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    banatoma

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    banatoma

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    チェズルクベタ甘。いいよね。
    CPなし長編系シリーズとは別時空。

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    #チェズルク
    chesluk

    ソネット104番を全力投球する話 推し演奏。この人の演奏が私にとっての「ペトラルカのソネット104番」なので貼っておく。
     この人のこの演奏のイメージで書いている。
     https://www.youtube.com/watchv=e8gtiOCoTMs

     長編系シリーズとは別時空。

     私にシリアスは無理です。

    ーーーーーー

     とある日のこと。
     唐突に降り出した雨はあっという間に土砂降りに。
     まさに出かけようとしていた私はやや苛立ちながら、オフィス・ナデシコの窓からその様子を眺めている。

     悪天候の中で無理矢理になってまで急ぐ用ではなかったにしても、出鼻をくじかれるのは嫌なもの。
     降って湧いた暇な時間。唐突な手持ち無沙汰にコーヒーでも入れようかとロビーまで行けば、そこには土砂降りをギリギリで回避できなかったボスが居ました。
     今日は誰もが不在である予定の日。そも、自分が戸締まりをして出るくらいなのだ。
     そんな中で留守番を決めた瞬間に、淡い片思いを抱く相手が帰ってきての二人きり。
     良い事もあるものだと、少し濡れながら息を切らして駆け込んできたボスを眺める。彼は少し肩で息をして顔を上げて。
     そうして特に深い意味もなく目が合う。あぁ、見とれている場合ではない。

    「おかえりなさい、ボ「あ! チェズレイ居たんだ。ねぇ今暇だったりする?」
    「……えぇ。今しがた暇になったところです」

     勢いが良い。
     再び出鼻をくじかれるが、今度はあまり悪い気はしません。
     そこに、返事を聞いて楽しそうな笑顔が帰ってきたのならばなおのこと。

    「じゃぁさ、ちょっといいかな。待ってて!」

     返事を返す間もなく、どたどたと慌てて自室へと駆けていく。
     慌てずとも居なくなったりなどしないのに。そう微笑んでも一人で騒がしい我らがボスには聞こえるはずもない。
     ただ、彼の騒音まで愛おしいのは重症かもしれないと思いながら、私は静かに待つ。

     ばたぁん!
    「(扉が開いたようだ)」

     どたどた……
    「(走って)」

     ずべえっ、どがぁん!
    「(おや滑った…、壁にぶつかった)」

     遠くで呻く声。
    「(これは顔面からいったかもしれませんね)」

     駆けつけてやるべきか、素知らぬ顔で気がつかないふりをしてやるか。
     難しいところである。

     響く声。痛くない痛くない……
    「(おいたわしい……。しかし元気そうで何より)」

     ぱぁん!と頬を叩く音。
    「(気合を入れましたね)」


     さてそろそろ来るだろうかと待ち構えると、濡れたコートを自室に置いてきた彼がひょこっと現れる。

    「ボス……」
    「いやーごめんごめん、そこで滑っちゃってさぁ!」
    「でしょうね」

     近寄ってきた彼の肩を優しく掴んでくるりと回す。
     視線の先には窓。
     黒雲に覆われ、ひどくなる土砂降りの窓。ガラスにはものの見事に顔面を半分赤くした不幸な顔が映りこむ。
     うわぁ、意外と見事に……と思わず立ち尽くして眺めていると、トドメとばかりに鼻血まで垂れてきた。
     私は最高にデキる部下ですので、さっとちり紙を差し出したりします。完璧にね。

    「こ……こりゃぁ思いの外完全にみっともないな」

     彼が鼻にちり紙を詰めながら思わずこぼす。

    「ふふ、私以外が出払っていて良かったですね」
    「……そうだね。なんだか、たむろする不良を補導して返り討ちにでもあったみたい」
    「ご経験がおありですか?」
    「それなりに。ほら僕ってあんまり強そうな見た目じゃぁないからさ。こういうのって弱そうな奴に真っ先に集中するだろ?」

     はぁと彼がため息をつく。

    「それでも鍛えていらっしゃる。簡単には負けないのではありませんか?」
    「できる努力はするよ。だけど不良とは言え一般人だからね。立場上簡単には殴らない。そも子供が相手だ」
    「向こうは容赦してきますか?」
    「だったらいいんだけどねぇ」
    「ふふ、大変ですねぇ、公僕どの」
    「まぁね。……んーー……」

     おや、目一杯意地悪そうに私を見つめて。

    「どうしました?」
    「純粋な殴り合いだったら、君になら勝てそうだな」
    「おや怖い。これは法定で再戦する方向に持っていかなければ」
    「……一瞬で負けだなと思わせないでくれよ」
    「ふふふ、お巡りさんに負けると捕まってしまう立場なものですから」

     彼の口から思わず長いため息が漏れている、可愛らしい様子を微笑んで眺めていると、新しく持っている封筒に気がついた。

    「ところでボス、先程は何を取りにお部屋まで戻ってらしたのですか?」
    「え? あぁ、これ。そうそう、これだよこれ!」
    「?」

     私が首を傾げていると、彼はがさがさと封筒を破って中身を取り出した。本のようですね?

    「これなんだ君に頼みたかったの!」

     取り出したのは『食いしん坊将軍のテーマ』と書かれた楽譜でした。

    「なるほど、ご自分で弾けるようになりたかった、と」
    「いや、弾いてほしくて。ほらレッドダイヤをすり替えに行った時に弾いてくれただろ?」

     あぁ、サワールの。と納得して思い出す。
     あの時初心者向けの譜面を奏でる私を、彼は食い入るように見ておりました。

    「あの時は気にする事がたくさんあって気もそぞろだったけど、もっと落ち着いてじっくり聞きたいってずっと思ってたんだ。だってとっても格好よかったからさ!」
    「あれは初心者用の簡単なものでしたね。こちらの楽譜よりは少しばかり難しいでしょうが」
    「そうなの?」

     そう言って私が指差した箇所には『はじめてのピアノ』と書かれている。

    「これ入門用だったんだ……み、見分けがつかなかった。だって楽器屋さんで見るとこんなのばっかなんだもんなぁ」
    「そうですね。専門的に扱う店以外では入門書や初心者向けがほとんどです」
    「ソッカァ……」

