番外編 音楽室のゴースト・エレジー八月の半ば、外では痛いくらいに太陽がじりじりと照りつけている。九十九古書堂の入り口に吊るされた風鈴はピクリとも動かない。お客さんが少なければ扇風機の風もよく通って幾分か涼しいのだが、五人の学生のお客さんが来店している今はそうもいかなかった。
「想楽っちは何か怖い話ないんすか?」
「探偵の助手ってすげーの知ってそう!」
「殺人事件とか!?」
「ちょっと、落ち着いてー。僕がバイトを始めてから殺人事件を解決したことなんてないよー」
「なんだぁ……」
「ちょっと皆さん、本屋では静かにしてください」
旬くんが眉を顰めるとカウンター奥の机から一希先生が顔を上げた。
「別に、構わない。他にお客さんも居ないしな」
古書店はいつも通り閑散としていて、この子たち五人の他には誰も来ていなかった。
「怪談話なんて聞いてどうするのー?」
「最近暑い、から……涼めるかなって……」
「言い出したのは俺っす!」
「まあ、夏は定番だよねー。そうだなー……5人は同じ学校に通ってるんだよね?」
何かあるのかと期待のこもった眼差しで見つめられる。
「学校の七不思議、検証してみたらー?」
僕の言葉を聞いた五人は目を瞬かせた。
「七不思議、考えてみたらうちの学校にはありませんね」
「七不思議ってどんなのがあるんだ?」
「二宮金次郎とか人体模型が動いたり?」
「両方ともうちの学校にはないっすよね」
「トイレの花子さん、とか……?」
「女子トイレに入るのはちょっと…」
「ひとりでに鳴る音楽室のピアノは?」
「あ!!俺聞いたことあるっす、音楽室のピアノの噂!」
「俺も知ってる、深夜になると音楽室からピアノの音色が聴こえるってやつだろ?」
「へえ、そういうのがあるんだー。面白そうだねー」
「よし、じゃあ肝試しするか!」
「勝手に学校に入るつもりですか?」
「いいじゃんいいじゃん、青春っぽくてさ」
「外からでも、聞こえるんじゃ、ないかな……」
「よしじゃあ決まり!せっかくなら今晩誰かの家に泊まろうぜ」
楽しそうだねーとカウンターの中から眺めていると少し引いたところで同じく様子を見ていた夏来くんと目があった。
「想楽さんも、行きませんか……?」
「僕?」
「発案者っすからね!」
「人が多い方が怖くなさそう!」
「保護者ってことでどうですか!?」
「保護者って言ってもそんなに歳変わらないよねー?」
「楽しそうじゃないか。おれも、土産話を聞かせてほしい」
「一希先生までー」
「じゃあ決まり!今晩20時にうちの学校の正門集合で!」
ーー
「ってことがあってねー。今日学校に行くことになったよー」
あの学校に行くのは初めてだなー、とぼやきながら雨彦さんの分の茶を注ぐ。前回のお礼でいただいた茶葉は二煎三煎してもやっぱり香り高い。
「あそこはまあ悪いもんは居ないから大丈夫だろ」
「悪くないものは居るんですかー?」
「さてな。その目で確かめてきな」
お守りにと水色の鶴を手渡され、それを手帳に挟み込む。
「その学生たちに怪談話ならうちに来てくれりゃいくらでも聞かせてやるって伝えといてくれ」
「新しいビジネスとしてありかもしれないねー」
普段人ならざる者たちと対峙している雨彦さんが紡ぐ怪談話は折り紙付きだ。僕は遠慮しているが、一希先生は時々新作のネタにと取材に訪れる。彼の小説のホラー描写が雨彦さん直伝なのだと言うのだから、元となった物語はよほど恐ろしいものなのだろう。
「九十九の新作が楽しみだな?」
「ふふ、どうなるかなー」
ーー
20時。校庭から耳を澄ませても何も聞こえなかったので校内へと進入することになった。春名くんが教えてくれた鍵が壊れている窓からしのびこんで靴箱へと向かい、僕は来客用のスリッパを借りてひたひたと廊下を歩く。
