愛のつづきに夜の帳は降りてしばらく経ち、今は空気よりも腰を下ろした地面の方があたたかい。
野営地を見渡せる見張り場所に広げた敷布の上、あぐらをかいて、月を見上げる。ゲイルの渡してくれた夜食をいつ食べようかと考えていると、気配を隠さず近づいてくる足音に気づいた。
「差し入れだ」
そう言って差し出されたボトルを受け取る。揺れる液体が瓶の中で音を立て、その半分ほどはすでに胃に流し込まれた後だとわかる。特段酔った様子もないアスタリオンは、もう片手に持った本とともに隣に腰を落ち着けた。
「ありがとう。眠らないの?」
「もう十分。それより腹が減ってね」
「ああ」
おおかた用件はそんな所だろうと予想はしていた。私はほとんど毎夜、この親しき友人に血を飲むことを許している。
遠い月の光と松明の灯りのもと、白い巻毛が光る。思わず見惚れるほどの見目の良さ、繰られる甘い言葉は彼の獲物狩りの研がれた道具だ。出会った当初は私のことも、誘惑して支配を置く存在でしかなかったと、いつかの夜に彼は明かした。
ただ彼の完璧すぎる唇のカーブに薄々と恋情以外の思惑は浮いており、それに籠絡されるつもりもなく、楽しみの一つとしてはじめは体を重ねた。
だが生や自由に対する強い渇望や、久方ぶりに目に映した世界を評する柔らかな感性と言葉たち、それら人狩りに徹するには少々持て余すような人らしさに触れるにつけ、弱みを見せたがらないアスタリオンから内面を目にすることを許されるにつれ、徐々に、強く、心を奪われていった。
そして、心惹かれながらも手放した。性交や恋情で得られる甘い癒しよりも、それを手段として生きた彼の過去があまりに深い生傷であったからだった。そういうものと切り離して、友達でいるのはどうかと提案した時の表情は忘れ難い。対等に人間同士、人として、友として、そばにあり続けることはできる。
自分の心に身勝手に生えた、小さな欲求さえ無視すれば何も問題はなかった。
「じゃあ、ほら」
シャツの襟元を開き、首を露出させる。頭を傾けてどうぞと差し出すが、まだ牙は食い込まされなかった。
「……?飲まないの」
「まだ夜は長い。血を失ったお前が寝たら俺が見張ることになるんだから、もう少ししてからにするよ」
「そっか」
言い分もわかるものの、腹が減ってやって来たと言う割に悠長なものだ。敵襲でもあれば、ゆっくりと啜る時間は取れないだろう。しかし既に本に目を落としているアスタリオンの邪魔をする気もせず、また月を見上げた。実利ばかりでない考え方も、流れに身を委ねて楽しんでいるように見え、好ましかった。
いつの間にか背もたれにされ、それも許して時間の流れるままにしていると、ふと身じろぎを感じた。読み終えたのだろうか、厚い本をぱたりと閉じたアスタリオンはこちらを見上げ、ゆっくりと肩にかかる髪を払う。あらわになった首元に食らいつかれるかと思ったが、そうはせずに、ただそこを観察しているようだった。
ヴァンパイアの噛み傷はなぜか治りも早いものの、毎夜となれば傷んだそこをこじ開くように啜られる日もあった。繰り返し破られ、わずかに周囲より肉に近い色に変じた皮膚は、この旅が終わった後もきっと痕を残したままだろうと思う。
「飲む?」
「……」
珍しく言葉を仕舞ったままの唇が、ひたりと肌に当てられる。貫通の痛みに身構えたが、またしてもそれは感じられなかった。そもそも食事の際に、彼がこんな風にくちづけることなどしない。
何か探すように頭を擦り寄せたアスタリオンの吐息が、当たった肌の奥をこそりとくすぐる。感情を鎮めるように細く息をつくと、頬に指をかけられ、また乱された。
「血じゃ、ないの?」
「……そうかもな」
「じゃあ、何を…」
指先が滑るままに彼の方へと顔を向けると、親密すぎる距離に美しい鼻梁があった。青白い肌の上、唇が何か紡ぐのを待とうと思って、鼻先がこすれ合い、言葉もないままに。唇が重なった。
口づけに抵抗はなかったが、すべて受け入れることもできなかった。一度触れて、ゆっくりと離れ、まだ表情をあらわすことさえ怖い。伏せた瞼をゆっくり上げると、アスタリオンもまだ考えているようだった。彼が自分の心を探る時間をじっと待つ。大切にしたいのに、自分の欲は与えられるものだけで満たすと決めたのに、体の奥で長く抑え込んできた鼓動が期待に振れるのが鬱陶しい。
「どう感じた?」
しばらくして、アスタリオンがこちらを見上げた。ただ、彼にしてもまだ答えを得ていないような、考えているようなそぶりで。これがどこへ向かう戯れなのかわからないままでは、怖くてとても答えを言えなかった。
「……。アスタリオンは」
「ああ……そうだな。もう一度、していいか?」
「…うん」
狡く問い返すことを咎めない代わり、再び断れない提案がよこされた。
込み上げる感情を抑え込み、小さく息をついて頷く。すぐに再び唇が重なって、彼らしくなく拙く、深く押し当てられる感覚にぞくぞくと歓喜の震えが走る。何度も、何度も、息も忘れて探られる唇に応えて動かすたびにもっと欲しくなる。甘い感覚が心を締めあげ、思わず欲望を晒しそうになる。