     彼はあからさまにがっかりとする。
     先程滑ったことと言い踏んだり蹴ったりの立て続けでだいぶ心が折れていらっしゃるようだ。

    「そうしょげることはありませんよ、ボス」
    「そうかな。なにかいい話ある?」
    「えぇ。ニンジャジャンも食いしん坊将軍も最近は流行りですからね。テーマソングは町の至る所で耳にします。加えて、貴方もここでよく見ているでしょう? TV放送や再放送。それからレンタルでね」
    「それって」
    「あれだけ聞けば、音の配列も響きも完全に覚えますとも。私の腕前を持ってすれば楽譜がなくとも今すぐ弾いてみせるなど容易いこと」

     私が言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、ガッ‼ と手を握る。
     思わず反射的に仰け反る。

    「ほんとう……⁉」

     情けなく下がった眉に、うるうるの瞳。凄まじい輝きを放って全力で見つめてくる。

    「えぇ……もちろん」
    「よかった……本当によかった……!」
    「あの、ボス?」
    「今日は目覚ましの電池が切れてて、目覚めて時間見た瞬間心臓止まるかと思ったし、何とかデッドラインスレスレに出かけたら、転んでカバンの中身ぶちまけるし」

     きゅ、と握る手に力が入る。

    「スマホはドブに落ちて使い物にならないし。今日話を聞く予定だった人の所に到着して、ガラスに写った姿見て顔面と髪にドロついてた上寝癖までそのまま、とんでもない姿だったって気がつくし! だのにここまでしたのに、先方は渋滞で遅刻でさ。ようやく会えても……向こうめっちゃ機嫌悪くて八つ当たり的に怒られるしさ、すごい怖かった! 僕のスマホはアレだし当然連絡先の交換も面倒な事になるし!」
    「おやおや」
    「その上お昼食べようと思ったら財布もないしさ! スマホ無いから電子マネーも使えないだろ⁉ それで諦めてナデシコさんの所に書類受け取りに行って、スマホの件でちょっとお説教もらってたら、まんまとその書類忘れて帰ってきたよね……その上この雨!……からの知っての通りで、僕は……僕は……」

     おや、いつの間にか涙目でいらっしゃる。なるべく穏やかな表情をを作り、そっと顔を覗き込む。

    「お疲れさまです。書類はこの間の件に関する事ですね?」
    「うん、そう」
    「でしたら解決済みでしょうから、恐らくは急がないと思われます。ナデシコ殿にメールを打っておいたら良いのではないでしょうか」
    「そうだな」
    「雨も本降りになる前に到着できて良かったですね。もう雷が鳴り始めました。今日のボスならば……まだ外に居た場合、落雷が直撃したのでは?」
    「うわー、ありそう」
    「満身創痍も知っているのは私だけですし、鼻血もそろそろ良い塩梅ではありませんか? 私は楽譜が無くても弾けますので問題はないかと。今手にされている楽譜も、もしもボスがご自身で挑戦したいと思った時には存分に役に立つでしょう」
    「ありがとぉ……」
    「どういたしまして。しかしお財布は……」
    「あ、財布は机の上にあったよ。スマホは壊れてしまったみたいだけど」
    「今のボスは身分証明が出来ないので、貸与品でしたよね」
    「申し訳ないよな……」
    「事故は誰しもにあるものです」

     微笑んで差し上げれば彼は、ちぇずれぃやさしい……とつぶやいて、それから思い出したように握りしめていたままの手をぱっと離した。

    「あ‼ ごごゴメン、僕ちょっとその、今メンタルがアレでさぁ!」
    「いいえ、お気になさらず」
    「ふえぇ……今日いちばんやさしい……」
    「まず、鼻を拭いて顔を洗ってきたらいかがでしょうか。禊的な意味も兼ねて」
    「そうだなぁ」

     彼が洗面所へと行く前に、楽譜を預かっておく。
     軽く目を通してピアノの前へ。

     洗面台の水の音に、思わず笑みがこぼれる。
     先程握られた両手の感触。
     思いの外力強くて驚いた。本日の災難のせいだろう。きっと加減していない。
     あんな感じなのか。彼はあんな風に力を込めるのか、なんて。
     手袋を外しながら、もしも素手だったなら少し照れてしまったかも、なんて妄想をしてみたりして。

     らしくないと思いながら、彼が来て本番の演奏を奏でる前に。
     砂糖のような甘い思考を払拭しておこうと準備運動に練習曲を弾き始める。

     が。

     想定外。払拭できない。今ひとつ集中できない。
     己の重症っぷりに思わずため息も出るというものだ。

    「えーと、あ、実はあまり、その、よろしくない感じ、とか……?」

     隣から声。おやと思いそちらを見ると。

    「……ボス、随分と早いですね。お顔は拭いてきましたか」
    「いや、思ったより早くピアノの音が聞こえてきたから」
    「準備運動ですよ、少しばかりね」
    「え、あの綺麗なやつ準備運動なの?」

     まったく、正直なのだからと言う言葉を飲み込む。
     たかが練習曲。それでも綺麗ときたものだ。そうだろうか。いやきっと彼が言うのならそうなのだろう。
     だが問題はそこではない。
     さぁため息の言い訳をどうしようか。

    「ええ、そうですとも。よろしくない。……しばらく弾かないと、鈍るものですね」

     厳しいだろうか。この程度の嘘にすらわざわざ意識を回さなければいけないだなんて。
     さらにわざとらしくため息を追加する。

    「あ、そういうこと。それは僕もちょっとだけわかるなぁ。思うように行かないとつい舌打ちしたくなるよ」
    「ボスは……あまり舌打ちをするイメージはありませんが」
    「あー、単純に下手だから鳴らないだけさ」

     そう言って何度かやって見せる。

    「確かに、舌打ちのような音はしませんね」
    「時々うまくいくんだけど、だいたい変な音がして心底かっこ悪いから余計にやらないんだよ。その結果お上品風になってるだけ。笑えるだろ?」

     困ったように笑う。
     あぁやはり眩ゆくて、それになんて可愛らしい。
     恋は盲目とはよく言ったものだ。
     あまりの眩しさに目眩がする。重症もいいところだ。

     さて、そうこうしているうちに、彼は自分の隣に椅子を持ってきて聞く準備を万端にしている。
     さぁ弾かなければ。

     最初は……

    「ボス」
    「何だ?」
    「リクエストの食いしん坊将軍までに、もう少しばかり準備運動を行うご許可を。それと、多少の手遊びを」
    「全然構わないよ!」

     言ったなとばかりに内心ほくそ笑む。
     こういう時はいたずら心が動くもの。
     集中できない時に勢いでゴリ押すのは定番すぎますかね?

