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    hom_snksyr

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    hom_snksyr

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    🔥🎴_おしどりみつげつふたりたび

     背の低い草が、風を受けて同じ方向に流れていた。陽を浴びて、太陽が反射する。緑の絨毯のようだ、とありきたりな言葉が浮かんだ。
     少しだけ季節を先取りした、美しい橙色が視線を遮った。
    「なぁ、来てよかっただろう」
     そう言って、同じことを感じていると疑わないかのように、彼はそれはそれは幸せそうに笑ってみせた。

    △登△

    「穂高連峰縦走!」
    「鳥海山!」
     穏やかな五月の昼下がり。購入したばかりのマンションのリビングで、彼と俺は額を突き合わせるように話している。外から見れば喧嘩しているように見えるかもしれない。珍しく、子どものように頬を膨らませた煉獄さんは、夏山特集と書かれた美しい山々の写真が載った雑誌をずいと俺に押し付けた。
     鳥海山。名前は、知っている。ただ、自分が登る山として、候補に挙げたことはない。関東に住んでいる限り日本アルプスの方がアクセスしやすく、登ったことのある東北の山も福島や岩手と言った太平洋側ばかりだ。
    「せっかくの連休なんですよ。縦走したいです。煉獄さんも前々からやってみたいと言っていたじゃないですか」
    「それはそうなのだが」
     ずいずいと押し付けてくる雑誌は、去年のものだ。今はまだ五月。夏山特集には少しばかり早い。つまりは、去年からずっと計画していたのだろう。
     縦走は、荷物も増える。必要な道具も多い。経済的負担が大きく、まだ大学生であった自分では難しかった。全て俺が準備してもいいという煉獄さんの申し出を断って、四度目の富士山に登ったのだけれど。
     ぱらりと雑誌を捲る。存分に太陽の日差しを浴びた夏山が、大パノラマで印刷されていた。
     好きな山、あるいは登ってみたい山という、煉獄さんが好んで読んでいる雑誌で見るようなランキングがあったら恐らくは二〇番以内に入っているだろう。広い平野部から撮影された独立峰は、たしかに山登りを趣味とする人間には惹かれるものがある。
     でも、社会人になって、漸くそれなりの稼ぎもできて。夏であれば、ボーナスも入っているだろう。装備もそれなりのものが揃えられるようになったのに。
    「鳥海山の魅力はよく伝わりました」
     社会の先生という肩書も役立っているのだろう。彼のプレゼンは大変わかりやすく、時折織り込まれる、かつて地理の授業で聞いた庄内平野や最上川と言った名前も懐かしかった。
    「では」
    「ですが、なぜ鳥海山でなければならないのかがわかりません」
     ぱたんと雑誌を畳んで男に突き返す。せっかく煉獄さんにばかり負担を掛けず登山ができるようになったというのに。
     見上げた先、わずかに頬を真っ赤に染めた煉獄さんが、もじもじと大きな体を幾分小さくして顔をそらした。快活な彼にしては随分と珍しいその様子に、喧嘩腰だった自分の口調を少しだけ改める。
    「誰か会いたい人がいるんですか?」
    「違う! 君との旅行で他の人間を挟む時間などない」
    「じゃあ……」
     あとはなんだろう。ふせられた瞳がわずかに滲む。泣かせたのかと慌ててしゃがみ込んで覗き込んだけれど、違った。熱を帯びた、美しい宝石のような瞳がじっと俺を見下ろしている。
    「縦走は、三泊四日」
    「そうですね。余裕をもってそれくらいがいいかと……俺は縦走、初めてですし」
     する、と煉獄さんの手のひらが、俺の手を掴んだ。渇いているかわり、いつもより熱を帯びた皮膚が、ぎゅうと俺の手を絨毯へと押し付ける。逃げ出せなくなったとわかった瞬間、随分と柔らかな口づけが額に落ちた。
    「そんなに長い間、君を我慢するのは無理だ」
    「は……」
     涼やかできもちのいい五月の風が、開け放った窓から舞い込んだ。少しだけ、毛足の長い絨毯を揺らし、雑誌のページが捲れていく。沈黙の静寂を消すように。
    「う……それは、でも」
     握り込まれた俺の手に、煉獄さんの長い指が潜り込む。恋人つなぎになった手は、余計逃げ出せなくなっていた。さっきよりも弱い力で彼が、優しく握り込む。
