袋小路 呼ぶ声はとろりと溶けて堕ちて行く。マユミくん。マユミくん。
一人暮らしを始めた百々人の家。百々人が眠るための部屋。その狭い領域の中では、百々人は普段の人当たりの良さと愛嬌は持ちつつ理知的な顔はどこかに脱ぎ捨ててしまう。
もっと自信を持てば良いのに。もっと、甘えてくれれば良いのに。まだ薄く距離を置かれていた頃、抱いていた悩みのような展望は全部この部屋に入った瞬間消えたのに、もやもやは大きくなっていくばかりだ。
「マユミくん、……ねえ、まゆみくん」
普段の柔らかい瞳の光も笑い方も、全部削ぎ落とされて。子供のように、いや子供以上に。寒気がするぐらいあどけなく百々人が笑う。遊ぶように袖を引っ張る仕草も俺の背中に額を擦り付ける動作も、無邪気や無防備を通り越して、こいつは本当は百々人じゃないんじゃないかという疑問を浮かばせるぐらいそぐわない。
甘く溶けた声で。表情で。歌うように。零すように。百々人はいつも、囁く。
「ゆめにみるぐらい キミのことがすき」
……いつも泣くか魘されるかばかりな夢見のくせに、百々人はそうやって嘘をつく。
知っているんだ、お前が頑なに一緒の部屋で寝るの拒んでた理由。好奇心と微かな苛立ちに負けて忍び込んだ深夜のベッドで、お前が泣きじゃくっていたこと。無自覚なのかどうなのか知らないが、普段お前が泣かないのはこうやって夜の間に全部涙を排出して残ってないからじゃないか、そんな風に思ってしまうぐらいぼたぼたと涙をシーツにしみこませて、苦しそうにえずいてたこと。
(あの日、こっそり部屋に入らなければよかった)
そうすれば、こんな百々人は知らずにすんだ。
(あの日、お前の涙を拭ってやらなければよかった)
そうすれば、百々人が泣きながら目を覚ます事はなかった。
(あの日、……お前を、抱きしめなければ)
夢と現実の間を彷徨ってしがみついてきた百々人に、俺の体温を刷り込ませなければ。
ねだられたキスに応えなければ。
こうやって、仕草は素直で言葉は嘘で塗り固められた、ちぐはぐなお前を見ることも、なかった。
百々人の弱さを知りたくなかったわけじゃない。一人で泣かせたかったわけでもない。そんなことは断じて、ない。
ただ、もっとちゃんと段階を踏んでいれば、もう少しまともな関係になれたんじゃないか。軽口混じりでも弱音をちゃんと吐かせて、普通にそれを趣味や仕事で解消して、どうしてもだめな時は寄りかかって体温を分け合って悩みや不安を溶かすような、そんな関係に。
(百々人。……俺は、お前と)
「マユミくんの夢を見ると、起きた後すっごく幸せになれるんだ」
ああ、ほらまた。
そうやって笑うお前は嫌いだと、目を伏せて吐き捨ててしまいたい。だけどどうしても「嫌い」の三文字をぶつけたくなくて黙っていると、人の感情の変化に聡い百々人は困ったような顔をして「ほんとうなのにな」と呟くから、どうしたらいいかわからなくなって、イライラして。言葉が、正しく出てきてくれなくなって。
だから今日も、
――お前に好きだと伝えられなくなる。