     鍵盤に指を滑らせながら位置を確認する。たかだかそんな動作までしっかりと見ているのが愛らしい。
     たった一人の観客にこんなに心乱されるなんて。
     ふふ、これで調子に乗らずになど居られようか。

     最初はスケール。練習半分、パフォーマンス半分。
     ボスが一生懸命視線で追いかけて来る気配を確認してもういちど。……と、見せかけて途中からグリッサント!
     ここから一気にテンポを上げてボスのお気に入り、ニンジャジャン第二期オープニングテーマ前奏へ、毎週火曜日の再放送で聞き慣れた前奏。聴音でのアドリブによる鍵盤でのタイトルコールをつける。隣から聞こえる小さな、そしてなんとも嬉しそうな感嘆の声!
     そうして当然、冒頭のセリフも鍵盤で叩く。言葉とて高さと抑揚があるのならばそれは音楽と言えるでしょう。ならば表現は可能。
     特に、全部を覚えて暗唱出来るような方ならば、頭にセリフが響くやもしれません。

     後は普通の演奏。普通のアニメソングならばドラムセットとベースによる刻みが必須になってくるので、左手でそれを意識しながらの即興アレンジ。
     こちらもほぼ必須のエレキギターの音を書き換えて弾く。高速に振れる音はきらきらと。主旋律の合間に一気に飛ぶ。
     大きな跳躍をするたびに息を呑み、くすぐったいほどに注がれる視線に負けないように。
     どうせ即興なのだ、全体構成や一貫した雰囲気よりもその場その場をを意識する。
     前半は原曲に寄せて。後半はピアノの長所を全面に押し出した完全なピアノアレンジ版。そうしてラストは激しく。勇ましく。

     そこから曲を終わらせることなく一気にさらに加速して刻む。二小節ほどトゥッティに寄せた刻み一本に変えて右手に全てを引き継ぐ。
     徐々にテンポを落とすリタルダント。音量も下げていきましょう。中音域からゆっくりと高音域へ。えぇ、フリと仕込みは大切なので。
     そうして左手。一点正確に狙いを定めたフォルティッシモ。大切なのは落差。一気に低音の勇壮なメロディーを奏ではじめる。そう、食いしん坊将軍のテーマwithピアノアレンジ。少しばかりベタなメドレーの構成。

     隣から嬉しそうな声とも息ともつかない感嘆が聞こえた。
     ええ、ええ、ええ! たった一人のためのアレンジメドレーなのだから、そうでなくては意味がない‼
     こちらは当然、リクエスト通りの原曲寄りアレンジ。今度はあまり遊びの余地はない。リクエストですものね。

     起伏に富んだメロディ。王道のリズム。
     隣を見ずとも解る期待。服を通り越して肌に刺さり、かゆいほどだ!あぁ、ふふふ、思わず笑ってしまう。一体どれほど熱心に見つめているのだ、もうこの手に穴でも空いてしまうのではないだろうか。
     一銭も払わない上客。
     これほど演奏者冥利に尽きるコンサートはそう無いだろうと確信できる至上の興奮。
     たった一人の客のために、肩で息するのを隠せないほどに弾くなど、らしくない。
     しかし、そうしなければならない。そうでなければならない!
     だってこの期待に、答えたくて仕方がない。
     私にとってこれほど意味のある演奏は、もう何時以来だろうか!

     ラスト、締めの叩きつけるようなフォルティッシモ。最後の音。呼吸が戻る前。鍵盤から指が離れるその前に鳴る拍手。たった一人で万雷のそれだ。叩きすぎではないかとすら思う。
     軽く気が抜けそうになるのをこらえてそちらを見れば、ものすごい輝きを携えてこちらを見つめる愛しいお方。


    「あのさ、えっと、すごくすごくすごかった……メチャクチャかっこよかった…………!!!」
    「お気に召していただけたようで何より」

     てっきり、普段嬉しいことがあった時のように、立て板に水のごとく言葉が飛んでくるものと思っていたので、これは少しだけ予想外。
     言葉が崩壊するほど気に入っていただけたようだ。
     目一杯輝く瞳は、まるで揺れるゼリーのようだ。

    「あの、さ、セリフとか、あとなんかだーーってなってにゃにゃーーってかっこいいやつとか、ピアノなのに声みたいでさ、あと、えっと!!」
    「焦らずとも、きちんと聞きますよ」
    「あ、うん、だけどその、まって、まって。整理するから! 伝えたいことがたくさんあって、でもたくさんすぎて、頭も言葉も大渋滞で、ちょ、まって、まって!!」

     目を白黒させて、両腕をばたばたと動かして全身で大至急を表現しながら無言で一人で大騒ぎ。
     すぐ隣の椅子の上で、あーとかうーとか小さくもだえながら色々考え込んでいるだけなのに、叩きつける雨や雷よりもずっとずっと騒々しい。
     何も感じようとせずとも、まるで声が聞こえてくるようだ。
     こんなにもわかりやすいのに、読心術だの何だの言ってくるのだから、面白すぎるにも程があるというもの。
     あぁ、チラチラとこちらを見ていらっしゃる。
     私はどこにも行きません。ちゃんとここに居りますとも。
     貴方が私のことで頭を一杯にしながら、絞り出してくださる言葉が気になって仕方がありませんので。

     しかしながら、待っているだけのこの時間は少しだけそわそわしますね。
     ふふ、年甲斐もない。それは演奏者としてか。それとも彼だからか。……ふたりきり、だからかもしれないし、気圧による単なる体調の変化かもしれない。
     願わくば一番最後。何もかもが天気のせいで、全てが気の所為ならばいいのに。
     どうせ実ることのない恋。
     きっとこの世に幾つもないほどの遠い遠い、片思い。
     暗闇の奥、泥の底から一番星に。その光はすぐ側に見えるのに手が届くことは決して無い。

     ……やめておきましょうか、これ以上の思考は。
     この雨ならば、まだしばらくは誰も戻っては来ないでしょう。
     今はこのスイートな幸福の事だけを考えて浸っていたい。


     結論が出た所で。


     素手のまま右手を握り、親指と人差指だけをぴんと伸ばす。

     軽く息を吸って、狙いを定める。
     狙うは顔。
     唸るボスの口の左右。頬を正面からぶにっと捕まえる。

    「まや、きゃんがえちゅうなんらぇど(まだ、考え中なんだけど)」
    「ふふ、タイムアップです」

     ぐに、ぐに、ぐにと指で頬の肉をつまんだままグリグリと意地悪をする。
     ふふふ、ぶさいく。
     顔の脂の感触。頬の柔らかさ。肉の奥にある歯列の感覚。
     普段は嫌悪している人間の、人体の感触がなぜだかとても好ましい。大人しくおもちゃにされる姿も可愛らしい。
     らしくもない悪戯の動作に少しばかり照れているのを、気づかれたりしないだろうか、なんて。ふふふ。
     浮かれてこんなくだらない悪戯を、あぁ本当に、私らしくもない。

