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    para_dach

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    para_dach

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    2024年6月JBで頒布していた太中の本「愛の証明」に収録。だざいがプロポーズに悩む話。

    愛の証明 太宰は悩んでいた。千頁を超えるフルカラーの雑誌をテーブルに広げて、睨めっこをする。社員寮の自室は沈黙に満ちていた。この状況になって、かれこれ一時間が経過した。簡素に済ませた夕飯の蟹缶とパックの白米の空箱が、追いやられるようにテーブルの隅に置かれている。窓の外に浮かぶ月が、今夜の空気がいっそう透き通っていることを報せていた。しかし、太宰の視線は外ではなく下に向けられている。
     眉根を寄せて真剣な表情を浮かべる横顔は、滅多にお目に掛かれないものだ。超人的だと云われる頭脳、精神年齢二千歳の仙人。人間の領域から大きく離れた太宰を表現する言葉はいくつもある。
     そんな太宰を悩ませられるものがこの世に存在するのか? ――存在するのだ。

    「あー……駄目だ。全っ然判んない」

     お手上げですと云わんばかりに、細長い胴体を畳に投げ遣る。思考の糸が絡まり、無意識のうちに丸まっていた背中が物理的に伸びた。凝り固まった肩甲骨が、躰の内側でぱきぽきと小さく骨の音を鳴らした。詰まった血液が滞りなく循環するような感覚。肺を膨らますように空気を吸い込むと同時に、背中ごと引っ張り上げるように真上に腕を伸ばす。ゆっくりと吐き出しながら力を抜いて、思考のリセットボタンを押した。そのまま横に転がろうとして、テーブルの脚に下半身をぶつける。いて、と小さな声が無言の部屋に落ちる。

     悩みごとがあると、床を転がるのは昔からの癖だった。マフィアに在籍していた頃、執務室に敷かれた赤色の絨毯の上を端から端まで転がっていたら、報告のために訪れた部下に怪奇現象を見るような目を向けられたことがある。
     タイミングよく扉を開けた相棒にも見つかって「オイ、奇行で部下を困らせンのはやめろ‼」と云われたこともあったっけ。懐かしいことを思い出す。

     しかし、マフィアの幹部をしていた頃に与えられていた執務室と違い、無邪気に転がれるほど寮の部屋は広くない。考えなくても判ることではあるのだが、癖というのは考える前に出てしまうものなのだ。仕方がない。太宰は脛の痛みをさすって慰める。
     嗚呼、疲れた。太宰は天井に貼りつく電灯をぼんやりと眺める。こうしていたら、上から答えが降ってこないだろうか――そんな莫迦なことを考えてしまうくらいには、万策尽きた状態であった。
     悩みの種が育つこと、およそ二週間。仕事中も考え込むことが多くなり、国木田に注意散漫だと叱られた。依頼の対応で街に繰り出した時は、ショーウィンドウの前で足を止めてしまい、敦に「太宰さん? どうかしたんですか?」と不思議そうな顔をされた。硝子の壁の向こう側、店内に飾られていた装飾品に気を取られていたのだ。

    「いや、何でもない。すまなかったね、行こうか」

     何でもないふりをして笑顔を貼りつける。敦は違和感を嗅ぎ取るような眼差しで太宰を見た。肌でそれを感じた太宰は、見られてはいけないものを隠すように目を逸らす。

    「太宰さん、お疲れですか? 最近、ぼーっとすることが増えているような気がしますけど」

     後輩に指摘されるほどか。取り繕うための布が草臥れたような気分であった。
     誤魔化すための嘘は幾らでも思い付く。

    「ちょっと寝不足でね」「店内にいた美しい女性に、目を奪われていたのだよ」
     そう云えば、屹度――否。それでも屹度、普段と様子が違うことを嗅ぎ取られてしまうのだろう。虎の異能か、彼自身の人を見る目か。どちらにしても、無理に隠そうとすると却って気を遣わせる結末になる。嘘は見抜かれた時点で真価を失うのだ。ならば、開示しておく方がお互い楽だろう。そう判断した太宰は、表情と肩の力を抜いた。

    「…………いやぁ、実は少し悩み事があってね」
    「太宰さんに悩み事、ですか? ……世界征服を企んでいる、とか……?」
    「敦くん、私のことを何だと思っているの?」
    「あ、いえ。すみません! ちょっとした冗談です。ただ、あの太宰さんがそんなに悩むことがあるんだなぁ……と。僕でお力になれることがあったら、何でも云ってくださいね!」

     後輩の純粋な想いと無垢な笑顔が、アスファルトに反射する太陽の光よりも眩しかった。ちょっとした冗談を云えるようになってくれたことは素直に喜ばしい。敦くん、君は諸悪に染まることなくそのままでいるんだよ。ささやかな願いがまなじりに宿り、太宰は目を細める。

     太宰さんに悩み事、ですか? 敦の疑問は一般的なものであった。太宰の秀でた頭脳は凡人とはまるで質が違う。烏は黒色、林檎は赤色、空は青色。多くの人がそう認識するように、太宰の頭脳の次元が普通と異なることもまた、そう認識される類のことであった。太宰が人のことを悩ませる事象は百以上あっても、その逆を観測することは極めて困難で珍しいことなのである。
     マフィアの首領、超人的な推理力を持つ仲間、或いは魔人と呼ばれる敵――そういうごく例外的な存在を除いて、太宰の頭脳に並ぶ人間は存在しない。人のことは理解できるが、人から理解されることはない。尤も、太宰が可能なのは理解であって共感ではない。メカニズムとして理解することと、備わっている機能で感じ取ることは、全くの別物だ。それが太宰のアンバランスさを際立たせる。それこそ、共感を得意としているのは敦の方であった。
     理解はできる。然し共感はし難い。故に、共にあるのは孤独だった。では、太宰の頭を悩ませるのは孤独か。否、退屈な世界に飽いていた時期は慥かに存在するのだが――今は違う。
     畳みに放りだした躰を起こして、テーブルの上に顎を乗せる。長い胴体がゆるやかなカーブを描いた。

