はらはらと桜が舞う様を見ていると妙に何かが気にかかる、何がというわけではなく何故か目が離せなくなって、その後に思わず込み上げてくる不快感に顔を顰めてしまう。昔から花に興味があった方ではないが、こんな不快感を覚えるような性質ではなかったはずだ。
別段違和感を覚えるわけでもない、僅かに薄曇りの空を背景に爛漫と咲き誇っているいっそ白っぽくも見える薄桃色の花を眺めていると
「水木」
と不意に声をかけられて、弾かれたようにそちらへと振り返っていた。
恐らくは驚いたような仕草にも近かったのだろう、思わず振り向き凝視された側の同僚が少しだけ驚いたように目を見開いたまま「っくりした」と声を漏らしたのは一拍置いてからで、彼の声から察するに相当驚いたであろうことは明らかだった。
「お前、驚かすなよな」
「それはこっちの台詞だろ、話しかけてきて驚く奴があるか」
「だって、お前さ」
そこまで言葉を口にしておいてから、それ以上は何か言葉にするのを躊躇うように口を閉ざすと、一度だけ水木が見上げていた桜を見上げてから
「まあ、ものの見事だわな」
「そんなことを言いにわざわざ来たのか、真面目に場所取りしとかないと誰かに取られるぞ」
夜に向けての桜の場所取り、などというのを仕事に含めて良いのかはわからなかったが、調度良い休憩だとばかりに手を上げたのは同僚で、一人で場所取りというのも何だかということでもう一人と呼ばれたのが水木だった。
外回りが一段落してから合流するという言葉通りに桜並木が有名なこの場所へと足を運んだものの、先に場所を取りにと繰り出していた同僚はといえば、一人で待つのも飽きたのか少し離れた場所でぼんやりと立ち尽くしている水木に気付くやこちらへと呼びに来たらしかった。
「お前だって場所取り係の一員だろ、一人じゃ退屈だしさァ、あっちで何か食いながら先に一杯ひっかけようぜ」
「先に呑んでるのがバレたらどやされるぞ」
「一杯くらいで何がわかるんだよ、顔にも出ないだろ」
確かに一理あるとばかりに口籠ったのを同意と受け取ったのか、にんまりと同僚がどこか嬉しげに笑うのを見ながら、一つだけ息を吐き出すと
「一杯だけな」
とそう釘を差すように口にしてから歩き出そうとして、もう一度だけ、今しがたまで自分が見上げていた桜を見た。
何の変哲もなく咲き誇っているそれに一体何がそんなに気にかかったのかはわからなかった。ただ、やはり眺めていると妙に胸がざわつくようで居心地の悪さを感じながら、少しだけ唇を引き結ぶと「水木」とまた呼ぶ声に振り返るように、桜から目を背けていた。
場所取りなどというものは特段何をするでもない。
これぞと思った桜の木の下に敷物を敷いて、その上に座って時間が来るまでのんべんだらりと過ごすだけである。
まだ日も高く、花見だと会社の面々が来るまでにはもう少し時間が必要な中で、同僚が準備していたらしい酒を一杯だけ、と決め込んで二人してそれを飲んだ。
水筒のコップに茶ではなく酒を注ぎ、それを飲んだ後にぼんやりと桜を見上げた。
一人で見上げていた時に感じた不快感は酒の所為なのか、それとも側に人がいる所為なのか僅かに緩んでいた。
「しかしまァ、髪に白いものが混ざるっていうのは聞いたことがあるが、水木の場合は逆だな」
そう言われて少しだけ桜から視線を逸らすように同僚の顔を見ると、自分の髪を弄りながら「白髪も黒く染まりけり、みたいな感じじゃないか」と言われて、今まで特別気にも
留めなかった自らの髪を見遣るように少しだけ視線をあげて前髪を一部指先で軽く摘み上げた。
言われてみたところで、水木の目にははっきりとはわからなかった。
指先に摘んでいる髪はまだ白く、どこか灰色がかっても見えたが、そこに黒いものは見えなかった。
だが、同僚が口にしている言葉が嘘ではないこともわかっていた。
毎朝、鏡を眺める度にちらちらと黒髪が混ざるようになってきているのを何だか不思議な気持ちで眺めたこともある。
髪が白くなって困ったことは特段無い、始めこそ周囲から奇異な目で見られたが人間、慣れというものが存在している生き物でそんなものは数日としないうちに珍しくもなくなっていた。
奇異な目を向けられることも、興味を向けられることも、髪色一つで人の関心を惹くこともなくなれば後に待っているのは普段通りの生活だった。
その生活を何となく以前よりも速度が落ちた空気の中で過ごし、家に帰れば墓場で拾った子をあやして育て、という生活が待っているだけのことだった。
指先で摘み上げていた髪から指を離すと、隣で水木の髪を何気なく眺めている同僚が不意に口を開き
「お前、本当に何も覚えてないのか」
久方ぶりに聞く問い掛けに、隣へと徐ろに視線を向けると興味本位などではなく、どこか真剣な色合いが混ざった目を見つめたまま少しだけ口を閉ざしていた。