     大学を卒業するまで、セックスはおろか、キス一つしてくれやしなかった先生は、社会人一年目の一日目。緊張で疲れ切った四月一日の夜に俺を抱いた。
     高校卒業か、あるいは二十歳かと想いを積もらせていた俺は、それを過ぎて漸く彼にそのつもりがないのだと区切りをつけた。だからこそ、何の準備も心構えも出来ていなかったのに。
     朝、泥のように眠る俺を煉獄さんが起こしてくれなければ、きっと社会人二日目にして遅刻だったに違いない。今思えば、歩いて駅まで辿り着けたのだから、はじめての時は随分と――繊細なガラス細工にふれるみたいに――加減してくれれていたのだろう。
     そして、それはまだひとつき月と少し前の話だ。
     じわじわと熱がこもる。熱くて、恥ずかしくておかしくなってしまいそうだった。
    「それ、ひゃ」
     声が裏返った。顔が熱くなる。二人で選んだブラウンの絨毯ばかりが目に入った。テレビを付けておけばよかった。そうすればこの沈黙だって、ここまで恥ずかしくなかったのに。
     急に腰が、鈍く重いことを思い出した。昨日だってしたのに。ゴールデンウイークは、部活に大会と忙しくどこに行くことも出来なかった。今日はゴールデンウイークの中日で、部活が休みだからと、前々から夏休みの計画を立てる約束をしていた。カレンダーには大きな赤いマルがついている。まるでとても大切な予定であるかのように。
     彼と俺が、同じようにゆっくり休みを取れるのは、夏と年末年始だけ。不満を感じたことは無いけれど。
    「だめか。もちろん、それだけではない。本当に美しい山だ。夏は殊の外」
    「…………」
    「君の店で使っている米粉はたしか秋田産だっただろう? 産地を見るのもいいと思う。山形も、美しいところだ。それに、食事がとても美味しい」
     ずるい聞き方だと思う。四月からほんのひと月足らずで、すっかり彼のための体になってしまった。二日と空けず、長い短いはあれ、この男に抱かれているのだから。狭いテントの中、汗ばんだ彼の匂いを嗅いで、何もせず。
     じくじくと疼いた熱に息を吐く。気づいたらしい目敏い男は、俺の手を引き寄せ、ふに、と唇に口づけた。次第に深くなっていく口づけに、脳がとろ、と溶ける。鳥海山。良いかもしれない。その後は、美味しいご飯を食べて、温泉に入って、体を休めて。先生に、部活に、実家の道場に、休まる暇のない人だから。
     もう一度風が舞い込む。押さえていないカーテンが、スカートのように揺れた。ぱらぱらと渇いた音が響く。彼の持ち込んだ雑誌は、鳥海山と美しく白抜きされたページで止まっていた。



     ぜ、ぜ、という自分のみっともない呼吸音ばかりが響く。少し先を歩く煉獄さんが振り返った。
    「大学に入ってから少し体力が落ちたんじゃないか? 少年」
     少しだけからかうように笑った彼が、腰に手を当てて俺が登ってくるのを待っている。時間帯が少しばかり遅いせいか、登山客は視界の範囲にはいない。盆を外した平日、というのもあるのかもしれない。
     山登りが趣味と言うけれど、彼のそれは完全に趣味の域を越えていることを知っている。俺が好き勝手、穂高縦走と曰えるのも、彼が登山に関するガイドの資格をいくつか取得しているからに他ならない。
    「部活、にはい、ればよか、ったでしょうか」
     変なところで言葉が途切れた。鳥海山はそれほど難易度の高い山ではない。だからこそ、彼の海抜ゼロから登ろうという提案を受け入れたのだけれど、すでに足に来ている。荷物は一泊分。55リットルの平均的なザックが、今はずしりと肩に食い込んでいた――煉獄さんのものは三泊四日用のとんでもなく大きいバックパックだ――。
    「登山部か? それとも剣道部か?」
     煉獄さんと同じ大学に入った。学科は違うけれど、幸いにも教員の中に目立つ彼のことを覚えている人は多く残っていた。彼の話を聞くのは楽しかった。彼の入ったという山岳部の部室にも訪れた。壁に下げられた札の比較的最後の方に、煉獄さんの名前がある。それより六段上に、彼のお父さんの名前も。杏寿郎さんの世代は有名だよ、と見せてもらったのは海外の山でポーズをとる年若い彼が写った写真だった。誰もが知る、異国の大きな山。満足そうに笑う彼の周りは、知らない人間で囲まれていた。
    「少年?」
    「ああ、いえ……そうですね、入るなら山岳部に」
    「後悔しているか?」
