ファスト・フレンド(花見)「お花見に行きませんか」
頭上から降ってきた空気に溶け込むような柔らかな声に、睡魔に誘われて意識が波間を揺蕩っていた浦原はすぐに反応できなかった。
「…え?」
少し重い目蓋を押し上げて布団にうつ伏せて枕に顎を突いていた体勢から目線を上げると、こちらを伺うように見下ろす藍染の澄ました笑顔。
パチ、と音を立てて左手の小指の爪が切られ、鑢が皮膚に当たらないよう慎重に、丁寧に整えられる。右手の爪を切ってもらっていたはずなのに、いつの間にかうたた寝していたらしい。
「他人に爪を切られているのに、よく眠れますね」
「藍染サン、器用だから深爪しないでしょ」
「…まあ、そうですね」
「最近忙しくて寝不足ひどいんスよ…。そのせいで疲れマラ?になるし」
「それならどうぞ寝不足でいてください」
「酷いなァ。抱きたいからって」
軽口を叩いて藍染の様子を伺うが、全然花見の話が出てこない。スルーされたら身を引くタイプなのだろうか。それにしたって見切りが早すぎるだろう。
「…それで、お花見が何ですか?」
「聞こえてらしたんですか。…お花見、ご一緒できればと思いまして」
藍染の提案の仕方は上司に対するそれで、隊長と副隊長という壁が二人の間に未だ隔たっていることをよく表していた。
「花見、ねえ。ボクの背中、今いっぱい咲いてますけど」
へらっと笑って冗談半分でからかってみれば、優男然としていた藍染の瞳に、チリッと火が燻るのが見える。以前は食われそうで怖いと思ったが、今では底の見えぬ笑みよりはこの目の方がよっぽど好きだ。
「もっと咲かせてあげましょうか?」
「花咲かじいさんっスか。もう十分です」
半分本気の藍染の言葉に苦笑を返すと、藍染は小さく溜息を吐いて浦原の枕元に置いたちり紙の爪を回収して立ち上がる。
「なら、その花でも眺めながら一杯やりましょうか」
「今日軽口の調子いいっスね。そのついでにそろそろそのお堅い口調やめたらどっスか」
ちり紙をごみ箱に捨て、本当に酒でも取りに行こうとしたのか部屋の襖に手を掛けた藍染の動きが止まる。
数拍置いて、ゆっくりと顔がこちらを向いた。その瞳からは何を考えているのか読み取れないが、浦原にとってはさしたる問題ではない。
「何でしたっけ。…『君という男は』でしたっけ?」
核心に触れる発言に、藍染の手がピクリと震える。
「……聞こえてらしたんですか」
「アナタの口調、ホントは僕でも貴方でもないんでしょ。いつになったら切り替わるのかなあと思って、ボクずっと様子見てたんスけど」
ひよ里に呼び捨てられても気に留めず、それどころか蹴りが飛んでも拳が飛んでもへらへらとしている様子を見れば、浦原が身分や階級に頓着しない性質であることは藍染にも通じているだろう。
だからこそ、そのうち藍染の方から話し方を変えたがるだろうと踏んでいたのだが、口説いてきた割には距離を詰めてくることもなく行為中に触れてくる程度で、この数ヶ月間二人の関係性はいくらも進展していない。
「…アナタ、意外と臆病なんスね?」
にたりと、滅多に他人に対して向けない部類の笑みに、藍染の緊張がするりと解け、代わりに別の欲が再び顔を出す。
「…それは貴方にも言えることなのでは?」
「ええ。だから類は友を呼ぶって言うでしょう」
あっさりと認める浦原に、普段よりも少し冷めた声が答える。
「ですが、貴方が友としたいと思ったのは『僕』でしょう。知らぬが仏と言いますよ」
「ボクが知らないままを望むとでも?」
それまでのどこか茶化した声音はどこかへ消え失せ、低く芯のある声が藍染の施した壁をあっさりと貫通する。襖の前に立ち尽くす藍染を、浦原は布団に横になったまま眺めていて、いっそ太太しいくらいだった。
「…だから、ね? そんな鉄壁みたいな外面なんかやめて、それこそ友人にする態度みたいにしてくださいな。今、二人きりなんスから」