「音楽室かー、合唱部が使ってるから俺らが使うことってあんまりないんだよな」
「ピアノならジュンの家にあるし」
「授業の時、くらいしか……来ない…よね」
しんとした校舎に足音と話し声だけが響く。
「うう……いつも来てるはずなのにめちゃくちゃ怖い……」
「み、みんなで歌うのはどうっすか!?」
「騒いでたらピアノの音聞こえなくなっちゃうでしょー」
「た、確かに……!」
「位置的に、そろそろ聞こえてもおかしくないと思いますが」
旬くんの言葉を聞いて全員が口を閉じて耳を澄ます。鼓動の音すら聞こえるような静寂の中、遠くに小さくピアノの音が聞こえるような気が──
「わっ!!」
「「うわーーーっ!?」」
春名くんの声に驚いた四季くんと隼人くんがばたばたと走り去ってしまう。
「ちょっと、四季くん、ハヤト!?」
「ハルナ、やりすぎ……」
「あはは、あんなに驚くとは思わなかったな」
春名くんはからからと笑いながら二人の後を追って駆け出した。残された僕、夏来くん、旬くんも慌ててそれに続く。
「……っ、はあっ、はあ…げほ、」
「想楽さん、大丈夫…?」
「はぁっ……もう、あの三人…!」
早々にバテてしまった僕に気づいて夏来くんと旬くんも足を止める。あとの三人は完全に見失ってしまった。
「ごめんねー……僕のせいで、はぐれちゃって」
呼吸の合間を縫うようにそう謝ると二人は首を横に振った。
「北村さんのせいじゃありません。悪いのは春名さんと、勝手に行動した四季くんとハヤトです」
「俺も、そう思う……あ、」
ふと夏来くんが何かに気づいたように視線を上げた。つられるように僕たちもそちらを見る。
「……音楽室だ」
教室の中から、微かに悲しげなピアノの音が響いていた。
「……どうするー?」
「他の三人と合流してからの方が…」
「……多分、大丈夫…」
「ナツキ?」
夏来くんががらりと扉を開ける。障壁が取り払われたことで聴こえてくるピアノの音が大きくなり、その音色の美しさに思わず息を呑んだ。
「すごい……」
旬くんが奏者をひと目見ようと教室を覗き込もうとした瞬間、廊下から足音が響く。
「あ!やっと見つけたっす〜!」
大きな声を出した四季くんを旬くんがきっと睨みつける。
「うるさいですよ、静かにしてください」
「感動の再会だってのに冷たいな〜」
「あれ、その子はー?」
三人の背後に、楽器ケースを背負った男の子がいた。
「ああ、さっきそこで会ったんすよ!麗っちも音楽室に用があるらしいっす!」
「…神楽麗だ。よろしく」
「そのケース…バイオリンですか?」
「そうだ。私はここにバイオリンを弾きに来た」
「へえ、バイオリン弾けるんだー、すごいねー」
「バイオリンならナツキも弾けますよ!な!」
「え?うん…」
ふと、ピアノの音が止んでいることに気づいた。音楽室の扉に視線を移すと、中途半端に開いていた引き戸がガラガラと音を立てて、開いた。
「……麗さん、待ってたよ」
「都築さん」
都築さん、と呼ばれた青年は麗くんだけを見つめて柔らかく微笑んだ。扉の外には出ようとしない。麗くんは引き寄せられるように音楽室へと入っていき、僕らもそれに続いた。音楽室の扉が閉まる音が廊下に響く。
見えてない、のだろうか。少なくとも、反応を見る限り隼人くんや四季くんには見えてなさそうだ。都築さん…も、僕らのことは一瞥もしなかったが判断はできない。
「……どうなってるんすか?」
「『都築さん』って?」
「……ピアニストの都築圭でしょうか。言われてみれば、先程の演奏は彼の弾き方によく似ているような」
「その人、死んじゃったんすか…?」
「確か数年前から行方不明ですね」
「なあ、とりあえず座ろうぜ」