    「指輪ねえ、指輪…………」

     婚約指輪、結婚指輪。それが今更、私たちに必要な物なのか。太宰の悩みはそれだった。顎に下敷きにされているフルカラーの雑誌――結婚雑誌としてはあまりにも有名なそれに目を向ける。
     指輪を贈る相手は、恋人の関係にある中也だった。最悪な出会いをした十五歳。無言の離別をした十八歳。運命の悪戯に導かれて再会した二十二歳。互いに向け合う嫌悪は、ナイフの先端のように喉元に突きつけられる。嫌い合っていたはずだった。嫌いだから無関心になれなかった。そうして雁字搦めになった運命が、より複雑な形となって惹き合う。
     どうしてこうなってしまったのか――。その疑問に百点の回答を出すことは難しい。強いて云うならば、離れがたかったのだ。
     マフィアに忠誠心を捧げる中也のことを、それごと受け入れた上で全てを自分のものにしたかった。四年の時を経ても何一つ変わらない眩しさに目を細めるくらいなら、いっそ一番近くでそれを見ていたい。もし、あの輝きを誰かに奪われることがあったのなら――それは地獄の業火に身を焼かれるより耐え難いことなのだろう。憎悪の炎で、世界を焼き尽くしても可笑しくなかった。
     太宰の中にある綺麗とは呼べない感情を、中也は「無様だなァ、太宰」と云って受け止める。太宰治という男が自分のことで必死になっていることがどうにも可笑しくて――そして、陳腐な言葉で表現をするのなら、それがどうしようもなく愛しかったのだ。

    「……君が、そうやって何でも受け入れるのが悪いんだからね」

     太宰は責任の全てを中也に押し付ける。中也にとっては、理不尽な云われだった。
     手前が自分の意思でそうしたんだろ。太宰の主張を迷惑に思いながら、それでも――中也だって、二度と手放してやる気などなかったのだ。
     歪だった運命の形が丸みを持って付き合うようになり、それなりの時間を一緒に過ごした。太宰がマフィアにいた頃を含めたら、互いに知らぬところなど無いと云い切れるほどだ。歩いて来た道は真っ直ぐなものではない。「中也なんてもう知らない」「手前みたいな男、こっちから願い下げだ」そんな台詞は何度も飛び交った。二度と顔を見たくないと思いながら眠る夜もあった。それこそ、十五歳の時から数えたら両手では足りない回数思ってきたことだ。恋人になっても、それが変わらないだけ。

     でも結局、互いの隣に戻ってくる。他の人で満たされようとして夜の街を歩いても、虚しさは募るばかりだった。他人といても一人の時間を過ごしていても、隙間を埋められるのはただ一人なのだと思い知る。まるで心臓を握られているような心地だった。叫ぶような鼓動に背中を押されて、何度目かのただいまを告げる。仲直りとも呼べない口論の果てに、大人しく腕の中におさまる中也を強く抱き締めて、太宰は思うのだ。――これが運命じゃないなら、何を運命だと云うのか。
     他の全てがガラクタに思えるほど、その思いは強いものだった。
     
     ***
     
     今のまま何となく一緒に居られればいい。それは太宰の本心だった。死にたいと思いながら、生きるための食事を共にして、夜に紛れるように熱を重ねる。ポートマフィアの五大幹部の名を冠する中也のあどけない寝顔を横で眺めて、これを幸福と呼ぶのだと思った。それだけだったはずなのに、どうして今更、指輪なんて。その自問自答は何回もした。かれこれ五百回くらいは。

     超人と云われ、恐れられる太宰の頭脳をそんなことに五百回も使ったのかという疑問はさておき、その頭で五百回考えても結論は出なかったのである。記述回答式のテストの解答欄に書いて、消してを繰り返す。何を書いても不正解のような気がした。数学のテストで例えるなら、回答を出すための途中式が無限に続いているようなものだった。
     最終的に着地した考えは「必要とか否とか、そういう問題じゃない」という、平凡で輪郭のハッキリとしないものだった。抑も、必要かそうでないかを話すなら、答えはどう考えても後者なのだ。現行の制度では同性同士での婚姻関係は認められていない上に、太宰は婚姻関係を結ぶことを目的としていない。一般論として、指輪は結婚の申し出をする時に贈るという印象があるだけで、役所に届け出をしない関係を選択する人たちだっている。そういう人がひっそりと指輪を贈り合うこともあるだろう。結婚というイベントでのみ使用可能なアイテムなわけじゃない。もっと云うならば、結婚をしていても指輪を購わない人たちもいる。
     だからこそ思うのだ。仮に指輪を用意したとして、それはあるだけの飾りになる。意味を成さない装飾品。自己満足を美しい宝石にしただけの代物。エゴの塊に飾り付けをしたところで、中身は金剛石からほど遠い。そんな物を購うくらいなら、バイクのパーツをプレゼントした方が余程喜ばれるように思う。
     でも、そういう問題ではないのだった。二人が二人でいるための証明、或いは誓い。そういう物を可視化してもいい――捻くれた云い方をしないのなら、可視化したくなった。けれど、悩んでいる。本当に必要なのか。そういうことを考えているのは、自分だけではないのか。自己満足を押し付ける、その役目を指輪に背負わせていいのか。
     不要なものを貰ったところで困らせるだけだろう。購うにしても、どんなデザインなら満足してくれるだろうか。ああ見えてこだわりが強い一面がある。洒落たものが好きな中也と違い、太宰はそういう部分には疎かった。

     だから結婚雑誌を購い、参考にしようと思ったのだが――考えが甘かった。太宰が想像していた倍以上に、世の中には指輪のデザインがあったのだ。輪っかの形状をしていれば指輪でしょう。そんな論は通らない。リングの幅が広い指輪、ウェーブのようなフォルムが美しい指輪、金剛石の埋め込まれたストレートタイプの指輪。他にも重ね付けを前提にデザインされたものや、内側への刻印によるアレンジ等々。指輪を贈るか否か、一歩目が決まらないまま悩みをあちこちに散らかす。おもちゃを片付けられない子供のようだった。
     太宰はテーブルに額を押し付けて、哀れな呻き声を上げる。

    「……私も、随分とロマンチストになってしまったものだねぇ」

     十五歳の自分が知ったら全身に鳥肌を立てて卒倒して、気色悪さにその場で心停止してもおかしくない。嗚呼、本当に。こんな風になる予定じゃなかったのに。脳みそを休ませるために目を閉じる。思い浮かぶのは、中也の事だ。
     
     交わらない四年を差し引いても、手元に残る思い出の欠片は両手から溢れるほどになっていた。生きることに価値を見出せない――心の底から死にたいと願うほど生きる理由を見つけたかった太宰が、生きることに「試してみる価値はあるかもしれない」と思ってから数年。中也と居る日々は、少なくとも退屈しないものだった。一緒に居たいかと問われるとその質問には首を横に振るが、手元から離れるのは許し難い。だって、中也は僕の犬なのだよ。十五の太宰が未だなお鮮明にそれを主張する。
     矛盾した気持ちを平気な顔をして抱かせる。太宰は、中也のそういうところも嫌いだった。嫌いなのに、中也を求める心の芽は日に日に育つ。最初は気のせいだと無視できていたそれも、いよいよ冗談では片付けられなくなった頃合いに、中也とバーで顔を合わせることがあった。酒を飲んで、頬を朱に染めた中也が「手前と飲むのも久しいなァ」なんて、昔のことを懐かしがる。酒を流し込み、当時の愚痴を垂れ流す。
     交互に繰り返すうちに、中也は寝てしまった。近くにホテル街があることは知っていた。休ませる名目でホテルに入り、そのまま関係を持つこともできた。十六歳の時に思春期の興味と嫌がらせが背中を押して、巫山戯て行為に及んだことがあったのだ。あの時のように、どうにでも理由をつけて好きにすることはできたのだが――太宰はそれをしなかった。できなかったのだ。内側にある感情が手に余るほど重く、軽い気持ちで触れることが戸惑われたのだ。

