猫にご用心それはシリル・アシュリーがサザンドールのモニカの家に訪ねに来た或る日の事。
大抵は事前に連絡があり、シリルが訪ねてくる時はモニカも自室で魔術研究に明け暮れる事もなく、客間で待っている事が多い。
しかし、今回は珍しくも、到着予定時間になってもモニカは余程集中しているのか降りてくる気配がなかった。
「お茶と菓子の準備を進めておくから、モニカを呼んできておくれ、倒れている事はないと思うけどそれも念のために確かめて欲しい」
「……はい」
アイザックの言葉に返事をし、シリルは二階へと上がっていく。初めの頃は「準備は私が引き継ぎますから!」と慌てふためいていたが今では慣れたものだ。
「アイク、お手伝い必要?」
「お手伝いしたい」
「そうだね、だったら―—」
ピケとトゥーレがイタチの姿から人の姿となり、手伝いを申し出る。これもいつもの事で、ネロは、猫の姿のままソファーの上で寝転がっているのもいつもの光景だった。
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二階へと上がったシリルはモニカの部屋の扉をノックする。
「モニカ、起きているか? ……アイクが茶の準備をするから降りてきて欲しいと」
しかし返事はなく、中から聞こえてきたのは『にゃー』という猫の鳴き声だった。
(猫? ネロ殿は下の階にいた筈では?)
訝しみながら浮かんだのはもしや中で倒れているのでは? という不安だった。
「モニカ……? 開けるが構わないな?」
確認をとってからドアを開けようとするが、その前にドタバタと物音がし、それは次第に近付いてビタンッと大きな物音はドアの前で止まった。
「モニカ」
開かれたその先には誰もいなかった。
「…………?」
どういうことだ? と眉を顰めると足元でまた『にゃー』という鳴き声が聞こえた。
シリルが鳴き声を聞いた下の方に視線を向けると茶色い毛並みをした緑色の目をした猫がいた。
「鳴き声の主はお前か」
『にゃー?』
シリルはしゃがみ込み、猫の頭を撫でる。
「新顔か? 以前来た時は見なかった」
『にゃー、にゃー』
「モニカを呼びに来たのだが……中にはいないな?」
中の様子を部屋の外からのぞき込むが、人の気配はない。
「モニカを呼びに来たのだが何処にいるのかしらないか?」
『うにゃー! にゃにゃ、みゃぅ!』
生真面目に猫に、モニカの居場所を訊ねるシリルに対し、何かを訴えるように猫は鳴き声をあげながら前足をシリルに向かって伸ばす。
「……?」
シリルは首を傾げ、猫の前足に、肉球に触れる。初めての感触に目的を忘れ、肉球の感触を楽しむ。ネロの肉球は触らせてもらえないのだ。
「………」
『うにゃぁー! な、うぅ……』
猫は慌てふためいたように鳴くがしだいにその声は小さなものになり、俯いてしまう。
「シリル、大きな物音がしたよ」
「大丈夫?」
大きな物音が下うえに、中々降りてこない為、ピケとトゥーレが様子を見に来たのだ。
シリルは猫を抱え、立ち上がる。
『にゃぁ……』
「ピケ、トゥーレ、私は何ともないが、猫が……」
「……猫? シリル、君は何を言っているんだい?」
遅れてやってきたアイザックが少し―—否、かなり冷ややかな声で『何言ってんだこいつ』という視線を投げかける。何故、その様な視線を向けられているのかとシリルの背中に冷汗が流れる。
「シリル、それ猫じゃない」
「シリル、その子、モニカだよ」
「……なん、だと?」
*****
「何を言っている、どうみても猫だろう?」
シリルは眉を顰め、猫―—に見えているらしいモニカを左腕でぎゅっと抱き、右手はモニカの手の甲の方から重ねるように握り、持ち上げる。
「モニカだよ」
「モニカだね」
「わ、わたし、ね、猫じゃないですぅ」
ピケとトゥーレが淡々と事実を伝える中、モニカが顔を耳まで真っ赤にしながら涙目でひぃひぃと言葉を紡ぐ。
因みにシリルにはモニカの言葉は『にゃーにゃー』と鳴いているようにしか聞こえてないらしい。