     歩きはじめた煉獄さんの緑色のバックパックの紐が揺れる。少しだけ臆病になった人の匂いがした。彼の足に迷いはないけれど。
     大学一年生の夏。登山部に入ろうかな、と相談した煉獄先生は随分と驚いた顔をしていた。卒業生という名で久々に母校に顔を出したときだった。推薦入学の枠があるここで、大学の紹介をしてほしいと頼まれ、大学の入試課職員と同行したのだ。
     理事長が気を回してくれて、先生の準備室へと案内してくれた。入試課の職員は先に帰るから、と駐車場に向かっていってしまった。次の日はデートの約束をしたから、会えずとも我慢くらいできたのだけれど。
    「いえ、全く」
    「俺のわがままで君を引き止めてしまった」
     風が気持ちよかった。下から吹き上げるそれは、煉獄さんの匂いを運んではくれない。登山のときだけ見られる、高く結い上げた煉獄さんの美しい髪が揺れた。
     結局あの時は、まだ一緒に暮らしておらず、これ以上煉獄さんとの時間が減っても困るとそう理由をつけて入部は見送った。そういえば、彼が登山の資格を取り始めたのもあの頃だったように思う。
     時間が減ってしまうな、と少しだけ寂しそうに笑った男の顔は今でも覚えている。最近ではよく見るようになったけれど――否、効果的に使う方法を覚えてしまったけれど、が正しいかもしれない――。あの頃の俺は、彼の甘えた顔を見るだけで勝手に舞い上がってしまっていた。恋人なのだと、実感するようで。まさかあのまま四年間、清く美しい関係を続けるとは思わなかったけれど。
     駆け上がって、ボス、と男のザックを叩く。びくともしない煉獄さんの体幹に少しだけ頬を膨らませ、上がった呼吸でもう一度今度は手のひらで叩いた。
     どす、と重たい音がする。この大きなバックパックの半分は恐らく食料だろう。
    「煉獄さんと、登山できて楽しかったです!」
     結局俺は部活に入らず、煉獄先生の案内する山々を巡るようになった。そのせいで、今ではすっかり趣味は山登りに変わってしまったのだけれど。
     視界が広がってきた。この山の頂上の住所を有する町の、海岸線が見える。風が通り抜け、汗ばんだ肌を冷ましてくれるようだった。まだ背の高い木が多い。
     夏の、匂いがした。土と、深い緑。空は雲ひとつなく、緑と青のコントラストが眩しい。肺いっぱいに空気を吸い込む。早くなった呼吸は、あっという間にそれを吐き出してしまったけれど。早い心臓が少しばかり落ち着いたように思う。
    「そうか」
     少しだけ嬉しそうで、柔らかな声が聞こえた。深く帽子を被った彼の顔は伺えない。コンクリートの地面は次第に勾配が変わる。漸く見えてきたのは、登山案内所と書かれた小さな小屋だった。
    「まだ登山さえ始まってないなんて」
    「もう標高一〇〇〇メートルだ」
     止まった瞬間に、ど、と汗が吹き出てくる。タオルで顔を拭っている間に、煉獄さんは準備していた登山届を提出したらしかった。ミックスナッツを水のように口に流し込んだ煉獄さんが俺の元に戻ってくる。少しだけザックを持ち上げるように俺を立たせた。
    「思ったより早く着いたな」
    「ええ、もっとかかるかと」
    「少し休むか」
     ちらりと顔をあげる。東北、というものはもっと涼しいものだと思っていた。雪深く、夏は涼しく。ぜぇ、と苦しい呼吸を吐き出して、少しだけ詐欺だとも思う。
     水田が広がり、爽やかな風が吹き、過ごしやすい気候に違いないと勝手に想像していたのだ。彼のプレゼンに使われた写真はどれも美しく、水の入った水田の写真や、美しい山野草の写真はどれも、毎日三〇度を越えます、という顔はしていなかった。
    「休んだらもう歩けなくなりそうなので」
    「無理はしなくていい。ここで下山しても」
    「大丈夫です」
     ただ、この男に比べて疲れているだけで、他の登山客に比べたら恐らく元気な部類に違いないから。
    「大正時代は、走って登っただろうにな」
     あまり、あの頃の話をしない彼が、そう笑った。記憶を持つ人たちと集まっても聞き役にまわることが多い。
    「煉獄さんは走れるでしょう」
    「そうだな、もう少し荷物を減らさないと流石に膝に来てしまう」
     そろそろ年だから、と続けて男は可笑しそうに笑った。あの頃より開いた年の差が、少しだけ悔しかった。
    「登りましょう」
    「ああ、きっと君も気に入る」
     人気のない登山口。山を登る人は、もっと早い時間にここから出発しているのだろう。登山届の箱には、すでに何枚かの白い紙が覗いていた。