    「嗚呼、重い」

     文句を云いながら、己の肩に中也の腕を回す。行き先は中也のセーフハウスだった。太宰は、中也が利用しているそれらを当然のように把握している。飼い犬の住居くらい知っておかないとね、飼い主だもの。そんな理論を振りかざすのだ。

     大通りを照らす街灯の下でテールランプの光が過ぎていくのを眺めながら、空車の表示が出ているタクシーを呼び止めた。重力操作のような異能があればこんなことをしなくて済むのだが、生憎持ち合わせは異能を無効化する究極の反異能だった。夜間料金で割増になったタクシーに二人で乗り込んで、ふうと溜息を吐く。携帯の画面に表示させた地図を運転手に提示して「ここまでお願いします」と云った。
     代金はもちろん、中也の財布から拝借する予定だ。後部座席に座る太宰に、寝ぼけた中也は容赦なくもたれかかる。火照った体の熱がダイレクトに伝わった。心臓の音がやけに五月蠅く感じる。脈拍操作で落ち着かせる心算で目を閉じて、意識を深いところに沈める。アスファルトを滑るタイヤの音と、車内にかかる音楽だけが耳に届いた。そして深呼吸をする。
     ――しかし、どうにも鳴り止みそうにない。落ち着かせようとすればするほど、どうにもならない現実が輪郭を色濃くした。年季の入った片思いが、色鮮やかに花を咲かせるように。
     仕方なく、太宰は制御することをやめた。投げ出したのだ。大抵の事柄は、太宰にとって対処するには容易く、思い描いた物語をその通りに進めることも難しくない。だのに、中也が関わると上手くいかないことの方が多かった。リードで繋いだところで勝手に走り出す犬を飼うと苦労する。手がかかることばかりでそれに振り回されているのに、リードを離す選択はなかった。
     結局、セーフハウスの付近に到着するまで心臓は駆け足になりっぱなしだった。寝こけていた中也は、その心音を知らないのであった。昔の記憶なのに、昨日のことのように思い返す。

    「……もうこんな時間か……」

     太宰は目を開ける。携帯電話の画面に、零時前の時刻が表示されていた。慥か、明日は調査の仕事が朝イチから入っていたはずだ。退社前に「遅刻は許さんからな!」と、国木田に口酸っぱく云われたことを思い出す。

    「今日も決められなかった……」

     毎晩のように頭を悩ませること、十五日目。今日も決められずにカタログを閉じる。結婚情報誌の表紙を飾る女性が見せる笑みとは真逆に、太宰は悩ましい表情のまま床に就いた。
     
     ***
     
     翌朝、太宰は寝る前にセットした携帯電話のアラームで目を覚ます。ううん、まだ眠い。躰を半回転させて二度寝をしようとしたところで、イマジナリー国木田が鬼の面相で怒鳴りつけてきた。

    『太宰‼ 起きんか‼ さっさと支度しろ――‼』

     ……くにきだくぅん。無断で人の脳内に住むのはやめ給え。そんなにガミガミしていると、女性にモテないよ? 本人には届かない、失礼な物云いを並べる。気怠さを抱えたまま太宰は躰を起こす。このまま微睡みに身を預けたら、もっと面倒なことになるのは明瞭なのだった。
     社員寮の自室に置いてある物は少ない。仕舞うのが面倒で積み重なった衣類、包帯のストック、常温で保管できるレトルト食品、自殺関連の書籍。そういうものが無造作に固められて床の上に放置されている。あとはテーブルと、寝るための布団。テーブルの上には昨晩も睨めっこをしていた雑誌がそのまま置かれていた。それを眺めながら、今日こそ結論を出せるのか? と自問する。
     雑誌を見つめること、数秒。太宰は顔を左右に振って、そこから意識を引き剥がす。答えを出せない悩みの沼に足を取られて、帰って来られなくなるところだった。脳内に住まう国木田の「太宰‼」と云う怒声が一段階ボリュームを上げる。
     判ったから、朝からあまり五月蠅くしないでくれ給え。何時にも増して乱れた髪を掻きながら、顔を洗うために洗面所に向かった。 
     

     爽やかな朝陽が寝不足の躰に降りかかる。太宰は、東の空に昇る光源を見上げて目を細めた。スーツに身を包んだサラリーマンが駆け足で道を行くのとすれ違いながら「私も急いだ方がいいのかも」と思う。尤も、太宰の場合は思うだけで実際に走ったりはしない。犬を散歩させている婦人が正面から歩いて来るのをさりげなく避けながら、欠伸と共に探偵社事務所の扉を開けた。

     ――それまでは良かったのだ。指定された時間の三分前に出勤を済ませて、国木田の怒声を回避する。通常のトーンで云われた「デスクの上に書類があるから目を通しておけ」に従って、情報となっている文字列を読む。朝イチからの調査と聞いていたから、てっきり長丁場になる案件かと思ったがそうでもないらしい。夕方くらいに片付けられたら上々か。
     早めに終わったら、気晴らしに飲みにでも行こうかな。それとも、中也のところに――。いや、今は忙しいんだっけ。数日前に「しばらくは忙しい」と簡素な電子文書を受信していた。恋人とは云え、敵組織の人間である太宰に詳細まで伝えないのは何時ものことだった。そして、その詳細を太宰が調べるのも何時ものことだった。
     どうやら、マフィアの縄張りにちょっかいを掛ける組織が新出しているらしい。命知らずの莫迦の集まり――と云うわけでもなさそうな印象を受けた。排除するには策を練って罠を仕掛ける必要がある。一日二日でどうにかなる組織でないのなら「しばらくは忙しい」の理由も頷けるものだった。

