ぺトリコールと憂詩/取手くすみ白けた光が廊下を漂う。
ふと、暗く澱む空の一端が視界の端に映る。
雨雲を呼ぶその雲の色。
夏はとうに過ぎ、天候の変わりやすい季節が頭を出していることに気付いた。
四時限目後の昼休憩。
今日の日直である自分の所用の為に別の教室へと出向いていた隙に、いつも輪に混ぜてくれる友人たち数名は数分の間に私宛に簡素なメモを残し、先に昼食を摂りに行ってしまったようだった。
廊下から見える机と椅子が並ぶ教室には、突如として人がみな滅んでしまったかのように雑然としていて、誰も見当たらない。
そんな様相にため息を浅く吐き、恐らく友人達も居るであろうマミーズへ向かおうと踵を返そうとした時のことだった。
「やぁ、⋯君も、一人?」
「あ⋯!」
自分のすぐ後ろから、聞き慣れた声がする。
声の方向に振り向くと、大きな体躯を屈めてこちらを窺う取手くんが居た。
彼に後ろから話しかけられるとは思っておらず、廊下に響くほどの素っ頓狂な声を上げてしまった口を慌てて手で塞いだ。
「お、大きい声出してごめんね。
人がいるとは思ってなくて」
「大丈夫、⋯僕の方こそ、びっくりさせてごめんね」
人のいない教室を見る彼の横顔は、いつも音楽室で見る彼とは全く違って見えた。
「⋯みんな、居ないみたいだね。
僕たち以外、誰も居なくなったみたいだ」
人気の無い空間を見てくすりと笑みを浮かべる彼に少し慄いたが、それも他所に話を続けることにした。
「取手くんは、もうお昼は食べたの?」
「ううん⋯、それで、なんだけどね。
君さえ良ければ、一緒に食べに行きたいと思ってたんだ」
「もしかして、待ってた?」
「うん。
⋯いつもこの辺に居る君が見当たらないから、探しながら待ってたんだ」
俯き気味に話す彼は、ほんの少しだけ寂しそうにも見えた。
⋯いつも自分のわがままに答えてくれる彼に応えたい。
愛してやまない音の羅列に触れていない時の彼は、一体どんな表情をしているのか知りたい。
そんな事を考えてはみたが、直ぐに頭の隅に押し退けた。
「待っててくれてありがとう、一緒に行こうか」
『うん』と小さく声に出して頷く彼の瞳に、かすかな光が宿る。
初めて彼と食事に行くが、何故かこれが初めてではないような不思議な感覚がしていた。
***
人も疎らな校内を歩き、玄関へと向かう。
開かれた戸からは屋外が見えるが、外は敢えなく冷たい雨が降り注いでいる。
「天気予報通りだ⋯傘持ってくるね」
上履きから外靴に履き替え、簡素で飾り気のないビニール傘を手に取る。
彼も靴を履き替え、開かれた傘の中を見つめている。
「ごめんね、⋯傘を忘れてきちゃったんだ
一緒に入ってもいい?」
「いいよ。
くっついちゃうけど、嫌じゃない?」
「嫌なわけないよ。
⋯すごく嬉しいよ」
「へえ⋯」
「僕が嫌がると思ってたの?」
「そういうのじゃないけど、やっぱりちょっと照れちゃうし⋯」
彼は傘の持ち手を持ち、私との身長差に合わせて傘を持つ。
共に歩む度にビニール傘から伝う雨粒が、心地の良い音を立てて地面へと振り落ちていく。
「もっとこっちにおいでよ、制服が濡れたら大変だ」
「⋯近くなっちゃうけどいいの?」
「大丈夫、ほら」
肩に添えられた青白い手が、糸を手繰り寄せるように私を引き寄せる。
より近さが増した為、身体と身体の隙間などはほぼ無くなっている。
身長差はあるものの、彼の吐息や声がより近くで感じられる今、逸る自分の胸を抑えることで精一杯だった。
傘を持つ彼の手に自分の手を添えると、彼は満更でも無い様子で笑んでいる。
その手は少しだけ冷たく感じたが、心地の悪いものでは無かった。
「君の手、小さくて暖かいね。
⋯子供の手みたいだ」
「えっ⋯そんなに暖かいかな」
「きっと、君が優しいから、⋯だね」
「そうかなあ⋯。
取手くんがそう言うなら、そうなのかもしれないけど」
「君は優しいよ。
いつも僕に手を差し伸べてくれるじゃないか」
そう話す彼の横顔は、遠くを見つめたまま薄い笑みを浮かべている。
そんな横顔を見つめていると、その目が不意にこちらに向けられる。
「ねえ、⋯君にとっての僕って、どう見えてる?」
「⋯大事な人、って感じかも」
「大事な人⋯。
僕のこと、大事なの?」
か細い彼の問いに頷くと、その目を細めた。
子供が親に問う時のような、少し幼気な響きも含んでいるように思えた。
「大事だと思ってなかったら、いつも取手くんに会いに行ってない。
今だって一緒に居ないよ」
「はは、ありがとう。
僕も、君が何よりも大事だよ」
「えー?本当?」
「本当だよ。
⋯いつか、分かると思う。
君なら、分かってくれる」
彼と歩みを進める。
あと少しでマミーズに着いてしまうが、不思議と傘の中から抜け出す気が起きない。
彼の隣は居心地が良く、いい意味で自分の素が出せる。
こんなにも素敵な時間はあとどれほど続くのだろうか、そう思っただけで、心の臓が糸で締め付けられたように痛んだ。
「また、一緒に居てくれる⋯?
クラスが別なのは仕方ないけど⋯傘の中だけじゃなくて、もっと、⋯君と一緒に居たいんだ」
「私なんかでいいなら」
「⋯僕は、君に隣に居てほしい。
来年も再来年も、季節が何回巡っても、君と一緒に居たい」
「ありがとう、⋯一緒に居られるように頑張るね」
静かで柔かな笑みが彼を彩る。
気が付けば、自分にも伝染したかのように頷き微笑み返していた。
どれ程続く仲であるのか、どこまで進む仲であるかもまだ分からない。
それでも、一途に進展と永続を求める彼の想いに触れた途端に、その望みを叶えてしまいたくなった。
「もうすぐ着いちゃうね、なんだかこの時間が惜しいよ」
「これから一緒にご飯食べるのに?」
「うん。
⋯君が僕から離れていくわけじゃないのに、ね」
くすりと、喉の奥で寂しさを混ぜたような声で彼は笑う。
ふと、肩に触れている手に力が込められたのを感じた。
雨を払い除ける傘の中には、細やかな執心が取り巻いていた。