     漸く呼吸が落ち着く。胸を張るように起き上がると、煉獄さんが俺の帽子を少しだけ持ち上げた。汗ばんで湿った前髪が滑る。触れるだけのキスが落ちた。はむ、と柔く食んで舌が唇をなぞる。一瞬で頬が熱くなった。瞳を細めた彼は、少しだけ熱を帯びた匂いをさせる。
    「と、つぜん」
    「すまない」
     口を押さえた彼は、恥ずかしそうに頬を赤らめる。顔をそむけ、俺の帽子を深くかぶらせた煉獄さんは、くるりと背を向け歩き出した。
    「している最中の君に、少し似ていた」
    「煉獄さん! 明日まで我慢するって」
     どす、ともう一度男のバックパックを叩く。力いっぱいの手は少しだけじんと痺れるように痛んだ。
    「すまないと言っている!」
     足早に石段を登り始めた男を必死に追いかける。耳まで赤い。きっと、薄いジャケットに隠れた首も、赤いに違いない。
    「君といると、俺は堪え性のない男になってしまう」
    「俺のせいにしないでください」
     石畳は九十九折になっていて、想像以上の急勾配だった。すぐに俺の呼吸が弾み始める。木が生い茂り、緑のトンネルは深く遠くまで続いているようだった。
    「ここは一番登山道としては歴史が古く、整備もされている」
     話を逸らすように振り返った彼は、俺の登りを待つように足を止めた。
    「この石段が終われば緩やかな勾配が続く。頑張れそうか」
    「どれくらい続くんですか」
    「三十分くらいだそうだ」
     ふう、と息を吸い込む。木の生い茂る山道特有の、濡れた土の匂いが肺いっぱいに入ってきた。昨日は雨の予報だった。草木はまだ湿っていて、深い緑の匂いを漂わせている。
     東京から離れた、美しい山の入り口に立っていた。山形県と秋田県の境目のこの登山コースは、美しい見どころが多いことでも知られている。
    「問題ありません」
     ゼリーの栄養補給食を喉に流し込んで歩き出す。テンポよく、少しだけ濡れた石段で滑らないように。登山の間、ほとんど喋ることはない。俺の呼吸が弾んでいるから、というのもあるのだろうけれど。
     人里離れた山の中を歩くのは、懐かしい記憶が揺れるような気がした。東京のハズレ、ほとんど埼玉に近いあの場所で生まれ育った。山の中で育った俺にとって、登山というよりあそこは生活道であり、山と言えば狭霧山。懐かしいあそこは、今もあの山は雪深く、ひっそりと佇んでいるのだろう。いつか、彼と登ってみたいと思うけれど。
    「煉獄さん」
    「どうした」
    「空気がきれいですね」
     彼の美しい髪が揺れた。彼の髪色だけ、鮮やかに視界に入る。ゆらゆらと揺れて、頼もしく、そして愛おしいとも思う。
    「君が言うのなら、そうなのだろう。山小屋から見る星空は、大層綺麗だと」
    「登ったことが?」
    「小さい頃、千寿郎も生まれる前に父上と登ったが、疲れて夜景を見ることはできなかった。だから、君と見られるのが今から楽しみだ」
     石畳が終わると、コンクリートで整備された道に変わった。こつりこつりと硬い登山靴で地面を均すように歩く。視界は開け、登ってきた道が背の高い木々に覆われ、美しく広がっていた。新緑の匂いよりは少しだけ硬質な、それでいて力強い匂いを、舞い上がった風が運んでくる。
     見晴台では、彼の言う通り美しい眺望が広がっていた。山の裾野は、深く美しい緑で覆われ、まっすぐ海へと続いている。
     海はどこまでも広く、青く、遠くにはうっすらと雲が見えた。
     地面を覆うように生えた低い笹が、さわさわと優しい音を立てて揺れている。
    「海も、いつか行きたいです」
    「釜磯の海水浴場では、砂浜から真水が湧いているそうだ」
    「海水浴場で?」
     一休みを終えたらしい煉獄さんは、三袋目のナッツを口の中に流し込んだところだった。バックパックから新しいナッツが取り出され、彼のサコッシュは再びパンパンに変わる。彼のリュックは重い。水と食料がぱんぱんに詰め込まれたそれを、俺は持ち上げることさえ出来なかった。
    「このあたりは観光名所も多い」
    「いいところですね」
    「ああ、俺も気に入っている」
     再び歩き出した煉獄さんの後ろにつく。風向きが変わったのか、わずかに煉獄さんの匂いが風に乗って届いた。出立する前に浴びた、シャワーと石鹸の匂いも。こんなに歩いて、それも気温も高かったというのに、汗一つかいていないなんて。