     気付けば、最後に会ってからかれこれ三週間以上経過していた。今さら「毎週会いたい」や「会えない夜は電話をしたい」のような、付き合いたての初心はないけれど、さすがにちょっとした寂しさもある。腕の中にちいさな躰をおさめたい。真夜中に夕日色の髪の毛をやわく撫でて、それが特別な行為であると噛みしめたい。熱を交えて意識を手放すその瞬間に「だざい」と呼ぶ、あの声を聞きたい。人はきっと、こういう気持ちを恋しいと呼ぶのだろう。そう仮定するならば、太宰は中也が恋しいのだった。
     ぼうっとしていると、中也のセーフハウスを自宅のように扱って無意識に帰ってしまいそうだ。しかし、太宰にとって中也の居ない家に意味などない。虚しさが募る現実を前に立ち尽くす、未来の自分の姿が見えている。
     それに、この状態で会ったらどうなってしまうのか。悩んでいることをうっかりぽろっと口から出してしまうかもしれない。或いは、隠そうとした所為で地雷を踏み抜くような失言をするかもしれない。口喧嘩は子犬のじゃれあいのようなものだが、歯を深く立ててしまうことがあった。その多くは、太宰が自分の本心を隠そうとするあまりに、言葉の弾丸を放ってしまう時に起こる。今は、それを起こしやすい状態に近いという自覚があった。端的に云うならば、普通に振る舞える自信がなかったのだ。普段の、中也の目から見て何の変哲もない「太宰治」で居られる自信がなかったのだ。

     まさか己が、指輪を購うだの何だのでこんなに頭を抱えるような人間だとは思っていなかった。中也の所為だ。太宰の脳内は、再び中也のことで一色になる。気付けば、太宰の思考は坂道を転がり落ちるボールになっていた。

    「……で、事前に配布した書類には記載していない事項なのだが――おい、聞いているのか。太宰、おい!」

     鞭で打たれるような声でハッとした。目の前には、眉を吊り上げた国木田の顔がある。太宰の様子をうかがうような怪訝な表情は、怒りが七割、心配が三割と云ったところだろうか。

    「……ごめん、もう一回いい? 昨日は寝たのが遅くてねぇ、寝不足気味なのだよ」

     浜辺に残る波のあとのような罪悪感を、おどけるような顔で誤魔化す。国木田の表情から三割の心配が消えた。更に眉を吊り上げて「最近の貴様はたるんどる!」と怒鳴られる。顔に唾が飛んできても、黙って受け入れた。誰がどう考えたって太宰が悪いのだ。それは太宰自身から見ても同じ判定であった。

    「まあまあ、そう云ってやるな。国木田」

     しかし、そこに太宰の肩を持つ人物が現れた。乱歩だ。スナック菓子の袋に手を突っ込んで、口の中にそれを放り込む。揚げられた薄切りの芋がバリボリと音を立てた。

    「乱歩さん、ですが……」

     この手の説教の最中に乱歩が介入してくることは珍しいことであった。それも、太宰の肩を持つ口ぶりで。

    「仕事が身に入らなくなるような悩みだってあるもんだろう? なぁ、太宰」
    「いや、はは……」

     僕は名探偵だからすべてをお見通しさ。乱歩の顔に、そう書いてあるのが判る。

    「素敵帽子くんもやるじゃないか、お前をそんなに悩ませるなんて」
    「素敵帽子……?」
    「ちょ、乱歩さん!」

     そんなに意地悪しないでくださいよ。太宰が困ったような顔をすると「可愛い後輩が珍しく悩んでいたから、ついな」と悪戯に笑う。話をしながら、乱歩はスナック菓子を口に運んだ。スナック菓子のカスを頬につけたまま、太宰に向けて指をさす。

    「太宰。その問題をややこしくしているのはお前自身だ」

     正論で頭を殴られたような気分だった。ズガン、と脳に何かが響く。逆立ちをしたまま走れと云われるような、そんな無茶を云われているわけではない。前に進むか、進むのをやめるか。答えは二択しかないのに、分岐点を目の前に立ち尽くしている。決断をするための勇気を探している。或いは、諦めるための理由を探している。太宰の現状は、たったそれだけの問題だった。乱歩に云われると、その事実が鮮明な弱さとなって突きつけられる。
     見ないように布を被せていたのに、それを剥ぎ取られた気分だった。見るからにダメージを受ける太宰を見て、乱歩は椅子に背を預けて笑った。太宰とは対照的な空気だった。

    「お前が思うほど心配しなくても、お前なら大丈夫だ」

     風船を破裂させた本人が、破れた風船を繋ぎ合わせてそれに空気を入れるような励ましだった。
     また、そんな無責任な背中の押し方を。そう思う太宰だが、あの乱歩が「大丈夫」だと云っているのだ。それ以上の激励はこの世に存在しない。理由は彼が江戸川乱歩だからだ。それに、根拠のある大丈夫より、根拠のない大丈夫の方がいざという時に足元を支える杖になってくれるものだ。自信とはそういうものだった。
     二人のやり取りは、太宰と乱歩にしか通じない。故に、周りの人間には何ひとつ伝わっていない。だから国木田は思うのだ。
     あの太宰が神妙な顔をするほどの案件があるのか――。
     
     まったく見当違いなことを想像されているとは、さすがの太宰も思っていないのだった。 
     
     ***
     
     予定よりも早く、十四時過ぎに調査は完了した。少し遅めの昼ご飯を食べ終えて探偵社に戻ろうとする太宰に「乱歩さんからの伝言だ。今日はもう上がっていいらしい。何を抱えているか知らんが、さっさと解決してこい」と国木田は云った。何とも雑な激励だ。

    「では、今日はここで失礼するよ」

     折角の気遣いに、太宰は素直に甘えることにした。手をひらひらと振り、国木田とは違う方向に歩き出す。
     
     
     太宰は横浜の海を一望できる丘にいた。コンクリートの階段を降りて、石畳のタイルの道を歩く。太陽の光を反射させて白く輝く海面。それを眺めるように、プレート型の墓石が等間隔に並べられていた。敷地内に一際大きくそびえ立つ樹木を目印に、草花で彩られた霊園内を進む。ゆるやかな階段を上ると、葉の群衆が影を作る下に墓石があった。竿石には「S・ODA」と刻まれている。下草が緑色の絨毯を敷くそこに腰を下ろして、太宰は墓石に背を預けた。

    「ねぇ、織田作。どう思う? プロポーズとか、指輪とか、私にはよく判らないのだよ」

     かつての友人に語り掛ける。その声音は、人気の少ない午後の喫茶店に薄っすらとかかる音楽のように穏やかなものだった。

    『いいんじゃないか?』
    「また君はそうやって、適当な相槌をうっているのだろう?」

     そこにいない友人。けれど、そう云っている声が聞こえた。傍からみたら一人でお喋りをしている、おかしな人間に見えるのだろう。しかし、その心配は無用だ。平日の昼間ということもあり、霊園に他の人影は見当たらなかったのだ。