いつの間にか春名くんが準備室からパイプ椅子を運んできて、僕らは音楽室の真ん中に椅子を並べた。壇上でバイオリンの用意をしている麗くんはピアノの前に立つ彼とは何も話さない。バイオリンのチューニングに、ピアノが音が重なる。
「ほ、ほんとに誰もいないのにピアノの音がする…!」
怯えて春名くんの服の裾を掴む隼人くんに、旬くんは人差し指を口に当てた。四季くんも怖がってはいるが、この後のセッションへの期待も大きいようで、隼人くんの反対側で春名くんにしがみついている。
圭先生がピアノの前から移動し、麗くんと並んでお辞儀をした。ぱちぱちと、誰ともなく拍手をする。顔を上げて、観客を見渡す圭先生はどこか嬉しそうに見えた。
かさりと楽譜の擦れる音が響く。息をすることさえ躊躇われるような静寂の中、圭先生と麗くんは視線を合わせ、呼吸を合わせるように頷いた。カウントも取らずに圭先生が鍵盤を叩き始め、セッションが始まる。
「わあ…!」
「すごい……」
思わず漏れたのであろう感嘆の声が聞こえたが、誰もそれを咎めることなく、演奏に聴き入っていた。僕は他の五人と違って音楽はまったくの素人だけれど、二人の演奏が素晴らしいものだということはなんとなく分かった。盗み見た観客たちの表情もいきいきと輝いていて、肝試しに来ていたことなんてみんな忘れているように見える。
目をきらきらさせている高校生たちの顔を見ているとふと夏来くんと目が合った。彼ははにかむように笑って視線を圭先生の方へと戻す。演奏も佳境に差し掛かり、悲しく荒々しい旋律が大きな盛り上がりを迎え、その後穏やかでゆったりとしたものへと変わっていた。終わりに向かいだんだんゆっくりになる旋律を、二人は目を合わせながら最後まで丁寧に音を奏でていく。彼らの表情は晴れ晴れとしていてとても楽しそうに見えた。
ついに最後の音が途切れ、一瞬の静寂とともに余韻が響く。最初に手を叩いたのは四季くんだった。音楽室に、六人分の拍手が響く。
「麗っち本当〜にすごいっす!マジメガ感動したっすよ!」
「…っ、俺も、すっごく感動した…!」
「素敵、だった……」
四季くんが立ち上がって麗くんのもとへと駆け寄る。僕たちも倣って壇上の方へと向かった。
「私たちの演奏を人に聴いてもらう日が来るとは思わなかった。喜んでもらえて光栄だ」
麗くんが深々と頭を下げる。圭先生は僕らの様子をにこにこと眺めていた。月明かりだけが差し込む音楽室に、束の間、楽しげな話し声が響く。
「演奏はすっげー良かったんだけどよ、何か忘れてないか?」
春名くんの言葉でみんながはっと我に返った。
「俺ら肝試しに来てたんだった…!」
「あの、麗さんはどうしてここで演奏を…?」
おずおずと聞く旬くんに、麗くんは毅然と答える。
「ある夜ピアノの音色が聴こえたからここに来たら、都築さんに一緒に弾かないかと誘われたんだ。それから毎晩ここでセッションをしている」
「毎晩……」
「私は、都築さんほど一緒に演奏していて楽しい人にはこれまで出会ったことがなかった」
麗くんがそう言って都築さんの方へ向き直ると都築さんも嬉しそうに笑った。みんなも麗くんの視線の先を辿る。窓から差し込む月光が、スポットライトのように壇上の二人を照らしていた。
「僕も…麗さんと演奏するのが楽しいんだ。麗さんの音はいつも心地良くて……ふふ、でもたまには賑やかなのも良いね」
圭先生はそう言うと僕らの方をぐるりと見渡した。何かに耳を澄ますように目を閉じる。瞬間、彼の存在が濃くなったように感じた。四季くんや隼人くんから驚きの声が上がる。旬くんも驚いたようで、咄嗟に夏来くんの腕を掴んでいた。
「え、今のって…!」
「やっぱり『都築圭』だ、どうして…」