へら、とキリリと引き締まった表情が一瞬にして崩れて眦が下がる。柔らかく誰にでも受け入れられてきた外面を鉄面皮だなどと表現されるのは初めてで、舌を巻いたばかりなのに、核心を突いた男と同一人物だとはとても思えない。
「……っはは」
穏やかで取り繕っていた笑みとは違う、どこか歪で圧のある笑い方に、浦原が僅かに目を見開くのが見える。
「後悔しても知らないよ」
「しませんよ。へえ、声も違うじゃないスか。あ、呼び方もお好きにどうぞ、藍染サン」
「では浦原と、そう呼んでも構わないかい」
端から拒否権など与えないとでもいうような横柄な態度で布団にいる浦原へとゆらりと近づく。
「もちろん」
目の前にゆっくりと腰を下ろす藍染は先程までとはまるで別人で、機嫌を損ねてはいけないと感じさせるような、まるで王であるかのような威厳を放っている。
「面白い人っスねえ、アナタ」
「君こそ。副隊長にこんな態度を取られて腹を立てないなんて、隊長格の面子が丸潰れじゃないのかい」
「今は友人として会ってるんだから関係ないでしょ。そもそも面子なんてどうでもいいっスよ」
今すぐにでも捕って食いそうな藍染の危うげな空気を他所に、浦原は気を許した猫のようにコロンと転がって腹を見せる。
「…前に言った通り、私は君を好いているんだが。あまりにも警戒心に欠けてはいないかい」
「んー? ちょっと静かにしてください。今考えてるから…」
本当に何か思案しているらしい浦原は、部屋着の浴衣をはだけさせながらコロコロと布団の上を右に左に転がっている。はだける度に劣情の痕が藍染の目の奥を焼き、本当にもう一度食ってしまおうか本気で考え始めた時、浦原がパッと表情を明るくした。
「…うん、これなら。それじゃあいつにしましょっか、お花見」
急な話題転換に思わず無言で数度瞬きをした藍染に、浦原が破顔する。
「場所はこっちで提供するんで、都合いい日分かったら教えてください」
「ああ…」
研究と隊長としての職務に明け暮れる浦原の予定を押さえようと思い、見頃予定より一ヶ月ほど早く声を掛けたのが幸いしたらしい、と藍染は内心で無意識に胸を撫で下ろす。
平子やひよ里を同席させる可能性もあるが、友人であって恋人でない浦原に二人きりを強制する気はなかった。今は浦原の好きにするといい。いずれその隣に居座るのは自分なのだから。
「ああ、藍染副隊長。お疲れ様です。こちらへ。局長がお待ちです」
「失礼します」
十二番隊隊士でありこの場では局員である男に門を通され、背を追って廊下を歩く。部外者の珍しい訪問に、廊下ですれ違う局員たちから好奇の目が向けられる。それに一つひとつ頭を下げ、挨拶を交わしていると、ほどなくして目的の部屋に辿り着いた。
「こちらでお待ちです」
「あの、ここは…?」
一番隊の隊首室を思わせる重厚な扉を前に困惑する藍染に、案内人の局員は苦笑を零す。
「実は我々にも明かされていなくて…、隊長の許しがないと扉も開かないんですよ」
局員すら知らない部屋に通されようとしている事実に、藍染の心臓が僅かに跳ねる。そんな藍染の視界の端に、扉の隙間から月色の髪が覗くのが見えた。
「あ、来た来た。藍染副隊長、いらっしゃい。どうぞ、入ってください」
人ひとりが通れるだけ開け広げられた扉の先に、藍染はおずおずと足を踏み入れる。
「…はい。お疲れ様です浦原隊長、失礼します」
それを、局員はどこか羨ましげに眺めた。
「案内どーもっス。研究に戻っていいっスよ」
「は、はい! 失礼します!」
部屋の存在に後ろ髪を引かれる様子の局員だったが、浦原に見送られて廊下を去っていった。
浦原が局員を門前払いするのを背に、藍染は言葉もなく部屋の空間の大半を占めるそれに目を奪われていた。
「これは…」