    『そんなことはない。お前の付き合っている相手は、お前が真面目に考えてやったことを笑うような奴じゃないだろう』
    「それは……そう、だけど……」

     自信がない、と口にすることが憚られる。情けないなあと思いながら苦笑いを浮かべると、同意をするように風が頬を撫でた。三文小説も興ざめの物語、読み手からしたらつまらないものだろう。友人をそんなものに付き合わせているのだ。同意をされても仕方ない――と、割り切れるほど太宰もまだ大人ではない。

    「一寸、織田作。私は真面目に悩んでいるのだけど?」

     もし、織田作が生きて隣にいたのなら、そう云っていただろう。或いはいつものバーにいたのなら、肘で小突いて笑い合っていたのかもしれない。その場所には安吾も居て、そしたら彼は「太宰くんに好かれるなんて、中也くんも大変な役目を負ってしまいましたね」と冗談じみた本音を零すのだ。

    「安吾、それはどういう意味?」
    「そのままの意味ですよ」

     安吾からの云われに、いつもよりセンチメンタルになっている太宰は子供のように拗ねる――そんな未来が訪れることはないのだった。割れたグラスの欠片を拾い集めて腕の立つ職人に預けても、同じ物は二度と作れない。時計の針は止まったままだ。埃まみれの時計は、あの頃の楽しかった時間を今も守り続けている。
     遠い日を思い出す。映し出す映像はいつだって鮮明だ。だからこそ僅かな寂しさを残す。その痛みすら愛おしい――そう思えることは屹度、幸せなことなのだった。
     人は皆罪深く愚かだ。だからいいんじゃあないか。いつの日か、かの魔人に対してそう云った言葉がそのまま自分に突き刺さる。今の愚かとも云える私を、中也は愛してくれるだろうか。否、私たちの間に愛や恋など存在しない。そんな言葉で片付けられるような関係なら、素直に指輪を渡す決断をできていただろうし、プロポーズの計画だってスキップをするような軽やかさで立てていただろう。或いは、普通の男女なら。もしくは、性別に関係なく素直になれる関係だったのなら。そうならば、どれほどよかったか。
     ――よかったか? 本当に? この関係だからこそ、今の私たちがあるのに?
     出会いと離別の果てに縁は切れなかった。でも、たった一つのボタンすら掛け違えていたら、この未来は発生していなかっただろう。それを「よかった」とは云えない。今この瞬間、ここにある運命こそが一番の価値を持つのだ。
     だから、たらればを考えるのは時間の無駄だ。それに、世界中の言語を学んだとしても、適切な言葉で表すことなど叶わないのだろう。透明で形のわからないものに名前を付けることは不可能なのだ。名前を付けられなくても、正しい形じゃなくても、今までもこれからもあの場所を誰かに譲る気は毛ほどもない。大切なのは、太宰の中にあるその思いだった。

     横浜に風が吹く。生い茂る葉がざわざわと音を立てた。海沿いに面している所為で、街中にいる時よりも風が冷たく感じる。俯くことを叱るような厳しさと、けれども背中を押すような優しさを感じた。
     ふっ、と肩の力が抜ける。自然と吐き出された息は、笑っているようにも思えた。

    「頑張れって? まったく、無責任なことを云うなぁ……」

     他人事のように背中を押されている。実際、これは太宰の問題であって、他の人間からみたら他人事なのだ。
     墓石に預けていた背中起こして、太宰は立ち上がる。木陰の隙間から漏れて届く太陽の光に目を細めた。あたたかくて、心地が良い。バーに通って、他愛のない話に花を咲かせていたあの時間に近いものが此処にある。それはとても離れ難いものであった。でもそれは過去だ。そして、太宰が進む場所は未来だ。

    『近況の報告は歓迎だが、長居をする場所じゃないぞ』

     友人の、優しく諭す声がした。

    「――わかってるよ、織田作」

     人は人のことを声から忘れていくと云うけれど、友人の励ましはすぐ傍で聞こえた気がした。それがどれほど大きな勇気になることか、屹度、彼は知らない。知らぬまま、咖喱が食べたいと云って笑うのだ。そういう一面にいつも救われていた。こんな相談は、友人と呼べる相手にしかできないのだった。
     太宰は墓石に背を向けて、来た道を辿るように階段を下りた。行き先は決まっている。織田作にここまで話を聞いてもらったのだ。これ以上情けない姿を晒すわけにはいかないだろう。

     太宰はちいさな勇気を握りしめる。拳に収まる小さなそれは、けれども一歩を踏み出すには十分なものだった。
     古い友人の名前が刻まれた墓石が、太宰の背中を見守っていた。
     
     ***
     
     その男がインターホンを押して開錠されるのを待つ、という常識的な行動をしたことは一度もない。気付けば勝手に部屋に立ち入り、勝手に飯を食い漁り、勝手に酒を開けている。どうやって開けたとか、今さら一々聞くのも莫迦らしい。そういう細工を息をするようにやってみせる。やめろと云ったところで、その意見は耳を綺麗に通過してなかったことになる。表の世界で生きる人間のやることじゃねえだろ、と思いながらクレームを入れた回数はもう覚えていない。数えるだけ無駄なことを、中也は誰よりも理解しているのだった。

    「…………一寸、何? その顔」
    「いや、手前にインターホンを鳴らすっていう選択があったことに驚いてるだけだが」
    「そこまで云う?」
    「普段の行動を思い返せよ」

     藍色の空を背景に、太宰は眉根を下げる。何となく、中也は「変だな、此奴」と思った。そもそも玄関からご丁寧に入室してくることが異常なのだ。常識的な行動に怯んで扉を開けたままその顔を見上げる。太宰は、まるで許可が出るのを待つように、扉の向こう側で静かに佇んでいた。
     無理矢理押し入ろうとするわけでもなく、無断で侵入しようとするわけでもなく。――あくまで、招かれるのを待つような。そんな空気があった。

    「……まぁ、とりあえず上がれ」
    「うん、お邪魔します」

     お邪魔します。この男が中也の家に上がる時に、そんな言葉を発したことがあっただろうか。中也は二百キロでバイクを飛ばす勢いで脳内の記憶を漁るが、そんな記録は一つも該当しない。
     ……何だ? 今日の此奴。云いようのない、けれどもそこに確かにある違和感が中也の足元を這う。不安や疑問は目に見えないものだ。あるとかないとか論理的に説明できるものではないのだが、太宰がいつも纏っている、人を小莫迦にするような雰囲気が微塵も感じられない。妙に落ち着いて、どこか凪いだ表情を浮かばせている。出会ってからそれなりに長い時間を共に過ごしてきたが、まだ見ぬ一面があったのか? ――その原因は何だ? 疑問が不審を生む。

