手放した猫は戻るのか 雲ひとつない碧い空から、鈍色の翼がタイヤを軋ませ滑走路に降りた。
空港の屋外デッキで機体の着陸を見届けた娘は幼児らしからぬ蜂蜜のような声音で父親に言う。
「ねえ爸爸ぁ、誰がヒコーキで来るの?」
「うーん、爸爸の大好きな人かな」
「えー?私よりも?」
いつの間に『私』などという一人称を使い始めたのか、本当に子供というのは知らぬ間に成長してしまう。苦笑しながら父親は娘の髪を撫でる。
「順番はつけられないなぁ」
そう、彼女がいなければこの娘は存在していないのだから。
いつになく速く打つ鼓動に気づいて軽く息を吐く。爸爸と呼ばれた男は再会を前にやはり緊張している己を自覚した。
男の名は華瑞月。この国でも五指に入る大企業の創業者一族に名を連ねる者だった。
その瑞月が緊張するのには理由があった。
それは五年前ーーー。
男は土下座していた。
小さな産婦人科の、床の上で。
「頼む、その子を………いでくれ。お願いだ」
「私が、留学のためにどれだけ努力したか、わかっているのですか」
「わかっている…、だが、俺に、生きる理由をくれ、頼む」
「いつでも都合よく行けるわけではないんです」
「金ならいくらでも」
「時間は!…時間は、買うことができないのですよ」
硬い床に額を擦り付けひたすら男は懇願した。
その子を産んでくれと。
女の握り締めた拳は雫に濡れていた。
女の名は猫猫。
瑞月と猫猫は大学で出会ったが、長い間瑞月の片想いだった。
やっと交際に漕ぎつけた頃、瑞月は就職、猫猫は大学に残り生薬の研究を続けていた。
一緒にいられる時間は限られていたがそれでも瑞月は幸せだった。
三年が過ぎようとした頃、「論文執筆のために忙しく、しばらく会えない」そうメッセージが届いた後、猫猫は姿を消した。電話もメールもSNSもつながらない。
色々な伝手と人を使ってやっと消息をつかみ、すぐさま駆けつけた。
猫猫は子を宿していた。
そのとき猫猫は留学することが決まっていた。それなのに産んでくれというのは、留学を諦めてくれというのと同じだ。いかに酷なことを言っているのか、瑞月はわかっていなかったのかもしれない。ヒトの子は鳥の卵のようにはいかないのだ。卵だけを産んで預けてしまえるわけではない。生まれるまで、そして育つまで、長い年月がかかる。
自分が育てるから産んでくれと言った瑞月に、自分の子でなくても育てられるのか、と猫猫は問うた。
あなたの子でなくても、それでも産んでくれと言えますか?
身に覚えは山のようにあるのだから自分の子でないなんてありえない。それに猫猫が浮気するなんて考えたくもないが、しかし100%ないとは言い切れない。
瑞月は一瞬躊躇したが、もう猫猫は戻ってこないかもしれない、そんな予感が頭をよぎり腹を決めた。
父親が誰であっても猫猫の子であることに変わりはない。
本音を言えば猫猫にそばにいて欲しかったが瑞月に止める権利はないのだ。
後悔するのはわかっている。それでも手を離すことを覚悟した。
その月日は長く、そして短い。彼女の居ない時を過ごせたのは娘がいてくれたおかげだ。
そして彼女は今日、帰国する。