     あの頃の、彼のようだった。額に玉汗一つ浮かべず、横一文字に唇を引き結んだ男の横顔を思い出す。
     さっきより、幾分ましになった呼吸を繰り返す。頭に叩き込んだ地図を思い出す。このまま清水大神、河原宿を越えて、分岐。分岐の後、鳥海湖が見える。そこが大層美しいのだと煉獄さんは嬉しそうに行きの運転の中教えてくれた。
    「さあ、頑張ろう」
     彼が笑った気配がする。幸せで楽しそうな匂い。ぐ、とリュックを背負い直してもう一度、足に力を込めた。まだ半分も登っていないのだから。



    「わ、ぁ……!」
     思わず足を止めた。ぶわりと汗がシャツに滲んだような気がしたけれど、今は気にならない。駆け出そうとする俺の腕を煉獄さんが掴み、さっきと同じようなペースであるき出した。
     真っ青な湖だった。右端には半円を描くようにまだ雪が残っている。美しい青色の手前には、オレンジ色の花が咲いていた。
    「ニッコウキスゲだろうか」
     本を持ち込んでいたらしい煉獄さんが、ぱらぱらとページを捲る。必要なものだけ最低限に荷造りするように、いつも口酸っぱくチェックする彼にしては大層珍しかった。
    「運が良かったな。八月の頭とはいえ、少しだけシーズンがずれている」
     彼がしゃがみ込む。おいで、と手招きされるがまま隣に腰をおろした。肩に彼の体重がかかる。リュックがぶつかる感触。覗き込んでいた本から顔を上げた瞬間、本で顔を隠すように彼が俺に口づけた。
     ちゅ、と少しだけ塗濡れた音を立てて煉獄さんの唇が離れる。
    「っ……」
    「叱らないでくれ。我慢ならなかったんだ」
     顔を離した煉獄さんが、恥ずかしそうに顔を反らした。珍しい反応に、思わず胸を押さえる。さっきの鼓動とは違う、随分と早い心臓の音に血液が沸騰するようだった。
    「駄目です、やっぱり遠慮してくだいさい!」
    「そんなに嫌だったのか」
    「夜、我慢できなくなるので」
     彼の頬に口づける。見た目ではわからない程度に、少しだけ汗ばんだ肌があった。煉獄さんの匂いが強くなる。追いかけるように近づいた彼の顔を、奪った本で遮った。
    「む……」
     少しばかり不満そうな声をもらした男を、ずいと押し返した。
    「駄目です」
     ここは人も多い。登山客らしい夫婦連れや、歩き慣れた様子の男性が、自分たちを通り越していった。明るい挨拶に、さっきまでいかがわしい匂いをさせていた男はあっさりとその気配を消してしまう。快活な返事をした男に、行き交う人も釣られて笑顔に変わった。不思議な人だと思う。口を閉じ、瞳を爛と光らせた瞬間、誰もが息を呑んで動けなくなるような気配を漂わせる男であったはずなのに。
    「今度はテント泊にしよう」
    「神聖な山でそういうことはしません」
    「むう……」
     少しだけ拗ねたような声音で男は、意地が悪いと笑ってみせた。立ち上がって歩き出す。水の匂いがする。雪解けの澄んだ、美しい水の匂い。ここに降り注いだ雨や雪は、時間を掛けてここに住む人々に恵みをもたらしているのだろう。
    「君は、俺がどれほど我慢したか知らないからそう冷たくできるんだ」
    「じゃあ、二十歳で手を出せばよかったんですよ」
     ぐるりとどこまでも美しいカルデラ湖を回りながら話すことでもないだろうに。男は、少しだけ不満そうな横顔をのぞかせ、俺の隣を歩く。時折いたずらにつないでくる左手に、仕方なく指を絡めた。たったそれだけで、うれしそうな匂いをにじませた男は、唇までも緩んでいる。
     こんな顔をする人だったろうか。あの頃は、終ぞ知ることもなかった。あるいは、勝手に美化しすぎていたかもしれない。俺は、あの一晩で、彼の美しく、そして強い姿しか見せてもらうことはできなかったから。
    「少年、考え事か」
    「……煉獄さんのことを考えていました」
     一度、ぱちくりとまばたきをした彼は、その琥珀色の瞳を嬉しそうに細めた。真ん中に炎を飼うその瞳が、随分とやわらかな空気を纏う。
    「もっと考えると良い」
     まるで授業のときのような声音で。すれ違った夫婦が仲良しね、と楽しげに俺たちに声をかける。手をつないだままだと、慌てて外そうとしたけれど、きっちり骨の隙間に入り込むように組まれた手は、ちっとも外れやしなかった。
    「さあ、急ごう。日が 高いうちに、御室まで到着しなければならない」
    「何かあるんですか」
    「暗くなってからこの量を調理するのは大変だろう」