     十分堪能して、名残惜しくはありますが指を離し、開放してさしあげる。

    「もう、びっくりしたなぁ」
    「申し訳ありません、ボス。あんまり面白そうだったのでつい……」
    「あ、そうなの……いや確かにだいぶ奇行じみた悩み方、かもだけど」
    「ええ、吹き出してしまうかと思いました」
    「上品な君が吹き出しちゃうだなんて、それ逆に見てみたかったかもな」

     そう言って、むくれ顔から一転して破顔するものだから。
     それがあんまりにも素敵だったものですから。あんまりにも愛らしかったものですから。
     思わずほんの少しだけみとれて、少しだけだけつられてしまった。きっと、私も少しだけ笑ってしまった。

     あぁ、見られてしまったなぁと思い、どんな顔で取り繕おうかと彼の顔を伺えば。
     おや、まぁ見事にこちらを見つめてくださっている。

    「ボス?」
    「あ! いや、そ、そそその、何でも、ない!」

     そう言って顔を背ける。こころなしか……いいえ、ふふ、ふふふふ、耳まで見事に赤くしていらっしゃる。
     何がそんなに照れくさいのでしょう………?


     ここまできて、唐突にひらめいた一つの可能性。


     私は、もしかして私が思う以上に可愛らしいのではないだろうか。
     それはもう、本気で深刻なほどに。


     私、かわいいのでは?


     ……ボスが私に惚れる可能性、ゼロではないどころかそこそこ脈アリの可能性、あるのでは?


     実際ACEくんには至らずともビーストくんマスコットよりは、十分遥かにに間違いなく可愛らしいでしょう私は。
     ということは。
     私としたことが見落としていました。十分にアリですねこれは。
     ボスは可愛いものが好きで、妙な愛着をかけたがる節がありますからね。
     よしいい感じに頭が回ってきました。これはイケる。

     ええそうですとも最近はそう、クールで冴えた部下路線から、お茶目で上品かつギリギリ手に負えないキュートな詐欺師への路線変更も板についてきたと思っておりますし? ふむ、実は想像以上に適正があったのでは? ええつまり私は想定よりも可愛すぎたのでは? 美しいだけではなくキュートであると。あまり考えたことはありませんでしたが、そうですかええそうですよねそのとおりでした本当に盲点ですとも、この私ともあろうものが! だってそういえばモクマさんも言ってましたし? 私のこと可愛いと。時々とか抜かしてましたが、モクマさんが時々わかるならばつまりそれはだいぶかなり滅茶苦茶素晴らしく可愛らしいという事でしょう。つまりこのあふれる可愛らしさを上手いことアピールできれば、可愛いものが大好きなボス(当人も大変可愛らしい)の好感度は想像以上に右肩上がりのうなぎのぼりジャックポット大当たりゴールイン間違いなしでは? それに私、彼にはそんなにアブない所見せてないはずですし? 私の心をこんなに振り回しているのだから、少しぐらいは彼も振り回されるべきなのでは? となればもう少し計画的になる必要がありますよね。お茶目でキュートな詐欺師路線、もう少し強めに出していきましょう。ええ私美しいだけではなく可愛いので。 逆に、あまりに可愛らしすぎてややセーブが必要かもしれませんが、怪盗殿をつつきまわす時などは従来どおり大した可愛くないと思うので良い感じにバランスは取れるでしょう! あ、これ素晴らしいのでは? やはり私天才では? これはもしかしなくともいけるのでは? ふふ、ふふふふ、なんか楽しくなってきました。やはり野望は大事ですね、俄然やる気が出てきました。ボスには私の可愛さにぜひとも酔いしれて、ついでにガッツリ惚れていただきたい所存‼

    「あの」
    「え、あぁボス、どうなさいました?」
    「いや、なんかボーっとしてたみたいだから」
    「申し訳ありません。少しばかり一人反省会を」

     (当然)可愛らしさ多めに微笑んでさしあげれば、彼はふぅんと鼻を鳴らしてから軽く首をかしげます。
     その仕草、私は好きですときめくので。

    「あのさ、さっきの演奏、一番好きだったのはサビに入る直前のあたりでさ、僕そこでなんかうわーって、あれ、何ていうの?音が大きくなっててて盛り上がるあの感じ! ぞわーってきた! やばかった、鳥肌立ったよ! すっごいすっごくすごかった! 君の演奏って本当にすごいな、音楽であんなに興奮することって早々ないぞ! アレンジも見事だったしさぁ!
     間奏の部分で入れてたメロディ、あれCMでしか流れていない劇場版のプロモーション限定のやつでさ、僕すっごい大好きで、楽譜どころかサントラもなんてあるわけない奴なんだけどそれがまさか君の演奏で聞けるだなんて思ってなかったよ、もう超最高に嬉しかったんだぁ! あとさ、そこから食いしん坊将軍つなげてくれただろ? あのつなぎの部分さ、いやーあんなつなぎ方するなんて、サントラの豪華版みたいで、ほんと僕もう、幸せだよ! もちろん最高にかっこよかった! やっぱりサワールの楽譜より俄然素晴らしいね、いや初心者用のアレンジじゃなくって一流のピアニストが専用で弾くんだから当然だと思うけど! うわー、これ僕が頼んだから弾いてくれたんだよな、あーもう自分で言っててあまりの豪華さに涙が出そうだ! はーーーーーこんな幸せで贅沢でいいのかな、いいよな今日の僕散々だったし! いや今日の最低を埋め合わせて余りある幸福だぞこれは! あーーーーもう本当最初から最後まで鳥肌だった!! 一流の弾き手が僕のリクエストをこんな素敵に叶えてくれるだなんて! こんな事ってあるんだ、ありえるんだ。僕ってなんて幸せものなんだろう、あぁ本当生きててよかった、生きてたらいい事あるんだなぁ、あーもう本当なんて幸せなんだろう! 泣いていいかな泣いてもいいよね、あーーーー幸せで死にそうーーー!!」

     立て板に水とはまさにこのこと。当然一言一句残さずしっかり聞きますが!

