5. 首輪付きになりました「だから、彩胡はあなたの子ですよ。なんで疑ってるんですか」
突然の言葉に瑞月は混乱していた。
言い捨てて、ぷい、とそっぽを向いた猫猫の頬が心なしか膨れているように見える。
「ど、どういうことだ?」
「どう、って、そのままの意味ですよ」
瑞月は金魚のように口をぱくぱくとさせ、二の句を継げずにいた。
「だ、だがあの時…」
「そんなに私が浮気したことにしたいんですか」
「ち、違う、そうじゃない。あの頃、おまえは俺に知られないように男と会っていただろう」
瑞月の言葉に猫猫は眉を顰め、何かを考えているようだった。そして何かに思い当たったようで、「ああ、陸孫か」と小さく呟いた。
聞いたことのない男の名前に瑞月は奥歯を噛み締める。
ちらりと瑞月の表情を盗み見て猫猫は小さく息を吐いた。
「あれは、父親の部下の人です。母が亡くなってから父親が同居したいと言いだしたんで、それを伝えに来ただけです。それだけです」
猫猫から父親の話はあまり聞いたことがない。話題にするのも嫌だったのだろう。
瑞月は膝に置いた自分の手の甲を見つめていた。結局は彩胡が自分の子であると信じきれず、それを確かめることもできず、猫猫が留学から戻ってくるまでずっとうじうじとし続け何もできずにいたのだ。確かめる方法はいくらでもあったはずなのに、どれだけの時間を費やしてしまったのだろう。
「もう、まだ納得いかないんですか?」
俯いたままの瑞月に苛立ちを含んだ声音を投げる。
「えっ?いや、そんなことは」
「私はっ、瑞月さんしか知りません!」
「は?」
瑞月が顔を上げ、思わず猫猫を見つめた。
数秒後、はっとしてみるみるうちに頬から耳まで紅く染まった猫猫は、言葉選びを誤ったことに気づいたがもう遅かった。
「わ、忘れてください、今のっ、うわ」
突然、瑞月が猫猫に抱きつき、その拍子に二人はベットに倒れ込んだ。抱きつく、というより犬がじゃれついて飛びかかってきたかのようだ。
(重い…)
「猫猫が可愛すぎるから悪いんだ」
「なんですかそれは…」
久しぶりに間近に感じる瑞月の香りに、猫猫は思わず目を閉じた。少し甘く、爽やかさも併せ持つそれはいつの間にか心が落ち着く香りになっていた。無意識に背中に回した手がシャツを掴む。
「やっぱり、そばにいてくれないと駄目みたいだ」
「…いなくてもちゃんと、やってるじゃないですか、今まで」
彩胡が素直に育ったのは瑞月のおかげだ。選択は正しかったと思っている。
首筋に埋めていた顔をがばりと上げ、瑞月は猫猫の瞳を覗き込んだ。
「そんなに俺のことが嫌か?」
唇をとがらせ甘えた口調で拗ねて見せる。
やれやれ、変わらないな、と思いつつ、猫猫はそれを少し嬉しく思っている自分にも呆れてしまう。
「しょうがないですねぇ」
手を伸ばし両頬を掌で優しく包むと、瑞月の顔がゆっくりと近づいてきた。
軽く触れただけの接吻はまるで初めてのキスのようだった。
+++
「駄目だ」
「別にいいじゃないですか、昨今、カップルの4割は結婚式をしないそうですよ」
二人は瑞月の取り寄せた結婚式場のパンフレットを前に結論の出ない問答を繰り返している。
「俺が猫猫のドレス姿を見たい」
「なんなんですかその理由は。だいたい元サヤで決まりが悪いのに、式なんて…」
そもそも子供を瑞月に預け留学していたのだ。今更厚かましくないだろうか。
「別れてなんかいない」
「はいはい」
あれから猫猫は瑞月のマンションに同居することになった。建前の理由は怪我をした猫猫が階段の上り下りが大変だから、ということにしている。
猫猫はリビングのソファへ雑に腰を下ろし膝を抱える。
(だいたいプロポーズなんてされたっけ…?)