     もしかして、此奴……別れ話しでもしに来たか? 仕事のカタが付くまで会わない間に何か――心当りはないが、例えば心中してくれる美女が見つかったとか。それが理由ならわざわざ話に来ねえか。さっさと死んじまえば良い話だ。もしくは連絡がなくて不満だった――それなら不満に思った段階で着信拒否を設定したくなるような電話をかけてくるだろう。
     テンプレートに当てはめて考えてみるが、どれもこれもしっくりこない。考えても、正しい答えに辿り着く気配を微塵も感じられなかった。
     判らないことは仕方ない。太宰を相手に、何度も陥ってきた状況だ。中也はこの手の処理に慣れている。こういう時は、一旦置いておくのだ。考えるだけ無駄だから。こちら側ができることは、太宰のアクションを待つことだけだ。中也はそのことをよく理解している。逐一思考を裂いていたら、それこそ身が持たない。そういうわけで、台所の汚れを拭き取るみたいに、疑心を拭い取った。

     リビングについて来る間も大人しい。いつもなら「中也、また縮んだ?」と余計な台詞の一つや二つを投げかけてくるものなのに、無言の気味悪さが背筋を走る。得体の知れない何かが背後にいるような、そんな感覚。それについて触れていいのか、否か。思案しながら、リビングへと続く廊下を歩く。

    「……何かあったのか」
    「え?」
    「何かおかしいだろ、手前」

     一旦置いておこう。太宰の出方を待つべきだ。玄関ではそう判断したはずなのに、リビングに移動する数秒の間でそれが覆る。覆したくなるくらいの違和感がそこにあったのだ。
     リビングの照明がフローリングの板を明るく照らす。ソファに座ることもせず、立ったまま二人は向かい合う。数秒の沈黙。太宰は中也を観察するような目をしていた。中也もまた、太宰の本心を覗こうとぎりぎりの場所に位置を取るような目をする。嫌な空気が流れているな、と思った。
     手のひらにかいた汗が、それをより色濃く自覚させる。

    「君に今さら隠しごとをしても仕方ないか。……単刀直入に云うね」

     明らかに緊張した空気が二十畳の部屋の空気を締める。中也は生唾を飲んだ。
     何を云われる? ――身構える中也を前に、太宰は砂色の外套のポケットに手を突っ込んだ。左側に目的の物は入っていなかったらしく、右側を探りながら「あった」と小さく呟く。

    「中也、手出して」
    「……お、おう?」

     何だ? 別れ話じゃねえのか? 中也は首を傾げた状態で、恐る恐る手を差し出す。
     太宰は真っ黒な手套の上にそれを置いた。真っ白な、手のひらに収まる箱だった。

    「これは……何だ?」
    「見ての通りの物だけど」
    「見ての通り……」

     純白という表現をして遜色のない小さなケース。汚れを知らない無垢な色が、中也の手のひらで上品な輝きを纏っている。高価な物が入っている、ということは見れば判る。マフィア管轄の宝石商店で、装飾品を収めるケースとして似たような物を見たことがあった。だから中也も装飾品を連想した。それも、この大きさであれば入る物も限られてくる。長形タイプなら時計やネックレス、ペンなどの選択も増えるが、正方形の小さな箱にそれを収めるのは難しい。
     箱の中に入っているであろう物は、恋人間で贈り合うことが多い印象だ。太宰と中也も恋人の関係にある。それを贈られることは、世間的に見たらおかしなことはでない。
     ただ、中也から見た世界ではどうだろう。いささか成立し難いものである。
     例えばこれを贈り物として受け取った場合、期待の表情を浮かべる中也を見て太宰は屹度こう云うのだ。

    「やーい、引っかかったね! 中也ってば、ホント単純」

     こんな感じだ。鮮明に再生された脳内映像に腹立たしくなる。あの太宰が「見ての通り」をそのままの意味合いで贈る訳がない。そういうドッキリを仕掛けて、真に受ける俺を笑う心算なのだ。もしくは危険物だ。装飾品に見せかけて、碌でもない物が入っている。爆弾をおさめるには小さすぎる気もするが、相手は太宰だ。何をどう仕掛けて来ても可笑しくない。
     今までの経験から、中也はそう判断をした。ならば、することは一つ。
     ――中也は、容赦なく重力操作を使った。特別な装飾品が入っていても不思議ではない純白の箱とその中身に。それはもう、思いっきり。何の未練もなく。中に入っている何かを変形させる勢いで。
     中也がその行動を取るのも無理はない。おかしな何かが入っていた場合、先手を打っておかないと後から痛い目に遭うのは中也だった。
     しかし、それはあまりにも清々しく、痛ましい光景でもあった――色んな意味で。

    「あ、一寸!」
    「残念だったな、太宰! 俺ァその手の嫌がらせには引っかかんねえよ。どうせ何時もの御巫山戯だろ」

     変形させた箱を片手に、したり顔で中也が云う。小さな箱は、雑巾で絞られたような歪み方をしていた。太宰は己の信用の無さに凹んだ。割と真面目に凹んだ。変形された箱とは比べ物にならないくらい凹んだ。
     どこの世界に、恋人に指輪を渡してそれを潰される男がいるのだろう。情けなさと惨めさが同時に押し寄せる。その波に攫われて今すぐ死ねたらいいのに、と思うほどだった。

    「……それ、悪戯でも何でもなく、本当に指輪なのだけど。プロポーズ用の」
    「………………………………は?」
    「だから、プロポーズ」
    「…………誰が、誰に?」
    「私が、君に。この状況でそうじゃなかったら怖いでしょ」

     否、確かにそれはそうだが、そうじゃねえだろ。中也の脳内は軽く混乱が起きていた。太宰の云う通り、この状況でプロポーズをしている相手が中也じゃなければ幽霊が背後に立っているようなことになるのだが、そういう問題ではなく。中也にとって、太宰にプロポーズされることもまた信じられないことなのだった。

     相棒として過ごした数年。それより長い空白を経て、昔とは違う意味で、あの頃よりも色濃い時間を過ごすようになった。何故と問うのは愚者のすることだ。太宰がそうすると目論んだのなら、こうなる運命なのだ。中也はそれを判っている。
     でも、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。元相棒の枠を少しはみ出して、友達ではしないようなことをして、当たり前のように一緒に居る。その関係に恋人という名前を付けたのは気まぐれだ。相棒と名乗っていた頃のように、そうしただけで。特別な意味などない。
     ただ、太宰以外との誰かとそういう関係になる未来は、とても想像できなかった。始まらない物語、白紙の絵画、記録のないレコーダー。そういうものに近い。大嫌いなのに、隣にいることはごく自然なことのように思えた。受け入れ難いが、そういう意味では矢張り特別で、けれどもそれだけの関係だった。
     だから、プロポーズという幸せに満ち溢れた人間が手にする「普通」とは縁がないと思っていた。産まれも生き方も、普通とは程遠いところに居る自覚があった。それについて悲観したり嘆いたりしない。ただ、それが中也の、己の人生における揺るがない価値観だった。

