キミに酩酊 黒縁の眼鏡がぽつんとテーブルの上に置いてある。マユミくんが変装用にいくつか持ってるフレームだけの眼鏡。僕もこういうのを買った方がいいのかなって思う。思うだけ、なんだけど。アマミネくんは気分によってフレームを変えて、オシャレに取り入れたりしてるみたい。似合うなあ、センス良いなあと思うし、帽子を目深くかぶるより手軽に顔の印象を変えられるから効率的だっていうのはわかるんだけど、なんとなく踏み出せずにいた。
昔、同じクラスの子が急に視力を落として。それなりに仲良しだったグループで、いきなり現れたちょっとした非日常の小道具をふざけて回してかけさせられたことがあった。くらりと傾いだ世界、視界に入る歪な線。そんな記憶が蘇るから、かな。
ぼんやりとした思い出を反芻しながら、持ち主不在のそれをかけてみる。
(……やっぱり、僕には合わないかな)
ちらちらと視界の端で自己主張してくるフレームがなんだか気に障る。眼鏡はあんまり、好きじゃない。そんなことを思いながら外して机の上に戻して、後ろに視線を移す。
紺色のカーディガンが無造作にソファにかけてある。マユミくんの今日のコーディネートの一部。今はシャワーを浴びている最中のマユミくんの汗が染みついてる。何回か、洗ったことがある。今日はどうなんだろう。泊まっていくのかな、それともほんの少しだけ触れ合ったら帰るんだろうか。
きっと僕が持っているものより良い素材なんだろうけど、このカーディガンも結構長い事着ているところを見てきた。年季の入った表面が毛羽立ってて持ち上げると手のひらがちくりと刺激される。羽織れば同じ感覚が首筋を擽った。マユミくんのカーディガンは、好きじゃない。
すん、啜った鼻にまだ洗ってないカーディガンの匂いが届く。マユミくんのにおい。すぐ脱げるように肩だけに羽織ってたはずがいつの間にか腕を通してて、袖からも胸元からも肩からも彼のにおいが、して。眼鏡をかけてもいないのにくらりと回った世界が不愉快で、裸眼でこんなくらくらしているならと手に取った眼鏡にレンズがないのは確認済みなのに、何も考えずかけた。くらくら。とまらない。上下左右に見える黒はフレームだ。ゆれる。くらくら、くらくら。
はあ、と吐いたため息は変に熱い。
マユミくんの匂い。眼鏡のせいだと誤魔化すこともできないぐらい世界がおぼつかない。耳元で心臓が鳴ってる。マユミくんの匂い。動かなくてもわかる。動くともっとわかる。マユミくん、が、ダンスの練習をしたあと着た服。レッスンが終わってまっすぐ帰ればいいのに、今日は別の仕事があったから先に帰ってた僕の部屋までわざわざ走ってきたせいで、真冬なのにほんの少し湿っているカーディガン。
それを羽織ってうずくまってる僕は、何をしてるんだろ。何でこんなことしてるんだろ。なんで、
「ももひと」
「…………、」
声をかけられても我にかえることなんてなく、あまいくらくらが増していく。
「何をしてるんだ」
文字だけみれば軽蔑とか嫌悪とか呆れとかそんな感じの言葉も、ぽたぽた水滴を垂らしながらゆるく目を細めて、濡れた手で頭を撫でながら言われたらそこにはもう、あいじょうしか、感じない。
くらり。くらり。床に座り込んでいると体が冷えるぞ。心配と甘い毒が耳から流れ込んでくる。風呂上りのしっとりしたマユミくんの匂いと、カーディガンからする熱のこもった匂いが混じって、ちかりと目の前に星が舞った。
「……髪の毛乾かしてないマユミくんに言われたくないよ」
「すまない。時間が惜しかった」
ぴん、と人差し指でフレームが弾かれた。近づいてくる顔に、確かに眼鏡はキスする時邪魔だと思いつつ、床に落ちたフレームが歪んでないことを祈る。触れる指先は丁寧なのに、そこに至る過程はらしくもなく即物的で乱暴だ。フレームだけとはいえ、マユミくんの私物ならきっと高いだろうに。
二の腕を絞るように掴まれる。カーディガンに皺が寄る。シャツよりは残りにくい痕、だけどマユミくんの握力ならひょっとしたらほつれてしまうかもしれない。それでも僕はこれを脱がない。くらりくらり、度のきつい眼鏡をかけたような、酔った感じ。アイドルじゃないマユミくんといる時はいつもそうなる。触られると世界が溶けていく。ぽろぽろと、どろどろと。
風邪をひいてほしくないのは本当だけど、髪を濡らしたまま抱きしめてほしかったのも、本当。
マユミくんが僕に逢うために、僕と少しでも長い時間を共有するために全力疾走した証が染みついた匂いと、それをさっぱり洗い流して僕と同じシャンプーを使ったはずなのに、変に甘くてずきずきする匂い。どっちのマユミくんの匂いもほしくて。どっちも離したくなくて。そんなくたくたにほどけちゃう僕を知ってて、脱衣所に持って行かずにわざとカーディガンやシャツをソファーに置いてくマユミくんだって、僕の部屋の匂いと僕の匂いの違いにくらくらしてる、はず。しててほしい。そうじゃないと不公平だ。平衡感を一緒に失って、どこまでもどこまでも上へ。
それはきっと、おちてしまう感覚によく似ている。
「……俺の服を着ている百々人を見ると、興奮する」
キスの合間に呟かれた掠れた声に、「僕も」と返すのはなんだか癪だったから。ナカまで全部キミで塗りつぶしておいてまだ足りないの、なんて安っぽい挑発と一緒に上唇を湿らせた。
ああ、そういえば。今日は泊まっていくのかどうか、聞くの忘れてたな。