月が綺麗かは知らないけれど 寒いなら厚着をすればいい。布団に潜ってもいい。カイロを貼ってもいい。
部屋に暖房があるのなら、足を動かして帰ればいい。
さむい、さむいと繰り返すだけで寒さがどうにかなるのなら、そいつはただの魔法使いだ。
さっきまでダンスレッスンに集中し汗をかきながら鏡の中の自分と向き合っていた男が、鼻水をすすり頬と耳と鼻の頭を真っ赤にして寒さに文句を言い始めたのを見て、ぽつりぽつりと鋭心は呟いた。
隣で聞いていた秀が辛うじて聞きとれた程度の声。本人に聞こえれば「マユミくんの正論は聞きたくないでーす」と(きっとユニットを結成した当初なら言えなかっただろう軽口で)おどけて返してくることがわかりきっていたからこそ小声で言われたことを悟って、秀は小さく笑った。
暑さにも寒さにもそこそこに耐性がある鋭心と違って、百々人はひどく寒がりだった。身体を動かさなくなれば途端に冷え切ってしまう身体、いくら厚着しようと滑り込んでくる冷気を敏感に受け取ってしまう。だぼついた服の下、腹と背中にしっかりカイロを貼っていることも、二人は当然知っていた。
そして天峰秀は天才なので、その情けない姿からじっと目を離さないままでいる鋭心の目元がほんのり赤らんでいることにも気づいている。ついでに言えば、百々人は鋭心のいない日には、何かしらの防寒具を忘れてくるなんて真似はしないということも。
「ねえアマミネくん、マユミくん、……ずびっ。帰り、コンビニ寄ってこうよ」
「……帰る時間に合わせてエアコンのタイマーを入れてきたと言ってただろう。真っ直ぐ帰った方がいいんじゃないか」
「むり。部屋までもたない。しんじゃう」
「凍死するような気温じゃないだろう」
「気持ちの問題なんだよー、マユミくん」
言葉だけ見れば友人同士の軽いやりとりでしかないそのセリフが、ごまかしきれない優しさや、……他の感情を含んでいるから。
「ねえ、鋭心先輩」
「どうした、秀」
先に階段を降り始めた百々人を目で追う鋭心を小声で引き止めて。
「こういう言葉、知ってますか?」
出会ってから季節を七つほど跨いでも関係の進展が見られないどころか自覚すらしていない先輩にひとつ燃料を投下して、秀はまた小さく笑った。
◇◆◇
俺今日の夕ご飯ラーメンなんで、お先に。そう言ってカイロ代わりのホットココアだけ購入してあっさり帰った秀と対称的に、百々人はなかなかコンビニから出ようとはしなかった。
肉まんを買うだけ、が今週のジャンプ読んでないや、に繋がり、そこからそういやこの雑誌次の号で兜くんが出るんだよね、とずるずるコンビニに居座り、鋭心に急かされようやくレジへと向かう。
頼んだ肉まんはひとつ。においに釣られてひとくち、と頼もうとするのをぐっとこらえて、鋭心は横目で百々人を見やる。
はぐ、はぐ、とゆっくり食べ進めていく百々人は猫舌だ。寒がりのくせに猫舌。食べ物や飲み物で芯から温まることはできない。食べ終わるのを待っている間にさすがに鋭心の身体も冷えて、鼻の頭がむず痒くなってきた。
空はどんよりと重たい雲が立ち込めている。雨か、下手したら雪でも降るかもしれない。見てみたい気もするが、ますます寒がりの百々人は用事もないのに外出するのを渋りそうだと思うとそれはそれで憂鬱だった。
仕事やレッスンがなければ、会うこともない関係なのだ。
つまりそれは、「それだけの」関係が、いやだと
「ねえマユミくん」
「どうした」
「寒いね」
「……お前、今肉まんを食べたばかり、……」
コンビニ脇の小さい駐輪スペースには誰もいない。行儀悪く縁石に座って食べていた百々人の鼻と口からは、ほくほくと息に合わせて湯気がのぼっている。
肉まんの温度に負けてうっすら熱を持ったように赤く腫れぼったくなっていたその指が、隣に立っている鋭心の上着の裾を掴んでいた。
ちろ、と伺うように向けられた視線。目の周りもほんのり桃色に染まっている。ずっ、ずっ、と時折鼻をすする音が、やけに静かな空間に響く。
さむいね。
繰り返した百々人の瞳の底には、知らない熱がじくじくと燻っていた。
(寒いですね、っていう言葉は)
(あなたと温まりたいです、って意味でもあるそうですよ)
ああ、これが。
――これが そうか。
「……ああ。寒いな、百々人」
伸ばした指先ごと冷え切った手を握ったのに、目元がじわりと熱を持つほど暖かかった。
暖かさを知るから寒さがもっとつらくなるのかもしれない。そんなことをぼんやり考える。
それでも。明日も百々人が手袋を忘れてしまえばいいと願ってしまうぐらい、コンビニに戻れば手袋も売っているという事実に目を瞑ってしまうくらい、同じ温度の手のひらに夢中になってしまっている自分を自覚して、鋭心はほわりと彼と同じ色のため息を溶かした。