とあるROM専の初体験と神の新刊 ツイッターランドの住民はやらかしたオタクの体験談とか好きだよな?慰めると思って少しだけ話を聞いてほしい。
俺こと伏黒恵は、ひっそりと小説を楽しみたまにイベントに赴く隠れ腐男子だ。ある日、大学の友人である釘崎と虎杖に頼まれて、都内で行われる大型イベントで自カプの受けのコスプレをすることになってしまう。事前に学食のデザートを奢られて断りきれなかった自分を悔やんだが、イベント当日はやってくる。虎杖の意外な特技で化け、何とか併せというミッションを終えられたところまでは良かっただろう。その後従兄弟に昼食を届けるという虎杖に連れられ辿り着いた別ホール、大好きな小説サークルのスペース前で人にぶつかってしまった。自カプの攻めコスをしたその人は、なんとサークル主の両面先生…!動転しながらも挨拶、手紙を渡す、御本を受け取る、という一般参加者のテンプレをこなした俺はよくやった。初めて直接先生から手渡しされた御本を胸に舞い上がっている俺の耳元で、先生はこうおっしゃった――新刊の感想はアフターで聞く、と。
声優が本業ですかと問いたくなるような低く色気のある声に、パニックに陥った俺はどのように返したと思う?答えはこうだ。
「あのッえと…そう!虎杖達と約束があるので!!すみません、失礼します!!」
それから咄嗟に本を押し付けると、近くにいた虎杖の手をとり周囲の迷惑にならない程度の早さで逃げ出した。約束があったのは本当だが、合流した俺の赤くなったり青くなったりする忙しない顔色を気遣われ、最寄駅で解散となった。
一人で電車に揺られながら頭に焼きついた先生の姿や美声を思い返している時、俺は気が付いたのだ。
虎杖に腐男子だとバレた。自カプの受姿でみっともないところを晒してしまった。最後にこれが一番やばい。……両面先生の新刊をご本人に突き返してしまった。
な?やらかしただろ。……笑ってくれていいんだぞ。
それからの俺はまるで屍だ。
イベント後の週明けの今日、初めて大学をサボった。珍しく釘崎からメッセージアプリで連絡がきたが、開いていない。布団に包まり、フォロワーの楽しかったイベントのツイートに溢れるタイムラインを眺めては溜息をつくばかり。何もする気力が湧かないなんて、こんなことは初めてかもしれない。大学生にして中二病もかくやという黒歴史ができてしまった。
「ハァー……」
n番目の溜息の後、スマホの振動が着信を知らせる。画面を見ると虎杖からだった。気付けば午後の講義も終わる時間だ。正直会話する元気はないので無視しようかと思ったが、イベントから離脱した時の心配そうな顔が脳裏を過ぎる。仕方がない、用件だけで済ませてもらおう。未だ震え続けるスマホを手にとってボタンをタップした。
「はい。どうした虎杖」
『伏黒恵か』
耳に入ってきた声に息を詰める。この声は、何で本名を、そもそもどうやって。疑問が募っていく中、どうしても問わずにはいられなかった。
「両面先生…?」
性能のいい最新スマホは震えた俺の小さな声をしっかり相手に伝えたようだ。
『ああ、だが俺だけオマエの本名を知っているのはフェアではないな。虎杖宿儺だ』
何と返せばいいのか分からずスマホを握りしめると、フッと柔らかく笑った気配がした。
『俺のことは宿儺と呼べ』
「呼び捨てなんて失礼なことできません!」
『ほう、俺の本を突き返すことは失礼に当たらないと』
「う…ッ」
ただでさえ尊敬する作家様相手にノーと言いにくいのに、的確にこちらの弱みを握られている。
『そら、その愛らしい口で呼んでみろ』
「……す、宿儺…先生……」
呼び捨てにできなかったが、先生は許してくれたようだった。
話題が変わり、外を見るように指示される。よく分からないけれど従って、昨晩から閉めっぱなしだった遮光カーテンに手をかける。日の眩しさに眉を顰めてから、窓ガラス越しに家の前の道路を見下ろした。我が家に何か用事だろうか、スマホを耳に当てた男性が玄関前に立っていて……明るく珍しい髪色の後頭部がくるりと振り向いて……真っ赤な瞳と視線が……。
『逢いたかったぞ、伏黒恵』
視線の先の男の口元がゆっくりと動き、耳にぞくぞくする甘い声が吹き込まれる。自分の心臓の音がうるさい。
『俺の元に降りてきてくれるか?』
「すぐ行きます!」
