――潮騒の音が聴こえる。
ミカグラは島だから、四方を海に囲まれている。
それはもちろん知っていたのだけれど、夏場と違って肌寒さを感じる時期しか知らなかったから、あまり実感はないままでいた。DISCARD事件の捜査の合間、海へ足を向ける事はついぞなかったし、労いにとナデシコさんが用意してくれた保養地は温泉で、長い時間を過ごしたマイカの里は山あいだ。
海沿いの街をそぞろ歩くことはあっても、潮の香りが届く場所には縁がないままこの土地を離れた。
だからこうやって、潮騒が耳に届く庭先でぼんやりと涼む時間を過ごすことは初めてだ。僕はと言えば、休暇中の穏やかな時間を存分に楽しんでいた。
久しぶりに訪れたミカグラは、ますますマイカの影響を受けているように見える。朱塗りの電柱にはびっくりした。小さな島で異彩を放つ高層建築が立ち並ぶ中、平屋や二階建ての慎ましやかな家が新たにいくつも軒を連ねていた。事件の直後には、ほとんど木造の家なんてなかったけれど、マイカの里のひとたちが少しでも穏やかな気持ちで暮らせるようにと、ブロッサムの人たちが心を砕いた結果なのだと、コズエさんが嬉しそうに話していたことを思い出す。
そのうちの一つを、今回は借り受けることになっていた。シンプルな外装に比べて、部屋の中へ一歩足を踏み入れればまるで博物館かと思うほど様々な美術品であふれている。部屋の内装に使われている壁紙一つとっても、伝統工芸品といって差し支えない価値ある品だと触れずとも分かった。だって、前にミカグラの博物館で見せてもらったそのままが、この場所には広がっている。
先に到着していた僕の次に来たのはチェズレイだ。博識な彼から、ドアから屋根に至るまで、この家の骨組みには金属の留め具を一つも使っていないのだと教えられて、実際に自分でも組み立てられている見える範囲の場所を確認してその言葉が事実と知り、昔からの技術をふんだんに使った家で過ごせることに興奮しすぎて、落ち着くようたしなめられる場面もあった。
この家は、警備のしやすさから海外からきた要人へ貸し出しているらしい。わざわざ特別な宿泊先を用意してもらうことに恐縮したけれど、そなたらはミカグラの恩人なのだから、とコズエさんからの強い勧めでお世話になることに決めた。
アーロンは二日後、モクマさ四日後に合流する予定と聞いている。だからそれまでの間は、チェズレイとふたりきりで過ごすことになるらしい。なんだか面映ゆさを感じながら、よろしく、と告げた僕を、ふわりと柔らかく包み込むようにチェズレイが抱きしめたのは数時間前のことだ。深い意味のない、友人や家族へ向ける親愛そのもののハグに、心臓が跳ねたのは僕の方だけだってわかっている。
読んでいた観光案内をぱたりと閉じた。
「なあ、チェズレイ」
「どうしました?」
「もうすぐ、日が落ちるから、少し散歩に行ってくるよ」
目当ては、夕方と夜の境目の時間。
この時期のミカグラに来るのならば、その時間に一度は海岸へ出るべきだ、と観光案内に書いてあった。詳しい内容は書かれていなかったけれど、逆に興味を引き立てられる。
「散歩、ですか……では、私もまいりましょう」
「ええっ、チェズレイも?」
「おや、私がご一緒すると、何か不都合ですか?」
「いや、そんなことはないよ!」
あわててかぶりを振ると、フッと笑って「そうですか」と嘯く。たったそれだけの動作で、チェズレイは僕の視線を簡単にさらっていくんだ。
ただの散歩だけれど、それでも一緒に歩けることは嬉しかった。もし相棒が此処にいたら、「オサンポ大好き早く連れてってってか?」なんてからかわれたかもしれない。顔に出ている自覚はあって、少しの恥ずかしさを覚えたのは確かだけれど、悪いことをしているわけじゃないから嬉しさをそのままに笑ってみせる。
「じゃあ、一緒に行こう!」