     素晴らしい賛辞。演奏者冥利に尽きるというもの。
     愛おしい方から送られるそれは本当に心揺さぶられます。
     あたたかくて眩しくて。目がくらむ。
     今すぐ抱きしめてあの柔らかな頬に口付けたいだなんて、なんて。

     ふふ、その欲望のためには! もっと私は可愛らしくあらねばなりません!
     私がにこりと微笑むと(当然可愛らしく見える角度を計算しております)、ボスが一瞬だけ固まるのが見えます。
     ふふ、どうです可愛らしいでしょう! 口説いて構いませんとも!

    「どうしました?(にこにこ)」
    「あ、あのさ」
    「はい♪」
    「……えーと、あのもう一曲、リクエストしても、いいかな」
    「ええ、私が分かる曲でしたら」

     さぁ、鬼が出るか蛇が出るか。
     10倍返しで迎え撃って射止めるのみですが。ええ私可愛いすぎるので。

    「あー、チェズレイは得意な曲って、ある?」
    「私が?」
    「そう、君の得意な曲」
    「ボスのお好きな曲ではなくてですか?」
    「そう」

     予想外。急に言われても、……何が良いだろうか。

    「ふむ。しかし、唐突に何故です?」
    「あのさ、君が弾いてたのを聞いていたらふと思ったんだよ。僕のリクエストした即興でこんなに弾ける人が、得意な分野の得意曲を弾いたらいったいどれほどなんだろうって」
    「なるほど」
    「僕が理解できるような次元ではないかもっていうのももちろんあるけど、それでも、さ。あー、欲張りだとは思うけれど」

     どうかな、なんて言われて、こちらの目を覗かれては答えなど決まってしまう。
     生返事をして、それから時間稼ぎに中身のない会話をしながら必死に考える。

     ここで本当に得意曲を弾く馬鹿は居ないだろう。
     一曲だけ許されたフリースタイル。
     彼のために私が奏でる特別な一曲を。
     できれば心に残り続けて忘れられることのない曲を選ばなければ。

     ボスはあまりクラシックピアノには詳しくはないでしょう。ならば主旋律がはっきりしていて華やかな曲が聞いていて面白いはず。
     ニンジャジャンに限らずアニメソングがお好きな方ですから、クライマックスは派手な方がきっとお好みでしょう。
     一生懸命聞こうとする方ですから、緩急のある曲のほうがきっと聞きやすいと思います。
     なるべく技巧的で動きの多い方が、眺めていて楽しいでしょうね。
     きっとまた、一生懸命感想を言ってくださる。だから聞き所は後半かつわかりやすい曲が良い。

     候補は絞れました。あぁ、でも。だけれど決定打に欠ける。心のどこかがこの選曲は違うと言っている。
     中身のない会話もそろそろ終りが近い。さて困った。

     不意に彼が笑った。それはもう嬉しそうに。
     待て、私は今何を言った?
     完全に上の空。気付かれないように探らなければ──

    「君って本当、綺麗だな」
    「……いまさらでは」
    「うん。だけどほんとに。そうやって笑ってると見とれちゃうよ」

     笑っている? 私が? 今は意識して表情を作っていないはず。

    「いつまでも見ていたくらい、素敵だと思うよ」

     そう言って笑う。
     花が溢れるような柔らかさで。
     光が転がるような眩しさで。
     目の奥が、頭の裏側まで透き通ってしまうような衝撃と、
     春の日差しにも似た、暖かさを携えて。

     あぁ、曲が、決まった。


    「ボス」
    「ん、なに? あ、もしかして曲が決まった?」
    「えぇ。少しばかり聞きにくいかもしれませんが」
    「気にしないよ、聞かせてくれる?」

    『ペトラルカのソネット 第104番』

     選曲は最適とは言い難い。
     私が弾き出した条件を全て満たしてはいない。
     しかし、これがいい。この曲がいい。
     私はこれを"弾きたい"。

     ……"弾きたい"?

     彼に望まれて、彼のために奏でるのに、私が?
     それは一人のエンターティナーとしてアリなのだろうか?

     疑問に答えが出る前に、弾くべきタイミングが来てしまう。考えている余裕はない。

     鍵盤に指を走らせる。
     選曲に自信がない。最適なのかもわからない。
     ただ奇妙な確信だけがある。根拠はない。

     低音から始まって、テンポを揺らしながら一気に冒頭へ。なるべくロマンティックを意識して奏でる。
     テンポは、この曲本来のそれよりは早めがいいだろう。きっと、盛り上がりまでは退屈だろうから。
     主題は静かに、芽吹くように。
     勢いがついてきたらそれは静かな雨のように、染み入り切々と訴えかけるように。
     音の強弱はやや極端ににつけましょう。ふふ、その方がきっと聞きやすいでしょうから__。

     そして曲は盛り上がりへ。清水が湧き上がるような旋律。
     あぁ、澄んだ美しく眩い響きは思った以上に彼に似合いだ。
     それは清らかで。それは激しくて。美しく劇的かつドラマティックに。
     蕾が弾けるように。破裂寸前のような、ふつふつと湧き上がるとても綺麗で温かい、苦しいほどのなにか。
     押しのけていく激しさを優美に麗しく。この譜面はそれを見事に奏でさせる。

     眩しい彼のために。
     苦しむ私のために。

     言葉よりも雄弁に。
     思慕よりも訥弁に。

     曲は、言葉にできない心を飲み込んで、冷えた空気に溶けていく。
     5分程度の曲に心の溢れてしまう部分を、胸の高鳴る部分を必死に押し込む。
     心を溶かして折り込んで、ピアノは歌う。


     夢中だった。必死だったとも言う。
     気がついたらもう曲は終わっていた。

     私ともあろうものが、こんな、馬鹿な。
     折角のチャンスなのに。観客たる彼の様子の観察してより楽しませなければならないのに。
     演奏者として、客を意識するどころか自分が没頭してしまうだなんて。

     失態だ。
     つまらなかったのではないか、退屈だったのではないか、など、その。
     だってほら、弾き終わったにもかかわらず無反応。あの彼が。

     恐る恐る横目でそっとみやれば、呆けている。

    「……ボス?」

     目の前で手の平をひらひら。見事に、見えていない。
     あまりにもつまらなくて、別のことでも考えてしまっているのだろうか。
     私は、失敗を冒したのではないだろうか。