一夜にして髪が白くなったのか、それとも村に出向いていた数日間のうちに髪が徐々に変化したのかはわからなかった。
ともかく気がつけば髪から色が抜け、色が抜けたと同じように記憶も抜け落ちていたいや、逆なのか、記憶が抜けるのが先だったのか、考えても詮無いことだが今更のようにそんなことを思い起こしてはやはり答えが出ないそれに一度だけ目を伏せると少しだけ笑い
「羨ましいだろ」
と零れ落ちた水木の声に同僚が緩く目を見開くのを見遣ると
「髪だよ、髪。若返っていくみたいで羨ましいとは思わないか」
軽口を叩いた水木の言葉に不意に空気が緩んだように「どうだかねえ」と笑う姿を見ながら、またふと胸の内に何かが過った。
不快感などではなく、何か引っかかるような感覚に手元に持ったままのコップへと視線が落ちて、僅かに残っている酒の表面にぼんやりと映る影を見つめていた。
日が落ちる少し前から少しずつ集まり始め、夜が更けた頃には宴もたけなわとなっていた。誰もが夜桜に目をくれるわけではなく、花より団子という言葉が相応しく酒に肴にと、或いは無礼講とばかりに思い思いに酒を楽しんでいる中で、そっとそこを抜け出すように腰を上げると、その場から離れていた。
風一つ吹いていない中で、ただ静かに佇んでいる桜を時折見上げながら夜闇の中を歩く、靴底に微かに感じるのは土の感覚で、何気なく歩いている道が夜闇に沈んでいる所為なのかどこか別の場所を歩いているような気すらしてくる。
どこに行っても、どこを歩いても花見だと浮かれている人々から離れるように少しだけ夜闇の深い道へと足を踏み入れると、急に喧騒が遠のいた。
静けさだけが満ちている場所に、不思議と恐怖感はなかった。
それどころかその静けさにどこか安堵するように、ふう、と息を吐き出すと共に煙草を取り出そうとしたところで
「お兄さん」
とそう声をかけられた。
不意に夜闇の中から響いた声に煙草を取り出そうとしていた手を止めると、闇の中からぬうっと表れるように白い手が見えた。
細さからして明らかに女の手で、闇から伸びてくる白い腕はどこか艶めかしく思える程に妙な色香のようなものを放っていたが、不思議とその女の腕には袖が見えなかった。
まだ半袖を着るには早い時期で、寧ろ、そこに女が佇んでいるはずだというのに腕以外は、はっきりと水木の目には何も見えなかった。
ぬるり、とまるで闇の中から腕だけが顔を覗かせでもするように水木の目に見える様子に思わず目を見開いていると
「お兄さん」
とまたもう一度呼ばれて、ゆったりと手が招くように揺れた。
こちらにと招くような手の動きに訝しむように少しだけ目を凝らしてみたところで、やはり闇が濃い所為なのか肘から先は見えなかった。
訝しみながらも
「何です、何か僕に用」
そう言いかけた瞬間、後ろから音もなくぬっと現れた手に口元を塞がれた。
ひやりと驚きのあまり体が竦みそうになりながらも弾かれたように振り向いたところで、暗闇に向けて男の声が響いた。
「用などありゃあせん、こやつは儂の連れじゃ早う去るが良い」
まるで水木の言葉を引き継ぐかのように続けられた言葉に目を丸くしていると、見知らぬ男の目が僅かに赤く光ったように見えた。
「それとも、儂の連れをどこかに連れて行く道理でもあるのか?」
そう問い掛けた声に、暫く水木を招こうとしていたはずの手が動きを止めたかと思うと、水木が暗闇の方へと目を向けた時には腕は暗闇の中へと吸い込まれるように消えていた。
すっと、何やら体が軽くなるような感覚と共に男の手が離れると、男へと振り返り
「何なんだ、一体」
「それはこちらの台詞じゃ、この体を保つのも容易ではないというのに……お主には危機感というものがないのか」
ぴくっ、と不快感に思わず眉間に皺を寄せると男の指が水木の眉間に一度押し当ててられて、指の腹でぐりと眉間を揉むような動きに思わず手を払いのけようとして
「見えぬようにしてやる」
不意に聞こえた声に、少しだけ水木の動きが止まり男の顔を見上げると水木を見つめたまま男が一度だけ息を吐き出し
「お主には見えてはならぬ者が見えておる、そのままでは取り殺されてしもうても文句は言えん、恐らくは」
そこまで言ってから男が少しだけ淋しげに顔を歪めるように笑うと
「まだ覚えておるんじゃな」
「覚えてるって何をだ、俺は何も」
「覚えておらんで良い、忘れてしまえ、そうれすれば何も見えず、何も聞こえぬようになる、倅を」
そう言いながら男の手がゆっくりと水木の目へと覆い被さり
「慈しんでくれるだけで良い」
ずき、と胸を貫かれるような痛みと共に男の手首を掴んでいた。
勢いよく男の手を目から離させると
「お前な!」
そう思わず叫んでいた。