考える間もなくそう答えて、スマホを手に自室を飛び出した。階段を駆け下り、スニーカーの靴紐を結ぶ時間をも惜しみ、玄関のドアを開ける。数歩駆け寄れば、目元のメイクや紋様はないけれど、確かに手紙を渡した両面先生がそこにいた。少しの距離に息を乱した俺は問う。
「先生!何でこんなところにっ」
「『無論、オマエに逢いにきたのだ。』」
耳に当てっぱなしだったスマホをそろりと下ろし、通話を切った。瞬きをしても、目の前の人は消えなかった。夢じゃない、本物だ。
「どうして…あんな失礼なことしてしまったのに」
「何故何と幼子のようだなぁ、伏黒恵よ」
くしゃりと顔が歪む。じわりと目の奥が熱くなって、鼻がツンとする。
「嗚呼、泣かずともよい。おいで」
膜の張った視界に手招きする姿が映る。ふらりと歩み寄るとぎゅっと抱きしめられた。ふわりと柔らかな香りが鼻腔を満たし、鼓動が早くなる。
「ごめんなさい、先生、宿儺先生のこと大好きで…新刊楽しみにしてたんです。せめて手紙渡せたらってそれで……あ、アフターって言われてびっくりして……」
「よいよい、気にするな」
背を撫でられて、大きくあたたかい手にほっとする。なのに、少し物足りないような不思議な心地。
「嫌じゃなかった、嬉しかった……」
「それが聞けたなら充分だ」
身体に回されてた逞しい腕がゆるむ。身長の違いから見上げた顔は穏やかに見えた。
何で?どうして手を離すんだ?目の縁から熱いものがこぼれそうになる。
自由に動けるようになった俺は、自らの意志で服の裾を掴んだ。身体を寄せる。
「もう遅いですか。もう…俺とは会ってくれませんか…?」
問いかけながら自分の口から出た言葉に悲しくなってきて、頬に涙が伝う。
服越しに先生のゆったりとした鼓動を感じて、自分との違いにまた涙があふれてしまう。
「せんせえ、」
駄々をこねる子供かと頭の隅で冷静な自分が呟くのを無視して、目を見つめた。
イベントでコンタクトかと思っていた瞳の色は、どうやら本物だったらしい。どこまでも深く吸い込まれそうな色をしている。
先生が小さく息を吐いた。
やっぱり迷惑だったか。会ったばかりなのに我儘言いすぎたよな。
諦めようと伏せかけた顔が、頬に手を当てられて上向く。
「落ち着け。日を改めようとしただけだ」
もう一方の手で涙の跡を拭われた。本当かと聞くとしっかりと肯定されて、ようやく服から手を離す。
「良い子だな、これをやろう」
取り出されたのは、俺が突き返してしまった両面先生の新刊だった。両手で受けとって、あの時と同じように折れないように気を付けながら胸元に抱える。
「…そんな歳じゃないですよ」
「では大人として扱ってやろうなぁ」
ムッとして言い返そうと開いたところに、唇が重なった。啄むように何度か触れた後、息を吸ったところで舌が差し込まれる。
「ん、んぅ…」
巧みな舌が口内を隈無く動き回る。他人の粘膜や唾液なのにどうして気持ちよく感じるのだろう。舌同士を擦り合わせると背筋をぞわぞわとした心地が駆け抜けていく。
目を閉じるタイミングを逃し、真っ赤な瞳に釘付けのまま夢中でキスを続けた。先生の瞳にうっとりとした表情の自分が映っている。俺の目にも先生の顔が、と考えると気分がよかった。
「せんせぇ…、すくなせんせ、…んっ」
じゅっと舌先を吸われて膝から力が抜ける。すぐに腰を支えられて、新刊を地面に落としてしまう事態は免れた。
「渡すだけのつもりだったが…いかんな、オマエを前にすると抑えが効かん」
俺が自分の足で立てることを確認してから、大事ないかと先生が言う。
「大丈夫です、ほら!」
息を整えてしっかりと抱えた大事な新刊を見せると、意表をつかれたように目を瞬かせた。
こんな表情もするのかと新たな情報に胸が高鳴る。そう、先生とは昨日出会ったばかり。俺の知っていることなんてほんの僅かなのだ。素晴らしい文才の持ち主で、自カプの攻め・スクナ様のコスが異様に似合うこと。真っ赤な瞳は偽物じゃなくて、いい香りがして、キスが上手で。――それから、俺に会いに来てくれた。
余韻で熱を持った唇を開く。
「宿儺先生、俺、これから御本拝読します。だから…家で感想聞いてください」
どうか断らないでほしい。日を改めて、なんて社交辞令はいらないから。
俺の祈りが伝わったのかそうではないのか。先生が特徴的な笑いをこぼすと、背を丸めて俺の耳元で囁いた。
「いいだろう。今度こそアフターだ、覚悟はいいな?」
それはこちらの台詞だ。アンタこそ俺の愛を舐めるなよ。