「…………モニカ、さっきまでどんな魔術式の検証を?」
「ひえっ……あのぅ、魔術式の検証ではなくて、おまじないの本を、読んでました!」
弟子の視線と声がとても冷ややかだ。シリルの腕の中に抱かれている体勢で身体が触れている部分から火照っているのに、正面は何故かひんやりする不思議な感覚だとモニカは思った。
「……おまじないの本?」
「ええ、あのちょっと、検証したい、おまじないがありまして、そのぅ」
それを実行、検証中にシリルが訪れ今に至るらしい。視線をウロウロさせている辺り、あまり言いたくないような事があるんだろうなぁと、アイザックは察する。
「そのおまじないの効果が切れるまでどれくらいかかるの?」
「わたし達にできることある? おまじないの本、燃やす?」
「どれくらいかは分かりませんが、こっ……このまま時間が経てば……それと本は燃やしちゃだめですぅ」
トゥーレの問いに答え、ピケの物騒な発想にモニカは慌てて止める。
この間、相変わらずシリルはモニカを抱いたままの体制である。ピケとトゥーレ、そして敬愛するお方の様子を見ると本当に猫ではなくモニカなのかもしれない。そんな揶揄い方や騙すようなことをするような面々ではない。……どうみても猫にしか見えないのに。
「アイク……その、本当にこの猫は猫ではなく―—」
「……モニカ、このままというのは、そのままの意味かな?」
アイザックの言葉はシリルの言葉を遮りモニカに訊ねる。
モニカはもう茹っているのではないかというくらいに真っ赤になり、首を縦に何度も振る。
「どれくらい時間が経過したら解けるのかは分からない?」
この問いにもモニカは何度も頷く事しかできなかった。
「……………そう」
たっぷりと間をおいて、アイザックが短い相槌を打つと背を向け歩き、間借りしている自室へと入っていく。
「アイク」
「で、殿下」
数分もしないうちに部屋から出てきたアイザックはエプロンを外し、外出用の上着を身に着けていた。
「モニカ、僕は暫く外にいるから」
「ア、アイク」
モニカには怯えさせないように、優しい声で出来るだけ精いっぱい怖がらせないための表情を作って声をかける。
「おやつの準備は出来ている。お茶は冷めてしまってるだろうけど……。もしご飯を食べるなら作り置きのスープも日持ちするものも作ってあるから温めて食べておくれ?」
「猫に見えている、そのおまじないは暫く貴方が抱きしめていれば解けるようです。僕のお師匠様をお願いしますね? アシュリー様」
思わず出てしまったのだろうが殿下と口にした嫌がらせもほんの少しだけ含めてとびっきり冷ややかに。
「ピケとトゥーレも連れて行くから、モニカとして認識出来る様になったら、二人のどちらかに戻ってくるように伝えてくれ」
「わたし達もでかけるの?」
トゥーレの問いにアイザックが「そうだよ、外でご飯を食べよう」というとピケが「わかった」と答えた。
アイザックの後に続きピケとトゥーレが続いて降りていく。
上の階から聞こえてくる呼び止める声には聞こえない振りをして盛大な溜息をつく。モニカとシリルには悪いがあの状況で、正直あの場にもだが、この空間にもいるのは居たたまれない。
「なんだぁ? にゃにかあったのか?」
我関せずと、未だ猫の姿のままソファーの上でゴロゴロしていたネロだったが顔をゴシゴシと擦りながら訊ねる。
「あったと言えばあったけど、ネロ先輩。君も一緒に出掛けよう。奢るから食事に付き合ってくれ」
「その後ろにいる、白いのも一緒か?……だったら」
―—行かねぇ。と言いそうになったがアイクの次の言葉でその考えを改める。
「加減はして欲しいけど、お酒も飲んでいいから」
「行く」
体を起き上がらせ猫の姿から人の姿へと変化させる。
(まだ日も暮れてないけど僕も少しだけ飲もうかなぁ)
服装からして目立つ人外の三人だ。個室を借りられ美味しいご飯とお酒がある場所をと思案しながら飲食店の立ち並ぶ区間へと足をすすめた。