深海ランデブー 膝の下まで感じる冷たい濡れた温度。頬を撫でる生ぬるい風。右の手首だけがやけに熱くて、だけどひどく安心した。ざぶ、ざぶ、泡と波が砕ける。鼻で息をすると、潮の匂いがした。瞬きをひとつ。さっきまで視界に入れてたのになんでか目に入ってなかった光景を認識する。灰色がかった、くすんだ青い色の海。曇り空を映したような鈍い色。
薄暗いその中でやけに目につく、赤。
「マユミくん」
名前を呼んでも振り向かないその人は、僕の手首を柔らかく掴んで引っ張る。寄せては返す波にバランスを崩されそうになりながら、塩水をかき分けて真っ直ぐ進んでいく。
「マユミ、くん、」
迷いなく進む背中が少しだけ怖くなる。いつもなら、百々人、って優しく呼び返してくれる名前がない。波の音。風の音。いつのまにか腰まで浸かってる。最初はつま先だけだった。もうこんなとこまで。いつの間にか。ここから、……どこに、向かうんだろう。
「マユミくん、ねえ、……もう」
戻ろうよ、と口にする前に。振り向いたマユミくんがゆっくり瞬きをして。僕を、瞳の中に閉じ込めて。笑った。
「俺はお前となら、ずっと進み続けてもいい、と思っている。
──百々人は、どこまで行きたい? 」
ぴぴぴぴぴ。
単調な、だけど大きなアラームの音で夢から引き戻された。じっとりと背中が湿っている。海から上がったみたいだ、なんて。ただの夏の寝汗なのに、あからさまにさっきまで見てた夢に引きずられた感想をぼんやり浮かべながら、アラームを止めた。部屋の中に落ちたはずの静寂、の、中に。ざざ、ざぶん。海の音が混じってるような、錯覚。
「…………っ」
鼓膜にこびりついた波の音を消すように、頭を振り払う。あれは夢。ただの夢。右の手首がやけに熱いのも。空気に潮の匂いが混じってる気がするのも、全部ただの、
──思考を遮るようにもう一度スマホが鳴る。セットしてある着信音でわかる。かけてきたのは、さっきまで夢で共にいたあの人。会いたいと思ってた。声が聴きたいと思ってた。だからあんな変な夢を見た、それだけだと言い聞かせながら通話を繋ぐ。
「っもしもし、マユミくん?」
『おはよう、百々人。……いきなりですまないが。今度、海に、行かないか。
ふたりで』
その凪いだ声の背後で。ざざん、と波が砕ける音が聞こえたような、気がした。
(そういえば僕は夢の中で、マユミくんに なんて こたえたんだっけ。)