「えっ?あれは違うのか?」
「あ、いや、え?」
心のうちでつぶやいたつもりが声に出てしまっていたようだ。
一時的な同居のつもりだったのだが瑞月は大いに盛り上がって、挙式だなんだと色々考えているらしい。猫猫はといえば特に興味もなく、瑞月の気の済むまでとりあえずやらせようと静観の構えだ。もっとも当事者だから静観できず巻き込まれるのだが。
ソファにもたれて虚に天井を眺めていると、いつの間にか瑞月がキッチンからコーヒーを運んできていた。
「ありがとうございます」
手渡されたカップを受け取ると「ちゃんとデカフェを用意したぞ」と、少し得意そうに言葉を付け足し、猫猫の隣に腰掛けた。先日カフェインの取りすぎは良くないと言ったからだろう。
鼻腔をくすぐる香りを楽しみながら褐色の液体を口へと運ぶ。こくりと飲み込むとふう、と息が漏れた。
(結婚、ねぇ…)
猫猫にはその前に立ちはだかる各種様々なハードルが目に浮かぶようで、あまり現実として捉えられない。
そもそもこの同居とて各方面に波紋を広げているかもしれないのだ。
瑞月の仕事上の立場にしても、猫猫はあまり知らなかった。自分の家族のことにしても、さすがに何も伝えないわけにはいかないだろう。考え始めたら切りがなく、憂鬱さを増すばかりなのであまり触れたくない話題だ。
「猫猫」
浮かない顔に気づいたのか瑞月は不安そうに覗き込み、猫猫の頬にかかる髪を指で掬って耳にかけた。
「無理しなくていい、俺がちょっと浮かれすぎてたな」
寂しそうに言う顔から目を逸らす。
「猫猫、でも、もう時間を無駄にしたくないんだ。この先いつ何が起こるかわからない。だから、できる限り一緒にいたいんだ。彩胡と、猫猫と三人で」
「何が起こるかわからない、なんて、縁起でもないですね」
先日の交通事故のせいでそう言っているのだろうが思わず苦笑してしまう。
「確かに、人生何が起きるかわかりませんね」
瑞月とは二度と会うつもりはなかった。きっと瑞月にはもっと相応しい人がいるだろうから、その方がいいと思っていたのだ。自分が離れていれば気持ちも離れるだろうと。しかし羅門から連絡が来て少し心が揺らいだ。せめて娘を育ててくれた感謝を伝えようと、そんな気持ちが芽生えた。ただ、実際に面と向かってしまうと何もいえないのだが。
「後悔、してないんですか?」
「なにをだ?」
「もっと、違う選択肢があったかもしれないのに」
カップを口に運び、コーヒーを味わってから瑞月は口を開いた。
「猫猫が望むなら、手放せると思っていた。留学のこともそうだ。猫猫が望んでいることは叶えたいと思った。でも、離れていた間いつも思うことは、今、猫猫が側にいてくれたらって、そればかりだった。格好つけて理解のあるふりをして留学にいかせなければよかったって、ずっと後悔してた」
「…」
猫猫は少し驚いた顔で瑞月を見つめた。
「だからもう、後悔しないために、自分の思いに忠実に生きようと思う」
「それは、」
「逃がさない」
まっすぐ目を見て真剣に言う瑞月に猫猫は呆気に取られ、しばらく口を半開きにしていたが、不意に口角を上げた。
「…粘着質」
「なんとでも言え」
口を尖らせて瑞月はそっぽを向いた。
「首輪付きになりますよ」
「なんだそれは?」
「なんでもありません」
疑問符を浮かべたままの瑞月を放っておく。
「ここに、居てくれるんだろう?」
黒曜の瞳に不安を浮かべ猫猫を見つめる。
「そうですね、当面は」
「逃げても絶対に探し出す」
「それストーカーですね。犯罪では」
「ううっ」
猫猫の頬は心なしか緩んでいる。
「迷子になったら探してくださいね」
「迷子?…わかった」
瑞月は猫猫の頬に手を添えると口付けた。
「そろそろ彩胡が帰ってきますよ」
「もう少しだけ…」
瑞月はようやく取り戻した甘やかな感触に暫く浸っていた。