まるで感情が爆ぜるように声を荒げると、誰なのかもわからない男の顔を睨みつけたままでまた言葉を口にしていた。
「勝手なこと言うなよ! 俺が何を忘れてるんだ、何を覚えてるんだ、お前は知ってるんだろう! それを……それを忘れてもいいだ何だと、人の了承もなしに勝手に決めるな、俺は……俺は」
く、と一度だけ唇を噛みしめると、込み上げてくる感情が胸を焼くのを感じながら、ぎり、と歯を食い縛ると
「思い出したいんだよ」
絞る出すような声が唇から漏れた。
今まで強く感じたわけじゃない、思い出したいだの忘れた記憶に一体何が存在していたのかだとか考えなかったわけではない、それでも、そこまで強く執着することが出来なかった。
あの時に買った切符の切れ端だとか、ポケットに入っていたもの、警察から手渡された己の私物などを見ても興味が湧かなかった、幾ら見つめたところで物言わぬ物品を見つめているだけで何か酷く申し訳ないような気持ちにはなったが、必ず思い出さなくてはいけないなどという気持ちにはなれなかった。
欠落するには欠落するだけの理由がある、蓋を開けて良いとは限らない。
半ば、逃げるような気持ちだったのかもしれない。
いや、そうせずには普段の生活には戻れなかったのか。
もどかしさや、胸に穴が空いたような空虚さを覚えることはあったが、胸の中に空いた穴を通り抜けていく隙間風も目を伏せ、耳を塞いでしまえばそれで何とかやり過ごせた。
唯一、やり過ごせなかったのは墓場で赤子を見つけた時だろう。
あの時、生かしておいてはいけないという気持ちと相反するように、あの赤子を見た瞬間に自分の手で育てなくてはならないという強い義務のような気持ちが湧いた、ある意味では贖罪に近い。
強烈なまでの感情に押し流されるように赤子を抱き、家へと連れて帰った。
あの時ですら、赤子のことは思えども記憶を戻したいとは思えなかった。
だというのに、この男を目の前にして、いや、忘れろと言われて堪らずに感情が爆ぜていた。
男の手首から手を離し、視線を少しだけ落とすと暫く考え込むように男が水木を見つめた後に、ゆっくりと腕を袖の中へと仕舞うように腕を組み
「思い出す方法は知らぬ、お主が忘れておる記憶を呼び戻すだけの力は儂にはない」
その言葉に男の顔へと目を向けると、水木を見つめたままの目と視線があった。
確かに赤く光っていたように見えた目は今はその光が失せ、ただ静かに水木を見つめるばかりだった。
「覚えておるものを夢じゃと思わせるだけのことは出来る、じゃがな、お主がそこまで強く求める記憶を戻したいという気持ちに応えられるだけのことは出来ぬ、そもそも、思い出してしまえばもっと良からぬものが見えるかもしれぬ」
「良からぬものって何だ、さっきのあれか」
「あれは幾分か力が弱く取り憑く者を探しておったに過ぎんがな、そのうち有無も言わずに飲み込みこもうとする者に出会うやもしれぬ、その時に助けられるかどうか」
「助けが必要なのか」
「さっき助けられておいて、何を言っておる」
思わず口を閉ざした水木の姿に袖へと仕舞った手を引き抜くと、水木の髪へと触れると
「……力添えくらいは出来るかのう」
ぽつ、と独り言のように呟くと、溜息をゆっくりと吐き出し
「儂の助言くらいは聞き入れるようにせぬと、不用意に思い出して何もかも見えるようになった時に困ることになるぞ」
「そもそもお前は誰なんだ、俺はお前のことだって何も」
「知らぬと言うつもりか? 随分と薄情な」
呆れたようにそう言葉を口にすると、そうさな、と考えるように視線を一度だけ宙へと投げてから
「目玉じゃ」
「め?」
「お主が目玉目玉と呼んでおるあれじゃ」
あれって、そう言いながら思い出しながら鬼太郎の側にいつもいる存在を思い出し、な、と思わず言葉を失っていると何やら機嫌よくしたように男が笑い
「目玉でも良いがの、ゲゲ郎と呼んでも構わぬぞ」
「ゲゲ郎?」
思わず顔を顰めながら首を傾げたところで
「お主はそう呼んでおったよ、水木」
そう呼ぶ声と共に、ゲゲ郎と呼びかけた瞬間微かに何かが確かに頭の奥で絡みついたように少しだけ言葉を失っていると、男が一度だけ後ろを振り返り
「早う帰らぬと心配もされよう、儂もこの姿は長く保てぬ、自由が効くうちに倅の元に先に帰らせてもらおう」
「体を保てないって」
どういう、とそう言いかけたところで少し離れた先から確かに水木を呼ぶ声が聞こえたような気がして、少しだけ視線を男から離したところで
「また、後での」
そう言い残したかと思うと、男の体が掻き消えた。
何も言えずにただ呆然と、確かに今までいたはずの男が消え去ったことに驚き、周囲を見渡してみたところでやはり男の姿はどこにもなく、ただ暗闇だけが広がっている景色に思わず頭を掻くと
「ゲゲ郎」
そう一度だけ名前を口にしていた。