小噺 鏡の双子「さて、どこから話そうか……」
雨彦さんはそう呟くと腕を組み直し椅子に深く座り直した。記憶を辿るように視線を遠くに向ける。
「……あの二人はもともと一人の人間とアヤカシだったんだ」
ーー
オレには一つ、誰にも言えない隠し事があった。母さんの嫁入り道具の埃を被った鏡台、そこに映る、自分によく似ているけど違うひとのこと。『悠介』は物心ついた時にはもう見えていた。母さんはその話をひどく嫌がって鏡台も倉庫の奥にしまわれてしまったけれど、オレはこっそり彼に会いに行っている。悠介は、兄弟のいないオレにとって、理想の兄弟のような存在だった。
「なー、今日は何かあった?」
「そうだなー……父さんが朝寝坊しかけて大変だった!」
「あ、こっちもそうだった!父さん、あのあと間に合ったのかなー」
「後で聞いてみようよ」
鏡の向こうはよく似た別の世界になっているらしい。詳しくは分からないけど昔本で読んだ並行世界のようなもの、と認識していた。毎日、小さな差異を探してその日の出来事を報告する。今日の夕飯はハンバーグだとかオムライスだとか、オレたちの違うところを見つけることが日課で楽しみになっていた。オレと悠介の名前が違うのも、並行世界の違いの一つだ。だから違うことは愛おしいし、同じであることは嬉しい。わざわざ言葉にはしないけど、それはきっと悠介もそうなのだと思っていた。
蒸し暑い、夏の日のことだった。いつものように鏡を見ると、そこに悠介は居なかった。薄暗い倉庫の中、古びた鏡台は他の鏡と同じように自分の姿だけを映していた。
オレはそのとき、小さい頃に母さんや先生が言ったように、「大人」になってしまったのかと思った。悠介は本当は居なくて、オレが作り出した空想の友達で、何がきっかけかは知らないけど、何かがきっかけになってもう会えないのかもしれない。そう思うとだんだん不安になって、呼びかけることもできずに鏡台に布を被せ部屋から出た。
それから数日が経った夕暮れ、なんとなく鏡の向こうで悠介が待っているような気がして、鏡掛を取り払った。するとそこには久しぶりに見る悠介の姿があった。
「オレさ、こないだ足怪我しちゃって数日入院してたんだ」
「え……?」
確かに数日前、怪我をして病院に運ばれた子供がいた。だけどそれは三軒隣の家の男の子だったはずだ。向こうの世界では悠介がそうだったのだろうか。今までは、こんなこと無かったのに。
「享介は大丈夫だった?」
「オレは…怪我、してないよ」
「そっか!享介が怪我してなくて良かった」
オレが怪我してないことを喜ぶ悠介の顔を見て、罪悪感のようなものに襲われる。その後は会えなかった分を取り返すようにいろんな話をした。なんとなく、怪我のことは詳しく聞けなかった。
次の日も、その次の日も、悠介の足には痛々しく包帯が巻かれていた。
「その怪我、いつ治るの?」
「包帯はあと数日で取れると思うけど……完全には、もう治らないって」
「じゃあもう走ったり出来ないの!?」
「軽い運動なら、って言われたけど……全力疾走はもう無理じゃないかな」
オレだって身体を動かすことは好きだけど、悠介はそれ以上に好きな印象を受けてたから、その事実はかなりショックだった。鏡越しにうつる足と、自分の足とを見比べる。
「……オレが、代わってあげられたらいいのに」
「……代わることってできるのかな」
「そういえば、試したことないね」
その一言のせいで、愚かな好奇心に火がついてしまった。母親に叱られるかもしれないからと触れないでいた鏡の表面に、誘われるように手を置く。
「あ……」
同じようにした悠介と手が触れた、気がした。おそるおそる指を曲げると指が鏡の中へと吸い込まれる。
「ち、ちょっと待って。これどうする?」
「大きさからして1人ずつしか通れないよね」
「……オレ、享介にこっちに来てほしいな。どうせ怪我してるからそっちに行けないし」
入れ替わったら足が治るのか確かめるのなら悠介がこっちに来た方がいいんじゃないかと思ったけれど、言えなかった。悠介のことを空想の存在じゃないかと疑ってる気持ちがまだ少しあって、それを現実に連れ出すことが恐ろしいことに思えたからだ。
「いいよ。腕、引いてね」
悠介が空想の存在だったとして、オレはどこに行くんだろうと不安が過ぎる。繋いだ手は、夢と言うには暖かい。
「せーの、」
ぐっと引き寄せられて鏡の中へと頭を突っ込んだ。がたがたと鏡台を揺らしながらもぐるようにして中に入る。
「ほ、本当に来れた……!」
「享介がこっちにいるのすげえ変な感じ…!」
「オレだって!」
「すっげー嬉しい!ようこそ、こっちの世界に!」
抱きしめられた腕が暖かくて、そういえばずっとお兄ちゃんが欲しかったな、なんて思った。目を閉じて抱きしめ返して数秒後、目を開けると背中越しの床の木目が歪んで見えた。
「……え?」