圭先生はゆっくり目を開けると深々と頭を下げた。顔を上げた彼と目が合ったと思った次の瞬間、そこが音楽室でないことに気づく。
「あ、えっ!?靴箱?」
「帰れってこと?」
「まあ、目的は達成できたよねー」
「思ってたのとは大分違ったけどな」
それぞれが靴を手に持って入ってきた窓へと向かう。
「演奏はめちゃくちゃ良かったっすけど、あの二人を邪魔しちゃ可哀想っすよね」
「学校のみんなには内緒にしようよ」
「うん……俺も、そう思ってた…」
窓を乗り越えて、全員が靴を履き替えた時。
窓の前の部屋からガタン、と物音が響いた。
「え……?」
「そこの部屋って確か」
「理科準備室……」
鍵のかかった扉を内側からがちゃがちゃと揺らす音がしてみんなで顔を見合わせる。
「ど、どうする!?」
「閉じ込められてる、のかも……」
「オバケだったら!?」
「人体模型はないけど、確かあそこには」
扉の磨りガラスに何かが叩きつけられるような大きな音がしてそちらを見る。白くて異様に細い、手のようなものがうっすらと透けて見えて──
「ぎゃーーっ!!!!」
走って逃げるみんなを横目で追いながら、慌てて手帳に挟んでいた鶴を窓の向こうへと投げる。鶴は扉を押さえるように理科準備室の引手に留まった。
「想楽さん…!」
夏来くんに腕を引かれ走り出す。校庭は月明かりに照らされて、校舎の影から抜け出した僕らの影は長く伸びていた。
ーー
「……なるほど、音楽室の霊と生徒がデュエットを」
僕の話を聞いた一希先生がノートにペンを走らせる。何かインスピレーションが刺激されたのかぶつぶつ独り言を言いながらノートを黒く埋めていく。長くなりそうだな、と判断した僕ははたきを持ってカウンターを出る。なんだか入口のあたりが騒がしいなと視線を向けるとすぐに扉が開き、湿度の高い熱気と共にドアベルと風鈴がチリンチリンと鳴った。
「あ、いらっしゃいませー」
「想楽っち!昨日のことなんすけど」
学校帰りの四季くんたちがぞろぞろと店内に入ってくる。四季くんの鞄が当たってずれた本を春名くんが元の場所に戻す。
「今日学校でみんなで麗さんのこと探したんだけどどのクラスにもそんな生徒はいないって」
「あの制服はうちのだったのにおかしいよな?」
「圭さんはともかく、麗さんは普通に見えたし話もできたのに……」
カウンターの奥で文章を書いていた一希先生が顔を上げた。
「それは、座敷童の類ではないだろうか」
「学校にー?」
「そんなの聞いたことないですよ」
「たしかによくある座敷童は家や店に居るものだが……学校に居る座敷童の話も、昔どこかで聞いた気がする」
「少なくとも悪い人、では……ないと、思う」
「そうっすね、なんだかんだ楽しかったし!」
「最後のはやばかったけど……」
「ハヤトあのあとなかなか寝付けなかったもんな」
「そ、そうだけどここで言わなくてもいいだろ!」
「ほら、何も買わないなら帰りますよ」
楽しかった、ありがとうと口々に言いながら去って行くみんなにこちらこそー、と声をかける。
「……ふふ、青春だな」
「そうだねー。一希先生も涼くんや大吾くんと肝試ししたら?」
「大吾はともかく、涼が怖がりだからな……だが、今度怪談話をしてやる約束はしてる」
「一希先生の怪談話、雨彦さんのとは別方向に怖そうだなー」
はたき掃除を終えて、扇風機のスイッチを入れる。原稿の端を押さえながら一希先生は目を細めた。
「新作、楽しみにしてますねー」
「任せてくれ。おかげでいい話が書けそうだ」
後日出来上がった小説は二人の生い立ちなどが情感たっぷりに描かれていて、少なくともうちの古書堂ではこの夏いちばんのベストセラーとなった。それでも僕らの生活はさして変わらない。あの二人もきっと、今夜もあの教室でふたりきりの演奏会を開いているのだろう。