    「…………なんで」

     その疑問は真っ当なものだった。自分の人生に発生しないと思っていたイベントが突如として湧いて出たのだ。理由も問いたくなる。

    「さっきから質問ばかりだね。というか、恋人である君にプロポーズをして何か問題があると云うの?」
    「そうじゃ、ねえけど」

     あるのは問題ではなく疑問だ。何故、の疑問で埋め尽くされた脳内は思考を鈍らせる。

    「……私だってね、柄じゃないと思っているのだよ。そんなこと、判っている」

     目を逸らしながら太宰が云う。白いキャンバスに落とされた深海色が不安を纏って滲んだ。太宰の、己に対する自信の無さから生まれたものを中也は汲み取ってしまう。
     汲み取れるくらい、空白の四年を差し引いても、過ごしてきた時間の密度は人とは比べ物にならないものだった。

     だからこそ、太宰のプロポーズが悪戯でもなくドッキリでもない、本当であることが判る。道化師のような男が、その仮面を外して素顔を見せている。剥き出しの本音を差し出す怖さは、人が皆平等に持つものだ。どれだけ親しい間柄であっても、本音の吐露には幾ばくかの勇気が必要になる。例えば中也が太宰に本心を明け渡す時、中也も拳を握る程度の勇気が必要になるのだ。逆を云えば、太宰に人智を超えた頭脳があったとしても、本音を曝け出すことが平気と云うわけではない。

     中也はもう一度、手套の上で無残な形になった箱を見つめる。どこからどう見ても、ぺしゃんこなのである。蓋を開けずとも、中身が変形していることがわかる。己の加減で歪めさせたのだ。強めの重力を使った自覚がある。都合よく箱だけ潰れて中身が無事です――と云うわけにはいかない。

     目に映るそれは台無しになった指輪ではない。踏みにじったのは、太宰の勇気だった。その事実を目の当たりにして、罪悪感が中也の心を塗り潰す。どんな気持ちでこれを持っていればいいのか、受取る資格があるのかと、途端に足元が不安定になる。大きな地震に揺られて、飲み込まれるような恐ろしさ。ひしゃげた箱のように、中也の心も潰れそうになる。
     冗談だと決めつけるには早急だったかもしれない。否、それは太宰の日頃の行いの所為でもあるのだが――きちんと耳を傾けてやるべきだったと、今さら後悔するのだ。
     口の中に苦いものが広がる。何かを云うべきで、でも何を云っても間違いのような気がした。開いた口の中がひどく乾いている。直視できない所為で視線が泳ぐ。飽和する罪悪感に躰が飲み込まれそうだった。

    「………………悪ィこと……した」

     やっと絞り出した声は震えている。プロポーズの現場というより、もはや別れ話の最中と云われた方が納得できるような空気だった。重い空気が肩に乗りかかり、顔を上げることすらままならない。

     どう弁償すべきか――そもそも、弁償が正しい行為なのか。マフィアの仕事のように、金で解決できるものではない。中也には、踏みにじったものが人の感情だという自覚があった。自分が逆の立場だったなら――大なり小なりショックを受けるだろう。平静を装うのも難しいかもしれない。勿論、それは太宰の所為でもあるのだが、一世一代のプロポーズを指輪ごとぐちゃぐちゃにされたなら、矜持が傷つく様は想像に容易いのであった。

     何一つ悪いことはしていない。しかし、罪人が立たされているような気分で沈黙と共に佇む。そんな中也に、太宰は「まぁ、冗談だけど」と、深海からすくい上げるような声で云った。

    「…………は?」
    「あ、違う違う。プロポーズ自体は冗談じゃないのだけど、……はい」

     太宰は左側のポケットに手を突っ込んで「それ」を取り出した。先ほど中也の手のひらに置かれた白い箱とよく似たものだった。中也が重力操作で歪めたケースを回収して、代わりにそれを置く。中也は思わず目を瞬かせた。見るも無残な形にした小箱が、綺麗な状態で差し出された。冗談だけど、冗談じゃない。何が何やら、思考の理解は遅れ気味になっていく。
     二つ用意されていたのか? これは何だ? 疑問符を浮かべる中也に、太宰は云った。

    「……どうせ、君ならそうすると思ったから。そっちも一応ちゃんとした物だけど、本命はこっち」

     太宰は、己のプロポーズが真剣なものとして受け取られないことを判っていた。重力操作で箱ごと変形させられることも、情けない話だけれど見越していた。もちろん、事実を知った中也がそれで罪悪感を抱くところまで想定の範囲内だ。その未来を想像できないほど、中也への理解が浅い太宰ではなかった。自分の行いが中也にそれを思わせてしまっているのだ。己の業は己で背負うしかないのである。

    「ッ手前!」

     中也は白い箱を持っていない方の左手で、太宰の腹に向かって思いきり拳を打ち付ける。いつもなら空振りに終わるのだが――拳に伝わるのは膚と服を隔てた壁越しに、人間の内臓を殴りつける感覚だった。いい処に入ったという手応えすらあった。見事にヒットしたそれに、太宰は呻き声を上げる。中也は一切の加減をしなかった。

    「……っ、痛いじゃないか……」

     異能は無効化されるとは云え、中也が武闘派であることを太宰は良く知っている。そのうえ太宰は、中也の手筋も間合いも動きの癖も完全に把握している。
     だから、この拳は本来避けることができた。でも太宰は避けなかった。何故か? ――それが太宰の意思だからだ。中也にもそれが判って、余計に腹立たしくなる。

     此奴、わざと食らいやがったな。嗚呼、本当に一から十まで気に入らない。全てを見透かされていたことも、その所為で殴られると判っていて避けないことも。いつだって一枚も二枚も上手なことも、全部気に入らない。
     指輪を変形させた罪悪感はすっかり消えた。避ける気がねえならもう一発殴ってやろうか、そんなことさえ思うのだ。プロポーズの現場にはとても見えないだろう。

    「クソ! 巫山戯やがって!」

     太宰が家に来てから感じていた不安や心配事のすべてが莫迦らしくなってくる。真面目に考える方が損をする。実際に損をした。結局いつもの空気だ。太宰の描いたシナリオ通りに話が進んでいる。この感情も、手のひらの上で転がされているものに過ぎない。中也はそう思った。
     ――しかし、そんなことはない。そう決めつけるには、まだ早いのだった。