太い幹の先に数々の枝が広がり、満開な花を咲かせた見事なソメイヨシノが、水槽に見紛うほど巨大な培養器を隔てて目の前で揺れている。培養液の薄い青は空を思わせ、落ちる花びらは水中を舞って長く滞空してその様を観る者の目に焼き付け、木の根元に絨毯のようにはらはらと積もっていく。特殊な木種なのか、それほど花が散っていてもソメイヨシノ自体は頃の美しさだった。培養器の底が水面のように景色を反射して、その美しさをさらに際立たせている。
「見事なもんでしょう」
ガラスに映る驚愕の表情をした自分の隣に、したり顔の浦原が並び立つ。ゆっくりと首を横に向けると、浦原はガラス越しの藍染を見つめたまま口を開いた。
「ここの扉、特別性でして。ボクが霊圧で複雑に操作しないと開かない仕組みなんスよ」
「…先程、隊士の方からお聞きしました」
堅苦しい藍染の言葉に、浦原がクスリと笑みを零す。
「加えて防音っス」
「………」
浦原からそれ以上の説明はなく、代わりにへらへらと上機嫌な笑みが向けられる。全くこの男は、恋慕の何たるかが分かっていないのだろうかと、友人のための善意であろうこの状況が腹立たしいほど嬉しかった。
「…全て私のために?」
ただの花見ならば、手頃な桜の下に敷物でも敷いて酒でも酌み交わせばいい。それをわざわざ室内に桜を造り、防音設備の整った壁で囲って施錠するなど、どこまでも予想の遥か斜め上を行く男だ。
「だって、仕事人とお花見したってつまんないっスもん。付き合いの席じゃないんスから」
浦原にとっては当たり前の発想らしく、ただのちょっとしたサプライズ程度の感覚らしい。
「わざわざ君が手ずから作ったのかい」
「そんな大袈裟な。研究の合間の息抜きがてらっスよ。涅サンには何造ってるかすぐ見抜かれて、呆れられちゃいましたけど」
涅の小言を思い出したのか苦笑しながら頭を掻く浦原の隣に、静かに一歩近づく。外では決してしない肩が触れ合う距離感に、浦原の頬が緩むのが見えた。
「ちなみに、監視カメラは?」
「ここ、桜以外本当に何にもないっスからね。監視する必要も」
「そうか」
言い終える前に浦原の後頭部を手で押さえて唇を塞ぐ。予想していなかった藍染の行動に、浦原の肩がビクリと跳ね上がった。
「え、何で今キス…」
寝室以外では、今まで一度もしたことはなかった。情事を始める時に必ずしているのだが、浦原は大抵眠気と性欲が半々な状態であることが多く、すぐに意識を蕩かしてしまうため合図を合図として認識していない。
「…これだけで真っ赤になるのか」
身体だけはそれを覚えているらしく、浦原の顔が見る見るうちに火照っていく。
「え、あれ? 何で、っスかね…」
体温の残る唇に手の甲を押し当てて珍しく動揺する姿を見て、頭の芯が沸騰する錯覚を覚える。
このまま肩を抱き寄せて、もっと深い口付けを交わしたい。培養器の壁に背を押し付けて帯を解き、淡く体温の上がった身体に触れたい。咎める理性など跡形も残らないほど突き上げてやりたい。
それらの全ての欲求を深い深い溜息と一緒に吐き出す。
「藍染サン?」
「……今回は、君の『好意』を尊重しよう」
「?」
あくまで友人に対しての善意、欲情など微塵も含んでいない施し。それを無下にしたくない程度には、友人でありながら肉体関係を持っている、ただのセフレとも言い難いこの不思議な距離感を好ましく思えてしまっている。
「まさか室内で花見をすることになるとは思っていなかったから、手土産もなしですまないね」
「お酒ならありますよ。それと和菓子もちょっとだけ」
するりと藍染の横から離れ、浦原は背を向けて壁の方へと歩き出す。カランコロンと下駄の音が遠ざかり、壁付けのタッチパネルを操作して内側に隠してあった酒瓶を取り出す。
「……随分厳重な管理だね」
「そりゃあ、アナタと呑もうと思ってたとっておきっスから」
そういうことばかりけろりと言うものだから、試されているのではないかと邪推してしまうのも仕方がないだろう。これまで腹を割って話すどころか口調を崩すような友もいなかったのだ。浦原にとっての『友人としての特別扱い』が、藍染には酷く尊く思えてしまう。
