踏み出した。
「行くな洛軍!」
その瞬間恐ろしく強い力で腕を掴まれ、さすがの洛軍もびくりと肩を震わせて振り返った。名前を呼ぶものだから知り合いかと思えば、そこに居たのは見ず知らずの男であった。顔をよく見ようとしても逆光のせいで男の顔は黒く影になってよく見えないが、それでも未だに洛軍の腕を掴んでいる力の強さから彼が本気で引き留めてることだけは分かる。
「あんたは……」
男はこの暑いのに毛皮のついたジャケットを羽織りながらひとつも汗をかいていない。
「これ以上先に進むんじゃない、阿祖にも言われただろ」
「阿祖?」
「あー……龍捲風のことだ」
「龍哥の知り合いか? なぜ俺の名前を知ってる」
「あいつとはまぁ、古い友人のようなものだ。それとお前は結構な有名人だぞ、名前くらい知ってるさ」
洛軍は警戒の眼差しで男を見た。龍捲風の古い友人と称するだけあって確かに安いチンピラのようには見えない、しかし絶対に堅気でもない。
「この先になにがあるんだ? 龍哥は無いとしか言わなかったけど、現にここには道がある」
「説明するとなると難しいんだが……とにかくここで荷物を下ろして配達完了ってことにしたほうがいい」
「それは無責任だろう」
「安全第一だ」
「じゃあここは危険なのか?」
言い合いをしているうちに、いい加減洛軍の腕も疲れてきていた。場所的には行ったすぐそこなのだからさっさと行って仕事を終わらせたい。
不意に暗い道の奥から生温かく湿った風が流れてきた。まるで獲物を待ちかねた肉食獣の吐息のように生臭い風は、ねっとりと洛軍の痺れた腕を撫でていく。
「この路はお前を喰おうとしてる」
男はずいぶんと突拍子の無いことを言い出した。
「洛軍、思い出してごらん。お前がその荷物をここに運んでくる間、誰かとすれ違ったか? あるいは誰かを見かけたか?」
「いや……」
言われてみれば誰とも会わずにここに来た、それどころかどうやってここまで来たかさえ曖昧だ。最後にガスを届けた肉屋から大井路までの道は勿論頭に描けるのだが、今さっきどう歩いてきたかがさっぱり思い出せない。これを持って気がついたらここに居たとしか言いようがない。このことに気付いた洛軍はようやく現状の異様さを自覚して背中を冷や汗で湿らせた。
「何が起きてるんだ? 俺はどうやって……」
「心配ない。その荷物は金と一緒にここに置いていけばいいし、来た道を戻ればいい」
「でも来た道が分からない」
「送ってこう、老人街まで行けば分かるだろう?」
「……」
洛軍は男の言う通りに荷物を置いた。ズボンの尻ポケットに突っ込んでいた封筒も荷物の上に戻して、しばらく巨大な箱をじっと見つめた。
「行こう、長居するところじゃない」
「……ああ」
ふっと箱から視線を外した瞬間、あの重たすぎる箱ががたがたと独りでに震えた。
「っ、いま」
「行くぞ!」
男は洛軍の腕を掴むとそのまま引きずる勢いで走り出した。
「なんなんだ一体!」
「説明は後だ! 今は走れ! 振り返るなよ!」
男は振り返るなよ、の言葉を最初に言うべきだった。そうすれば洛軍がそれを見ずに済んだかもしれない。
洛軍が振り返って見た先、暗い路の向こう側。そこには既にあの箱はなく、代わりに人が立っていた。
"陳洛軍"が立っていた。
「あれはお前じゃない!」
手を引く男がそう叫ばなかったら洛軍は凍り付いたままだったろう。なんとか呼吸のやり方を思い出した洛軍はそこからは死に物狂いで走り出した。
城塞の中を走ってるはずなのにどういうわけか知らない風景ばかりが過ぎ去っていく。誰ともすれ違わないのに人の気配と視線だけが無数に感じられて、信じられないほど気味が悪い。
どれだけ走っただろうか。見覚えのあるポスターを視界の端に捉えてホッとしたのもつかの間、何かに引っかかって盛大に転んでしまった。さらに悪いことに転んだ拍子に壁に激突し、洛軍は呻きながら路上に倒れ込んだ。
「はぁ……助けられて良かった」
滲んだ涙でぼやけた世界に先ほどの男が居るのが見える。
「説明してくれ……」
衝突の痛みを堪えながら聞けば、男は人懐こい笑顔で肩を竦める。
「残念だが説明する時間もない。あとは阿祖に聞いてくれ、俺にできるのはここまでだ」
「あんたは何者なんだ?」
「……ナイショだ」
そう言う男は嬉しそうな寂しそうな変な表情を浮かべる。男にはもっと聞きたいことが山程あるのに、洛軍の意識は急激に形を失い始めていた。景色も音も感覚の全てが遠退く中で、男が愛おしそうに笑って「元気でな」と呟くのだけが分かった。