    「……巫山戯てないよ、大真面目」

     その声が、あまりにも優しく響く。例えばそれは、眠りにつく寸前の子供に母親が子守唄を歌うような、慈愛に満ち溢れたものだった。母から子に向けられる愛は、この世で唯一の無償の愛と云ってもいい。見返りを求めることのない、真実で絶対の愛。今の中也にとっての家族はポートマフィアで、実の両親のことも全く知らないわけではないが――無償の愛と呼ぶべきものにはおそらく縁がない中で、それに最も近いと思えるものが太宰の声音として届けられる。
     中也の手から白い箱を取り、それを開ける。手套のされた左手を掴んで指先を引っ張った。そのまま、音もなく床に落ちる。
     何をされるか察知した中也は、わずかに躰を強ばらせた。殴りかかろうという気は失せている。あまり晒されることのない中也の手のひらに、じわりと汗が滲んだ。

    「……好きだよ、中也。この私が、こんなことをする日が来るなんて本当に思っていなかったのだから」

     箱から取り出された銀色の指輪は、ストレートタイプの王道の代物だ。上下にラインが施されている。シンプルなデザインだが、カーブに沿って美しく輝く指輪から質の良さが伺える。

    「こちらのラインは、二人で紡ぐ永遠の物語を表現しているのですよ」

     指輪を買いに行った時に、案内をしてくれたスタッフがそう説明をしてくれた。二人で紡ぐ永遠の物語。口にするのが恥ずかしくなるようなそれを、太宰は迷うことなく選んだ。出会ってから相棒として過ごした時間、別れと四年の白紙を経て――導かれるように再び交わった現在。二人で紡いできた時間があり、それはこれからも続いていくという確信があった。

     そして、太宰はこの指輪にもう一つの祈りを込めていた。指輪の外側に宝石などをあしらわない代わりに、一粒の原石から二粒のみを採り出した金剛石を内側に埋め込むというものだ。
     通常、金剛石は一つの原石から複数個採取することができる。しかし、それらが辿る流通経路は異なるものだ。人間が生まれてから死ぬまでの時間よりもずっと長く共に過ごしていた金剛石も、いつかばらばらになってしまう。マフィアに居た頃、仕事の一環で宝石の流通を取り扱っている時に商人からそういう話を聞いたことがあった。スタッフも、それと同じような話をした。

    「一つだった二つの金剛石が、離れ離れにならないようにしてるんです」

     昔の話を思い出しながら、気付いたら「それをお願いします」と口にしていた。埋め込む場所は自由に選ぶことはできたが「自分たちだけがそれを知っていればいい」という密やかな想いから、内側を選んだ。
     一つを分かち合った二つを、二人だけが知っている。太宰なりに、中也とのことを考えて選んだ指輪が静かな輝きを放っていた。
     中也の左手を取る。その指先が震えた。薬指に指輪をはめるだけの行為に、こんなに緊張するなんて思わなかったのだ。緊張のせいで口の中が渇く。中也が黙っている所為で、心臓の音がやけに大きく聞こえた。第一関節を淀みなく通過したそれをぐっと押し込む。サイズを間違えるわけがない。ぴったりなものを買った。中也の躰のことは、誰よりも知っているのだ。第二関節で引っ掛かりかけた指輪。それを指の根本に収める。

     中也は左手の薬指につけられた指輪を見つめる。いつからこれを買うと決めていたか、中也には想像がつかないものであった。そして、買うと決めてすぐに行動に至ったのか。或いは、悩んだのか――屹度、悩む時間があったのだろう。「こんなことをする日が来るなんて本当に思っていなかったのだから」の一言にそれを感じた。
     胸の内が透明であたたかい何かに満たされる。目頭の温度が上がった気がした。超人と云われる太宰がプロポーズや指輪のことで頭を悩ませていたと思うと、愛しくて堪らなかったのだ。

    「私と、一緒に生きてください」
    「…………死にたがりの手前が?」

     太宰の口から出てくる台詞としては、もっとも遠いものであった。中也は怪訝な顔をして、しかしその口元をゆるませたまま、真っ当な疑問を投げつける。

     今でも、心のどこかで死にたい気持ちはある。川を見つければ入水するだろうし、楽に死ぬことができる薬を差し出されたら躊躇なく飲み込むだろう。救いよりも切り捨てられる回数の方が屹度多い。いつの時代だって悪に生きるより善を全うする方が、よほど苦労する。
     そんな世界で生きる価値はあるのか? 今でもしこりのような疑問は抱えたままだ。汚いもので溢れている社会に綺麗な布を被せることを肯定することはできない。けれど、綺麗に生きようとする人たちの生き様には惹かれるものがある。目を逸らせない眩しさは、ずっと一番近くにあった。そして、友人との約束もある。佳い人間になると決めた。死にたい気持ちは夜の訪れ、或いは朝の始まりと共に毎日やってくる。とんだ矛盾もいいところだ。それでも。

    「君と生きたくなった。何も見つからないかもしれない世界で、君と生きることを試したくなった」
    「どっかで聞いたことのある台詞だなァ」

     二人が出会ったあの日。蘭堂と対面した時の、あの瞬間。生きることに何の価値もないと思い、錆び付いた目で世界を見つめていた少年が、生きることについて「試してみよう」と思った出会い。そのスイッチを押したのは他の誰でもない中也だった。
     あれから数年。出会いと別れを繰り返し、今もこうして生きて、隣にいる。それがどういう意味か――これが、太宰が云うところの運命なのだろう。
     中也は、それを自然に受け入れることができた。

    「仕方ねえから、付き合ってやるよ」

     他人から見たら、笑われてしまうようなものなのかもしれない。泥臭くて、愛と呼べるほど美しくもなく、いっそ歪な関係なのかもしれない。正しさのレールから外れて、行き先が何処になるのか判らない。

     それを構わないと云い、笑い飛ばすことができるのが二人だった。お金で価値のつけられる物よりもずっと価値がある。互いがそう思っていることが、互いにわかるのだ。
     中也は指輪のされた左手を眺める。異能と手套のせいでほとんど傷のない手に、愛の証明が行儀よく収まっている。そのくすぐったさに頬がゆるんだ。自覚はない。ただ、一般的な話として、恋人にプロポーズをされたのなら人は嬉しいものなのだ。その通りに、中也も嬉しさを噛みしめていた。
     
     ――しかし、だからこそ中也が知ることはない。綻ぶ顔を見る太宰の表情の方が、余程ゆるみ切っているということを。
     
     どれほど高価な指輪より君の喜ぶ顔の方が綺麗だなんて、口が裂けても云えないなぁ。
     だから代わりに、愛を伝えるためのキスをした。
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