「これからはずっと一緒だな、本当に嬉しい、オレずっと享介にこっちにきて欲しかったんだ」
「ずっと……?それって、どういうこと?」
悠介は答えない。抱きしめられてる腕が震えている。景色が歪んで、ぐちゃぐちゃになって、すっかり真っ白になった世界の中、オレと悠介のほかには向こうの世界が見える鏡だけが残っていた。もうオレも悠介も映さないそれは鏡というよりも窓のように見える。向こうの世界の倉庫の中、遠くで俺を呼ぶ母さんの声が聞こえる。
「ねえ、母さんが探してる、帰らないと……」
罪悪感に潰されそうになりながら悠介に語りかける。向こうの世界でがちゃりと扉の開く音がした。母さんの呼び声がだんだん近づいて、とうとう鏡台の前に座り込んだ母さんは、手を伸ばしたら届くような気がして──
「あ、」
伸ばした手が鏡面にぶつかり爪のぶつかる硬い音が響いた。母さんは鏡を覗き込んで「どうして鏡掛が落ちてるのかしら」と呟いている。
「母さん、母さん!」
声は届いていないようだった。オレがこちらに来る時に床に落ちた布がふたたび鏡台にかけられて、窓の外は真っ暗になった。足音が遠ざかっていく。
「…………」
悠介は泣いていた。泣きたいのはこっちのほうだ、泣き喚くことはできるけど、どうにもそんな気にはなれなかった。毎日毎日、たくさん話してきたからわかる、悠介は軽い気持ちでこんなことをする奴じゃない。
「……今までの話とか、全部嘘だったの?」
悠介はゆっくりと頭を横に振った。
「作り物だけど、嘘じゃない、享介の話を聞いて同じ世界を作ったんだ。細かいところまでは一緒にできなかったけど」
「世界を作る?」
涙を拭った悠介がうなずく。その瞬間景色が変わった。見慣れた倉庫、見慣れた鏡、廊下から母さんの声がする。
「悠介ー、享介ー。ご飯できたわよー」
今行く!と返事をする悠介は声だけは明るかったけれど、表情は曇ったままだった。
「……どういうこと?」
「享介が来て世界が歪んだから、オレと享介が双子の兄弟ってことで作り直したんだ」
正直言っていることはよく分からなかった。向こうの世界の母さんや、友達のことを思うと戻らなきゃとは思うけど、ここに居たいとも思っていた。悠介のことをそれでも嫌いになれないことだけが答えのように感じていた。
「……オレ、ずっとお兄ちゃん欲しかったんだよね」
「…!オレも、ずっと弟が欲しかった」
「あはは、やっぱり気が合うね。オレたち」
それからの日々は、驚くほどに何も変わらなかった。変わったことは、兄弟が出来たことと、成長がぴたりと止まったことだけだ。
あれから数年に一度、オレは悠介に内緒で鏡を見ている。鏡の向こうの景色は時たま移り変わっていて、今の持ち主はとある探偵事務所らしい。鏡台の置かれている古びた倉庫は、こちらの世界のそれに少し似ていた。
ーー
「こちらの世界じゃ蒼井弟は行方不明となった。それから何年か経って、鏡台はいわくつきの品として質に出され、それが巡り巡ってここにあるのさ」
「……それって何年前の話なの?」
「さてな。この鏡を引き取ったのは少なくとも5年は前になるが、あの二人はその頃から何も変わらない。今の年号でも教えれば確認できると思うが、あの二人は知りたがらないだろうな」
そっかー、と呟いて今の話の先日の出来事を反芻する。そこで一つのことに気がついた。
「あれ、でもこのあいだ鏡台から腕が……」
「あれは蒼井兄だよ。人間はその意志がないと向こうにはいけないが、アヤカシの場合はその限りじゃない」
「え、それって悠介くんは自由にこっちの世界に来れるってことー?」
「ああ。いくらアヤカシでも人から聞いた話だけじゃあ世界は構築できないだろう、誰にも気づかれないようにこちらに来てたはずだ」
おそらく、悠介くんはこちらの世界の理を変えることはできない。だから享介くんと同じ世界に生きるには享介くんを引き入れるしかない。彼の言葉や行動にはいくつか嘘があって、それはおそらく享介くんも薄々気づいているのだろう。
考えれば考えるほど、あの二人の決断が正しいのか間違っているのか分からなくなる。二人は今仲良く楽しそうに過ごしている、それだけが答えなのかもしれない。雨彦さんが掃除をしてないということは、人に害を与えたことはないのだろうし。
「まあ、あまり関わらない方がいい。今のところは何もしてないってだけで、今後また別の人間を招き入れる可能性はゼロじゃあないからな」
「はーい。この事務所って他にもそういうアヤカシに関わるものはあるの?」
「さあ。どうだろうな」
雨彦さんは意味ありげに笑うとちらりと時計に目をやった。
「ところでお前さん、今日はこのあと仕事じゃなかったか」
「あ、そろそろ出る時間だねー。じゃあ続きはまた今度ー」
荷物をまとめてる間、倉庫の方から何かが落ちるような音が聞こえた気がしたけれど、聞こえないふりをして事務所を後にした。まだまだ暑さの残る夏、通りは夕焼けの光で真っ赤に染まっている。