お話してるだけ。「あー、やっぱり後ろが跳ねちゃってるかなあ」
テーブルの上に置かれた、大きく豪奢な鏡を覗き込みながら、カーラックが独り言ちた。朝起きた時からどうにも直らない後ろ髪の寝癖を、うーんと唸りながら何度か撫で付ける。その度に、しつこく飛び出た髪の毛がぴょこぴょこと跳ねた。直る気配はない。
「君の髪の威勢がいいのは、いつものことだろう。大して気にならないが」
鏡の横の椅子に腰掛け、一人本を開いていたアスタリオンが、見かねたように声を掛けた。カーラックは、「そう?」と鏡から視線を外しアスタリオンを向いたが、手はなお未練がましく寝癖を押さえている。
「少し跳ねているくらいが愛嬌があるんじゃないか、小さなお子様のようで」
「私みたいなレディに向かってよく言うよ」
子ども扱いして、とカーラックが言うと、アスタリオンは肩を竦める。
「レディは自分のテントで身だしなみを整えてくれ。あと何で皆、わざわざ俺のテントまで鏡を使いに来るんだ」
言いながら、アスタリオンは今朝の来訪者を順番に思い出す。シャドウハート、ゲイル、そしてカーラック。今日は少ないほうだが、全員やって来る日もある上、酷いときは列が出来ることもある。
「大きさが丁度いいんだよね。いっつも外に出してあるし。あ、感謝してるよ?」
「別に君らのために出してるわけじゃないが、どういたしまして。感謝の言葉をいただいたのは初めてだな」
「じゃあ、明日からちゃんとお礼を言うようにするね?」
「結構だ、好きに使ってくれ。だが出来れば、今度街で自分のを見繕ってきてくれ」
アスタリオンは苦笑混じりに言い、再び手元の本に視線を落とした。しかし、ふと自分を見つめるカーラックの視線に気が付いて、「ん?」と再び彼女に視線を向ける。
「何かな?」
「いや、アンタも寝癖付いてるよって」
「……どの辺だ?」
アスタリオンが、僅かに眉を寄せて尋ねる。困ったことに、どうやっても自分では見えない。
「えっとね、右側の……あ、触っていい? 直したげる」
答える前にカーラックの手が伸びて、アスタリオンの白い髪の毛に触れる。彼女が何度か指先で梳くと、彼のほうの寝癖は素直に大人しくなった。
「まあ、アンタの髪がクルクルふわふわなのは、いつものことだけどね」
「洗練された愛嬌に溢れているだろ。自分じゃ見えないのが残念だ」
「はいはい。あ、ほらついでに襟も」
笑い、カーラックはアスタリオンの服の襟を直す。身だしなみを気にする男にしては、着衣が乱れているのは珍しいことだ。
「せっかくの新しい服でしょ? ちゃんとしなきゃ」
カーラックが多少の含みを持たせて言うと、アスタリオンは少しだけ目を瞠り、そして不意に視線を外して黙り込んだ。その青白い目元が僅かに朱に染まるのを、カーラックは見逃さない。ニヤリ、と自然、口角が上がる。
今日の彼の服は、タヴからの贈り物だ。先日タヴが、新しい服を欲しそうにしていたシャドウハートと一緒に街へ出かけて、その際彼女に選ぶのを手伝ってもらい、買ってきたのだ。「あなたが自分のものを大切に使うのは知ってるんですけど」と、控えめに差し出された贈り物を、アスタリオンが軽口も叩かず大人しく受け取った様子は、暫くパーティメンバーの酒の肴になった。胃がむかつくほど大層微笑ましい光景であった、という意味で。
「しかしまあ、しっかり服しか鏡に写らないってのも、不思議なもんだね、どういう原理?」
ちらりと鏡を盗み見るが、その鏡面の端にはアスタリオンの衣服のみが写り込んでいる。
「それが分かったら、吸血鬼が写る鏡を開発できるんじゃないか」
「出来たらいいよね。あ、ちなみにさ、パンいちで鏡の前に立ったらパンツしか写らないの? ちょっと見たいから、今度やって見せてよ」
「俺の服を脱がす口実にしちゃ、いまひとつじゃないか?」
「アンタの裸は見飽きってば。アンタ、定期的に何やかんや服脱がされてるよね? 何かの呪い?」
「……物好きが多いんだろ」
ツッコミを諦めて、アスタリオンは頭を抱える。そう言われてみれば、何やかんや強制的に服を脱がされていた気がする。しかしまあ、他人に見飽きたと言われたのは初めてだが。
「そう言えばアンタ、今日は留守番でしょ?」
カーラックが腰に手を当てて尋ねると、アスタリオンは「ああ」と短く答えた。今日は別な仲間たちがタヴに付いて行くことになっているので、今日は一日休みだ。一方で、カーラックは出発するほうのメンバーに入っている。居残りは退屈なので好きではないが、そこはある種のローテーションなので仕方がない。今日はカーラックに加えてレイゼルも一緒なので、道中大きな事故は起こらないだろうと踏んでいる。
「今日は、ちょっとお願いがあるんだよね。私のこの子なんだけど」
言いながら、カーラックは突然自分の背後からテディベアを取り出し、アスタリオンの目の前に差し出す。
「今どこから出した? どこに持ってた?」
「まあまあ。あのね、この子最近ちょっとお尻がほつれちゃったんだ。直して欲しいなって」
ここ。カーラックがテディベアに後ろを向かせ、丸いお尻を指さす。彼女が言った通り、お尻の縫い目が数センチほつれ、中綿が見えていた。
「……裁縫道具なら貸し出すが」
「たぶん、私よりアンタのほうが綺麗に直せると思うんだ。だめ?」
「高くつくぞ?」
「うーんと、献血に協力しようか?」
「結構だ」
色々な意味で。アスタリオンはゆるゆると首を横に振る。
「あとでいいワインを仕入れてくるよ。品揃えがいい店を見つけたからさ。それでいい?」
「いいことにしよう。今日は暇だからな……」
ため息混じりに言い、アスタリオンはテディベアを受け取る。カーラックが長年大切にしているのだろう、かなり年季が入っていて、お尻以外にも各所にほつれや痛みが目立つ。丸い耳も僅かに取れかかってしまっていた。ここもあそこも直して、とは言わないのは、多少の遠慮があるからだろうか。
「ありがとね。じゃ、お土産待ってて」
ひとつウィンクをして、カーラックは駆け足で野営地の向こうに消えていく。その後ろ姿を見送ってから、アスタリオンは手元のテディベアに視線を落とした。糸の飛び出たビーズの黒目と目が合う。
そう言えば、こいつの名前を聞いてなかった。アスタリオンは取りとめもなくそんなことを考える。
夕方日が沈みかけた頃、カーラックはワインボトルを数本携えて、仲間たちと共に野営地へ戻って来た。最初にアスタリオンのテントに立ち寄ったが、生憎留守にしていたので自分のテントへ向かう。
自分のテントに帰って最初に目に飛び込んできたのは、白い花を一輪持たされちょこんと座るテディべアだった。見違えるように小綺麗に見えるのは、頼んだお尻だけではなく、耳も目も全て丁寧に補修されているからだ。
「クライブ! きれいにしてもらったね!!」
テディベア――クライブを花と一緒に抱き上げ、カーラックは声を弾ませる。夕日に照らされたクライブの顔はいつもと変わらないはずだが、どこか嬉し気に見えた。
またずっと大切にしよう、と、カーラックはぎゅっとクライブを抱き締めた。