目が潰れそうなほど眩しくてかけがえがなくて、それ故誰にも渡したくない。
「行きつけの飲み屋で特別に卸してもらったんスけど、かなりの秘蔵らしくて…」
酒瓶を傍の机に置き、盃を取り出して次は和菓子を選んでいるらしい浦原の背に近づく。元二番隊を相手に、副隊長格以上の技量で隠密を働くのは悪手だと理解しているからこそ、本気で気配を殺すことなくそっと歩み寄ると、浦原の肩が小さく震えた。
「もう、何してるんスか?」
「無防備だから襲ってしまおうかと思ってね」
「ボク、『お願いします』って言ってないっスよ?」
「言わせれば問題ないだろう?」
「だいぶオープンになってきたっスね…」
そうさせたのは君だろう。浦原の肩に手を乗せ、受け入れられればありがたくいただき、拒まれるようなら素直に身を引くつもりで再び隣に並ぶ。
「でも今日はお花見の日っスから。また今度にしましょう」
「……分かった」
「ほら、藍染サン好きなお菓子選んでください。お酒に合わせてちょっとだけ奮発したんスよ。全部老舗銘菓の自慢の逸品っス」
「ほう、…本当に希少価値の高い酒のようだが、私なんかと呑んでいいのか」
浦原のそばに置かれていた酒瓶は、それこそ夜一が手にするような破格の名酒だった。
「『なんか』って何スか。ガラじゃない言い方するもんじゃないっスよ」
不貞腐れた子供のような言い草に、思わず口元を手で押さえる。
「ふ…、柄じゃないと思うのか」
「私サンには似合わないっスねえ」
遠慮のない物言いがどれだけ新鮮で胸に響くのか、まるで理解していない浦原のストレートは藍染の胸の奥にまで真っ直ぐに届く。
「うーん、じゃあ藍染サンはこれっスね。ハイ、決まり」
「選ばせてくれるんじゃなかったのかい」
からかい半分に拗ねてみせた藍染に、浦原はへらりと笑みを返す。
「あんまりゆっくりもしてられないでしょう。お酒が抜けてから帰ってもらうつもりなんスから」
「………」
「花見とはいえ藍染副隊長が平子サン放ったらかしで昼間から酒なんてありえないっスもん」
万が一知れ渡ったら大変だから。
藍染の二面性を守ろうという友としての配慮に、恋慕とは別の独占欲がじわじわと心に染み渡って、気づけば酒瓶を手に離れていく浦原の背に追いつき、後ろから抱きしめていた。
「…っ、藍染サン?」
「浦原、……駄目だろうか」
身体を繋げる以外の発露の方法を知らない。瞳を見据えて手を握って、いかに特別な存在であるかを説いたところで、身の内に響くようなこの想いを芯から伝えることはきっとできないのだろう。
今の自分にできるのは、いつものように蕩かして、気持ちいいかという問いにただ頷くしかできなくなった浦原にひたすら愛を囁くことだけ。
「…ダメっスよ」
「浦、」
「だって、シたいわけじゃないんでしょう」
核心に触れられて僅かに軋む身体を浦原が見逃すはずもなく。
「今、どんな気持ちですか?」
「…君が、私を友人として大切にしてくれるのが、…嬉しい」
「…うん」
砕けた口調に、腹の奥を熱がぐるりと巡り、首筋に歯を立ててやりたくなるのを懸命に堪える。
「だが、」
それだけじゃない。そんな綺麗な気持ちだけなら、最初に組み敷いてなどいないのだ。
「ボクも、アナタがそうやって包み隠さなくなってきたのは嬉しいですよ」
「…ああ」
「だから、『誘ってくれて嬉しい』だけでいいんですよ。言う言葉なんて」
藍染の腕を柔らかに解いて、浦原が悪戯っぽい笑みを浮かべて振り返る。
「それだけでこっちまで嬉しくなっちゃうんスから」
「………」
浦原が語る、友人としての価値観。その基盤を作り上げた夜一への嫉妬と、目の前の浦原の眩しさに目を焼かれる心地よさ。
「さ、早く飲みましょ。平子サンにバレて乱入されたらイヤでしょう」
「嫌です」
「あははっ」
急に副隊長としての口調を取り戻し、それでも確かな不快感を示す藍染の手を引きながら、浦原は思わず笑みを零した。