今夜はミルフィーユ やっと終わった。
長かった撮影がようやくアップを迎え、君島は凍える身体を縮こませながらエレベーターに乗り込んだ。自宅までは車移動だとはいえ、駐車場からのたった数分にも満たない距離であっという間に体温が奪われてしまう。つい先週までは半袖でも良いくらいだったというのに、急激な気温の変化に疲労も相まって気が滅入りそうだった。
やっとのことで玄関に辿り着くと、何やらダイニングのほうから良い匂いが漂ってきた。そうだ、今日は彼が家に来ているのだった。
「おかえり」
「……ただいま、帰りました」
長い髪を一纏めに結い、黒無地のシンプルなエプロンを着けた遠野は視線だけをちらりと向けると、また手元に目を落とす。久々に見る顔は何も変わっていないはずなのに、どうしてか少し滲んでいるのはきっとあたたかい湯気のせいだ。
「んだよ、堅苦しいな。お前ん家だろ」
「いえ……何、作ってるんですか?」
「見りゃわかんだろ、鍋だ鍋。今日は豚バラと白菜!」
まるで異国の知らない食べ物を見るような顔つきをする君島を認め、遠野は訝しげに首を傾げた。
「……いくらなんでも、鍋食ったことねえってこたないだろうなァ」
「そんなことは、ありませんが。……お家でできるものなんですね」
その言葉に目を丸くすると、遠野はフッ、と笑った。
「いくらでもできるぜ。今度は何がいいか考えときな」
いつぶりかわからない自宅、彼と食卓を囲む。大理石の冷たいテーブルが、いつもより輝いて見えた。ほかほかと立ち込める蒸気に、君島の視界が白くなる。
「ッハハ、お前、眼鏡曇りすぎ!」
「うるさいです」
げらげらと笑いながら、遠野は身を乗り出して君島の眼鏡を外した。それから数秒間、見つめ合う。
「……なんですか」
「いや、いつまでもコドモみてえな顔してんなって」
「そんなこと言うの、アナタだけですよ」
ため息をつくと、遠野はニヤリと笑って腰を下ろした。同時に手を合わせ、いただきますと呟く。ほんのりと甘い白菜を噛みしめながら、君島はいつの間に全身がうっすら汗をかくほどに温まっていたことに気がついた。
End.