     そう言って背中に背負った荷物を指差した煉獄さんは、いたずらっぽく笑ってみせた。
    「君のごちそうというのも楽しみにしている」
     そう言って、二周り小さな俺のリュックをぽんと叩いた。宝物が入っているのを知っているかのように。
    「ええ、仕込みはバッチリです」
     前泊した民宿の女将は気のいい人で、キッチンも冷凍庫も気前よく貸してくれた。おかげで、到着することには丁度良い具合になっているに違いない。
    「さあ、今晩の宿まで後少し。気張りなさい」
    「はい!」
     ぐるりと鳥海湖を回って、右手にトラバースしていく。道は丁寧に整備されていて、この地域に住む人々、あるいはこの山を愛する人が、大切にしているのが伺えた。
     風が吹く。まだ冷たい、雪を孕んだ匂いがする。夏に染まった山の、雪解けの匂い。
     瞳を細める。突き刺すような太陽が、頬を焼くように降り注いでいた。



    「疲れました……」
    「明日は岩場だぞ」
     頂上は目前の小屋にチェックインし、漸く足を伸ばす。外の空気は冷たく、持ってきたジャケットがなければすぐに体温が奪われていたに違いない。
     少しだけ広くなった場所で荷物を広げる。彼が取り出したのは、キャンプ顔負けの調理器具と、大きな鍋だった。
     見慣れたそれも、行き交う客には奇異に映るらしく、団体かしらと、不思議そうな声音が届く。いいえ、とわざわざ訂正しに行く勇気もなく、嬉々として無洗米を鍋に放り込む男の横顔を見つめた。リュックからは、二リットルのペットボトルが三本。
    「トレーニングみたいですね」
    「はは、縦走する時は少し考えないとな」
    「俺も背負いますよ」
     とぷとぷと米に水が染み込んでいく。袋には、つや姫とあった。
    「山形の」
    「美味しいらしい。甘露寺に聞いたんだ」
     そういえば、秋田の米ばかりで山形の米は食べたことがなかったかもしれない。言わずと知れた米の産地にして、日本三大平野を擁するこの地の米が、美味しくないということはありえないだろう。寒暖差も大きく、日中の気温も高い。水も美味しい。
    「楽しみです」
    「君の料理は?」
    「ああ……こちらです」
     保冷剤はすっかり溶け、やわくなってしまっていたけれど、中はまだ触ると冷たい。取り出したのは、分厚く大きな肉。それが四枚。
    「か、まどしょうねん……それはもしや」
    「ええ、米沢牛です!」
     煉獄さんが、まるで宝石でも見つけたかのように唇を押さえる。今までキャンプ、登山と様々な料理を作ってきたけれど、一番の反応に違いない。その様子に満足して、彼の両の手にずっしりと重いそれを乗せる。
    「日本三大和牛の一つ。赤みと脂身のバランスは完璧です。これを」
    「これを……」
     煉獄さんが、ごくりと喉を慣らす。今回のリュックが重いのは、これのせいもあったのだ。煉獄さんに見つからないように運ぶのに苦労した。
     取り出した、ずしりと重い、黒色の板。
    「少年、それは……!」
    「厚さ1.2ミリの鉄板で肉を焼きます」
     煉獄さんが板を持ち上げる。その重みに目を見開いた。
    「2.8キロあります」
    「少年、それでは君の荷物が……」
    「米沢牛ですよ……!」
     その一言で、煉獄さんが口を閉ざす。鉄板を恐る恐るコンロの上にのせ、息を吐き出した。そして可笑しそうに笑い出す。
    「そうだな、米沢牛だ」
    「当然一等立派な鉄板で焼かないと失礼です」
    「ふ、ふふ……」
     鞄から取り出されたヘラや焚き火用の分厚い手袋に、とうとう煉獄さんは大きな声を上げて笑い出す。近くに陣取っていた人が、驚いたように振り返った。
    「煉獄さん……」
    「ああ、すまない。君もすっかり煉獄家に染まってしまったと思ったんだ。前の君なら我慢しましょう、と俺を諭していただろう」
     無洗米をもう一つのコンロにのせた彼は、蓋をかぶせてぼんやりと空を見上げる。
     次第に、橙色に染まり始めたその先には、やはり海が見えた。眩しそうに瞳を細めた彼からは、幸せでたまらない匂いがする。
    「君はそのうち、山のてっぺんで焼き芋を焼きそうだ」
    「そ、こまで非常識じゃありません」
     この鉄板が登山において常識的かと聞かれれば、返答に困るものではあるのだけれど。