    「…………退屈、でした?」
    「……って、いい?」
    「え?」
    「手、握って、いいかな」
    「どうぞ……素手でもよろしければ」

     そう言って差し出せば、恐る恐る。ガラス細工でも触るように握ってきた。
     不思議に思い様子をうかがうと、ほんの少し涙ぐんでいるようだ。

    「大丈夫、ですか?」
    「あの、」
    「はい」
    「演奏めっちゃ良かったです」
    「そう、ですか」
    「サインください」
    「そう来ましたか」

     恐らくは良かったのだろう。とても感動してくださった。そう解釈します。
     多分何を言っているか自分でもわかっていないご様子。そうか、そんなに聴き入ってくださったのか。

     理解した瞬間、一気に強烈な羞恥がこみあげる。あれを。もしかしたら私の心がダダ漏れかもしれないあれを。
     ……いやきっとそこまでは聞いていない、汲み取れるほど聞き慣れている訳はないと思いながら取り繕う。
     一流の弾き手の顔をしていれば大丈夫。たぶん。
     先程ニンジャジャンを弾いておいてよかった。少し火照った事と息切れに言い訳ができる。

     そんな事を考えている時。
     彼は未だ呆けたまま一生懸命に私の手を握っていて、まるで魔法の道具か何かの正体を確かめるようになぞっていて、こちらの顔色なぞには一切気が付きません。
     そんな子供のような行動が本当に愛おしくて、多少みっともなくとも弾いて良かったと心から思えました。
     幸福な気持ちで眺めていると、彼のきれいな瞳から涙がひとしずくこぼれ落ちていくのが見えて、何もかもが間違っていなかったのだと今更ようやく安堵したりなどしました。

     何か大切なことを忘れている気がしますが、もういい事にします。
     私、可愛いので。
     そんな所も可愛いので。
     可愛いって便利ですね思ったより。かわいい。ええ。たぶん。



     ◆ 2年ほど後 ◆


     部屋に響くのは、妙に味のあるピアノの音。
     たどたどしく紡がれる、劇場版第3段限定アレンジのニンジャジャンのテーマ。

     ここはルーク・ウィリアムズの自宅、リビングに置いてあるアップライトピアノの前。
     彼が一生懸命奏でているのは、私の手書きの楽譜。どうしても弾きたいのだと言われて聴音したもの。
     名曲などと言われる曲よりも好きな曲の飲み込みが早いのは当然でしょうとも。

     響く音。音の粒は揃わず、テンポも所々で乱れる。
     しかし弾き手の努力が存分に滲んだメロディ。

     こうして訪れるたびに練習の成果を聞く事が当たり前になって久しい。
     ふふ、私は彼にとってプレッシャーであり締め切りなのだそうです。そうですね、先生とのレッスンとはそういうものでしょう。
     おや、急に音が転びはじめた。ここから先は練習が追いついていないようですね。
     目に見えて焦り始める。さてさてどこで止めましょうか。

    「……まだここまで、かな。あとちょっとは、うーん,まだむりかなぁ」
    「よく頑張りました。速い部分の運指だけは完璧でしたね」
    「だけど、」
    「ええ。ここで"だけと"という言葉が出てくるのであれば、私から言うべきことはありません」
    「悔しいなぁ」
    「ふふ、楽譜をお送りしてから約1ヶ月。仕事の合間の練習だけでここまで弾けるようになれば大したものです」
    「うん、だけど君は即興で弾いてくれただろ? これよりもずっと難しいやつをさ」
    「私が何年もかけて出来るようになった事を、数年どころか数ヶ月で会得されては流石に立つ瀬がありませんよ」
    「いやー……そこまでは、だけどさーー……」

     半笑いしながらも上目遣いでみつめてくる。ご褒美をねだる時のいつもの癖。

    「わかっておりますとも。ほら」

     彼の首の後ろに手を回し、軽く寄せて耳に近い部分の頬にキス。

    「もう少し唇に近い位置にくれてもいいと思うんだけど」
    「でしたら、せめて最後までは弾けるようになってくださいね♥」

     それもそっかー、などとほんのり頬を染めて言う姿が大変可愛らしい。ええとても可愛らしい。最高に愛らしい。もしや世界一可愛いのでは? いや間違いなくこの世で一番でしょう。
     今すぐ口元にキスを贈りたい衝動に駆られますが、ここはじっと我慢。
     演奏後のキスは採点ですから。ええ。満点ならば唇へ。あとは下がるほど遠くに。

     我々の関係も、あれから色々と踏んだり蹴ったりすったもんだの果てに、どうにか恋人の体を成してそれなりに経ちます。
     この採点はまだ初々しかった頃の名残。キスに理由が必要だった頃のもの。
     しかし今は単なる……ん?

     部屋の中、ある一角。

    「ボス」
    「ん? どうかした?」
    「あなた、クラシックピアノのCDなんて。わざわざ買うほどお好きでしたっけ」
    「あぁ、あれかな?」

     私は視線の先を目指して立ち上がって、一歩、二歩。
     CDは特定のピアニストのものという訳ではなく、比較的オムニバスなもののようだ。
     ラインナップは……

     聞いて楽しむクラシックピアノ ③
     ロマンあふれるピアノ曲集 2
     チョウ・ウマーイ 名演奏集 ⑤
     海辺で聞きたいピアノ100選 ver.4
     ・
     ・
     ・

     統一感もなく実にバラバラ。

     彼の方をみやると、照れたように視線をずらしてくる。
     ……という事は、よく見れば目的が推理できるのでしょうね。
     謎解きタイムとして曲目に目を通そうとすると。

    「あの、さ。予想する前に白状するけど」
    「……。」(きらきらっ!)
    「た、大した内容じゃないから! そんな顔しないの!」

     そう言ってから。

    「あのさ、ミカグラに居た時に食いしん坊将軍弾いてくれた時のこと覚えてる? 潜入じゃなくてさ」
    「ええ。貴方との思い出はいつでもいくらでも思い出せますとも!」
    「本当? うれしいな! ……じゃなくて。あの日君が弾いてくれた曲あっただろ。ソネット104番。あれが僕、すごく好きでさ。聞いてるとなぜだかとっても幸せで穏やかで、なんか嬉しい気持ちになるんだ」
    「ええ、存じてますとも。こうしてレッスンするようになってからも度々リクエストをいただきますね。いつも嬉しそうに聞いていてくださる」
    「うん、毎回同じ曲をリクエストするのも悪いかなって……それにさ本当、できるならいつでも、いつまででも聞きたいくらい好きだなって思ったから、あの曲が入っているCDを選んで買っていた訳なんだけど」
    「ふむ」
    「どれも一流のピアニストが弾いているってわかっているけど」
    「ピンと来ない?」
    「生演奏じゃぁないからだと思って演奏会とかにも行ってみたんだけど」
    「いまひとつ?」
    「そうなんだよ。僕にとってのソネット104番って、君の弾く奴の事を特別に指すみたいなんだ。どれを聞いても満足できやしない」

