3. 猫の信頼度 母は子に愛情が持てぬ人のようだった。
ただしくは世間一般でいうような愛情、というべきか。それは善や悪で判断されるものでなく「他の人びとのような反応を持ち合わせていない」ただそれだけのことだ。猫猫は他を知らないのだから比べようがないし、母の心のうちは誰にもわからない。
父親はと言えば母に対して深い愛情を持っていたようだが、それはあまり本人に伝わっていなかったようだ。お互いに不器用すぎて口にして伝えるべきものと思っていなかったのかもしれない。いずれにせよ後日他人から聞いた推測に過ぎないから、母のいない今となっては、実際どうだったのか知る由もない。
幼い頃、既に病を得ていた母と接した記憶はあまり残っていないが、猫猫には母の妹分であり代わりに世話をやいてくれた小姐達が居たし、物心つく頃には養父である羅門がそばにいてくれた。愛情を知らないわけではない。
それでも自分が子を産むとなったら話は別だ。
迷いと戸惑いが猫猫を苛んだ。
瑞月には何も告げないつもりでいた
そのまま消えてしまえばきっとわからない
傷つけることも迷惑をかけることもない
そう思っていた
それなのに、
突如、病院に現れた瑞月に本当はひどく安堵した。一人で抱えなくても良くなった安心感だろうか。
瑞月なら母親になるのを怖れる自分の代わりに、惜しみない愛情を注いでくれるに違いない
自分よりも瑞月に育ててもらった方が子のために良いと思った
自分を愛してくれたように子を愛してほしい
なんとも身勝手な願いだった。
郭公が葦切に托卵するように猫猫は瑞月に子を託した。
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「すいません、迎えに来るのが遅くなって」
瑞月は居間いる羅門にむかって挨拶する。
「いえ、かまいませんよ」
いつものように穏やかな笑顔で羅門は答えた。
以前から時々この家を訪れていたが、彩胡はずいぶんと猫猫に懐いてしまって週に一、二度は猫猫の家に行きたいと言って聞かない。
それは何かを察しているのかもしれない。娘がもっと幼い頃、媽媽はどこにいるのかと繰り返し聞かれて外国にいる、と言ってしまったことがある。
この先ずっと隠し通すことなどできない、娘と猫猫の関係をどうやって伝えるべきか頭の痛いところだ。
そして自分との関係も、またいずれ伝えなければいけないのだ。
二階にある猫猫の部屋の前で立ち止まり目頭を強く押さえる。疲れ目のせいだろうか、なんとなく頭痛がするようだ。
呼吸を整えてからドアをノックする。
「猫猫、俺だ、入るぞ」
しばらく待つが返事がない。
もう一度ノックするが、また返事がなく、瑞月は少しだけドアを開けた。
「猫猫…」
傾いた陽に照らされ橙色を帯びた部屋の中、いつだったか夢に見た光景が現実のものとなって存在していた。
床に座りベットにもたれたまま眠っている猫猫、その膝の上には娘がもたれて眠っている。
瑞月は二人の近くに膝をつき、その場にへたり込んだ。正座した膝の上に握った拳が震える。堪えようと奥歯を噛み締めても温かな滴はとめどなく溢れた。嬉しいのか、悲しいのか、自分の感情が整理できない。待ち望んでいたはずなのに、自分のものではないかも知れない、そしていつか失うかも知れないこの光景を、どう受け止めたらいいかわからずにいた。
ゆるゆると伸びてきた手が瑞月の髪に触れ、優しく撫でる。
「本当に泣き虫なんですね」
瑞月は項垂れたまま黙していた。
「彩胡ちゃんに頼まれました。爸爸が泣き虫だから治す薬を作って欲しいと」
「…」
「私のせいですね」
「違う…」
猫猫が留学を希望していたのは知っていた。
本当は引き留めたい。しかし本人の希望を叶えてもやりたい。
相反する二つの事柄にどっちつかずの態度を取るようになっていた。
結局、瑞月が中途半端な理解を示したために猫猫を一人悩ませる結果になった。
こんなに後悔するのなら閉じ込めて仕舞えばよかったのだ。
「俺がはっきりしないから」
「でも押し付けたようなものです」
「産んでくれと頼んだのは俺だ」
「…迷ってたんです、本当は、どちらにも決められなかった。だから誰かに決めてほしかったのかもしれません。ずるいですよね」
お互いのことを気遣い過ぎてすれ違う。なんとも皮肉なものだが言葉が足りぬ故の結果でもある。
猫猫は瑞月を引き寄せその額を肩に乗せると背中を優しくさすった。そして意を決して口を開こうと思ったけれどやはり喉に引っかかって言葉が出てこず、再び口を噤んだ。
帰宅して行った瑞月達を見送った猫猫が玄関前でぼぉっとしていると隣家から梅梅がやってきた。
「あれ、あこちゃんは?」
「今帰ったところ」
「あら残念、お菓子持ってきたのに。…猫猫、どうかしたの?」
「なにが?」
「眉間に皺が寄ってる、もしかしてまだ言ってないの?」
「…なんとなく、機会がなくて」
「ずっと誤解したままじゃあ気の毒よ」
「わかってる、けど…、だって、それって、私が浮気したって思われてるってことでしょ」
「もう、しょうがない子ねぇ」
梅梅は呆れたようにため息をつくと軽く猫猫の頬をつまんだ。
「お菓子、あこちゃんに渡してあげて。あと煮物沢山作ったからお裾分け」
「ん、ありがとう、ねえちゃん」
家に戻る梅梅を見送ると、保存容器とお菓子をかかえた猫猫は頬を軽くさすり、家のドアを開けた。