見たい。触れたい。全てが欲しい。アスタリオンの欲望を何ひとつ逃したくない。自分が全てを満たしたい。
「ん……っ、ふ」
「……は、カーミ……」
「アスタリオン…」
「…どうしてだろうとずっと思っていたんだ。どうしてここまで俺の好きにさせる?俺たちは、友達でいるべきだと、お前が言ったはずなのに」
「……」
こちらを見上げる瞳の赤色は、相変わらず美しかった。どんな感情を乗せても強い力をもつ瞳。
「アスタリオンが……好きだから。自由でいて欲しかった、何からも。私からも」
「お前…」
秘めた感情は思いもよらぬ滑らかさで口から出ていった。顔は微笑んですらいる。
微笑むのは彼を曇らせるものになりたくないからだ。傷ついてなどいないから見てほしい、この心も、体も、どこも。
「だから、友達でも、何でも、いいんだよ。大好きなアスタリオンが、明日を楽に生きてくれたらそれでいい。ただ安心してほしかったんだ…」
言葉を探す彼を置いて、少しだけ身を離す。2人の間で育ってしまった熱が逃げる感覚は寂しい。けれど、追いかけてこないアスタリオンに安堵を感じた。
「やっぱり、よく分からない。どうして俺を欲しがらないんだ」
「どうしてって…、したくないことは、しないでほしいから」
「いつ俺がしたくないなんて言った?」
「…でも、あの時、ほっとしたように見えた」
必要なのは友達ではないかと告げた夜。あの時ひとつ手放してひとつ手に入れて、その選択が彼のためになっていればいい、そうあり続けてほしいと願った心に変わりはない。
「ああ、確かに嬉しいと思った。これから、この嫌な緊張を感じなくて済むんだと思うと、楽になった。
だけど、俺の気持ちは、それだけじゃない。そもそもあの時まで、仕方なかったとも思うが…俺は、何もかも素直になれないでいたんだ。
だが今は違う。お前を良いように自分に付き合わせて、俺が何も感じないと思うか?大事な奴に、ずっと苦しい思いをさせて、勝手にしろと思えるような奴なのか?カーミ、お前の中の、俺は」
だんだんと、突きつけられる現実に締まる胸が、言葉を詰まらせる。本当は、彼のためであるという事すら背負わせたくない。けれどこのまま離してはくれないのだろう。真実なのに言い訳のような言葉たちが、溢した後も舌に残って苦い。どうしてなんて、聞かないでほしい。
「…だって、いつも、笑っててほしい。楽しんで生きてほしい。少しでも、悩みや苦しみから、遠ざけたかった」
好きだから幸せでいてほしいと思うのがそんなにおかしなことだろうか。口にできない言い訳が胸を木霊する。この行いもまた彼を苦しめるのか?正しいと思っていたことが揺らぎ、目を合わせられずにいるうち、迫るアスタリオンとの距離が詰まっていく。
「このことがなくても、アスタリオンはもう充分、大変だっただろ?私は大丈夫だから、好きにして良いんだよ」
「俺が同じこと考えてるとしたら?」
「え?」
思わず彼の顔を仰ぐ。愛嬌や皮肉、遠回しなやり口を追いやった、真っ直ぐな表情には絆すのとは違う力がある。圧倒されて息を呑んだ。
「俺がお前にいつも笑って、悩むことなく生きてほしいと思っていたら?どうするんだ」
「それは…だから、大丈夫、だから」
「あのな、俺だって大丈夫なんだよ。何だ、それ。何のつもりだ?憐れんでるのか?」
「違う!」
それだけは違うと勢い込んで、そんなこちらを見て、アスタリオンが表情を緩める。そうだよな、と小さく口の中で転がして微笑む。これまで親愛の態度の端々に見てとれた、幻想であれと思っていた感情を信じたくなってしまう。だって誰に命ぜられることもなくなった今なのだから。それは一番よく知っていたから。
「そうだろ。違うだろ」
「ちが……」
到底拒めず、迫られるままに体を明け渡す。みたび、夜を思わせる温度の唇に優しく口付けられて、堪えきれずに涙が溢れて伝う。
「お前が俺に捧げてくれたものに、全て気づけていないかもしれない。でも俺もお前に返したい。望むものをあげたいって思ってる」
「……っ」
何もかも。夢だったらどれほど楽だったか。
だが目の前で笑うアスタリオンが、彼を満たして欲しいと私が願った自由の続きの現実だった。胸が締まって、強い喜びは痛みに近いと知る。
「カーミ。俺はお前を信じてる。お前が俺を傷つけようとしないって、わかってる。だから、この告白に対して『本当に?』くらい…言っていいぞ」
「う……。アスタリオン……、好きだ………」
「はっ、やっと言ったな。…俺もだよ」
観念してこぼした言葉にアスタリオンはまた笑って、その心に灯る温度を分けたがるように、嬉しげに手を取った。
いつかと同じように、けれど素直な気持ちまで載せて、ふたり手を繋ぐ。たかが気持ち一つ認めただけで、遠くにくすんでいた星々は輝きを増して、世界全てに祝福の気配を漂わせた。見つめ合う瞳に自分の心を見て、こんなに簡単に幸せになれるんだと軽口を叩いて。
そんなものだった。生きる意味も世界に在る意味も、この場所にあると知った夜だった。