クマさんなのです「聞いてますか、ロイテル様……」
「……ああ、聞いているよ、ファリスさん」
秋の夜風が冷たく頬を撫でる帰り道。
月明かりに照らされた石畳を、二人並んで歩いていた。
酒場で軽く飲んでいたはずのファリスは、すっかり酔いが回っている。
ロイテルは一歩先を歩く彼女にちらりと視線を送りつつ、内心で肩を竦めた。
(さて……この酔っ払いを、どうしたものか)
酔って頬を赤らめたファリスは、歩くたびにふらふらと体を揺らしていて、見ているこっちが不安になる。そのくせ、どこか楽しそうに、いたずらっぽく笑っていた。
「私はクマになるのです。がおー」
くるりと振り返り、両手を頭の横で丸くして威嚇のポーズ。目元はとろんとしているのに、本人なりに精一杯の真剣さで演じているのだろう。
「おお、怖い怖い」
ロイテルは困ったように笑いながらも、適当に相槌を打つ。酔っているとはいえ、こんなにも子供っぽくなるとは思わなかった。
「がおー……お、おぉ……」
次の瞬間、ファリスは足元をふらつかせ、そのままバランスを崩した。
「おっと……!」
素早く手を伸ばしたロイテルは、彼女の細い体を片腕でしっかりと受け止めた。勢いのまま、ぐっと胸元へと引き寄せる。
「怪我はないかね?」
「……ないです……うー……」
ファリスはロイテルの胸に顔を埋めたまま、小さく唸るようにぐずり始める。その声はまるで子猫のようにか細く、情けないほど可愛かった。
「うー……」
「どうした? 気分が優れないのか?」
優しく問いかけると、ファリスは胸元に顔をすり寄せたまま、ぽつぽつと言葉を零した。
「優れないです……寂しいのです……お別れしたくないのです……」
しがみつきながら囁かれる言葉に、ロイテルは思わず笑みを零す。
「……可愛いことを言って……」
そのまま、ふと手を顎に添えて、彼女の顔を軽く持ち上げる。そして、そっと唇を重ねた。
ファリスは抗うことなく、むしろ待っていたように、甘く唇を返す。胸元をきゅっと掴む手が震えている。彼女の熱が、唇越しにじんわりと伝わってきた。
「こんなに甘えん坊だったとはな」
「……私に甘え方を教えたのは、ロイテル様なのです……」
ロイテルの笑みを見て、拗ねたように返すファリス。その言葉は怒っているようでいて、どこか嬉しそうでもあった。
「分かった分かった。……念のため聞くが、部屋に私が入っても平気なのか?」
「……良いです……けど……あんまり、見ちゃだめ、なのです……」
彼女の部屋の散らかりようは、今に始まったことではない。ロイテルももう慣れていたが、そう言って拗ねる姿がまた愛しく思えた。
*
ファリスの部屋は――案の定、物に溢れていた。
服、書物、楽譜の切れ端、瓶のラベル、あたらしく増えたぬいぐるみ……そのすべてが雑然と床に転がっている。ロイテルは溜め息をひとつ吐きながら、部屋の奥を見やる。
「……」
「ロイテル様……?」
ファリスが心配そうに顔を上げた。ロイテルは黙ったまま、部屋の棚に立てかけてあった何かを手に取って、彼女のもとへ歩み寄る。
「クマになると言っていたな。……ほら」
彼の手には、茶色のふわふわとしたカチューシャ。クマ耳がちょこんとついたそれを、まるで迷いなく、ファリスの頭に装着する。
「はぇ……え……?」
ぽかんとするファリス。自分の頭に何か乗ったことに気づいて、思わず両手で頭を押さえる。そして、状況を理解して、耳まで赤く染め上げた。
「が、がお……」
恥じらいに震えながらも、さっきのポーズを再現する。両手を上げて、精一杯の「威嚇」。けれど――それはどう見ても、獣ではなく、愛玩動物のようだった。
ロイテルはその可愛さに耐えきれず、腕を伸ばす。
「……っ……!」
ふわりと抱き上げられたかと思えば、次の瞬間、ファリスはベッドの上に押し倒されていた。
「ほら、もっと威嚇しないと、逆に食われるぞ。可愛いクマさん」
「う、うぅ……がおお……っ♥」
精一杯の抵抗は、愛らしい呻きに変わった。
その夜、ファリスはクマではなく――とびきり甘い夜の獲物となったのだった。