何か騒がしい。洛軍はそっと瞼を持ち上げた。
信一と四仔、それから十二もいる。売店の親父とその孫も、靴屋の主人もみんな洛軍を覗き込んで泣きそうな顔をしていた。
どうした?と聞くために口を開こうとしたが出来なかった。代わりに喉から聞くに耐えないうめき声が漏れて、身体が満足に動かないことに気がついた。
「いい、洛軍、喋ろうとしなくていいから」
十二が見たことのない険しい顔で洛軍を諌める。信一は急いで部下たちに何かを言いつけて、四仔はマスク越しにも分かるような青い顔で洛軍の脈を取っていた。
一体なにが、洛軍の視線を解したのか十二がきゅっと眉間にシワを寄せて言う。
「お前、仕事中に死にかけたんだ。電線が切れて水溜りに触れてた、その水溜りをお前が踏んだんだよ」
「偶然十二がその場に居合わせて飛び蹴りを食らわせたんだ」
指示を出し終えて戻って来た信一は相変わらず泣きそうな顔のままだ。
「完全に俺達の管理責任だ」
「違うだろ、あの電線は誰かに切られてた」
十二が憤ったように反論するが、信一は首を横に振る。
「原因が老朽化か人為的なものかは関係ない。それに後者なら余計に俺達の管轄内だろ」
「おい、その話は後にしろ。洛軍を部屋まで運ぶ」
四仔が話を遮ると、まだ何か言いたげな二人は素直に黙って洛軍の肩を抱えた。洛軍はと言えば感電で死にかけたことは把握できたが、さっきまで夕方の城塞にいたはずがまだ日も高いことが不思議だったし、野次馬の中にあの男が見当たらないのも気になった。なにか尋ねようとしても、舌がもつれて喋れない。身体だってまだ痺れたままである。本当に死にかけたんだなと実感すると同時に、あの暗闇の路地に立っていた自分とそっくりな……いや自分そのものを思い出す。あの男曰く洛軍を喰おうとしていた路地、生臭い風と血の色の夕焼け、そこに立つもう一人の自分。
もし死んでいたら、あれになっていたのだろうか。
全てが不可解な、洛軍が死にかけた日から三日が経った。四仔から言い渡された絶対安静がなるべく安静にまで緩められ、洛軍は龍捲風のもとに尋ねていった。
昼休みの理髪店は珍しく龍の姿だけで、彼は飾り格子の窓の側でいつも通り煙草をふかしていた。店の入り口に洛軍が来たと分かると、彼は少し驚いたように眉を片方持ち上げる。
「四仔のお許しが出たのか?」
「近所の散歩程度なら、と」
「そうか。無理はするなよ」
「ありがとうございます」
「……それで、何が聞きたい」
ただの散歩なら理髪店まで来る必要はない。龍は洛軍の神妙な面持ちを眺めて聞いた。
「注意されてたのに大井路の例の住所に行った」
「……」
「……」
「だから、か。それで死にかけたのか」
やれやれと首を振り、龍なった煙草を灰皿に押し付けた。
「彼処に行った奴は皆死んだ。生きて帰ってきたのは、たぶんお前だけだな」
「知らない男が助けてくれた、荷物を置いて逃げろって……その人は自称あんたの古い友人だそうだ」
「どんな風体だった? あの世に行った知り合いなら、残念だが沢山いるからな」
「必死だったからあんまり見てなかったんだが、この暑いのに毛皮のついたジャケットを着てたな」
洛軍は思い出して、あの男もお洒落は我慢だと豪語してジャケットを羽織る信一と同じ生き物なんだろうなと少し微笑ましく感じていた。
一方龍捲風こと少祖は煙草を持った指が震えてしまわないように虚空を睨みつけていた。洛軍の言う知らない男、自称古い友人、毛皮のついたジャケット。
「ああ、それから……なぜか俺の名前を知っていた」
「そうだろうな。お前は城塞の有名人だから」
「あの人と同じことを言うんだな」
何故か不満そうな洛軍に龍は思わずふっと笑いを漏らす。そうか、あいつも同じことを言ったか。
「それで結局誰なんだ?」
「さて? 折角来たんだ、まあ一服していくといい」
龍はあからさまに話をはぐらかして茶を淹れる準備に取り掛かる。きっと本人も自分が誰なのか言いたくて堪らなかっただろうが、知らない方が良いこともある。
「ついでに城塞の怪談話でも聞いていくか?」
「遠慮する……」
勧められた椅子に座って、洛軍はなんとなくバーバーチェアの向こうにある鏡を見た。あそこで自分を見たんだとはなぜか龍に打ち明けられなくて、まだ少し不安気な顔をした自分自身を見つめる。
あの路は今日もあそこで餌を待ってるんだろうか。