     そう言ってため息をつく。
     体の奥底で何かが沸き立つ。

    「自分で弾けるようになろうと思ったけど、これ滅茶苦茶難しいんだもんな」
    「でしょうね、難易度の高い部類の曲ではあります」

     表面では平静を保っては居ますが、自分でも解らないほどの奥底から一息に。
     今まさに花開くような、一気に泡立つような歓喜。狂喜。
     肌の裏側を駆け登るようなざわめき。息が詰まる。
     苦しくて、心臓が圧迫されるような。
     感情そのものに自由を奪われるような。だけれど、嫌ではない。

     あぁ、そうか。理解した。
     私は。……いいえ、彼は。ずっと。

    「それでさ、その、いつも悪いんだけど」
    「えぇ、えぇ。貴方のお願いでしたら当然いくらでも、何度でも」
    「えー……惚れちゃう……」
    「わざわざモクマさんの真似して言わないでくれますー」
    「モクマさんと違うのは、本当にべったり惚れてるってことかナー」
    「……もう、お上手」
    「あはは、本当? 嘘は勘弁してよ」
    「詐欺師にそれ言います?」
    「もちろん言うよ? 僕だってたまには意地悪言うんだぞ!」

     また悪戯するように覗き込んでくるものだから、その悪い唇をキスで塞いで……おや、ハグで反撃ですか。ふふ、愛らしい。ぜひ今夜も覚悟していただきたいところ。
     さて、唇も体も逃していただいて、余計なことを考えすぎる前にピアノの前の席を譲っていただきます。
     だって、ねぇ? 私は気がついてしまったので。

    「ねぇ、ボス」
    「どうかした?」

     ふふふ、嬉しそうな瞳。どんなスイーツよりも輝かせて。

    「私が今日これから弾くソネット。普段よりももう少しだけ"真剣に"聞いていただけます?」
    「いつも超真面目に聞いているつもりだけど……。いや、君が言うんだいつもより集中力マシマシで聴くよ!」

     気がついてしまった。だからより一層。
     あんまり幸せで、思わず笑みがこぼれてしまう。いいえ、今はそれどころではない。
     普段はあまりやりませんが、髪を一束だけ手に取り髪紐の代わりにこれでひとまとめにする。今だけは彼が愛でてくださるこの長髪も邪魔ですので。
     ふふ、見てる見てる。髪をまとめるこの仕草好きですよね、あなた。
     ……いや落ち着け、気もそぞろにしている場合ではない。私も集中力マシマシにしなければ。
     平時より手を抜くような事はありませんが、それでも最高の演奏をしなければ、いいえ違う。最高の演奏を"私はしたい"!

     軽く深呼吸。客はいつもの彼が一人。リクエストはいつもの曲。だけど今回は演奏の意味が違う。
     全力で弾かなければ。この私が持てる技術で。心を込めて誠心誠意。お茶目でキュートな詐欺師をやっている場合ではない。彼を愛する一人の男として。
     演奏で緊張するだなんて何年ぶりだろうか。嘘だ。彼の前では時々結構。しかし嫌ではない。あぁ、早く弾きたくて仕方がないだなんて。

     そうして最初の音を──


     ♪♪♪♪♪


     最後の音を叩く。鍵盤から手を離す。
     やはり軽く息切れ。いいや、無意識に息を止めていたのかもしれない。
     出来は上々。やはり、彼のことを想えば夢中になってしまう。
     とどいただろうか、などと思いながら隣を見る。
     嬉しそうに、幸せそうに、手のひらをきゅうと握りしめてこちらを見ている。
     優しくて穏やかで、宝石よりもずっと透明できれいな目。いつも、見惚れてしまう。

    「やっぱり、君の演奏が間違いなく一番だな」
    「CDとはひと味違うでしょう」
    「うん、生演奏を含めて誰のどんな演奏よりも一番いい。一番こう、心にくるというか、ぞくぞくするというか、幸せな気持ちで満たされるっていうか」

     そう言って、あの日と同じように少し潤んだ目で私の目をじぃっと見つめてくる。そうして少しだけ言いよどんでから。

    「あのさ、僕、君が大好きっていうか、えっと、今すぐもう一回キスしたいっていうか、その、何ていうのかな、あれ? 僕は曲の感想を言いたいだけなんだけど、その」
    「えぇ、続けてください」
    「……えと、その、あー……何だろう。おかしいな。うまく言葉にできない。好きと幸せが大渋滞で訳がわからないっていうか、えーと」

     彼が言いたいことなどわかっています。わかりきっています。だって今のは"そういう演奏"なのだから。
     彼の目にほんのりとにじむ涙。いますぐ触れたい、拭いたい。
     あの何より美しいそれは、まぎれもなく私のものなのだから!

    「あのさ、えと、誰のどんな演奏よりも、とびきり一番最高に、だいすき。世界で一番、綺麗で、えっと、素敵で、」
    「ふふふ、ふふふふ」
    「おお、おかしいこと、言ったかな。言ってるよな、あー、その……」
    「当然です」
    「あ、そう来た? いや、そうか。当然、だよな」
    「ええ当然ですとも。だってこの演奏は私が、この世でただ一人貴方のためだけに弾いたのですから」
    「そっか、じゃぁ、その」
    「えぇ。このペトラルカのソネット104番。曲の元になったのは愛しい人への愛を詠った詩です。それを原詩と同じように愛しい方のために、最愛の貴方のためだけに奏でたとして。それが他の誰かに劣るようでは演奏者として三流通り越してカス以下ですとも」
    「……あの」

     あぁ、固まってしまった。ふふ、今更ようやく気が付きました?
     思考以外の部分では、きっと気がついていたでしょうに。

    「初めて奏でたあの時は未だ、原詩の通り苦い心で奏でておりました。しかし今は。ふふ、ねぇ?」

     思い切り恋心を込めて、あのきれいな目を見つめて差し上げれば彼の顔は耳まで急速に染まっていく。
     ふふふ、あぁ楽しい!
     いつも私の心を滅茶苦茶に振り回して、ざまあみろ!

    「あのさ、それってつまり、」
    「はい」
    「あの曲をリクエストするって、それってつまり、僕、えっと」
    「ふふふ、えぇ」
    「あ、う、何て言うのかな、えっと」

     狼狽えながらもこちらから視線を外さない。
     えぇ、大好きですともそういう所!