青い海と、青い空は、その境目がひどく曖昧に見える。
「こんなに……綺麗な色をしているんだな」
自分が住んでいた地域に、海がなかったわけじゃない。海水浴へ連れて行ってもらったこともある。
けれどこんな風に、絵の具のいっとう綺麗な青を澄んだ水にとかしたような優しい水の色は、初めて見た。どこまでも続きそうな白い砂浜にほど近い浅瀬はエメラルドグリーンで、沖へ近づくにつれて複雑なグラデーションを重ねコバルトブルーに移り変わる。空は光を含んだサファイアブルーが広がって、入道雲の白を引き立てる。
「白い砂浜って、写真以外で初めて見たよ。綺麗だな」
「そうでしたか。こちらの海にはサンゴが多い。崩れて石灰質になると、こうして白い砂浜になるんです」
うっとり見惚れる僕の隣で、チェズレイが言葉を紡ぐ。やっぱり博識な彼は、本当に何でも知っているなと内心で舌を巻いた。
「実は、この場所とちょうど反対の海岸は、黒い砂浜だそうですよ」
「そうなのか?」
「ええ、過去に溶岩が流れたせいでしょう。火山のある場所の砂浜は、本来黒色に近い場合が多いのです」
「そうなんだ……今度は、そっちにも行ってみたいな」
「休暇の間に、ぜひご一緒させてください」
甘やかな台詞が耳朶をくすぐる度に、嬉しさと少しの寂しさが胸によぎる。チェズレイからしてみたら、他愛ないやりとりがどれだけ僕を一喜一憂させるものか、彼はきっと知らないんだ。それでも、真綿でくるまれるような甘く優しい誘惑に逆らえる気がしない。
「そうだな、一緒に行こう」
「ところで、なぜ突然海へ散歩に?」
「あ、そうなんだ……ええと、そろそろだと思うんだけど……」
もう一度、日没の時間を確かめてみる。
あとほんの少しで、日没が訪れるはずだった。
「うわあ……」
強い太陽の光が、水平線に沈む間際、一際強い光を放つ。
キラリと水面を反射して、波がざわめくたびに宝石みたいに煌いた。
陽光がその強い光を減じていくたびに、柔らかな朱を刷毛で刷いたように色が移り変わっていく。鮮やかな青が、柔らかな色を纏って、淡い藤紫が現れる。
「……すごい」
思わず、吐息と共に言葉が零れる。
「君の、瞳みたいだ」
徐々に色に深みを増していく空と、それに引き摺られるように様相を変える海の狭間に、彼の持つ色彩が重なる。
あまりにも綺麗で、あまりにも遠くて、胸の奥のやわらかな部分に短い針を突き刺すような小さい痛みが走った。その意味を考えないようにして、もう随分と経っている。
「あなたの目に、私の瞳はあのように映っているのですねェ」
光栄です、とふわり微笑むチェズレイが、手を差し伸べる。
「夜は冷えますよ、ボス」
身体を冷やす前にかえりましょう、と。
子供みたいな扱いには、もう慣れ過ぎていて文句を言う気にもなれない。差し伸べられた手を握ったのは、少なくとも僕が君に触れることを許されていると、実感したかったからかもしれない。遠い、存在というわけではないと。
――ただ、それだけだったのに。
「えっ、あ、うわあああああっ!」
「あァ……ボス……そのような顔をなさってはいけません。ハグをしても?」
「いや、もうしてるよね、ハグ!」
繋いだ手を突然引き寄せられて、砂浜に足を取られて彼の胸に倒れ込む。優しく抱き留められて、彼の腕の中に包まれた。ふわりと漂うチェズレイの香りに、鼓動がどんどん早くなる。
「私は待つつもりだったんですよォ、ボス」
「な、なにを……」
「あんなにも綺麗なものにたとえられて、知らんぷりをしろと仰る? それは酷というものです」
うっそりと微笑むチェズレイは、今まで知る中でも一番魅惑的で、一番不穏だ。
「え、ええと……」
抱きすくめられたまま、彼の視線が僕を捕らえる。
よくわからない焦燥感に駆られて、何か口にしようとした唇が、彼のそれで塞がれた。