    「米を水に浸している間に、一品作ろう。味噌汁でいいか」
    「俺も、具材持ってきました」
     そう言って一瞬悩んだ後、新聞紙にくるまれた野菜を取り出す。それを手渡した後、新聞紙から出てきた紫色の彼の大好きな根菜の姿を見つけ、煉獄さんはもう一度声を上げて笑っていた。



    「ふ、くく……」
    「もう、笑わないでください!」
     夕陽は、美しい海岸線に沈もうとしていた。煉獄さんの大きなシェラカップには、山のようなご飯が装われ、その上にはタレを吸ってミディアムに焼かれた米沢牛が所狭しと並べられている。つやつやの断面は、ほんの数分前まで煉獄さんが俺のことさえ忘れたように愛おしそうに見つめていた場所だった。
    「美味しいな、少年」
     さっきまでうまいうまいと声を上げながら食べていたのに。急に、低く愛おしそうな声を出すものだから驚いてしまった。彼の作ってくれた味噌汁は、だしもなく大味だったけれど、体の真ん中から温まっていくようだった。
    「そんな非常識じゃありません、と言ったのに」
    「焼き芋には、してないです」
    「ふふ……」
     上品に、口の中のものを一つも取りこぼすこと無く笑った男は、嬉しそうに三杯目のご飯をおかわりした。とんでもない量を食べる俺たちをさっきまで信じられないようなものを見るように見守っていた若いカップルも、寒さに耐えかねたのか山小屋に引っ込んでしまっている。
     季節外れのさつまいもは少しだけ味が薄かったけれど、彼が作ったと思えばそれさえも愛おしい。彼のリュックに詰め込まれていた野菜の殆どが、大きな二つ目の鍋の中に放り込まれた。米が炊けるまでは随分時間がかかったけれど、おかげで丁度夕陽を沈む姿を見ることが出来る。
     海が、橙色に染まっていた。海から昇る太陽を見たことはあったけれど、沈む姿を見るのは初めてだった。俺たちが海岸沿いに集まり初日の出を拝むように、初夕日を見に行く人もいるのだろという。きっと、美しいに違いない。
     海に沈む太陽が、四方に光を反射させながら、体を沈めていく。海にはまっすぐ橙色の光の筋が浮かび上がっていた。空が、朱色と藍色で滲んでいる。
     いつか見た、朝日よりずっと色の濃い、夜を呼ぶ色だった。
    「綺麗だな」
     俺の様子に気づいたらしい煉獄さんが、空っぽになったカップを置いて、俺を引き寄せる。分厚い布越しに、彼の体温を感じるようだった。人気のないそこは、次第に濃い藍色に変わっていく。小さなライトが、薄ぼんやりと鍋を照らしていた。
     思えば、あの頃は、夕陽が沈むと、ぴりぴりと張り詰めた空気が広がって。朝日を見るまで、背中に張り詰めた一本の緊張が解けることはなかった。遠くで、がたんごとんと揺れる列車の音が聞こえてくるような匂いがする。
     日中の温かな空気を喰らい、夜のじとりと冷たい匂いに変わる瞬間がひどく不安だったのに。
    「今度、ワインでも持ってこよう」
    「山でお酒は飲まないって言ってませんでしたか」
    「きちんと温めてアルコールを飛ばせばいい。体もあたたまるし、きっと君も好きだと思う」
     さあ、食べてしまおう、と煉獄さんがまだ湯気を上げる鍋の中身を俺のカップへと装う。広がった味噌の匂いが、じんわりと張り詰めた空気を溶かしていくようだった。



     夕闇が広がってくるころには、もう鍋の中身は空っぽになっていた。明日の朝ごはん分を先に分けておいて正解だったかもしれない。足りなければ、予備として持ってきた麺を茹でてもいいのだけれど。
     お腹が満たされれば、疲れた体に漸く力が湧いてくる。美味しいごはんは、どこで食べても人を幸せにしてくれる。山形のお米は美味しかった。冷めても美味しいと言っていたから、明日温め直す必要はない。米沢牛は、口の中でとろけるようだった。
    「少年、星だ」
     ふ、と世界が暗くなったような気がした。太陽は完全に沈み、空は深い色に変わっている。かち、と煉獄さんが明かりを消すと、あたりは真っ暗に変わった。
    「わぁ……」
     満天の星だった。眼下には、夜景が広がっている。話は聞いていたけれど、ここまでとは思いもしなかった。上を向いたまま動かなくなった俺を、煉獄さんは後ろから抱きしめる。驚いて身動ぎした体を、強引にぎゅうと腕の中へと抱き込んだ。
    「誰もいない」
    「……そういう問題では」
     俺の肩に顎をのせた彼は、星を見るでもなくそのまま動くことはない。汗を、かいていないだろうか。体は拭いたけれど、頭を洗うことはできない。変なことばかりが気になってしまう。