    「あああのさ君は! 僕が曲をリクエストするたびにいつも、演奏を通してずっとずっと、ずーっと、僕が好きって言い続けてたって事? 僕が好きなのは曲そのもの、よりも、僕のために弾いてくれる君が、えぇと、あー、僕、君が曲に込めてくれる"好き"がどんな何よりも大好きで、それをリクエストするって事は、それって、その、つまり!」
    「やっと気がついていただけましたか、愛しのルーク!」
    「待って! このタイミングでいきなり名前呼ばないで、いや呼ばれたいけども! だけど!」
    「ねぇ、先程のめいっぱい心を込めた渾身の演奏、いかがでした?」
    「僕に、最高と大好き以上の語彙を期待しないで! いや君が要求してる訳じゃないけど! ……あぁもう、僕一体どうしたら‼ ただでさえキミが好きで好きで、いつだって訳がわからなくなってるってのに! もう‼ 本当に、一体どうしたらいいんだ‼‼」

     椅子が倒れる音。急激に暗くなる視界。暖かな感触。
     私の愛しいお方は、困りに困った末に、ふふふ、椅子を蹴り飛ばす衝動で抱きしめてくださった!
     なんて幸福、あぁなんて嬉しい! 嬉しくて嬉しくて、もうわけがわからない!
     喜びのまま抱きしめかえそうとしたら、するりと緩められ、逃げられる。おやと見つめたら、唇を奪われた。
     珍しく、絶対に逃さないとばかりに捕まえられて、苦しいほどに堪能される。
     頭が、呆ける。思考が……溶けて、まだ、……ん…………まだ昼間、なのに、激し……。…………。………………………………。




     息ができるようになったタイミングで。肌の温度を感じる距離で。

    「……なぁ」
    「…………はい」
    「僕も、あの、」
    「……」
    「君のためだけの曲を、弾いたら。ううん、練習するから」
    「…………。」
    「きっと、いや絶対。弾けるように、なるから」
    「…………。」
    「そうしたら、聞いてくれる? いいや……くれ、ますか……?」

     呆けた頭で、やっぱりきれいな瞳だと思った。
     先程の舌の感触が、抜けなくて。
     そんな場合ではないのに。眩しくて。
     少しばかり必死になって、返事をするタイミングで彼の唇の端にキスをした。

    「……唇じゃないんだ」
    「だってまだ、弾いてくださって……おりません、ので」
    「そりゃそうだ」

     そう言って彼は、同じように口の端に触れるだけのキスを返してから、少し名残惜しげに体を離して椅子を戻し腰掛ける。
     思考が戻ってきたなら、なかなかいいようにされてしまって悔しいのと嬉しいのとおかしくなるほどに幸せなのと、そして離れてしまった寂しさとで忙しい。

    「ね、ボス」
    「ん?」
    「その際は。……未来、貴方が見事に奏でてくださったのなら」

     今更照れながらこちらを向いて、聞いてくださる。
     柄にもなく、私まで照れてしまう。

    「今度は、ご褒美に……指輪を用意してお待ちしております」
    「それって……!」
    「はい」

     思ったよりも恥ずかしくって、胸が高鳴る、ような。

    「それって、その、つまり、僕が弾けるようになるまではお預けって事!?」
    「…………はい!」
    「ちょっと待った、そんな気の長い話ある!?」
    「プロポーズの言葉も、きちんと用意いたしますので」
    「待った。待って、僕の腕前で? 君の眼鏡に叶わなきゃならないんだよな? 君を口説いて納得させなきゃならないって事だろ!? しかもピアノで! 相当じゃないか、ただでさえ半端なもの弾けないと思ってたのに! あぁもう、世界最高の美人を口説くのってやっぱり、超級難易度だよな……。やっぱりこういう所で帳尻があってしまうんだな……」
    「えぇ!」
    「きみ言ったよね、たかがちょいちょい趣味の範囲で練習して追いつけるもんじゃないって」
    「そんな事言いましたっけ」
    「言ったよ!!?」
    「すみません、詐欺師なものですからそのへんは都合が良いのです」
    「誰に!」
    「私に♥」

     上手いこと、いいえ、どれほど下手でもあともうほんの少しゴリ押してくだされば! わがままだとか甘えた事を言ってくだされば、最低限の見栄をどうにか絞り出すのが精一杯の見事陥落済みな私は貴方の言いなりだったというのに!
     何もかも思い通りに事が運ぶほど酔わせて骨抜きにしておいて、だというのに見事華麗に墓穴を掘るのはいかにも彼らしい。あんなに言われてしまえば、半端にハードルを下げられないではありませんか!
     えぇそう、こういう方ですとも? 私が心より愛するルーク・ウィリアムズという男は! ……もう、ばか! こんな男になぜ落ちた私!
     まぁそれでもため息などつきませんが? 怒ったりなどしませんけど!?
     彼がこういう場面でコケるタイプだとか以前から知ってましたし? そういう所も実に愛らしいと思っておりますし?
     色々と状況を整え次第すぐにと考えていたプロポーズをどんだけ先に伸ばされようが? 全然一切まっったく気になどしませんし? えぇ私は彼が惚れるほど可愛いので!

    「というか選曲からしてこれは相当難しい……」
    「まぁそうでしょうね」
    「しかもここまでハードル上げたら弾くの相当度胸いるよな」
    「当然」
    「ああああ……どうしよう…………」
    「ですので、気合い入れて練習なさってくださいね、愛しのルーク」
    「う、うん。……あのさ」
    「採点に容赦はしませんので」
    「そんなぁ……じゃ、なくてその」
    「ならば発破かけます? 弾ききるまでキス禁止とか?」
    「え、待って」
    「ではセックスもお預けに?」
    「マジ勘弁してください! ていうか君なんか拗ねてない?」
    「いいえ? べっっつに?」
    「絶対拗ねてるだろ」
    「拗ねてません」
    「拗ねてる! もう可愛いなぁ! ちがう間違えた、大好き! ……でもなくって、えーと、うー、そんな所もすき! ……あぁもう僕ってば!」
    「もう、拗ねてないと言ってるでしょうが‼」


     おしまい。


    ーーーーーーー

     最初から最後まで出鼻をくじかれるの超可愛くない? 割れ鍋綴蓋っぽい。
     ん〜、しかし百合。百合を感じる。こんなん姫様とお嬢さんじゃん……。
     あと自分ほんと恋愛もの下手だな。やっぱギャグか。

     
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