     煉獄さんからは、彼のいい匂いがした。ほとんど汗もかかず、疲れた様子もなかった。どんな風に鍛えたらこんな体になるのか想像もつかないけれど。
    「また、来ましょうね」
     彼が、この山を至極愛してることだけは、はっきりと伝わってきた。
    「ああ」
    「あんなことを馬鹿みたいなことを言わないで、この山が好きなのだとそう言ってくれたら……俺だって」
    「いや、やることはやる。あれは紛うことなき事実で、俺の本心だ」
     かぷ、と男が俺の首に噛み付いた。熱い舌が、冷えた肌をなぞってちゅうと音を立てて吸い上げる。一瞬のことで、振り返った瞬間にはもう忘れたというように男はどこか穏やかに笑ってみせた。
    「明日は、山間の温泉だ」
    「…………煉獄さん……」
    「これくらい見逃してくれ」
     星が、揺れるように輝いている。あたたかな腕に抱かれていれば、怖いものなど一つもないのだろう。空が、近かった。人の営みが、遠く光っている。これが、この人が命をとして守ったものなのだと思えば、どうしてか愛おしかった。
    「煉獄さん」
    「なんだ」
     甘えた声が出た。それに気づいた男の腕が強くなる。愛おしそうに俺の首に額を寄せて。皮膚に、温かな彼の息がかかった。
    「好きです」
    「……急だな」
    「急に思いました」
     嬉しそうな笑い声。そして少しだけ残念そうな匂い。
    「また明日、布団の上でもう一度思い出しほしい」
    「都合のいい、好き、ですね」
    「やっぱり、ずっと思い続けてくれ」
     振り返る。月のない夜だった。星空が、彼の瞳に反射しているようだった。僅かな星あかりでぼんやりと浮かび上がる彼の顔は、優しく笑っている。
     彼がこんな風に、穏やかに夜に笑えるのなら、あのときの選択は一つだって間違っていなかったに違いない。
    「ずっと、好きです」
     少しだけ背伸びして。じゃり、と煉獄さんのお下がりの登山靴が地面を撫でた。押し付けるように、口づける。驚いたように固まった彼の手が、俺の頭に添えられて、もう一度丁寧に唇が重ねられた。
     いつになっても君はキスが下手だな、と彼は笑う。どうしてか少しだけずれていると、おかしそうに。今もそうだったのかもしれない。仕方がないのだ、彼は俺より一回り背が高いのだから。
    「う、ん……」
     少しだけ深くなった口づけに瞳を閉じる。明日は早朝から山頂に向かわなければならないのに、今すぐ山を駆け下りて彼と抱き合いたいと。
     ゆるゆる口内をなぞった舌が離れる。口惜しそうな顔が俺を見下ろしていた。
    「今すぐ、山を駆け下りたくなった」
    「ふ、ふふ……はは」
    「どうして笑う」
     すこしだけ拗ねたように、男が唇を尖らせた。きっと、俺も同じですなんて言ってしまえば、彼は言葉の通り闇い山道を、俺を抱えたまま駆け下りてしまうだろうから。
    「明日、楽しみですね」
    「ああ、とてもいい宿」
    「頂上が」
     面食らった男が、悔しそうに眉を寄せた。
     彼の額に口づける。遠くで人の気配がした。山小屋から、星空を見に来たのだろう。
    「むう……」
    「寒くなってきました」
     そう言うと、それはいけないというように、彼は随分軽くなった荷物を背負いなおした。あの鉄板は、今はもう煉獄さんのリュックサックに奪われてしまっている。
    「楽しみですね」
    「ああ、そうだな、頂上が」
    「温泉宿が」
     握った手に力がこもる。俺を引き寄せた彼が、奪うように口づけた。バランスを崩した俺を、彼の右手一本が支える。
    「楽しみだ」
     低く笑った男が歩き出す。それに引き摺られるようにあるき出した。八時に消灯するという。それまでそう時間はない。早く毛布を被って、眠らなければならないのだから。少しだけ速歩きの彼の背中を見つめる。やっぱり、山を駆け下りてしまいたいくらいに、好きだと思う。
     肺の中に、冷たく澄んだ空気が吸い込まれた。いい場所だと思う。まるで、彼のように清々しくて。遠くで、風が山を撫でる音がする。明日の天気予報は快晴。きっと、朝も美しい山に違いないのだろう。                  (おわり)
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